Stolog

メモ

デイビッド・J.スタインバーグ『フィリピンの歴史・文化・社会、単一にして多様な国家』堀芳枝、石井正子、辰巳頼子訳、明石書店、2000年、萩野芳夫『フィリピンの社会・歴史・政治制度』明石書店、2002年、鈴木静夫『物語フィリピンの歴史、「盗まれた楽園」と抵抗の500年』中公新書、1997年、石井米雄他『東南アジアの歴史四』弘文堂、1991年、帝国書院編集部『世界の国々1、アジア州1』帝国書院、2014年、小松義男『地球生活記、世界ぐるりと家めぐり』福音館書店、1999年、歴史教育者協議会編『フィリピンと太平

 

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 ざっと目を通す。

 ラテン・アメリカで至る処に記されているスペイン人の残虐非道ぶりはフィリピンでも同じ。ただしフィリピンではスパニヤードだけでなくさらにメキシコ人の傭兵が支配側に加わる。マニラとアカプルコのあいだの「海のシルクロード」ことガレオン貿易を支えたのは中国からの移民で、これもまたラテン・アメリカとは異なる。

 とはいえここではフィリピン史を見るわけではない、ものの、シカゴ派とマニラの因縁のようなものもまた見えなくもない。米西戦争後、米国はフィリピンにおいてウィリアム・タフトによる友愛的融和策とアーサー・マッカーサーによる過酷な軍政をいわばアメと鞭のように使い分けた植民地政策を実行する(これはのちの日本の「内鮮一体」や「三光作戦」のモデルとなったものかもしれない)。そのタフトの融和策の一つが社会資本の充実、言い換えるなら都市計画である。

 タフトはマニラ他の都市計画のためにダニエル・バーナムをマニラに召還している。「マニラ」についてはこちらも(https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/77/681/77_2545/_pdf)。ついでに述べればマリオ・マニエリ=エリアによれば(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/giorgio-ciucci.html)、バーナムはマニラに向かう途中に合衆国大統領特使として日本に立ち寄り、日本の天皇外務大臣海軍大臣陸軍大臣らに面会し、また当時日本は日露戦争前という状況もあって軍事パレードを観ている。さらに述べれば、日本は米西戦争に際して米国側についてスペインと戦争している(日西戦争)。米国太平洋艦隊がマニラに向かう途中に日本の寄港地を提供し、さらにマニラ湾封鎖に海軍を派遣もしている。米西戦争自体が1885年のキューバ革命と翌年のフィリピン革命に便乗したものであり、スペインが植民地でいかに現地住民を苦しめているかをプロパガンダし、現地住民を解放すると称しての戦争だったとすると、米国のこうしたやり方はこの時代あたりに原型が出来たのかとも思われ、同じく軍事的に強そうな国と同盟を結んで火事場泥棒的に参戦する日本のやり方も、だいたいこの時代あたりから始まっているのかとも思えてくる。J.A.ホブソンが述べた「帝国主義」時代の始まりでもある(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/imperialism-a-s.html)。

 バーナムはマニラ以外にも「夏の首都」バギオの計画を手掛け、バーナムパークは彼の名前に因んだものという。「シティービューティフル」は植民地においてこそ部分的に実現したことになるのだろうか、いつものことながら。

 米国の捕鯨業の衰退が始まる契機は1859年のペンシルヴェニアにおける石油の採掘(歴史教育者協議会、6頁)。

 またフィリピンの住居群でまず目が行くのはその屋根形態である(小松、242-247頁)。果たして初めてそれらを見た素人がその構造体をもよく理解したかどうかは吟味してみる必要がある。

 

布野修司 田中麻里 チャンタニー・チランチャット、ナウィット・オンサワンチャイ、『東南アジアの住居 その起源・伝播・類型・変容』、京都大学学術出版会、2017

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 フィリピン住居については第一章「オーストロネシア世界」の住居で触れられるにとどまる。

 全体は序章で「住居の原型」が概観され、第一章でオーストロネシア世界他の「伝統的住居」が概観され、第二章で主にインドシナ半島の住居が概観され、第三章で同地域の都市型住居(ショップハウス)に焦点が当てられ、さらに第四章と終章でメガロポリス化していく同地域の都市状況について述べられていく。第一章はロクサーナ・ウォータソンの書(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20080214)の主題と共通する部分があるようにも見え、第四章と終章は東大・村松研の研究主題と共通するものがあるようにも見える。

 

メモ

『世界ヴァナキュラー建築百科事典EVAW』全三巻、『世界住居誌』(布野修司編、2005)

 

「建築は、一般的には屋根、壁、床によって構成される。最も重要なのは屋根を支える建築構造である。建築構造あるいは架構方式によって空間の規模や形は大きく規定される。

構造方式、架構形式を大きく分けると、

SA 天幕構造、

SB 軸組構造(柱梁構造)、

SC 壁組構造(組積構造)、

の三つに区別される。」(15-16頁)

「2-3|高床-海の世界

 天幕構造の住居とともに広大な地域を移動した陸上の遊牧民たちに対して、海上を移動する海人(シー・ノマド)の世界がある。彼らの住居は、海や川、湿地の上に床をつくって建てる高床式住居である。地面から離して空中に床を設ける住居の原型は、樹上住居である。床を地面から離すことで、湿気を防ぎ、洪水を避け、また猛獣や害虫を防御するというのは、居住しにくい環境に暮らすために人類が選択した、ひとつの解答である。もともと、人類は樹上に生活していたのである。パプア・ニューギニアコロワイ族の樹上住居が知られるが、インドネシア中南米の熱帯降雨林に実際に見られた。より一般的な高床式住居であれば世界中に見られるが、集中するのは東南アジアである。

 スンダランドを揺籃の地とするモンゴロイドが住みついたのは太平洋沿岸であった。アボリジニやパプア人はその末裔である。しかし、彼らの言語は近接するインドネシア語タガログ語オセアニア語とは系統を異にする。そこで考えられているのが第2派となる集団の移住である。オーストロネシア語族と呼ばれるその集団は、東はイースター島から西はマダガスカル島まで実に広大な海域世界に分布する。

 その源郷は、台湾もしくは中国南部と考えられている。紀元前4000年から3500年にかけて、まず先オーストロネシア語系民族が台湾に移住し、紀元3000年頃フィリピン北部へ、紀元2500年から2000年にかけてフィリピン南部からボルネオ、スラウェシ、マルク方面へと次々に拡散していったというのである。

 ブラストは、古オーストロネシア語を復元することによって、原初オーストロネシア文化の特徴を、1 米と雑穀耕作、2 杭上の木造家屋、3 豚、犬、水牛、鶏の飼育、4腰機による機織り、5 弓矢の使用、6 土器の製作、7 錫など金属についての知識、と推定した。

 高床式(杭上)住居も様々な形式がある。しかし、オーストロネシア世界全体に同じような住居形式が建てられ続けてきたと思わせるのが、ドンソン銅鼓の分布とそこに描かれた家屋文様である。また、石寨山などから出土した家屋模型である。ミナンカバウ族、バタック族などの住居の屋根形態は、そうした家屋紋によく似ているのである。オーストロネシア世界の高床式住居については第1章で詳しく見たい」(27-29頁)。

「2-4|井籠-森の世界

 木材が豊富にあるユーラシア大陸および北アメリカの北方林地帯に分布する井籠組壁構造(木造組積造、ログ構造、校倉造)については、先に触れた通りである。この井籠組壁構造の起源については議論があるが、黒海周辺で発生したという説が有力である。そうした意味では、森の世界の住居の原型と言えるであろう。森の世界でも熱帯降雨林の場合は、木は豊富であるが、暑さと湿気の問題があるから、一般的には熱帯には向いていない。しかし、東南アジア地域にも井籠組壁構造をみることができる。黒海周辺起源説に基づくと北方へシベリア方面に向かったものと、南方へインドシナ半島を下ったものとの2系統を考える必要がある。東南アジアの井籠組壁構造については第1章でみよう」(29頁)。

「1-6|海の世界

 一般に海の世界は人間の居住空間とは考えられない。しかし、海上に集落を建設する例もなくはない。海は古来豊富な資源をもたらし、交易のネットワークを支えてきた、水上居住あるいは船上住居という居住形態も珍しくない。海の世界とそれをつなぐ交易拠点は、陸の世界と同様極めて重要である。世界史的な交易圏を考慮すると、アジア大陸は、東アジア海域世界、東南アジア海域世界、インド洋海域世界、地中海海域世界に囲われ、成り立ってきた。建築の様式や技術も海の世界を通じても伝えられる。フィリピンのルソン島の山岳地方にはイフガオ族の住居など、日本の南西諸島の高倉形式と同じ建築構造の住居がある。明らかに両者の間には直接的関係がある。高床式の建築の伝統はさらに広範である。その建築の伝統を支えた海の世界がオーストロネシア世界である」(59頁)。

「東アジアの島嶼部の大部分で用いられている言語はオーストロネシア語であり、世界で最も大きな言語族を形成している。最西端のマダガスカルから最東端のイースター島まで、地球半周以上にわたって分布し、東南アジア諸島全体、ミクロネシアポリネシア、そしてマレー半島の一部、南ヴェトナム、台湾、加えてニューギニアの沿岸部までにもわたる。この広大な諸言語は、全て、プロト・オーストロネシア語と言語学では呼ばれる。少なくとも6000年前までは存在していたらしい言語を起源としているとされる。言語学的な足跡は自然人類学や考古学の分析結果ともかなりよく一致し、新石器時代の東南アジア諸島における初期移住の状況を物語っている。

 プロト・オーストロネシア語の語彙の分布を復元することによって、人びとの生活様式が窺える。住居は高床式であり、床には梯子を用いて登ること、棟木があることから屋根は切妻型であり、逆アーチ状の木や竹によって覆われていたこと、そして、おそらく、サゴヤシの葉で屋根が葺かれていたこと、炉は、壺やたき木をその上にのせる棚と共に床の上につくられていたことなどが語彙から窺われるのである。

 新石器時代に高床式住居が発達していたことはタイの考古学的資料によっても裏付けられている。西部タイで、三千数百年から二千数百年前頃の土器群が発見され、バンカオ文化と呼ばれている。言語学者ポール・ベネディクトが復元したプロト・オーストロ・タイ語は、「基壇/階」「柱」「梯子/住居へ導く階段」といった単語を含んでいるという。すなわち、高床式住居は、オースロトロネシア語族(特にその下位グループとしてのマラヨ・ポリネシア語族)と密接に関わりをもっているとされる」(61-62頁)。

「2-3|住居の原型-ドンソン銅鼓と家屋文鏡

 東南アジアの住居が木造(あるいは竹造)の高床式であったことは、プロト・オーストロネシア語の復元によって推測されるのであるが、具体的な形態が分かるわけではない。東南アジアはインド文化の洗礼を受け、続いてイスラーム文化の波を受けた。基層文化としての土着文化は、インド文化、イスラーム文化と混淆してきた。漢文化の影響は断続的にある。そして、住まいの伝統を考える上で決して無視し得ない西欧列強による植民地化の長い歴史がある。ヴァナキュラー建築の形態がどのようなものであったかを明らかにするのはそう容易ではない。

 しかし、相当以前から各地域の住居は今日と同じ様な形態をしていた。また東アジアの住居が共通な起源をもつのではないかと思われる手がかりがある。ひとつは考古学的出土物に描かれた図像資料、もう一つは各地につい最近まであるいは現在も建てられている住居そのものである。すなわち、その2つに類似性が認められるのである。

 大きな手掛かりとなるのが、ドンソン銅鼓と呼ばれる青銅鼓の表面に描かれた家屋紋である。また、アンコール・ワットやボロブドゥールの壁体のレリーフに描かれた家屋図像である。さらに中国雲南、石寨山などから発掘された家屋模型の墓葬群で、数多くの家屋銅器、家屋紋が出土し、住居の原像を考える大きな手がかりを与えてくれる。そして、日本にも家屋文鏡、家屋模型が出土している。

 まず、ほとんど全ての図像が高床式住居である。古くから高床式住居が一般的であったことが明らかである。そして、わかりやすいのが屋根形態である。切妻、寄棟、方形、円形屋根など様々な屋根形態があるが、注目されるのは、「転び破風」屋根、あるいは船型屋根もしくは鞍型屋根といわれる屋根形態である。棟が大きく反りかえり、端部が妻壁から大きく迫り出している極めて特徴的な形態である。この「切妻転び破風」屋根は、バタック諸族の住居、ミナンカバウ族の住居、トラジャ族の住居を代表例とし、大陸部ではカチン族など、島嶼部ではパラオなどにも見られる。東南アジアの住居についてひとつの共通のイメージを抱くことができるのはこの特徴的な屋根形態の存在があるからである」(62-63頁)。

「2-4|原始入母屋造・構造発達論

 何故、オースロロネシア世界という広大な領域に共通の建築文化が想定されるのかについては、木造の構造力学的原理に関わるもうひとつの理由も挙げられる。木材を用いて空間を組み立てる方法は無限にあるわけではない。荷重に耐え、風圧に抗するためには、柱や梁の大きさや長さに自ずと制限がある。架構方式や組立方法にも制約がある。歴史的な試行錯誤の結果、いくつかの構造方式が選択されてきているのである。そうした問題を考える上で興味深いのがG.ドメニクの構造発達論である。ドメニクによれば、実に多様に見える東南アジアの住居の形式を、日本の古代建築の架構形式も含めて、統一的に理解できるのである。

 ドメニクは、東南アジアと古代日本の建築に共通な特性は「切妻屋根が棟は軒より長く、破風が外側に転んでいること」(「転び破風」屋根)であるという。そして、この「転び破風」屋根は、切妻屋根から発達したのではなく、円錐形小屋から派生した地面に直接伏せた原始的な入母屋の屋根で覆われた住居(原始入母屋住居)とともに発生したとする」(66頁)。

 

→Domenig G.(1980) Tectonics of Primitive Roof Building: Materials and Reconstructions Regarding the Phenomenon of the Projecting Gables on Old Roof Forms of East Asia, Southeast Asia, and Occeania, ETH Zurich

G.ドメニク 構造発達論よりみた転び破風屋根、入母屋造の伏屋と高倉を中心に (杉本尚次編 1984

 杉本尚次編

日本のすまいの源流―日本基層文化の探究 (1984年) ?

住まいのエスノロジー―日本民家のルーツを探る (住まい学大系) 単行本 – 1987/12/20 ?

 

Robert A. Blust

Austronesian Languages (Cambridge Language Surveys) (英語) ペーパーバック – 2001/5

 

 

拙訳書での「支那」という言葉の使用について

 拙訳書『テクトニック・カルチャー』では「支那」という言葉を使用している箇所があります。これについて留学生の方からこの言葉を使用する意図は?という趣旨のeメールをいただきました。

 誤解や曲解があるとよくないと思い、どなたでも目にすることのできるブログにも、回答文を載せておこうと思います。

 

 メール有難うございました。

おそらくヨーン・ウツソンの章のことをおっしゃっているのではないかと思います。

ウツソンと12世紀宋の時代に著された『営造方式』ほかの話が出てきます。

  この書の翻訳作業を行っていたのは1990年代末で、当時は岩波書店広辞苑』が信頼できる辞典とされていました。

 そこには「中国」は中華民国または中華人民共和国の略称、「支那」は一般的な地域の呼称、といったことが書かれていたと思います。

 ですので、「中国」でも「宋」でもなく、一般的地域としての「支那」という意味で用いています。「他国を侮辱」する意味はありません。

  今だと、(どこまで信頼できるかはともかく)簡易検索としてwikipediaを参照すると、 

中国 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD

(中文版 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9C%8B 、ハングル版 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%A4%91%EA%B5%AD 異なることが書いてあるかもしれませんが) 

 

 中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。

 近年は[いつ?]、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている[1][2][3]。現在[いつ?]ではその地域に成立した中華民国中華人民共和国に対する略称としても用いられる。

 

 とあり、二行目はかつてと同じですが、1行目はもう少し広い定義での使用も述べています。

  また

 支那 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E9%82%A3

(中文版 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E9%82%A3 、 ハングル版 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%A7%80%EB%82%98 異なることが書いてあるかもしれませんが)

 では諸説いろいろありますが、用法として 

 

1、漢民族とその土地・文化等に用いられる、王朝や政権の変遷を超えた国号としても使用可能な通時的な呼称[6]。

 

という中性的な意味で『テクトニック・カルチャー』では用いています。

またこの頁を下にスクロールしていくと「学術的な使用」という項目があり、そこでは

 

学術界における「支那(シナ)」の使用は、

概念と用語に厳密であろうという学術的態度。

シナの部分だけを指す王朝や政権の変遷を超えた国号としても、使用可能な固有名詞の呼称が存在しないこと。

等に起因するものであり、使用者側の政治的立場との関連性は見られない[47]。

 

と述べられています。

重ねて述べると「他国を侮辱」する意味はまったくありません。

 ただおっしゃるように、そのすぐ後の「言論での使用」で

 

「主に右派で使われることが多く」、「インターネット上では、中国に反感を持つ層が「シナ」を使う例が多い」

 

とも述べられ、

また、前の方に少し戻って(この言葉の)歴史という項目では、

 

「当初「支那」は同様に歴然として辱めた意がなかった。中華民国成立以前の日本公文書においてもいくつか支那の使用例は存在する[5]。しかし佐藤三郎は」「実藤恵秀も日清戦争後には日本人の「支那」という言葉には軽蔑が交じっていたと指摘している[15]。」

 

と述べられ、「学術的使用」以外に、言葉としての歴史を背負ったものであるのも事実なのだろうと思います。

 

ですので、「他国を侮辱」する意味はまったくありません。

ただ言葉としては、おっしゃるように難しい言葉かもしれません。

 

ジョン・ピーター『近代建築の証言』小川次郎/小山光/繁昌朗共訳、TOTO出版、2001

 

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 フランク・ロイド・ライトのユニティ教会の箇所を確認。

「保存、拡大、拡張され、目に見えるものとなった空間の価値は、まったく新しい建築をつくり出します。ユニティ教会はそれを実現した最初の建物です。私が近代建築に貢献したのはその点においてです。そして少なくとも私にとっては、それが近代建築なのです」(157頁)

DVDでは

The space-values on the building, preserved, enlarged, expanded, presented and maximized entire architecture, and Unity Temple was the first expression of it. That is my contribution to modern architecture, and that, to me, is modern architecture.

 ここ(晩年のオーラルヒストリー)においてユニティ・テンプルが重要なものであったことを、ライトは示唆している。これ以下の部分はDVDには付録収録されていないが、本文では

「いいですか、こんな平面図があるとします。この中にさまざまな造作を置きます。これはかつては壁にしていたものですが、ここでは壁になっていません。隅の方に階段、これも造作、別のタイプの造作です、を置きましょう。平面図のでき上がりです。こうすれば上の方は全部開放されます。空間に対して置かれたこれらの造作は、あたかも上を塞がずに自由にするためにあるかのようです。こうして内部空間が建物の本質になったのです。それは私が老子から学んだことの延長線上にありました」(157-158頁)。

これは実際、ユニティ・テンプルの平面について述べていると思われる(eg. http://www.kamit.jp/17_world/74_chicago/chicago.htm)。

 この教会の正方形平面をした礼拝堂部分の三つの隅部には階段が置かれ、その結果、あたかも四隅の柱と壁が分離したかのようになり、それまで耐力壁であったものが被膜のように扱われることになっている。

 この平面は日本建築(日光東照宮など)の平面との相似性がよく指摘されるが、それだけでなく、日本建築における柱と被膜の分離、あるいは縁側や回廊部分による構造体と外周や被膜との分離をも彷彿させ、さらには、しかしながらそれだけでなく、これはゴットフリート・ゼムパーの被覆原理の考えそのものでもあり得るのではないか。ライトは例によってゼムパーの名前は知ってか知らずかまったく出さない。

ライトの講演録でもたびたび引かれる話、駐米日本大使からプレゼントされたとされる岡倉覚三の本で述べられる老子の話、つまりライトが自らの空間の発見をつねにそこに求める話がある。しかしながら彼の空間の発見は老子だけであったのかどうか。ちなみにライトのいう「老子」、「建物の本質は壁や屋根にあるのではなく、その空間にある」は、実際には『老子道徳経』第11章のことを指していると思われる。

http://blog.mage8.com/roushi-11

原文
三十輻共一轂。當其無、有車之用。埏埴以爲器。當其無、有器之用。鑿戸牖以爲室。當其無、有室之用。故有之以爲利、無之以爲用。

書き下し文
三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。その無に当たりて、車の用あり。埴(つち)を埏(こ)ねて以(も)って器を為(つく)る。その無に当たりて、器の用あり。戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以って室(しつ)を為る。その無に当たりて、室の用あり。故(ゆえ)に有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり。

 

 車輪においても、器においても、家においても中心には空洞(無)があるゆえにこそ全体が機能する、「無用の用」とも呼ばれる道徳律である。

この前後で岡倉の書といえば、『The Book of Tea』であり、この書がロンドンとニューヨークで出版されたのは1906年(eg. https://en.wikipedia.org/wiki/The_Book_of_Tea )で、他方ライトがユニティ・テンプルの設計に着手したのは1905年、竣工までを含めて1905-1908年のあいだにこの教会は設計・建設されている。「駐米大使」が「岡倉の書」をいつプレゼントしたかにもよるが、少なくとも着手時においてライトが岡倉の書を読んでいた可能性はまったくない。他方ではゼムパー理論はじゅうぶんにシカゴに流布していた時期である。

 いずれにしてもThe Book of Teaでは先述の部分は第三章「道教と禅」の部分に登場する。前後の部分も含めると

This Laotse illustrates by his favourite metaphor of the Vacuum. He claimed that only in vacuum lay the truly essential. The reality of a room, for instance, was to be found in the vacant space enclosed by the roof and the walls, not in the roof and walls themselves. The usefulness of a water pitcher dwelt in the emptiness where water might be put, not in the form of the pitcher or the material of which it was made. Vacuum is all potent because all containing. In vacuum alone motion becomes possible. One who could make of himself a vacuum into which others might freely enter would become master of all situations. The whole can always dominate the part.

http://www.sacred-texts.com/bud/tea.htm

 しかしながらこの書において建築的なことについて詳述しているのは、むしろ少し後の日本の茶室(数寄屋)についての部分で、そこでは岡倉は、その特質をAbode of Vacancy(とAbode of Unsymmetry)と述べている。ライトは例によって日本建築を無視し、茶室ではなく、老子から霊感を得たと強弁したのか。

 ところでアルフレッド・バーものちに踏襲した「日本の浮世絵からは(単純化/抽象化の手法を)学んだが、日本建築からはまったく影響されていない」というライトの強弁は今日ではほとんど否定されている。他方では中国文化を高く評価する視点などは、岡倉の視点を踏襲しているのかもしれない。日本文化についての評価からメモ。

「版画がつくられた時期、日本は非常に優れた芸術家たちを輩出しました。今でいうところの桃山時代です。版画がつくられたのはその時代の前半で、絵画としての浮世絵は後半です。彼らが世界の芸術に大きく寄与したのはこの時期です。浮世絵版画の中で彼(ら)が行った単純化は、後続の版画家たちに大きな影響を与えました。純粋に日本独自の流派の始まりでした。中国芸術の枠を超えて出たのです。もちろん中国芸術の本質的な部分はそこにも引き継がれていました。文化において日本的なるものが、中国芸術からまるで花木が芽やつぼみから出るように派生してきたのです。ですからその基本は中国にあります。これが理由で中国人はいつも日本を見下すのです。まねをしたと」(155頁)。

 

 

 

David van Zanten, Photographs by Cervin Robinson, Sullivan`s City, The Meaning of Ornament For Louis Sullivan, W.W.Norton and Company, New York and London, 2000

 

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 デイヴィッド・ヴァン・ザンテンのルイス・ヘンリー・サリヴァン論にも目を通しておく。謝辞の冒頭にはジョルジュ・ディディ=ユベルマンの名前が見える。

 大雑把に述べて全体の構成はサリヴァンが活動した時代のシカゴを三つの時代に分け、それぞれにおけるサリヴァンの建築でのマス、技術、建築的構成、プラン、そして装飾の関係の変化を見ていくものと述べ得る。

 サリヴァンの建築で刮目すべきものの一つは装飾であり、そしてサリヴァンの装飾とヴィクトール=マリー=シャルル・ルプリチ­=ロベールが『花装飾』において示す装飾の親近性は、一瞥してうすうす感ぜられるものではあろう。本書冒頭ではサリヴァンのパリ留学時代の下宿がルプリチ=ロベールが授業を行っていた校舎と同じ通りにあったことが述べられているが、サリヴァンがルプリチ=ロベールの授業を聴講した可能性が実際にあったかどうかはともかく、おそらくルプリチ=ロベールの装飾論については認識していた可能性は高いのであろう。冒頭ではまたマッキム・ミード・アンド・ホワイトの装飾とサリヴァンの装飾の相違について述べられ、本書後ろの方では今度は、サリヴァンアラベスク状装飾とオーウェンジョーンズが『装飾の文法』において示す装飾との相違が述べられているが、これらは明快であるとともに実は込み入っているようにも見える。

 マッキム・・の装飾は歴史実証主義的あるいはエクレクティシズムの装飾であるのに対し、サリヴァンの装飾は芸術家としてのvirtueを表現するものであるという整理。面白いのはマッキムもサリヴァンもボザール留学組であることであり、前者は単純に歴史主義あるいはエクレクティシズムであるのに対し、後者はこれとはまた異なるものとしてあるということである。ルプリチ=ロベールもそうだが、彼の師であったヴィオレ=ル=デュクも一時期ボザールで講義しており、19世紀建築史における相違は単純にポリテクニークとボザールのあいだにあったというだけでなく、ボザール内部にもあったと言うべきであろうか。面白いのはジェニーもヴィオレ・・に言及しており、米語版のヴィオレの翻訳者はヘーゲルの米語版翻訳者に近かったということである。さらにサリヴァン1893年博の交通館の設計に際して述べたこと、つまり「サリヴァン1893年11月11日のダニエル・バーナムへの書簡で彼の意図を直接的に自身で表明している。「交通館でわれわれが表現したい考えはこうである。「建築的展示」」。これに続いて十の純粋に形態上の特質を述べていく。1、歴史的ではなく、ナチュラルな展示であること。2、精妙な装飾を持った基本的なマスによって表現されること。3、全ての建築的マスとそれに従属するマスは、直線または半円によって、あるいはこの両者の結合体によって連携されること。これは効果的に装飾されたとき、きわめてシンプルな要素としての可能性を描き出す。。。」(54頁)、はいろいろと示唆的である。

 まず歴史主義を否定するにあたって「ナチュラル」に(建築を)展示すること、という考え。サリヴァンが「ナチュラル」とか「オーガニック」という言葉を用いるとき、これはハーバート・スペンサーから来ている可能性が高い、とこれはソールベリーが示唆したことである。19世紀プロト・モダニズムの成立において、ヘーゲルやスペンサーが思想的契機として機能したと言えるかもしれなかろう。岡倉覚三は、フェノロサヘーゲル主義者でスペンサー主義者であったと述べていたが、当時の米国の知識層ではこれは一般的であったのかもしれない。

 2と3は、実はボザールの手法でもある。「建物を特徴的なヴォリュームの列として表現する方法を、彼はまずMITでそして次にエコール・デ・ボザールのヴォードレメールのアトリエで習得したのかもしれない」(97頁)であり、「アーネスト・フラッグが1892年のニューヨーク・タイルデン図書館計画において最も印象的に示したラディカル・ボザールの「構成主義(compositionism)」に、ドラムンドのデザインは比肩できるかもしれない」(85頁)といった記述で述べられるマスの配列法、これは同じくボザール留学組であったリチャードソンの建築の重要な特質であること、などである。そもそもマッキムらはリチャードソン事務所出身でもあった。著者はここでこの手法を「ラディカル・ボザール」と呼んでいるのである(あるいはこれは一般的な語用なのか)。

 晩年のサリヴァンの装飾とプランの関係についての記述。「プランと装飾のこの並行関係を理解するにあたって重要なことは、サリヴァンのものはたとえばオーウェンジョーンズが1856年の『装飾の文法』(1910年まで版を重ねた)で述べるような通常の装飾の考えではないということである。ジョーンズにとって装飾は本質的に連続的パターンであり、そのモティーフは目が建築の表面を滑っていくためのものである」「サリヴァンの装飾はこのモデルに従わず、むしろアラベスクのもの、動き、捻じれる線であり、これは変容し、闘争し、それが伸びていくにつれ渦巻くものであり、音楽理論家のエドワード・ハンスリックが音楽経験の本質的トポスとして選んだモデルのものと同じいうことである」(119頁)。

 サリヴァンにとっての大きな転機は、1894年のライトとの別離、続く95年のアドラーとの別離であったとも述べられる。「ライトとアドラーとの別離後、1890年代後半、二つのことがサリヴァンの作品には起こる。まず、ウェインライト=ギャランティ・モデルをより美しく装飾していくという反復であり、これはニューヨークのベイヤール・ビル、シカゴのゲージ・ビル、カーソンピリースコット百貨店に見られる。第二に、カーソンピリースコットを例外とすれば、これらの計画は空間と技術とそれに装飾の複合問題から徐々に遠ざかっていることである」「サリヴァンの装飾が美学的に固まっていくにつれ、広い意味での複合問題は、衰えていくのである」(67-68頁)。

 サリヴァンがライトと協働したのは1888-1893年の5年間、しかしこのあいだにはジ・オーディトリアムというシカゴ建築の金字塔の設計と竣工があろう。

 この問題はサリヴァン個人の問題だけでなく、サリヴァンがファーネスの事務所を追われた1873年恐慌と時代の大きな節目となった1893年恐慌のあいだの好景気、とりわけバブル景気、ちょうど100年後の東京が経験したような当時の世界で最も頂点を極めたであろう不動産バブル経済を、シカゴは経験していたのであろうということにも関連していると思われる。レーニンは「資本主義の再編」にあたって「恐慌」に着目したが、文化現象を見るには「バブル」に(も)着目すべきではないか。

 

 

Giorgio Ciucci, The City in Agrarian Ideology and Frank Lloyd Wright: Origins and Development of Broadacres, The American City, The MIT Press, 1973

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ジョルジュ・チウッチのフランク・ロイド・ライト論にも目を通しておく。こちら(

Giorgio Ciucci, Francesco Dal Co, Mario Manieri-Elia, Manfredo Tafuri, The American City, From the Civil War to the New Deal, The MIT Press, 1979, translated by Barbara Luigia La Penta: RCaO2)とこちら( http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/manfredo-tafuri.html )の続きでもある。

ライトのトリックスター的性格はアイン・ランドの小説『水源』やこの小説を基としたハリウッド映画『摩天楼』の主人公にもある程度は投影されているのかもしれないが、おそらく滑稽にさえ見えるのであろうこれら主人公のあり方はしかし、ライト本人の性格や思想というよりむしろアイン・ランドの思想(eg. http://toyokeizai.net/articles/-/94979,  http://courrier.jp/blog/13827/, http://nikkidoku.exblog.jp/18327733/, etc. )の投影の方が大きいのではないか、と思えることがある。本論ではランドの小説はまったく登場しないが、しかしながら後わり付近で引用されるマイヤ・シャピロの1938年の論考は、そもそもの始まりから「建築家フランク・ロイド・ライト」という存在が時代錯誤的だった、あるいはイタリア・ルネサンス以来のアルベルティ的建築家像とは捻じれていたのであり、あの特異なあり方はその結果なのではないか、とも思わせるものではある。つまり「シャピロが正しくも結論したようにしかし、「もっと多産的条件下であったとしてさえ、建築家の圧倒的多数はオリジナルな芸術的創造の機会を得ることはない。彼らは資本主義下のオフィスでサラリーを貰う労働者であり、自己発展の可能性を持つことはない」」(370頁)であり、さらに末尾でのチャールズ・ムーアによるディズニーランドの言説による反照も、そう考えさせなくもないからである。

論題にもあるようにこの論はフランク・ロイド・ライトと南部農本主義イデオロギーとの並行性/非並行性を主に見ていくものである。それは主として1920年代以降の話と言え、それまでのオークパーク時代やタリアセン時代について見ればある種の反・都市主義的傾向はあるものの、むしろ1894年にシカゴ大学に赴任してきたジョン・デューイや、さらには日本の西田幾多郎にも影響を与えたとされるウィリアム・ジェームズの弟子筋が同大学に集まって建築とはまた異なる「シカゴ派」を形成し、ライトがそこにも出入りしていたことなどが目を引く。さらに1900年にはパトリック・ゲデスがシカゴを訪れ、ライトはゲデスに会っている。ただしライトよりも所員であったウォルター・バーリー・グリフィンの方がこれには反応したという。オーストラリアの首都キャンベラのマスタープランはゲデスの思想を何がしか反映しているだろうか。また、グリフィンはライトの所員のなかでライトが唯一アドヴァイスを仰ぎ、批判を受け入れた人物であったという。

さて1920年代以降の南部農本主義思想その他の記述は、アメリカ思想史としても面白く、またこの時代に米国社会に地殻変動的な変化があったのではないかとも思わせるものであり、さらに述べれば同時代の日本とも何がしかの並行関係を見ることも、できるかもしれない。

1920年代の米国は第一次大戦の軍需特需後ということもあって好景気の時代であったと一般には言われる。しかしながらそこから取り残された部分もあった。南部の貧しい農村地帯がそれであり、KKK禁酒法はこれに徴候的であるという。

KKK南北戦争時の南軍退役軍人の交流会に出自したもので、その最盛期は1920年代であった。当時のKKKの「インペリアル・ウィザード」であったヒラム・ウェズリー・エヴァンズのスピーチ、「われわれは平凡な人間の運動である。文化的問題には大変弱いし、知識層の支持もなく、リーダーとしての訓練も受けていない。われわれが要求することは、日常的で、高度に文化的でもなく、過剰に知的でもなく、しかしまったく無垢でアメリカ的で、そして古株の平均的市民へと、権力を取り戻すことなのである」(340頁での引用)。

また禁酒法は都市部のカトリックの反・禁酒法主義者に対する、農村部のプロテスタント禁酒法主義者の闘争でもあったのであるという。

南部農本主義思想の拠点はテネシー州ナッシュビルのヴァンダービルト大学であり、南部農本主義の思想誌『アメリカン・レヴュー』の寄稿者としては、アレン・テート、ジョン・クロウ・ランソム、フランク・L.オウズリー、ドナルド・デイヴィッドソン、ヒラリー・ベロックらが挙げられる。

「アレン・テートにとってマルクス主義はじゅうぶんに革命的でなかった。なぜならそれは資本主義を左派の資本主義によって克服することであったからである。南部農本主義にとって資本主義はひとえに私有財産の分散によってのみ克服されるものであった。これはジェファーソンの伝統の教えであり、アメリカの基本中の基本なのである。アメリカ文明の危機の解決はアメリカ文化への回帰なのである」(342頁)。

この反都市主義=反資本主義という性格において、ほぼ同じ時代の日本の農本主義的右翼思想、たとえば血盟団や愛郷塾、それに陸軍皇道派青年将校達の思想との並行性を見ることはできないだろうか。

いずれにせよジェファーソンのモンティチェロ、エマーソンのコンコード、ヘンリー・デイヴィッド・ソローのウォルデン、それにウォルト・ホイットマンの「野生」などアメリカ思想の伝統に接続し得、また資本という点で見れば、資本の集中=都市に対する資本の分散、つまり反都市的な性質を持つ言説と言える。

さて1920年代に戻る。1893年のフロンティア消滅後、国内にはもはや「フロンティア」はない。1916年の国立公園法制定はいわば「国立公園」という新たな都市からのツーリズムの対象を形成することであったともいえ、T.J.クラークが『日常生活の描写』で述べた週末郊外への商品経済の浸透のような、都市の「余暇」が「自然」へと浸透し始めた現象の契機ともいえる。ヘンリー・フォードによるテネシー州マッスル・ショーズの開発などは示唆的であろう。いわばアグリツーリズムの先駆というべきか、言うまでもなく自動車はその生産組織と消費者だけでなく、それを受け入れる物理的空間、つまり「道路」を必要とするからである。さらに第一次大戦後の復員兵のための入植地を南部に求めたことなどを合わせると、第二次大戦後のレヴィットタウンとインターステイト・ハイウェイの原型がこの時代にできつつあったとも思えるものである。とともにさらにはルーズヴェルト時代ニューディールの象徴となるT.V.A.のプロトタイプもここにすでにあるとも見なせる。

南北戦争以来の北部共和党と南部民主党の関係が捻じれるのも、この時代である。ルーズヴェルト大連合の原型は1920年代、ニューヨーク州知事のルーズヴェルトの前任者アル・スミスの時代に形成されたという。この時代、共和党が都市部の掌握を失っていく一方、民主党労働組合等を通じて都市部をも掌握していく。考えようによっては労働組合とは都市内部における反都市的組織であるとも見做せるのかもしれない。本論冒頭にはウィリアム・ディーン・ハウェルの小説『アルトゥリア』(がライトのユーソニアンと類比的に)引用されているが、著者はそれについて「資本蓄積、搾取、伝統的な階級、独占、そしてその究極のものとして資本主義システムの触知的表現である都市への絶えざる微妙な非難なのである」(293頁)と述べているが、こうした認識はK.K.K.を含む南部農本主義者から都市部の労働組合にまで共通していたものであったかもしれない。一見すると野合のように見える「大連合」も「反・都市」という視点で見ると共通するものがあるようにも見えなくもないのである。また都市部においてはカトリック層がルーズヴェルト大連合の形成に与したとあり、ロバート・モーゼスが登場するのもアル・スミス時代のニューヨークにおいてである。ちなみに戸坂潤は『日本イデオロギー論』において「ルーズヴェルト体制」をファシズムの一形態と分析していた。

さて、ライトである。

著者はアリゾナへのライトの移動を大きな転機であったと見做している。それまでの日本建築やマヤ文明他への傾倒から、ここからライトはまた新たな展開を開始したと言え、「砂漠のサン・マルコス」ことオッティロ計画はその後のタリアセン・ウェストへと繋がっていくものであり、さらに北部工業地帯でも南部農村地帯でもなく、西部の乾いた砂漠へといわば逃避行することによるあたかも新大陸への一歩であったかのように、これは見えるかもしれない。1935年にロックフェラー・センターでその模型が展示されたブロードエーカーシティはそれまで親和力(elective affinity)によって個人の邸宅を主に設計してきたライトが社会的ヴィジョンと向き合った計画なのだと、著者は見做している。よく引用される4スクエアマイルズの正方形平面の模型の中心にはいわばコミュニティの中心のように学校が置かれ、その周囲にそれぞれ1エーカーの土地をあてがわれた住宅が配され、各住宅は寝室数ではなく所有自動車数によって分類される。住宅の外側に果樹園と葡萄園が配され、それに沿って動脈としての自動車道が全体を貫いている。この線形地上交通に対し、ライトはのちのヘリコプターやドローンの原型ともいうべき「エアローター」という乗り物による三次元非線形交通をさらに挿入する。

さらに周辺部には小さな工場やスモールビジネスが点在し、これは都市=資本集中に対する資本の分散という、農本主義とも共通する考えでもあるのであろう。この時代までのアメリカのユートピアの表現であるとともに、他方では戦後の郊外スプロールという現実を何がしか先取りしてしまっている、とも言える。

さらにここに置かれた個々の建物をよく見ていくと、かつてのプレーリーハウスからワンマイルスカイスクレーパー・プロジェクト、それにプライスタワーの原型となるセントマルクスタワーなどが並んでおり、このプロジェクトがライト個人の過去・現在・未来を投影するものであったことも、述べられる。

ユーソニアンハウスはその形態が部分的にプレーリーハウスと似たものがあるとしても、理念的にはまったくの別物である。

 

Alexander Eisenschmidt with Jonathan Mekinda eds., Chicagoisms, The City as Catalyst for Architectural Speculation, Park Books, Zurich, 2013

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 こちら(http://madhut.hatenablog.com/entry/2015/09/18/171408)で見たジョアナ・マーウッド=ソールズベリーの論考を含むアンソロジー。編者解説によれば19世紀から現代までのシカゴを一つのアイデアとして捉え、外部からこの都市を見た論考のあいだに内部からのコメンタリーを挟んでゆく構成にしてあるという。

 まず編者による序章からいくつかメモ。

アドルフ・ロースは世界コロンビア博を見るために1893年にシカゴを訪れている。それは二度と家には戻らないという条件で母親から貰ったお金での渡航であった。いっぽうフランク・ロイド・ライトはこの都市でのそれまでの生活と仕事を投げ打ち、1909年にヨーロッパに旅立った。二人ともアイデアの運び人として動いたのである。ロースはいわゆる「シカゴ派」の教訓を吸収しサリヴァンのアイデアをヨーロッパに持ち込んだのであり、他方、ライトのヴァスムート・ポートフォリオは国際的なモダニズムを永遠にアメリカ中西部に関連付けたのである。最終的にロースもライトもシカゴに戻ってくる」(12頁)。

「ハンス・ホラインはたとえば、1950年代末シカゴに住み、多くの時間をこの都市の高層ビルの有名な再構想に費やしている」「「未来のスカイスクレーパー」と名付けられたこのプロジェクト(→http://www.hollein.com/ger/Kunst/Wolkenkratzer)はそれまでの慣習的なタワーとは異なり、庭園や公共空間やその他のプログラムを収納したセグメントを空中に浮かせるものであった」「半世紀以上ののち、中国の深圳でこの案は復活する(→https://www.dezeen.com/2010/08/03/sbf-tower-by-hans-hollein/)」(13頁)。

 スタンリー・タイガーマンによる序文ののち、こちら(http://madhut.hatenablog.com/archive/2016/09/12)で見たホラバード+ローシュの評伝の著者ロバート・ブルーグマンの「文化宮殿」というジ・オーディトリアムのコメンタリーが続く。シカゴ建築で真っ先に挙げられるべきはこの建築という。

 ところでジ・オーディトリアムについて見るなら、設計者達は「総合芸術作品(Gesamtkunstwerk)」というドイツの概念を念頭に置いていたとされるが、それだけでなくこれはブルーノ・タウトの述べる「都市の冠(Der Stadt Krone)」の一例でもあり、とともにその規模と複合的機能という点でもまたその財務手法でも、この時代の資本主義/都市の表象でもあったかもしれない。財務手法について述べれば、南北戦争時の戦費調達の手法によって一般化した債権方式がその前史にあるだろう。戦費調達という課題は金融資本の発展にとっても一つの契機であったかもしれない。もっと述べるならそれまで戦費調達の手法として用いられてきた国債発行を建設国債として発行し、経済成長を領導した戦後日本のプロトタイプも、ここにあるのかもしれない。

 またこのジ・オーディトリアムはのちのロックフェラーセンターの原型でもあるとも言え、このコメンタリーに続くコメンタリーでウィリアム・ベーカーは1893年コロンビア万博でのフェリスホイール(観覧車)について考察している。

 これもあえて話を広げて見るなら、いろいろな点でコロンビア博はコニーアイランドの前史であったと言え、ジ・オーディトリアムやコロンビア博に対するロックフェラーセンターコニーアイランドという点で見ていけば、これらはいわば『錯乱のニューヨーク』前史をなしているとも言えなくもない。さらに述べるなら単に規模を大きくした二番煎じというだけでなく、シカゴのルイス・サリヴァンやジョン・ルートに対し、ニューヨークのウォーレス・ハリソンやレイモンド・フッドという、建築家からして二流どころによるところがいかにもという感じではある。

 バリー・バーグドールによるコメンタリー、「ピクチャーフーレムとしてのシカゴフレーム」では1920年代初頭のフリードリヒシュトラーセでのスカイスクレーパー案と1948年構想のミシガン湖畔のレイクショアドライヴについて述べている。

「1922年にミースはこう書いた(フリードリヒシュトラーセの解説か?)。「建設中のスカイクレーパーのみがその大胆な構法的思考を明らかにする」、そして続ける。「その舞い上がるような骨組は圧倒的だ・・・にもかかわずやがて石がこの構造に張り付いていくとこの印象は破壊され、構法の性格は否定される」(60頁)。

レイクショアについて述べながら

「土地の売却者であったノースウェスタン大学による湖の景色を残すことという指示に従い、ミースはソリッドとともにヴォイドを構成した。骨組構造はピクチャーフレームとして機能し、二つのタワーを結合して横に広がる一層目のコロネードの下から広大に広がるミシガン湖の水平線を定義している。アパート内部では床から天井までのガラスが無窮へと広がるフレーム化されたディオラマをプレゼンテーションする」(60頁)。

 アルバート・ポープの論考「メガロポリスはいたるところに」は、戦後のヒルベルザイマーの都市計画案について解説したものである。シカゴは1950年頃から内郭都市の人口減少が始まり、いいかえるならこの前後からドーナツ化現象が始まり、さらに2000年前後から内・郊外の人口減少がそれに続き、他方では外・郊外の人口は増え続けて広域圏としては人口増が続いているというグラフを冒頭に置き、従来のグリッド型(街区型)都市計画案からヒルベルザイマーによるスパイン・ユニット型のモデルを説明していく。(ref., http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20070923

 内郭における人口減少と郊外における人口増加は同じ力によるものであると見たヒルベルザイマーは1950年代に戦前のドイツでの計画案をさらに進め、たとえばル・コルビュジエフランク・ロイド・ライトが示したような1枚の絵に向かっていく計画ではなく、スパインユニットを時間をおいて連続的に挿入していく計画を提示したのであるという。

 この手つきは、内郭から外・郊外へのヒエラルキーを解体するもののようにも見え、ヒルベルザイマーらしいようにも思える。メトロポリスではなく「メガロポリス・・」と述べるのも、そのあたりに理由があるのであろう。

S.Giedion, Space, Time and Architecture, The Growth of a New Tradition, Herverd University Press, Cambridge, Massathusetts, 1941,( Fifth Edition, Revised and Enlarged)

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 こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/11969-b78b.html)とこちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/1931-193921969-.html)の続き。まずこちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/siegfried-giedi.html)のようなロシア・アヴァンギャルド風のレイアウトやブックデザインデザインとは、本書のデザインはいささか趣を異にしている。

 サブタイトルは「The Growth of a New Tradition」となっており、ヒッチコックのこの書(http://madhut.hatenablog.com/entry/2016/12/02/194041)の続編であるかのような印象を与えるものの、内容はそうなっておらず、同書の読者を意識して出版社がこのサブタイトルを付けた可能性もある。本書成立の経緯を考えて英語版を正版とするなら、やはり米国の読者を念頭において書かれたものであったかもしれない。

 また本書出版およびそのの2年後1943年の、著者も交えてのポール・ズッカー采配によるコロンビア大学での(あたかもル・コルビュジエ/カレル・タイゲ論争、http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20090506 を踏まえたかのような)シンポジウムの開催は、この時代に建築の中心がヨーロッパからアメリカに移りつつあったことを象徴するかのような出来事だったかのようにも、見える。実際、「空間-時間(space-time)」概念を説明するにあたってアルフッド・バー(つまりMoMA/ロックフェラー財団)の言説に依拠したことは、そのことを意識していたかもしれない。

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 さらに目次頁を見るなら、本書のコンセプチュアルな構成が一目で分かるようになっていると言える。つまりまずルネサンスの線遠近法的空間に対して「空間-時間」を対比させるやり方は、前者にパノフスキーの「象徴形式としての遠近法」的な含みがあることを念頭に置けば、後者にはポスト・人文主義的な含みがあること、つまりポストヒューマニズム的な概念の提示を示唆していると言えるということである。後者におけるキュビスムの例示はあくまで「象徴形式」なのであって、K.マイケル・ヘイズが述べるようにたとえばジンメルが『メトロポリスとメンタルライフ』で示唆するような、新たな(分裂症的な)主体/主観の問題の示唆なのだと読めるであろう。

 つまりもっと述べるなら、それぞれの章題に「空間」がついているゆえむしろ分かりずらくなっているものの、ここでの主題は再びK.マイケル・ヘイズにならって述べるなら、主体/主観なのだと述べ得るのではなかろうか。

 ここでK.マイケル・ヘイズによるタフーリの効力批評(operative criticism)の引用を確認するなら、「効力的批評という言葉で普通意味されるのは、建築(あるいは美術一般)の分析において、抽象的な研究の代わりに、まさに詩的傾向をその構造のうちにはらみ、あらかじめ歪められ結論づけられている目論見」(→PH、15頁)であり、さらに「社会や技術の発展論理によって主体/主観は対象から引き裂かれてしまったので、対象はいまやギーディオンにとって、その内部に主体/主観のための場所を用意せねばならないのである。「絵画のまっただなかに入り込んでいる」が、ギーディオンのやり方なのである。ここではまたもタフーリが「効力批評」とした批評とデザインの安易な結合が見てとれよう。鑑賞し解釈する主体は対象のフレーム内部に位置しなければならず「絵画から離れた観察点に立つべきではない。近代美術は、近代科学と同様に、観察するものと観察されるものとが一つの複合状態を形作るという事実、すなわち、あらゆるものを観察するということは、それに働きかけ、それを変えることだということを認識している」のである」(ibid, 19頁)。つまりギーディオンの「空間-時間」概念は、まずそのうちに批評としても対象としても主体/主観を内在させたものでなのである。これは、ル・コルビュジエの「ヴォリューム」概念やヒッチコックの「ヴォリューム」概念とはまったく無関係とは言わないまでも、また異なる次元のものである、と言える。

 K.マイケル・ヘイズによるギーディオンの脱構築は、T.J.クラークによるマイヤ・シャピロの脱構築を彷彿させなくもないか。

 

Harry Francis Mallgrave, Modern Architectural Theory, A Historical Survey, 1673-1968, Cambridge University Press, New York, 2005

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 こちら(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20090104)でも見た、ゼムパーの「様式」に関連する部分とゼムパーのシカゴへの影響部分を再確認する。前回引用部分の続き。

 

「様式とは、と彼はこう書く。芸術作品の主題を変容させる根本理念およびあらゆる内在的・外在的係数に、芸術的重要性と強調を与えることを意味する。根本理念あるいは主題はこの定義の中心にある。「内在的・外在的係数」は主題の表現に影響する。内在的変数は作品生産で用いられた素材や技術的手段であり、外在的変数は作品に影響する地域的なもの、時代的なもの、国民的なもの、それに個人的要素である。ここにある希望は現今の変数やそれが芸術的に含意するものをひとたび適切に分析するなら、我々は再び様式をもって作品を生産することができるということである。芸術は効果的に工業時代に入っていくことができ、その生産は新しいパラメータに呼応するものでなければならない」(135頁)(引用元はゼムパーの『科学、工業、芸術』)。

→のちのボウマンのイリノイ建築家協会での講釈では「様式とは構造とその構造が出自した条件の一致である」→TC、何ともデリダ的条件。

 

「『様式論』における「比較方法」あるいは「実務美学」によって、とりわけゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル他のロマン派哲学者による抽象的美学理論を転倒させることを目論み、初期のドイツ理論から袂を分かった」(136頁)。

「この構造によってゼムパーは彼の四つの基本要素の分析を、織物(テキスタイル)、焼物(セラミック)、木造結構(テクトニクス)、切石組積(ステレオトミー)と、芸術生産の展開に従って始める」(136頁)。

 

「テクトニクスとステレオトミーの章では他にも新しいポイントがある。ローマン・ヴォールトに内在する「空間」モティーフについて述べながら、たとえばゼムパーは空間自身の問題を建築的考察に値する領域として取り上げる。鋳鉄の議論で、ドイツにおいてこの世紀中続くことになる理論的パラメータを置く。なぜなら鋳鉄は細くなるほど完璧で効果的となる素材ゆえ「芸術の地としては不毛」たらざるを得ない」(137頁)。

「重要な被覆(Bekleidung)概念についての主題とは離れた長たらしいメッセージにおいて、人間の被覆と建築の被覆の類比を彼は行う。彼の建築論の主題を詳しく展開するのである」(137頁)。

 

「1887年3月(イリノイ建築家協会・会合における)ボウマンによるゼムパーの様式定義の参照は、付随的だが重要である。この建築家によるゼムパーの一連の解説の始まりであったからである。これは1889年と1892年のAIAでの講演前に読んでいた二つの論文を含み、彼のこの関心がルートをしてゼムパーの最後の講義「建築様式論」の翻訳へと向かわせた。ボウマンともども1889年の『インランド・アーキテクト』1889年の号に発表された。よってゼムパー思想、とりわけ四つの建築的モティーフのコンセプチュアル・モティーフは明らかに1880年代シカゴの空気に広まっていたのである」(165-166頁)。

 

メモ

ボウマンの記事

“Thoughts on Architecture,” Inland Architect and News Record 16(November, 1890)56-60

“Thoughts on Style,”20 November 1892 34-7

 

Roula Geraniotis,

“German Architects in Nineteenth-Century Chicago,”(Ph.D.diss., University of Illinois, 1985)

“German Architectural Theory and Practice in Chicago,1850-1900,”Winthur Portfolio 21(1986), 293-306

 

 

ついでにメモ

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ついでにメモ。23:40から50あたりにかけて司会者と推薦者が複数回「ハリー・モルグレーヴ」と発音している。その二人前、建築財団ディレクターのサラ・イチオカ氏は日系人なのか。

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戸坂潤『日本イデオロギー論』、岩波書店、1977

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 寄道をして一瞥する。初出は1935年である。

 舶来新思想から昔の思想まで「ありとあらゆる思想が行われる」日本の状況を瞥見しながら(板垣鷹穂も似たような皮肉を述べていた)、まず

 

「思想とはあれこれの思想家の頭脳の内にだけ横たわるようなただの観念のことではない。それが一つの社会的勢力として社会的な客観的存在をもち、そして社会の実際問題の解決に参加しようと欲する時、初めて思想というものが成り立つのである」(17頁)。

 

として、近代(明治以降)日本における主要な思想を著者は二つに分類する。「自由主義」と「日本主義」がそれらである。

 近代化とは都市化なのであるとすれば、その進行によって都市的な思想が主要なものとして大きくなってくるのは容易に想像できる。「自由主義」とは都市のイデオロギーである。

 これに対する反力(反動)として反・都市的な思想、あるいはバランサーとしての思想も同様に大きな思想となってくるであろう。著者のいう「日本主義」とは大雑把にいってこのことであると述べていい。日本の近代化が西洋化でも同時にあったとすれば、明治中期に過度の欧化に対するものとして登場した国粋主義からその後のアジア主義までを、著者はこの範疇で捉えている。そしてこの見取図は今日にいたっても大きく変わっておらず、あらためて著者の整理の射程の大きさに目が行く。さらに述べればスラヴォイ・ジジェクの遥か以前に、リベラリズム批判も著者は行っている。

 さて日本における唯物論は著者がその基を築いたとも言えるが、その唯物論はしかし、イデオロギーというより方法論というべきであるように思える。ついでに述べれば、思想史的にはヘーゲルの精神史を転倒して(しかし三項性はそのままに)マルクス史的唯物論が成立したとすると、たとえば橘孝三郎の日本農本主義を批判するにあたって、ドイツ系社会学ゲゼルシャフト/ゲマインシャフトというお馴染みの図式を橘に従って追いつつ、しかし最終的には精神主義として批判するあたりは、これで完全な批判になるのかという気もしなくもない。また地域主義と、ローカルな思想やローカル思想家というのも、同じにはできないではあろう。しかしながらつまり、

 

「どういう精神主義の体系が出来ようと、どういう農本主義が組織化されようと、それは、ファッショ政治団体の殆ど無意味なヴァラエティーと同じく、吾々にとっては大局から見てどうでもいいことである。ただ一切の本当の思想や文化は、最も広範な意味に於いて世界的に翻訳され得るものでなくてはならぬ。というのは、どこの国のどこの民族とも、範疇の上での移行の可能性を有っている思想や文化でなければ、本物ではない。丁度本物の文学が「世界文学」でなければならぬと同じに、或る民族や或る国民にしか理解できないようにできている哲学や理論は、例外なくニセ物である」(153頁)

 

なのである。これはその通りであろう。

 

 またはじめの方で日本語では「文献学」とされているphilologyを追いつつ、いわばプロテスタント的な文献学とカトリック的な現象学を結び付けたハイデッガーの「解釈学的現象学」という超技も部分的に批判的に瞥見される。

 

「表面化するいうことが現象するということに他ならない。そうだとすれば、例えば事物の背後や内奥に生活の表現を探り、事物の裏からの事物の匿された意味を取り出すといったような解釈学や文献学は、現象なるものに対して初めからソリの合わない方法だと云わざるを得ない。表面というものの厚さを量ることはできない相談だからである。

 にもかかわらずハイデッガーは解釈学的な現象学を企てようとする」「文献学乃至は解釈学は歴史的には使えないから何か現象的にでも之を使う他はない。ドイツ・イデアリズムの世界観としての(人々はそれを好意的に形而上学と呼んだ)歴史的行き詰まりを打開するには、こうした非歴史的な哲学体系が何より時宜に適したものであったに違いない。ナチスの綱領がドイツの小市民を魅了したと同様に、ドイツの所謂教養ある(?)インテリゲンチャを魅了したのがこの哲学「体系」であった」「今やハイデッガーに於いては、文献学乃至解釈学は、そのプロパーな言語学的又歴史的桎梏から脱して、正に哲学そのものの方法に羽化登仙するのである。文献学にとってこれ以上の名誉は又とあるまい。と同時に、これ程文献学にとって迷惑な事もないのである」「例えばハイデッガーによれば、距離(Entfernung)とは遠く離れてある(fern)処へ、手を伸ばすなり足を運ぶなりして、その遠さを取り除く(Ent)事によって、成り立つというのだ。こうした説明は一応甚だ尤ものように見えて案外他愛のないものであり、殆ど一切の言葉が同じ仕方で説明できない限り、語源学的な意義さえそこにはないのであって、之は何等言語学的な説明でさえあり得ないのだ。言葉(ロゴス)が現象への通路だというが、こういう調子では、この通路もただ割合に工夫を凝らした思いつきの示唆に過ぎない」(48頁)。

 

 さて日本主義に関連して和辻哲郎も批判的に検討される。

 

「一体和辻氏の哲学上の方法は、一見極めて天才的に警抜に見えるが、他方また甚だ思いつきが多くてご都合主義に充ちたものであることを容易に気づくだろう。だから氏独自の哲学的分析法と見えるものも、多分に雑多な夾雑物から醸造されているので、それは必ずしもまだ本当に独自なユニックな純粋性を持っていない。現にその倫理学も、多分に西田哲学の援用と利用とがあり、而もそれが必ずしも西田哲学そのものの本質を深め又は具体化する底(ママ、引用者)には見えないので、西田哲学からの便宜的な借りものをしか人々はここに見ないだろう」「氏は明らかにハイデッガーの解釈学的現象学に負う処が最も多いことを告げている」(164-165頁)。

 

このうえで

 

「だが和辻氏の解釈学が、果たして解釈学的現象学に比べて、どこかに根本的な優越性があるだろうか」(168頁)

 

と疑問を呈し、さらに

 

「和辻倫理学がこうした倫理至上主義を取るのは、決して問題が倫理であるからではない。寧ろ、歴史的社会の現実的物質的機構の分析から出発することを意識的に避けようとする解釈学の唯一の必然的な結果なのであって、そういうものが「人間の学」の、即ち広義に於て今日の日本の自由主義者や転向理論家が愛用する「人間学」の、根本特色なのだ」「つまり和辻式倫理学は、自由主義哲学が如何にして必然的に日本主義哲学になるかということの証明の努力に他ならぬ」(170-171頁)」

 

と述べる。

 また自由主義について見ていくなかでは、西田哲学のいわば「存在と無」のなかにロマンティークの残滓を嗅ぎ取っている。

 

 

Ozanfant, Foundations of Modern Art, Dover Publications, inc. New York, 1931(English edition), 1952

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メモ

「絵画」の章より

「いつの日か将来、こう認識されるであろう。1914年後のあらゆる芸術活動は二つの集団活動に分類されると。ダダイズムピュリスムがその二つである。この二つの運動は明らかに相互に対照的であったものの、芸術の腐敗した生産品によって等しく病み、そしてそれを健全化しようとしていた点では同じであった。ただし前者は時代遅れの公式で嘲ることで、後者はディシプリンの必要性を強調することで」(116頁)。

「それから1918年に、健全な芸術を再興する私の作戦にシャルル・エドゥアール・ジャンヌレを誘い、この協働は1925年まで続いた」「ピュリスムの礎を置き、それは芸術的混乱に秩序をもたらし、多く誤解されていた新しい時代の精神を芸術家たちに植え付けたのである」(117頁)。

「『キュビスム以降』のアイデアを進めるために、総合文芸誌『レスプリ・ヌーヴォー』が1920年に創刊され、「オザンファンとジャンヌレ」の編集で1925年まで続いた。われわれの書『近代絵画』は『レスプリ・ヌーヴォー』キャンペーンのレジュメでもある」(120頁)。

「機械は健康的であり、われわれにとって抗いがたい何かがある。カノン砲、爆弾、いろいろな武器といった近代戦争の恐ろしいメカニズムと精密さにフェルナン・レジエは感動した。幾千という歯車が一斉に動く厳密さに彼は気づいたのである」(120頁)。

 

「建築」の章より

「二流芸術家よりは一流の技師の方がよい。技師はつまるところ重要な人物である。エットーレ・ブガッティは、時代遅れの彫刻家でその弟であるレンブラント・ブガッティより偉大である」(137頁)。

Le Corbusier, Toward An Architecture, Introduction by Jean-Louis Cohen, Translation by John Goodman, The Getty Research Institute, 2007

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 20世紀の最重要建築書と言えば、やはり本書であろう。英語版新版である。

これまで英語版はフレデリック・エチェルス訳版があったが、同書においては書名が「新しい建築へ」ともうそこから意訳されているうえに、訳者によれば、文体も仏語原文の生き生きしたものがなくなり、ブックデザインも印象異なるものとなっているという。たとえばル・コルビュジエステファヌ・マラルメに傾倒しており、原文はマラルメ散文詩のように書かれているのであるという。さらに英語版ではmassと訳されたvolumeも元のvolumeに戻されている。

 またギーディオンの『空間・時間・建築』のブックデザインをハーバート・バイヤーが担当してクオリティを高めたように、本書においても、ブックデザインと文体と文の内容は不可分であるように思われ、新版ではそのニュアンスがよく伝わるものとなっている。

 解説者のジャン=ルイ・コーエンによれば、本書で用いられているような対立的イメージを並置的に用いる手法はフランツ・マルクやワシーリイ・カンディンスキーがミュンヘンで発行していた『青騎士』で用いており、これは他にもドイツ語圏の雑誌でよく用いられていたもので、ル・コルビュジエは間違いなくその影響を受けているのだとする。こうしたヴィジュアル・アプローチは『レスプリ・ヌーヴォー』にも影響しており、同誌の初期の記事にはロシア・アヴァンギャルドに関するものが多かったともいわれる。

 さて冒頭の「三つの覚書」である。「ヴォリューム」で使用されているイメージは米国の穀物サイロであり、「表面」で使用されているのは反例としてのキャス・ギルバートのオフィスビルを除けばすべて工場建築であり、そのうち1枚はグロピウスのファグスヴェルケ、他は全てアルバート・カーンのフォード・ハイランド工場のイメージである。ファグスヴェルケがドイツにおけるいわばアメリカニズムの表象(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/rayner-banham-a.html)だとすると、この部分も実質アメリカの建物のイメージで占められていることになろう。

 「工業的アメリカへの彼の関心はこの世代では普通にあったもので、その知識が二次情報に限られていたとしてもそうである。ジャンヌレのアメリカへの欲望は強いものであった。ペレ兄弟に宛てた1910年の書簡で「オーギュスト氏が眼を開けかせてくれたシカゴ滞在への見解」をまだ失っていないと述べている」(8頁)。

 最後の「プラン」についての考えはボザールのジュリアン・ガデから来ているという(10頁)。

 さてアメリカの工業的イメージがここで使用されているとして、「ヴォリューム」では穀物サイロ、「表面」では工場建築という使い分けがなされているのは、意識してのことなのだろう。このイメージで見ると、英語圏でこれまで「マス」と訳されてきたのも分からなくはない。しかしながらル・コルビュジエのヴォリューム概念(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/2001-f4af.html)は、形態も質料も持たない量概念のことなのであるという。裏を返して述べれば、ヴォリュームの大小は資本の大小にほぼ比例している。覚書のそれぞれの冒頭で「建築は様式とは関係ない」を繰り返しているにもかかわらず「国際様式」という言葉を用いたのはなぜか。

 この二つの異同から始めてもいいのかもしれない。

 

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メモ

https://www.sophia.org/tutorials/elements-of-art-volume-mass-and-three-dimensionali

Henry-Russel Hitchcock Jr., Modern Architecture Romanticism and Reintegration, Da Capo Press, New York, 1993(1929)

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      こちら(http://madhut.hatenablog.com/entry/2016/11/22/002833)で言われている書は、こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/norman-shaw-and.html)のペリカン本ではなく、本書である。

 フィリップ・ジョンソンが熱狂し、コーリン・ロウが高く評価した「近代建築史・外典」である。

 マンフレッド・タフーリが効力的批評(operative criticism)として批判する歴史書に本書が登場しないということは、タフーリはこれを読んでいなかった可能性がある。また「効力的批評」という視点で述べるなら、本書記述中にその名も「未来の建築」という章を持った『ゴシック建築論』がG.G.スコットによって1857年に出版されたといい、この書が「効力的・・」の最初期の書と言えるだろうか。同書は英国におけるジョン・ラスキンの中世キリスト教社会主義の理念やそれに続くウィリアム・モリスのアーツアンドクラフツ運動、さらにアールヌーヴォー(本書の記述では「新・伝統」)という文脈にも位置付けられ得、またペリカン本でもそうだが、このあたりの英国の中世主義からクイーン・アン様式へ、さらにはフリークラシックへ、またバーナード・ショーやネスフィールド、ウェッブ、ヴォイジーといった建築家の記述は他ではあまり見られないものではなかろうか。

 他方では、ハーヴァードでの講義を基に1941年に出版された『空間・時間・建築』の執筆および講義準備において、ギーディオンは本書を読んでいた可能性がある。ギーディオンはバロックの空間性から話を始めていたような記憶があるが、本書もまた後期バロックから始まる。

 またロマン主義についてはニコラウス・ペヴスナーの1943年の書(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/nikolaus-pevsne.html)での考えともある程度重複する。それは本書では過去への視線、考古学的態度におけるものであり、18世紀半ば、1760年のヴィンケルマンによる『古代・芸術史』の出版あたりから話が始まる。

 あえて大雑把に全体のストーリーを述べるなら、ヴィンケルマン以降の考古学的知見から古典主義をはじめとした過去の建物のリヴァイヴァルが始まったが、これはペヴスナーが述べるものと同じ考古学的・学術的厳密性に基づいた19世紀歴史主義の始まりでもあり、異なる時代の諸リヴァイヴァルが再現されていくにつれ、これらを折衷しようとする動きも現れるが、この動きは諸リヴァイヴァルの「趣味」の折衷主義となり、とりわけ18世紀末から19世紀初頭の趣味概念である「崇高」や「ピクチャレスク」を始めとしたものとなっていくこととなる。新・伝統ではこの折衷が「様式」の折衷主義へと再度変化していき、そして新しい時代を準備していった、と言えるだろうか。この過程が「ロマン主義と再統合」と言われる所以であろう。「第8章、新・伝統の本質」から。

「建築の新・伝統は趣味の折衷主義から、合理的・統合的方法を意図して様式の折衷主義へ向かうや、現れた」(90頁)。

ルネサンスバロックの関心はただ古典古代のみであったが、ロマン主義の時代に変化が現れた。次から次へとそして一度にいくつもの異なる時代の過去のリヴァイヴァルがあったが、しかし理論一般においてはまだロマン主義者はある時代のみのリヴァイヴァルについてそれぞれ信じており、あるいは少なくともそうした異なる時代は趣味においてのみ緊密に関連していた。それゆえ二つの主要な陣営のあいだで先鋭な闘争があった。古典主義者と中世主義者の二つの陣営である。象徴的機能的線に沿ってその違いを解消することは、趣味の折衷主義の理論においてなされたのである。ロマン主義の古典主義リヴァイヴァリストと中世主義リヴァイヴァリストの建築が少なくとも1850年まで持っていた様式の感覚をそれはまったく破壊してしまった」「ロマン主義の結論として19世紀は、過去への関係を規則化したのであり、建築に関してそうすることで多かれ少なかれ現在から完全にそれ自身を隔離したのである」(91頁)。

「建築に関しては、新・伝統は趣味の折衷主義を様式の折衷主義に置き換えた。90年代以降、これは重要な建物においてますます明らかとなった。ひとたび過去がそれぞれにおいて閉鎖的で相互に対立的なものの一揃いから全体的なものへと見做され得るや、たとえば極端な例を示すならロマネスクからはマスの効果を、そしてそれを支持するディテールはバロックからと、それぞれ模倣することが可能となった」「当初からしかしながら、各国の新・伝統の創始者達は、その借物を微妙にかつ刮目すべく統合し、また最良の職人術とある程度は同時代の技術とを統合し、それゆえ見た目は過去の残滓はないのだと説得されるほどであった。この事実から「モダニスト」の名が、新・伝統の建築家にしばしば与えられるのである」(92頁)。

 言い換えるなら、ロマン主義とともに始まった諸様式の考古学的リヴァイヴァルがやがて諸様式間の折衷を生み出し、これが最終的に過去の残滓を見えないようにまで効果的に用いられ、そこからやがて過去とは袂を分かった「現在主義者(モダニスト)」の登場を用意した、ということになる。何とも見事な説明である。

 本書はMoMAの「近代建築展」の底本になったものであるが、そこでいわれているもののほとんどは本書において既に述べられていると言っても過言ではない。まず、マス、ヴォリューム、関係、という諸概念が初めて述べられるのは18世紀建築についてである。

「18世紀後半の建築に支配的となる直接的なヴィジョンはたとえ絵画的規範であるにせよ、マス、ヴォリューム、それに関係性という説明をとる」(97頁)。

ヒッチコックはここで既に、マス、ヴォリューム、関係性(ル・コルビュジエの指標線)の規範を導入している。おそらくマンフォードの戦後の論考はヒッチコックのこの概念装置を踏襲しているのであろう。続ける。

「折衷的な線に沿ってマスとプロポーションのスタディへの増していく関心は同時に、幸運にも、ロマン主義に内在していた抽象的絵画的および心理的視点を支持する傾向があった」(99頁)。

「その一般原理を変えることなくそれゆえ最後の時代において新・伝統はどんどん装飾を捨てていった。それ自身のための単純化され還元された折衷的なマスの効果を探求し、それにくり型によることのない表面の肌理のバランスという二次的なものも与えた」(100頁)

 米国においてはリチャードソンがまずこの建築家の筆頭に挙げられる。リチャードソン、サリヴァン、ライトという線はここでも踏襲されている。

 ところでそのライトの線に関し、まずニューヨークのスカイスクレーパーの建築家達が批判され(104頁)、シカゴの建築家達が高く評価される。

「アメリカの創造的新・伝統への現在のスカイスクレーパーの関係は、ライトのシカゴの先行者に最良のものを見ることができる」(104頁)。

「20世紀アメリカの新・伝統の歴史はライトの仕事において顕著である。だがライトは意識的であれ無意識的であれ、彼が多くを負っている建築家の線の末尾にいるのである。彼の師・サリヴァンだけでなく、まずリチャードソンがその道を準備した。これはヨーロッパにおいてまだ新・伝統がなかった時代のことである」(104頁)。

 ちなみにジェニーは「大佐」になっている(この程度の認識であったか)。

「リチャードソンの死の前年、ジェニー大佐はHIBにおいて初めて金属のスケルトン構造を導入したが、これがスカイスクレーパーを可能にした」(108頁)。

これに続いてホラバード+ローシェのタコマビルが言及されている。

 余談ながらライトに関し日本建築の影響はまったく言及されず、「極東」のライトへの「影響」は本書では否定されている。東部の美術史家の当時の認識はそんなものだったのか、とも思わせる(117頁)。

 さてこの新・伝統に続いて「新パイオニア」が登場する。この部分はMoMAの展覧会のまさに底本となった部分であり、主要な主張は既にここに現れている。

「だがこの新しい手法は新・伝統のこのヴァージョンとは根本的に袂を分かっており、というのも、新・伝統は過去の芸術遺産にそのデザイン原理を置いていたからである。マスの三次元コンポジションにおいての代わりに新パイオニアはヴォリュームにおいて構成し、面白みの手段として複雑さを用いる代わりに、彼らはぎりぎりの統一性を探求し、表面の肌理の豊饒さや多様性の代わりに、彼らは単調さや貧しさをさえ希求する。ヴォリューム境界の幾何学としての表面という考えは、そうすることで最も明確に強調されるからである。装飾の排除はただ単に、今日では機械複製によってそれが無価値になっているということのみだけではなく、ヴォリュームと平面の探求が実行されるなら、過去においてそれを美しく装飾していたものは今日ではそれを破壊してしまうゆえ、完全な統一が実現されないからでもである」(160頁)。

これに続いて次頁では「技師の美学」が言及されている。

 MoMAの展覧会の基本骨子は既にここにおいて現れている。とともにル・コルビュジエの諸概念を精密化し、米国建築史ともある程度連結させているとも言える。検証点の一つであるかもしれない。

 ”space, time(time-space)”という概念はギーディオンの前にクヌッド・ロンバーグホルムが既に用いている(162頁)。

 

メモ

www.ubugallery.com

First Look: Knud Lonberg-Holm, Modernism's Long-Lost Architect

上田閑照編『西田幾多郎哲学論集I』「場所」、『西田幾多郎哲学論集III』「絶対矛盾的自己同一」、「歴史的形成作用としての芸術的創作」、岩波書店、1987、1989

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寄道する。

 西田の「場所」概念はあらためてカントの読替えとしてあると思われ、実際カントの名は参照点としてしばしば登場する。他方では同時代の現象学には批判的にも見え、これに対しライプニッツの「モナド」やベルグソンの「純粋持続」、そして近年のドゥルーズの「生成論」などに近いようにも、これはまた見える。「場所」のなかのカントについて論じたところでは 

「カントの意識一般もすべての認識の構成的主観としては、真の無の場所でなければならぬ」「この場所においては、すべて存在的有は変じて繋事的有とならねばならぬ。しかし意識一般もなお真の無の立場ではない。対立的無の立場から絶対的無の立場への入口に過ぎない。更にこの立場を越えて叡智的世界がある。理相即実在の世界がある。これ故にカントの批評哲学を越えてなお形而上学が成立するのである。有るものは何かに於いてなければならぬ、論理的には一般的なるものが、その場所となる。カントが感覚によって知識の内容を受取ると考えた意識は、対立的無の場所でなければなぬ、単に映す鏡でなければならぬ、かかる場所に於て感覚の世界があるのである」(I、90-91頁)。

  カントの「物自体」については

「映す鏡の底になお質料が残っている。無論それはいわゆる潜在、いわゆる質料ではないとしても、カントの物自体、現今のカント学派の体験の如く、除去することのできない質料である」(I、99頁) 

とも言われる。またこのあとの方で、

「知覚、思惟、意志、直観という如きものは、厳密に区別すべきものたるとともに、相互に関係を有し、その根底にこれらを統一する何物かがなければならぬ」(I、133頁)

とも述べられるが、これらはカントの諸主題でもあるだろう。この一文は、

「記憶、想像、感情など多く論ずべきものがあるであろうが」(I、134頁) 

と続けられるが、これはまたベルグソンの諸主題でもあるだろう。

 他方では現象学に対し批判的な言説が登場する。

現象学者は知覚の上に基礎付けられたる作用の底にも直覚があり、知識はこれに向かって充実せられて行くというが、知識の基礎となる直覚とはなお意識せられた意識であって、意識する意識ではない。真に意識する意識、即ち真の直覚は作用を基礎付け行くことによって変じ行くのではなく、かえって作用はこれにおいて基礎付けられねばならぬ」(I、109頁)、

現象学派においては作用の上に作用を基礎附けるというが、作用と作用とを結合するものはいわゆる基礎附ける作用ではなくして、私のいわゆる「作用の作用」という如きものでなかればならない。この場所においては作用は既に意志の性質を含んでいるのである。作用と作用との結合は裏面においては意志であるといってよい。しかし意志が直に作用と作用とを結合するのではない、意志もこの場所に於いて見られたものである、この場所に映されたる影像に過ぎない」(I、119頁)。

「前にいった如く、フッサールの知覚的直覚というのは一般概念によって限定せられた場所に過ぎない。真の直覚はベルグソンの純粋持続の如く生命に充ちたものでなければならぬ。私はかかる直覚を真の無の場所に於いてあると考えるのである」(I、127頁)。

などである。

 西田の述べる「場所」は意識の「野」のようなものとしてまず考えられている。 

「我々が物事を考える時、これを映す如き場所という如きものがなければならぬ。先ず意識の野というものをそれと考えることができる。何物かを意識するには、意識の野に映さねばならぬ。而して映された意識現象と映す意識の野とは区別されねばならぬ」「しかし時々刻々に移り行く意識現象に対して、移らざる意識の野というものがなければならぬ。これによって意識現象が互いに相関係し相連結するのである」(I、69頁)。 

さらに 

「しかし意識と対象と関係するには、両者を内に包むものがなければならぬ。両者の関係する場所という如きものがなければならぬ、両者を関係せしめるものは何であろうか。対象は意識作用を超越するというも、対象が全然意識の外にあるものならば、意識の内にある我々よりして、我々の意識内容が対象を指示するという如きことを考える」(I、70頁)、 

と述べ、この「場所」が襞構造をもっていることが示唆される。

そしてさらに

「直接には一般と特殊とは無限に重なり合っている、斯く重なり合う場所が意識である。右の如く考えるならば、判断において真に主語となるものではなく、かえって一般的なるものである」(I、135頁)

と述べ、

「我々は無限に特殊の下に特殊を考え、一般の上に一般を考えることができる。かかる関係において、一般と特殊との間に間隙のある間は、かかる一般によって包含せられたる特殊は互に相異なれるものたるに過ぎない。しかし一般の面と特殊の面とが合一する時、即ち一般と特殊の間隙がなくなる時、特殊は互に矛盾的対立に立つ、即ち矛盾的統一が成立する。是において一般は単に特殊を包み込むのみならず、構成的意義を有ってくる。一般が自己自身に同一なるものとなる。一般と特殊とが合一し自己同一となるということは、単に両者が一となるのではない。両面は何処までも相異なったものであって、唯無限に相接近していくのである。斯くしてその極限に達するのである。是において包摂的関係はいわゆる純粋作用の形を取る。かかる場合、述語面が主語面を離れて見られないから、私はこれを無の場所というのである。主客合一の直観というのは、かくの如きものであなければならぬ」(I、136-137頁)。

 と述べ、いわば生成論的な「絶対矛盾的自己同一」を、ここにおいて示唆している。

 さて、まさに「絶対矛盾的自己同一」と題された論考がある。この論考の冒頭は何とも結構的な記述から始まるが、まずはそのまま引用する。 

「現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによってできた結果であると考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物が相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くといういうことは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなるということであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない。個物と個物の相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである」(III、7-8頁)。

そしてこの絶対矛盾的自己同一の「時間」は先述したように襞構造をなしており、ベルグソン/ドゥルーズ的時間ともたいへん近いようにも思われる。たとえば、

「時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でばければならない」(III、9頁)、 

であり、 

「しかも現在は多即一一即多の矛盾的自己同一として、時間的空間として、そこに一つの形が決定せられ、時が止揚せられると考えられねばならない。そこに時の現在が永遠の今の自己限定として、我々は時を越えた永遠なるものに触れると考える。しかしそれは矛盾的自己同一として否定せられるべく決定せられたものである。時は現在から現在へと動き行くのである」(III、10頁)。

といった具合である。

 この絶対矛盾的自己同一の時間や世界はそれだけであれば動物も人間も同じではあるのだが、続く「歴史的形成作用としての芸術創作」への伏線にもなることだが、しかしながら歴史的主体としてあり得るのは人間だけであり、そしてそうなり得るのは人間が制作し得るからである、と述べられる。このあたりはラカンのRSI図式を彷彿させなくもない。

「絶対矛盾的自己同一の世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界は一つの現在として自己自身を形成し行く、作られたものより作るものへとして無限に生産的であり、創造的である。かかる世界は、先ず作られたものから作るものへとして、過去から未来へとして生物的に生産的である」「しかし生物的生命においては、なお真に作られたものが作るものに対立せない、作られたものが作るものから独立せない、従って作られたものが作るものを作るということはない。そこではなお世界が真に一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するとはいわれない。現在がなお形を有たない、世界が真に形成的でない、生物的生命は創造的ではない。個物はなお表現作用的ではない、即ち自由ではない。歴史的世界においては主体が環境を、環境が主体を形成するといったが、生物的生命においてはそれはなお環境的である。歴史的主体ではない。なお真に作られたものから作るものではなくて、作られたものから作られたものへである」(III、37-8頁)。 

「行為的直観」という言葉が登場するのもこの文脈においてである。

「物を創造するというのは、自己が物に奪われることではない。自己が物となること、自己がなくなることではない。さらばといって、単に自己が意識的に作用することでもない。作ることによって、真に能動的に、物の真実が把握せられることでなければならない。行為的直観ということが単に自己が物に奪われるということなら、論理を否定すると考えられるでもあろう。しかしそこには自己が何処までも能動的となることである。物をそのままに受取ることはできない。物を能動的に把握することである。我々は矛盾的自己同一的世界の形成要素として、そこに何処までも論理的でなければならない。論理を否定することは、自己を暗ますことである。行為的直観的に、ポイエシス的に、我々の自己は益々明となるのである。芸術は非論理的と考えられる。芸術的直観とは、行為の直観において、物が自己を奪うという方向において成立するものなるを以て、非論理的とも考えられるが、具体的論理の立場からは、芸術的直観もその一方向として含まなければならない(芸術も理性的でなければならない)」(III、65-66頁)。

 「歴史的形成作用としての芸術的創作」ではドイツ系美学・美術史にも一瞥が与えられているが、ウィーン学派への評価は高い。ゴットフリート・ゼンパーは「ゼンペル」という表記になっている。

 

 

コーリン・ロウ『コーリン・ロウは語る、回顧録と著作選』、「第一部テキサス、テキサス以前、ケンブリッジ」「ヘンリー=ラッセル・ヒッチコック」松永安光+大西伸一郎+漆原弘訳。鹿島出版会、2001

 

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  ヒッチコックの『近代建築』とギーディオンの『空間・時間・建築』についてコーリン・ロウが語っていた部分をメモ。

 「しかし、時のハーヴァード学長のジェイムズ・ブライアント・コナントがレストランを出て左に曲がり、次にチャーチ・ストリートの方へ右折して、右側の二軒目の現代的な家、グロピウス・アンド・フライ事務所、に、ハーヴァードからの知らせをもって入っていく姿は手に取るように見えるのだが、このことの意味をどう解釈してよいかまだ分からないのである。無論、限られた人々の間で密かに議論が交わされていたであろうが、ヒッチコックはこのメンバーに入っていなかったにせよ、この話題についてよく知っていたことは確実である。だがこの政治学の意味するものは何だったのだろう。私はこのことに関して何も知らないと言わねばならないのだが、それでもヒッチコックは瞬時にして自分がグロピウスを推薦したことを後悔することになったことはよく知っている。グロピウスがハーヴァードにやってきて、彼が一種のスポンサーということになれば、誰でも、彼の望みを想像するだろうが、私が想像する彼の希望の地位はジークフリート・ギーディオンに取られることになったのだ。

悲しい皮肉というか、おかしい皮肉というべきか。

 ともかく、その結果ギーディオンは一九三八年から三九年にかけて行われたチャールズ・エリオット・ノートン記念講演を増補して『空間・時間・建築』を出版することになり、これは一二年前のヒッチコックの『近代建築:ロマン主義と再統合』と匹敵するものとなった。

 両書とも同じ建築的土壌、一八世紀以降、を扱っているが、『空間・時間・建築』のギーディオン は、多分より先駆者といえるヒッチコックが手にできなかった一般的な成功を収めたので、これが建築の聖書になったとすると、一方は総じて外典の地位に留まることになった。その理由は、一つには時代が味方した、英語圏でもついに近代建築への興味が高まった、ということと、もう一つにはギーディオンが話題をより広範にわたり知的に見える土俵、究極的にはヘーゲル流の世界観をごく圧縮したもの、の中に位置づけたことである。そして多分、最も重要なことは、タイポグラフィーとレイアウトを見るとハーバート・バイヤー、彼自身バウハウスの出身であった、の仕事が好感を持って受け入れられたことである。そして多分、このタイポグラフィーとレイアウトを見るとハーバート・バイヤーの天分を認めざるを得ない。というのも、この二冊の本の見かけほどかけ離れたものはないからだ。一九二九年にヒッチコックの出版社は本文を前に置き、図版を後においたが、それもずっと後の方、つまり注釈や索引よりも後に持っていった。一方、一九四一年の時点でのハーバート・バイヤーは本文と図版ができるだけ近くに来るようにしたのだ。図版は本文の中に交じり合い、そのキャプションが本文の字面に変化を与える域にまで達しているのである。大変な偉業だ!流麗なプレゼンテーションで、これに比較されると一九二九年のヒッチコックの出来栄えはいささか生気のないものと感じられることになる。にもかかわらず、昔も今も私はヒッチコックの方が優れた判断を示していると感じている。だからこそ、私はイェールへ行き、決まり文句で言えば彼の門下生となったのである」「当然ながら、イェールでのヒッチコックの講義の多くは抜群であった(彼の話はニューヨークからいとも軽々とパリ/ロンドンに飛び、シカゴからブラッセル/グラスゴー/アムステルダムへ飛び、クライアントの生涯については微に入り細に入った説明があった)。しかし、これらの講義が誰を対象としたものであるかは私にはよく分からなかった。それと同様、彼がフランク・ロイド・ライトに熱狂していたにもかかわらず、私は彼がなぜ、そう興奮するのか全く理解できなかった。そして、その代わり、私は彼が一九二九年にライトについて書いたコメントを今に至るまで支持し続けている」(42-43頁)。