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David van Zanten, Photographs by Cervin Robinson, Sullivan`s City, The Meaning of Ornament For Louis Sullivan, W.W.Norton and Company, New York and London, 2000

 

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 デイヴィッド・ヴァンザンテンのルイス・ヘンリー・サリヴァン論にも目を通しておく。謝辞の冒頭にはジョルジュ・ディディ=ユベルマンの名前が見える。

 大雑把に述べて全体の構成はサリヴァンが活動した時代のシカゴを三つの時代に分け、それぞれにおけるサリヴァンの建築でのマス、技術、建築的構成、プラン、そして装飾の関係の変化を見ていくものと述べ得る。

 サリヴァンの建築で刮目すべきものの一つは装飾であり、そしてサリヴァンの装飾とヴィクトール=マリー=シャルル・ルプリチ­=ロベールが『花装飾』において示す装飾の親近性は、一瞥してうすうす感ぜられるものではあろう。本書冒頭ではサリヴァンのパリ留学時代の下宿がルプリチ=ロベールが授業を行っていた校舎と同じ通りにあったことが述べられているが、サリヴァンがルプリチ=ロベールの授業を聴講した可能性が実際にあったかどうかはともかく、おそらくルプリチ=ロベールの装飾論については認識していた可能性は高いのであろう。冒頭ではまたマッキム・ミード・アンド・ホワイトの装飾とサリヴァンの装飾の相違について述べられ、本書後ろの方では今度は、サリヴァンアラベスク状装飾とオーウェンジョーンズが『装飾の文法』において示す装飾との相違が述べられているが、これらは明快であるとともに実は込み入っているようにも見える。

 マッキム・・の装飾は歴史実証主義的あるいはエクレクティシズムの装飾であるのに対し、サリヴァンの装飾は芸術家としてのvirtueを表現するものであるという整理。面白いのはマッキムもサリヴァンもボザール留学組であることであり、前者は単純に歴史主義あるいはエクレクティシズムであるのに対し、後者はこれとはまた異なるものとしてあるということである。ルプリチ=ロベールもそうだが、彼の師であったヴィオレ=ル=デュクも一時期ボザールで講義しており、19世紀建築史における相違は単純にポリテクニークとボザールあったというだけでなく、ボザール内部にもあったと言うべきであろうか。面白いのはジェニーもヴィオレ・・に言及しており、米語版のヴィオレの翻訳者はヘーゲルの米語版翻訳者に近かったということである。さらにサリヴァン1893年博の交通館の設計に際して述べたこと、つまり「サリヴァン1893年11月11日のダニエル・バーナムへの書簡で彼の意図を直接的に自身で表明している。「交通館でわれわれが表現したい考えはこうである。「建築的展示」」。これに続いて十の純粋に形態上の特質を述べていく。1、歴史的ではなく、ナチュラルな展示であること。2、精妙な装飾を持った基本的なマスによって表現されること。3、全ての建築的マスとそれに従属するマスは、直線または半円によって、あるいはこの両者の結合体によって連携されること。これは効果的に装飾されたとき、きわめてシンプルな要素としての可能性を描き出す。。。」(54頁)、はいろいろと示唆的である。

 まず歴史主義を否定するにあたって「ナチュラル」に(建築を)展示すること、という考え。サリヴァンが「ナチュラル」とか「オーガニック」という言葉を用いるとき、これはハーバート・スペンサーから来ている可能性が高い、とこれはソールベリーが示唆したことである。19世紀プロト・モダニズムの成立において、ヘーゲルやスペンサーが思想的契機として機能したと言えるかもしれなかろう。岡倉覚三は、フェノロサヘーゲル主義者でスペンサー主義者であったと述べていたが、当時の米国の知識層ではこれは一般的であったのかもしれない。

 2と3は、実はボザールの手法でもある。「建物を特徴的なヴォリュームの列として表現する方法を、彼はまずMITでそして次にエコール・デ・ボザールのヴォードレメールのアトリエで習得したのかもしれない」(97頁)であり、「アーネスト・フラッグが1892年のニューヨーク・タイルデン図書館計画において最も印象的に示したラディカル・ボザールの「構成主義(compositionism)」に、ドラムンドのデザインは比肩できるかもしれない」(85頁)といった記述で述べられるマスの配列法、これは同じくボザール留学組であったリチャードソンの建築の重要な特質であること、などである。そもそもマッキムらはリチャードソン事務所出身でもあった。著者はここでこの手法を「ラディカル・ボザール」と呼んでいるのである(あるいはこれは一般的な語用なのか)。

 晩年のサリヴァンの装飾とプランの関係についての記述。「プランと装飾のこの並行関係を理解するにあたって重要なことは、サリヴァンのものはたとえばオーウェンジョーンズが1856年の『装飾の文法』(1910年まで版を重ねた)で述べるような通常の装飾の考えではないということである。ジョーンズにとって装飾は本質的に連続的パターンであり、そのモティーフは目が建築の表面を滑っていくためのものである」「サリヴァンの装飾はこのモデルに従わず、むしろアラベスクのもの、動き、捻じれる線であり、これは変容し、闘争し、それが伸びていくにつれ渦巻くものであり、音楽理論家のエドワード・ハンスリックが音楽経験の本質的トポスとして選んだモデルのものと同じいうことである」(119頁)。

 サリヴァンにとっての大きな転機は、1894年のライトとの別離、続く95年のアドラーとの別離であったとも述べられる。「ライトとアドラーとの別離後、1890年代後半、二つのことがサリヴァンの作品には起こる。まず、ウェインライト=ギャランティ・モデルをより美しく装飾していくという反復であり、これはニューヨークのベイヤール・ビル、シカゴのゲージ・ビル、カーソンピリースコット百貨店に見られる。第二に、カーソンピリースコットを例外とすれば、これらの計画は空間と技術とそれに装飾の複合問題から徐々に遠ざかっていることである」「サリヴァンの装飾が美学的に固まっていくにつれ、広い意味での複合問題は、衰えていくのである」(67-68頁)。

 サリヴァンがライトと協働したのは1888-1893年の5年間、しかしこのあいだにはジ・オーディトリアムというシカゴ建築の金字塔の設計と竣工があろう。

 この問題はサリヴァン個人の問題だけでなく、サリヴァンがファーネスの事務所を追われた1873年恐慌と時代の大きな節目となった1893年恐慌のあいだの好景気、とりわけバブル景気、ちょうど100年後の東京が経験したような当時の世界で最も頂点を極めたであろう不動産バブル経済を、シカゴは経験していたのであろうということにも関連していると思われる。レーニンは「資本主義の再編」にあたって「恐慌」に着目したが、文化現象を見るには「バブル」に(も)着目すべきではないか。

 

 

Giorgio Ciucci, The City in Agrarian Ideology and Frank Lloyd Wright: Origins and Development of Broadacres, The American City, The MIT Press, 1973

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ジョルジュ・チウッチのフランク・ロイド・ライト論にも目を通しておく。こちら(

Giorgio Ciucci, Francesco Dal Co, Mario Manieri-Elia, Manfredo Tafuri, The American City, From the Civil War to the New Deal, The MIT Press, 1979, translated by Barbara Luigia La Penta: RCaO2)とこちら( http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/manfredo-tafuri.html )の続きでもある。

ライトのトリックスター的性格はアイン・ランドの小説『水源』やこの小説を基としたハリウッド映画『摩天楼』の主人公にもある程度は投影されているのかもしれないが、おそらく滑稽にさえ見えるのであろうこれら主人公のあり方はしかし、ライト本人の性格や思想というよりむしろアイン・ランドの思想(eg. http://toyokeizai.net/articles/-/94979,  http://courrier.jp/blog/13827/, http://nikkidoku.exblog.jp/18327733/, etc. )の投影の方が大きいのではないか、と思えることがある。本論ではランドの小説はまったく登場しないが、しかしながら後わり付近で引用されるマイヤ・シャピロの1938年の論考は、そもそもの始まりから「建築家フランク・ロイド・ライト」という存在が時代錯誤的だった、あるいはイタリア・ルネサンス以来のアルベルティ的建築家像とは捻じれていたのであり、あの特異なあり方はその結果なのではないか、とも思わせるものではある。つまり「シャピロが正しくも結論したようにしかし、「もっと多産的条件下であったとしてさえ、建築家の圧倒的多数はオリジナルな芸術的創造の機会を得ることはない。彼らは資本主義下のオフィスでサラリーを貰う労働者であり、自己発展の可能性を持つことはない」」(370頁)であり、さらに末尾でのチャールズ・ムーアによるディズニーランドの言説による反照も、そう考えさせなくもないからである。

論題にもあるようにこの論はフランク・ロイド・ライトと南部農本主義イデオロギーとの並行性/非並行性を主に見ていくものである。それは主として1920年代以降の話と言え、それまでのオークパーク時代やタリアセン時代について見ればある種の反・都市主義的傾向はあるものの、むしろ1894年にシカゴ大学に赴任してきたジョン・デューイや、さらには日本の西田幾多郎にも影響を与えたとされるウィリアム・ジェームズの弟子筋が同大学に集まって建築とはまた異なる「シカゴ派」を形成し、ライトがそこにも出入りしていたことなどが目を引く。さらに1900年にはパトリック・ゲデスがシカゴを訪れ、ライトはゲデスに会っている。ただしライトよりも所員であったウォルター・バーリー・グリフィンの方がこれには反応したという。オーストラリアの首都キャンベラのマスタープランはゲデスの思想を何がしか反映しているだろうか。また、グリフィンはライトの所員のなかでライトが唯一アドヴァイスを仰ぎ、批判を受け入れた人物であったという。

さて1920年代以降の南部農本主義思想その他の記述は、アメリカ思想史としても面白く、またこの時代に米国社会に地殻変動的な変化があったのではないかとも思わせるものであり、さらに述べれば同時代の日本とも何がしかの並行関係を見ることも、できるかもしれない。

1920年代の米国は第一次大戦の軍需特需後ということもあって好景気の時代であったと一般には言われる。しかしながらそこから取り残された部分もあった。南部の貧しい農村地帯がそれであり、KKK禁酒法はこれに徴候的であるという。

KKK南北戦争時の南軍退役軍人の交流会に出自したもので、その最盛期は1920年代であった。当時のKKKの「インペリアル・ウィザード」であったヒラム・ウェズリー・エヴァンズのスピーチ、「われわれは平凡な人間の運動である。文化的問題には大変弱いし、知識層の支持もなく、リーダーとしての訓練も受けていない。われわれが要求することは、日常的で、高度に文化的でもなく、過剰に知的でもなく、しかしまったく無垢でアメリカ的で、そして古株の平均的市民へと、権力を取り戻すことなのである」(340頁での引用)。

また禁酒法は都市部のカトリックの反・禁酒法主義者に対する、農村部のプロテスタント禁酒法主義者の闘争でもあったのであるという。

南部農本主義思想の拠点はテネシー州ナッシュビルのヴァンダービルト大学であり、南部農本主義の思想誌『アメリカン・レヴュー』の寄稿者としては、アレン・テート、ジョン・クロウ・ランソム、フランク・L.オウズリー、ドナルド・デイヴィッドソン、ヒラリー・ベロックらが挙げられる。

「アレン・テートにとってマルクス主義はじゅうぶんに革命的でなかった。なぜならそれは資本主義を左派の資本主義によって克服することであったからである。南部農本主義にとって資本主義はひとえに私有財産の分散によってのみ克服されるものであった。これはジェファーソンの伝統の教えであり、アメリカの基本中の基本なのである。アメリカ文明の危機の解決はアメリカ文化への回帰なのである」(342頁)。

この反都市主義=反資本主義という性格において、ほぼ同じ時代の日本の農本主義的右翼思想、たとえば血盟団や愛郷塾、それに陸軍皇道派青年将校達の思想との並行性を見ることはできないだろうか。

いずれにせよジェファーソンのモンティチェロ、エマーソンのコンコード、ヘンリー・デイヴィッド・ソローのウォルデン、それにウォルト・ホイットマンの「野生」などアメリカ思想の伝統に接続し得、また資本という点で見れば、資本の集中=都市に対する資本の分散、つまり反都市的な性質を持つ言説と言える。

さて1920年代に戻る。1893年のフロンティア消滅後、国内にはもはや「フロンティア」はない。1916年の国立公園法制定はいわば「国立公園」という新たな都市からのツーリズムの対象を形成することであったともいえ、T.J.クラークが『日常生活の描写』で述べた週末郊外への商品経済の浸透のような、都市の「余暇」が「自然」へと浸透し始めた現象の契機ともいえる。ヘンリー・フォードによるテネシー州マッスル・ショーズの開発などは示唆的であろう。いわばアグリツーリズムの先駆というべきか、言うまでもなく自動車はその生産組織と消費者だけでなく、それを受け入れる物理的空間、つまり「道路」を必要とするからである。さらに第一次大戦後の復員兵のための入植地を南部に求めたことなどを合わせると、第二次大戦後のレヴィットタウンとインターステイト・ハイウェイの原型がこの時代にできつつあったとも思えるものである。とともにさらにはルーズヴェルト時代ニューディールの象徴となるT.V.A.のプロトタイプもここにすでにあるとも見なせる。

南北戦争以来の北部共和党と南部民主党の関係が捻じれるのも、この時代である。ルーズヴェルト大連合の原型は1920年代、ニューヨーク州知事のルーズヴェルトの前任者アル・スミスの時代に形成されたという。この時代、共和党が都市部の掌握を失っていく一方、民主党労働組合等を通じて都市部をも掌握していく。考えようによっては労働組合とは都市内部における反都市的組織であるとも見做せるのかもしれない。本論冒頭にはウィリアム・ディーン・ハウェルの小説『アルトゥリア』(がライトのユーソニアンと類比的に)引用されているが、著者はそれについて「資本蓄積、搾取、伝統的な階級、独占、そしてその究極のものとして資本主義システムの触知的表現である都市への絶えざる微妙な非難なのである」(293頁)と述べているが、こうした認識はK.K.K.を含む南部農本主義者から都市部の労働組合にまで共通していたものであったかもしれない。一見すると野合のように見える「大連合」も「反・都市」という視点で見ると共通するものがあるようにも見えなくもないのである。また都市部においてはカトリック層がルーズヴェルト大連合の形成に与したとあり、ロバート・モーゼスが登場するのもアル・スミス時代のニューヨークにおいてである。ちなみに戸坂潤は『日本イデオロギー論』において「ルーズヴェルト体制」をファシズムの一形態と分析していた。

さて、ライトである。

著者はアリゾナへのライトの移動を大きな転機であったと見做している。それまでの日本建築やマヤ文明他への傾倒から、ここからライトはまた新たな展開を開始したと言え、「砂漠のサン・マルコス」ことオッティロ計画はその後のタリアセン・ウェストへと繋がっていくものであり、さらに北部工業地帯でも南部農村地帯でもなく、西部の乾いた砂漠へといわば逃避行することによるあたかも新大陸への一歩であったかのように、これは見えるかもしれない。1935年にロックフェラー・センターでその模型が展示されたブロードエーカーシティはそれまで親和力(elective affinity)によって個人の邸宅を主に設計してきたライトが社会的ヴィジョンと向き合った計画なのだと、著者は見做している。よく引用される4スクエアマイルズの正方形平面の模型の中心にはいわばコミュニティの中心のように学校が置かれ、その周囲にそれぞれ1エーカーの土地をあてがわれた住宅が配され、各住宅は寝室数ではなく所有自動車数によって分類される。住宅の外側に果樹園と葡萄園が配され、それに沿って動脈としての自動車道が全体を貫いている。この線形地上交通に対し、ライトはのちのヘリコプターやドローンの原型ともいうべき「エアローター」という乗り物による三次元非線形交通をさらに挿入する。

さらに周辺部には小さな工場やスモールビジネスが点在し、これは都市=資本集中に対する資本の分散という、農本主義とも共通する考えでもあるのであろう。この時代までのアメリカのユートピアの表現であるとともに、他方では戦後の郊外スプロールという現実を何がしか先取りしてしまっている、とも言える。

さらにここに置かれた個々の建物をよく見ていくと、かつてのプレーリーハウスからワンマイルスカイスクレーパー・プロジェクト、それにプライスタワーの原型となるセントマルクスタワーなどが並んでおり、このプロジェクトがライト個人の過去・現在・未来を投影するものであったことも、述べられる。

ユーソニアンハウスはその形態が部分的にプレーリーハウスと似たものがあるとしても、理念的にはまったくの別物である。

 

Alexander Eisenschmidt with Jonathan Mekinda eds., Chicagoisms, The City as Catalyst for Architectural Speculation, Park Books, Zurich, 2013

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 こちら(http://madhut.hatenablog.com/entry/2015/09/18/171408)で見たジョアナ・マーウッド=ソールズベリーの論考を含むアンソロジー。編者解説によれば19世紀から現代までのシカゴを一つのアイデアとして捉え、外部からこの都市を見た論考のあいだに内部からのコメンタリーを挟んでゆく構成にしてあるという。

 まず編者による序章からいくつかメモ。

アドルフ・ロースは世界コロンビア博を見るために1893年にシカゴを訪れている。それは二度と家には戻らないという条件で母親から貰ったお金での渡航であった。いっぽうフランク・ロイド・ライトはこの都市でのそれまでの生活と仕事を投げ打ち、1909年にヨーロッパに旅立った。二人ともアイデアの運び人として動いたのである。ロースはいわゆる「シカゴ派」の教訓を吸収しサリヴァンのアイデアをヨーロッパに持ち込んだのであり、他方、ライトのヴァスムート・ポートフォリオは国際的なモダニズムを永遠にアメリカ中西部に関連付けたのである。最終的にロースもライトもシカゴに戻ってくる」(12頁)。

「ハンス・ホラインはたとえば、1950年代末シカゴに住み、多くの時間をこの都市の高層ビルの有名な再構想に費やしている」「「未来のスカイスクレーパー」と名付けられたこのプロジェクト(→http://www.hollein.com/ger/Kunst/Wolkenkratzer)はそれまでの慣習的なタワーとは異なり、庭園や公共空間やその他のプログラムを収納したセグメントを空中に浮かせるものであった」「半世紀以上ののち、中国の深圳でこの案は復活する(→https://www.dezeen.com/2010/08/03/sbf-tower-by-hans-hollein/)」(13頁)。

 スタンリー・タイガーマンによる序文ののち、こちら(http://madhut.hatenablog.com/archive/2016/09/12)で見たホラバード+ローシュの評伝の著者ロバート・ブルーグマンの「文化宮殿」というジ・オーディトリアムのコメンタリーが続く。シカゴ建築で真っ先に挙げられるべきはこの建築という。

 ところでジ・オーディトリアムについて見るなら、設計者達は「総合芸術作品(Gesamtkunstwerk)」というドイツの概念を念頭に置いていたとされるが、それだけでなくこれはブルーノ・タウトの述べる「都市の冠(Der Stadt Krone)」の一例でもあり、とともにその規模と複合的機能という点でもまたその財務手法でも、この時代の資本主義/都市の表象でもあったかもしれない。財務手法について述べれば、南北戦争時の戦費調達の手法によって一般化した債権方式がその前史にあるだろう。戦費調達という課題は金融資本の発展にとっても一つの契機であったかもしれない。もっと述べるならそれまで戦費調達の手法として用いられてきた国債発行を建設国債として発行し、経済成長を領導した戦後日本のプロトタイプも、ここにあるのかもしれない。

 またこのジ・オーディトリアムはのちのロックフェラーセンターの原型でもあるとも言え、このコメンタリーに続くコメンタリーでウィリアム・ベーカーは1893年コロンビア万博でのフェリスホイール(観覧車)について考察している。

 これもあえて話を広げて見るなら、いろいろな点でコロンビア博はコニーアイランドの前史であったと言え、ジ・オーディトリアムやコロンビア博に対するロックフェラーセンターコニーアイランドという点で見ていけば、これらはいわば『錯乱のニューヨーク』前史をなしているとも言えなくもない。さらに述べるなら単に規模を大きくした二番煎じというだけでなく、シカゴのルイス・サリヴァンやジョン・ルートに対し、ニューヨークのウォーレス・ハリソンやレイモンド・フッドという、建築家からして二流どころによるところがいかにもという感じではある。

 バリー・バーグドールによるコメンタリー、「ピクチャーフーレムとしてのシカゴフレーム」では1920年代初頭のフリードリヒシュトラーセでのスカイスクレーパー案と1948年構想のミシガン湖畔のレイクショアドライヴについて述べている。

「1922年にミースはこう書いた(フリードリヒシュトラーセの解説か?)。「建設中のスカイクレーパーのみがその大胆な構法的思考を明らかにする」、そして続ける。「その舞い上がるような骨組は圧倒的だ・・・にもかかわずやがて石がこの構造に張り付いていくとこの印象は破壊され、構法の性格は否定される」(60頁)。

レイクショアについて述べながら

「土地の売却者であったノースウェスタン大学による湖の景色を残すことという指示に従い、ミースはソリッドとともにヴォイドを構成した。骨組構造はピクチャーフレームとして機能し、二つのタワーを結合して横に広がる一層目のコロネードの下から広大に広がるミシガン湖の水平線を定義している。アパート内部では床から天井までのガラスが無窮へと広がるフレーム化されたディオラマをプレゼンテーションする」(60頁)。

 アルバート・ポープの論考「メガロポリスはいたるところに」は、戦後のヒルベルザイマーの都市計画案について解説したものである。シカゴは1950年頃から内郭都市の人口減少が始まり、いいかえるならこの前後からドーナツ化現象が始まり、さらに2000年前後から内・郊外の人口減少がそれに続き、他方では外・郊外の人口は増え続けて広域圏としては人口増が続いているというグラフを冒頭に置き、従来のグリッド型(街区型)都市計画案からヒルベルザイマーによるスパイン・ユニット型のモデルを説明していく。(ref., http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20070923

 内郭における人口減少と郊外における人口増加は同じ力によるものであると見たヒルベルザイマーは1950年代に戦前のドイツでの計画案をさらに進め、たとえばル・コルビュジエフランク・ロイド・ライトが示したような1枚の絵に向かっていく計画ではなく、スパインユニットを時間をおいて連続的に挿入していく計画を提示したのであるという。

 この手つきは、内郭から外・郊外へのヒエラルキーを解体するもののようにも見え、ヒルベルザイマーらしいようにも思える。メトロポリスではなく「メガロポリス・・」と述べるのも、そのあたりに理由があるのであろう。

S.Giedion, Space, Time and Architecture, The Growth of a New Tradition, Herverd University Press, Cambridge, Massathusetts, 1941,( Fifth Edition, Revised and Enlarged)

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 こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/11969-b78b.html)とこちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/1931-193921969-.html)の続き。まずこちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/siegfried-giedi.html)のようなロシア・アヴァンギャルド風のレイアウトやブックデザインデザインとは、本書のデザインはいささか趣を異にしている。

 サブタイトルは「The Growth of a New Tradition」となっており、ヒッチコックのこの書(http://madhut.hatenablog.com/entry/2016/12/02/194041)の続編であるかのような印象を与えるものの、内容はそうなっておらず、同書の読者を意識して出版社がこのサブタイトルを付けた可能性もある。本書成立の経緯を考えて英語版を正版とするなら、やはり米国の読者を念頭において書かれたものであったかもしれない。

 また本書出版およびそのの2年後1943年の、著者も交えてのポール・ズッカー采配によるコロンビア大学での(あたかもル・コルビュジエ/カレル・タイゲ論争、http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20090506 を踏まえたかのような)シンポジウムの開催は、この時代に建築の中心がヨーロッパからアメリカに移りつつあったことを象徴するかのような出来事だったかのようにも、見える。実際、「空間-時間(space-time)」概念を説明するにあたってアルフッド・バー(つまりMoMA/ロックフェラー財団)の言説に依拠したことは、そのことを意識していたかもしれない。

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 さらに目次頁を見るなら、本書のコンセプチュアルな構成が一目で分かるようになっていると言える。つまりまずルネサンスの線遠近法的空間に対して「空間-時間」を対比させるやり方は、前者にパノフスキーの「象徴形式としての遠近法」的な含みがあることを念頭に置けば、後者にはポスト・人文主義的な含みがあること、つまりポストヒューマニズム的な概念の提示を示唆していると言えるということである。後者におけるキュビスムの例示はあくまで「象徴形式」なのであって、K.マイケル・ヘイズが述べるようにたとえばジンメルが『メトロポリスとメンタルライフ』で示唆するような、新たな(分裂症的な)主体/主観の問題の示唆なのだと読めるであろう。

 つまりもっと述べるなら、それぞれの章題に「空間」がついているゆえむしろ分かりずらくなっているものの、ここでの主題は再びK.マイケル・ヘイズにならって述べるなら、主体/主観なのだと述べ得るのではなかろうか。

 ここでK.マイケル・ヘイズによるタフーリの効力批評(operative criticism)の引用を確認するなら、「効力的批評という言葉で普通意味されるのは、建築(あるいは美術一般)の分析において、抽象的な研究の代わりに、まさに詩的傾向をその構造のうちにはらみ、あらかじめ歪められ結論づけられている目論見」(→PH、15頁)であり、さらに「社会や技術の発展論理によって主体/主観は対象から引き裂かれてしまったので、対象はいまやギーディオンにとって、その内部に主体/主観のための場所を用意せねばならないのである。「絵画のまっただなかに入り込んでいる」が、ギーディオンのやり方なのである。ここではまたもタフーリが「効力批評」とした批評とデザインの安易な結合が見てとれよう。鑑賞し解釈する主体は対象のフレーム内部に位置しなければならず「絵画から離れた観察点に立つべきではない。近代美術は、近代科学と同様に、観察するものと観察されるものとが一つの複合状態を形作るという事実、すなわち、あらゆるものを観察するということは、それに働きかけ、それを変えることだということを認識している」のである」(ibid, 19頁)。つまりギーディオンの「空間-時間」概念は、まずそのうちに批評としても対象としても主体/主観を内在させたものでなのである。これは、ル・コルビュジエの「ヴォリューム」概念やヒッチコックの「ヴォリューム」概念とはまったく無関係とは言わないまでも、また異なる次元のものである、と言える。

 K.マイケル・ヘイズによるギーディオンの脱構築は、T.J.クラークによるマイヤ・シャピロの脱構築を彷彿させなくもないか。

 

Harry Francis Mallgrave, Modern Architectural Theory, A Historical Survey, 1673-1968, Cambridge University Press, New York, 2005

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 こちら(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20090104)でも見た、ゼムパーの「様式」に関連する部分とゼムパーのシカゴへの影響部分を再確認する。前回引用部分の続き。

 

「様式とは、と彼はこう書く。芸術作品の主題を変容させる根本理念およびあらゆる内在的・外在的係数に、芸術的重要性と強調を与えることを意味する。根本理念あるいは主題はこの定義の中心にある。「内在的・外在的係数」は主題の表現に影響する。内在的変数は作品生産で用いられた素材や技術的手段であり、外在的変数は作品に影響する地域的なもの、時代的なもの、国民的なもの、それに個人的要素である。ここにある希望は現今の変数やそれが芸術的に含意するものをひとたび適切に分析するなら、我々は再び様式をもって作品を生産することができるということである。芸術は効果的に工業時代に入っていくことができ、その生産は新しいパラメータに呼応するものでなければならない」(135頁)(引用元はゼムパーの『科学、工業、芸術』)。

→のちのボウマンのイリノイ建築家協会での講釈では「様式とは構造とその構造が出自した条件の一致である」→TC、何ともデリダ的条件。

 

「『様式論』における「比較方法」あるいは「実務美学」によって、とりわけゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル他のロマン派哲学者による抽象的美学理論を転倒させることを目論み、初期のドイツ理論から袂を分かった」(136頁)。

「この構造によってゼムパーは彼の四つの基本要素の分析を、織物(テキスタイル)、焼物(セラミック)、木造結構(テクトニクス)、切石組積(ステレオトミー)と、芸術生産の展開に従って始める」(136頁)。

 

「テクトニクスとステレオトミーの章では他にも新しいポイントがある。ローマン・ヴォールトに内在する「空間」モティーフについて述べながら、たとえばゼムパーは空間自身の問題を建築的考察に値する領域として取り上げる。鋳鉄の議論で、ドイツにおいてこの世紀中続くことになる理論的パラメータを置く。なぜなら鋳鉄は細くなるほど完璧で効果的となる素材ゆえ「芸術の地としては不毛」たらざるを得ない」(137頁)。

「重要な被覆(Bekleidung)概念についての主題とは離れた長たらしいメッセージにおいて、人間の被覆と建築の被覆の類比を彼は行う。彼の建築論の主題を詳しく展開するのである」(137頁)。

 

「1887年3月(イリノイ建築家協会・会合における)ボウマンによるゼムパーの様式定義の参照は、付随的だが重要である。この建築家によるゼムパーの一連の解説の始まりであったからである。これは1889年と1892年のAIAでの講演前に読んでいた二つの論文を含み、彼のこの関心がルートをしてゼムパーの最後の講義「建築様式論」の翻訳へと向かわせた。ボウマンともども1889年の『インランド・アーキテクト』1889年の号に発表された。よってゼムパー思想、とりわけ四つの建築的モティーフのコンセプチュアル・モティーフは明らかに1880年代シカゴの空気に広まっていたのである」(165-166頁)。

 

メモ

ボウマンの記事

“Thoughts on Architecture,” Inland Architect and News Record 16(November, 1890)56-60

“Thoughts on Style,”20 November 1892 34-7

 

Roula Geraniotis,

“German Architects in Nineteenth-Century Chicago,”(Ph.D.diss., University of Illinois, 1985)

“German Architectural Theory and Practice in Chicago,1850-1900,”Winthur Portfolio 21(1986), 293-306

 

 

ついでにメモ

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ついでにメモ。23:40から50あたりにかけて司会者と推薦者が複数回「ハリー・モルグレーヴ」と発音している。その二人前、建築財団ディレクターのサラ・イチオカ氏は日系人なのか。

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戸坂潤『日本イデオロギー論』、岩波書店、1977

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 寄道をして一瞥する。初出は1935年である。

 舶来新思想から昔の思想まで「ありとあらゆる思想が行われる」日本の状況を瞥見しながら(板垣鷹穂も似たような皮肉を述べていた)、まず

 

「思想とはあれこれの思想家の頭脳の内にだけ横たわるようなただの観念のことではない。それが一つの社会的勢力として社会的な客観的存在をもち、そして社会の実際問題の解決に参加しようと欲する時、初めて思想というものが成り立つのである」(17頁)。

 

として、近代(明治以降)日本における主要な思想を著者は二つに分類する。「自由主義」と「日本主義」がそれらである。

 近代化とは都市化なのであるとすれば、その進行によって都市的な思想が主要なものとして大きくなってくるのは容易に想像できる。「自由主義」とは都市のイデオロギーである。

 これに対する反力(反動)として反・都市的な思想、あるいはバランサーとしての思想も同様に大きな思想となってくるであろう。著者のいう「日本主義」とは大雑把にいってこのことであると述べていい。日本の近代化が西洋化でも同時にあったとすれば、明治中期に過度の欧化に対するものとして登場した国粋主義からその後のアジア主義までを、著者はこの範疇で捉えている。そしてこの見取図は今日にいたっても大きく変わっておらず、あらためて著者の整理の射程の大きさに目が行く。さらに述べればスラヴォイ・ジジェクの遥か以前に、リベラリズム批判も著者は行っている。

 さて日本における唯物論は著者がその基を築いたとも言えるが、その唯物論はしかし、イデオロギーというより方法論というべきであるように思える。ついでに述べれば、思想史的にはヘーゲルの精神史を転倒して(しかし三項性はそのままに)マルクス史的唯物論が成立したとすると、たとえば橘孝三郎の日本農本主義を批判するにあたって、ドイツ系社会学ゲゼルシャフト/ゲマインシャフトというお馴染みの図式を橘に従って追いつつ、しかし最終的には精神主義として批判するあたりは、これで完全な批判になるのかという気もしなくもない。また地域主義と、ローカルな思想やローカル思想家というのも、同じにはできないではあろう。しかしながらつまり、

 

「どういう精神主義の体系が出来ようと、どういう農本主義が組織化されようと、それは、ファッショ政治団体の殆ど無意味なヴァラエティーと同じく、吾々にとっては大局から見てどうでもいいことである。ただ一切の本当の思想や文化は、最も広範な意味に於いて世界的に翻訳され得るものでなくてはならぬ。というのは、どこの国のどこの民族とも、範疇の上での移行の可能性を有っている思想や文化でなければ、本物ではない。丁度本物の文学が「世界文学」でなければならぬと同じに、或る民族や或る国民にしか理解できないようにできている哲学や理論は、例外なくニセ物である」(153頁)

 

なのである。これはその通りであろう。

 

 またはじめの方で日本語では「文献学」とされているphilologyを追いつつ、いわばプロテスタント的な文献学とカトリック的な現象学を結び付けたハイデッガーの「解釈学的現象学」という超技も部分的に批判的に瞥見される。

 

「表面化するいうことが現象するということに他ならない。そうだとすれば、例えば事物の背後や内奥に生活の表現を探り、事物の裏からの事物の匿された意味を取り出すといったような解釈学や文献学は、現象なるものに対して初めからソリの合わない方法だと云わざるを得ない。表面というものの厚さを量ることはできない相談だからである。

 にもかかわらずハイデッガーは解釈学的な現象学を企てようとする」「文献学乃至は解釈学は歴史的には使えないから何か現象的にでも之を使う他はない。ドイツ・イデアリズムの世界観としての(人々はそれを好意的に形而上学と呼んだ)歴史的行き詰まりを打開するには、こうした非歴史的な哲学体系が何より時宜に適したものであったに違いない。ナチスの綱領がドイツの小市民を魅了したと同様に、ドイツの所謂教養ある(?)インテリゲンチャを魅了したのがこの哲学「体系」であった」「今やハイデッガーに於いては、文献学乃至解釈学は、そのプロパーな言語学的又歴史的桎梏から脱して、正に哲学そのものの方法に羽化登仙するのである。文献学にとってこれ以上の名誉は又とあるまい。と同時に、これ程文献学にとって迷惑な事もないのである」「例えばハイデッガーによれば、距離(Entfernung)とは遠く離れてある(fern)処へ、手を伸ばすなり足を運ぶなりして、その遠さを取り除く(Ent)事によって、成り立つというのだ。こうした説明は一応甚だ尤ものように見えて案外他愛のないものであり、殆ど一切の言葉が同じ仕方で説明できない限り、語源学的な意義さえそこにはないのであって、之は何等言語学的な説明でさえあり得ないのだ。言葉(ロゴス)が現象への通路だというが、こういう調子では、この通路もただ割合に工夫を凝らした思いつきの示唆に過ぎない」(48頁)。

 

 さて日本主義に関連して和辻哲郎も批判的に検討される。

 

「一体和辻氏の哲学上の方法は、一見極めて天才的に警抜に見えるが、他方また甚だ思いつきが多くてご都合主義に充ちたものであることを容易に気づくだろう。だから氏独自の哲学的分析法と見えるものも、多分に雑多な夾雑物から醸造されているので、それは必ずしもまだ本当に独自なユニックな純粋性を持っていない。現にその倫理学も、多分に西田哲学の援用と利用とがあり、而もそれが必ずしも西田哲学そのものの本質を深め又は具体化する底(ママ、引用者)には見えないので、西田哲学からの便宜的な借りものをしか人々はここに見ないだろう」「氏は明らかにハイデッガーの解釈学的現象学に負う処が最も多いことを告げている」(164-165頁)。

 

このうえで

 

「だが和辻氏の解釈学が、果たして解釈学的現象学に比べて、どこかに根本的な優越性があるだろうか」(168頁)

 

と疑問を呈し、さらに

 

「和辻倫理学がこうした倫理至上主義を取るのは、決して問題が倫理であるからではない。寧ろ、歴史的社会の現実的物質的機構の分析から出発することを意識的に避けようとする解釈学の唯一の必然的な結果なのであって、そういうものが「人間の学」の、即ち広義に於て今日の日本の自由主義者や転向理論家が愛用する「人間学」の、根本特色なのだ」「つまり和辻式倫理学は、自由主義哲学が如何にして必然的に日本主義哲学になるかということの証明の努力に他ならぬ」(170-171頁)」

 

と述べる。

 また自由主義について見ていくなかでは、西田哲学のいわば「存在と無」のなかにロマンティークの残滓を嗅ぎ取っている。

 

 

Ozanfant, Foundations of Modern Art, Dover Publications, inc. New York, 1931(English edition), 1952

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メモ

「絵画」の章より

「いつの日か将来、こう認識されるであろう。1914年後のあらゆる芸術活動は二つの集団活動に分類されると。ダダイズムピュリスムがその二つである。この二つの運動は明らかに相互に対照的であったものの、芸術の腐敗した生産品によって等しく病み、そしてそれを健全化しようとしていた点では同じであった。ただし前者は時代遅れの公式で嘲ることで、後者はディシプリンの必要性を強調することで」(116頁)。

「それから1918年に、健全な芸術を再興する私の作戦にシャルル・エドゥアール・ジャンヌレを誘い、この協働は1925年まで続いた」「ピュリスムの礎を置き、それは芸術的混乱に秩序をもたらし、多く誤解されていた新しい時代の精神を芸術家たちに植え付けたのである」(117頁)。

「『キュビスム以降』のアイデアを進めるために、総合文芸誌『レスプリ・ヌーヴォー』が1920年に創刊され、「オザンファンとジャンヌレ」の編集で1925年まで続いた。われわれの書『近代絵画』は『レスプリ・ヌーヴォー』キャンペーンのレジュメでもある」(120頁)。

「機械は健康的であり、われわれにとって抗いがたい何かがある。カノン砲、爆弾、いろいろな武器といった近代戦争の恐ろしいメカニズムと精密さにフェルナン・レジエは感動した。幾千という歯車が一斉に動く厳密さに彼は気づいたのである」(120頁)。

 

「建築」の章より

「二流芸術家よりは一流の技師の方がよい。技師はつまるところ重要な人物である。エットーレ・ブガッティは、時代遅れの彫刻家でその弟であるレンブラント・ブガッティより偉大である」(137頁)。

Le Corbusier, Toward An Architecture, Introduction by Jean-Louis Cohen, Translation by John Goodman, The Getty Research Institute, 2007

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 20世紀の最重要建築書と言えば、やはり本書であろう。英語版新版である。

これまで英語版はフレデリック・エチェルス訳版があったが、同書においては書名が「新しい建築へ」ともうそこから意訳されているうえに、訳者によれば、文体も仏語原文の生き生きしたものがなくなり、ブックデザインも印象異なるものとなっているという。たとえばル・コルビュジエステファヌ・マラルメに傾倒しており、原文はマラルメ散文詩のように書かれているのであるという。さらに英語版ではmassと訳されたvolumeも元のvolumeに戻されている。

 またギーディオンの『空間・時間・建築』のブックデザインをハーバート・バイヤーが担当してクオリティを高めたように、本書においても、ブックデザインと文体と文の内容は不可分であるように思われ、新版ではそのニュアンスがよく伝わるものとなっている。

 解説者のジャン=ルイ・コーエンによれば、本書で用いられているような対立的イメージを並置的に用いる手法はフランツ・マルクやワシーリイ・カンディンスキーがミュンヘンで発行していた『青騎士』で用いており、これは他にもドイツ語圏の雑誌でよく用いられていたもので、ル・コルビュジエは間違いなくその影響を受けているのだとする。こうしたヴィジュアル・アプローチは『レスプリ・ヌーヴォー』にも影響しており、同誌の初期の記事にはロシア・アヴァンギャルドに関するものが多かったともいわれる。

 さて冒頭の「三つの覚書」である。「ヴォリューム」で使用されているイメージは米国の穀物サイロであり、「表面」で使用されているのは反例としてのキャス・ギルバートのオフィスビルを除けばすべて工場建築であり、そのうち1枚はグロピウスのファグスヴェルケ、他は全てアルバート・カーンのフォード・ハイランド工場のイメージである。ファグスヴェルケがドイツにおけるいわばアメリカニズムの表象(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/rayner-banham-a.html)だとすると、この部分も実質アメリカの建物のイメージで占められていることになろう。

 「工業的アメリカへの彼の関心はこの世代では普通にあったもので、その知識が二次情報に限られていたとしてもそうである。ジャンヌレのアメリカへの欲望は強いものであった。ペレ兄弟に宛てた1910年の書簡で「オーギュスト氏が眼を開けかせてくれたシカゴ滞在への見解」をまだ失っていないと述べている」(8頁)。

 最後の「プラン」についての考えはボザールのジュリアン・ガデから来ているという(10頁)。

 さてアメリカの工業的イメージがここで使用されているとして、「ヴォリューム」では穀物サイロ、「表面」では工場建築という使い分けがなされているのは、意識してのことなのだろう。このイメージで見ると、英語圏でこれまで「マス」と訳されてきたのも分からなくはない。しかしながらル・コルビュジエのヴォリューム概念(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/2001-f4af.html)は、形態も質料も持たない量概念のことなのであるという。裏を返して述べれば、ヴォリュームの大小は資本の大小にほぼ比例している。覚書のそれぞれの冒頭で「建築は様式とは関係ない」を繰り返しているにもかかわらず「国際様式」という言葉を用いたのはなぜか。

 この二つの異同から始めてもいいのかもしれない。

 

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メモ

https://www.sophia.org/tutorials/elements-of-art-volume-mass-and-three-dimensionali

Henry-Russel Hitchcock Jr., Modern Architecture Romanticism and Reintegration, Da Capo Press, New York, 1993(1929)

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      こちら(http://madhut.hatenablog.com/entry/2016/11/22/002833)で言われている書は、こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/norman-shaw-and.html)のペリカン本ではなく、本書である。

 フィリップ・ジョンソンが熱狂し、コーリン・ロウが高く評価した「近代建築史・外典」である。

 マンフレッド・タフーリが効力的批評(operative criticism)として批判する歴史書に本書が登場しないということは、タフーリはこれを読んでいなかった可能性がある。また「効力的批評」という視点で述べるなら、本書記述中にその名も「未来の建築」という章を持った『ゴシック建築論』がG.G.スコットによって1857年に出版されたといい、この書が「効力的・・」の最初期の書と言えるだろうか。同書は英国におけるジョン・ラスキンの中世キリスト教社会主義の理念やそれに続くウィリアム・モリスのアーツアンドクラフツ運動、さらにアールヌーヴォー(本書の記述では「新・伝統」)という文脈にも位置付けられ得、またペリカン本でもそうだが、このあたりの英国の中世主義からクイーン・アン様式へ、さらにはフリークラシックへ、またバーナード・ショーやネスフィールド、ウェッブ、ヴォイジーといった建築家の記述は他ではあまり見られないものではなかろうか。

 他方では、ハーヴァードでの講義を基に1941年に出版された『空間・時間・建築』の執筆および講義準備において、ギーディオンは本書を読んでいた可能性がある。ギーディオンはバロックの空間性から話を始めていたような記憶があるが、本書もまた後期バロックから始まる。

 またロマン主義についてはニコラウス・ペヴスナーの1943年の書(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/nikolaus-pevsne.html)での考えともある程度重複する。それは本書では過去への視線、考古学的態度におけるものであり、18世紀半ば、1760年のヴィンケルマンによる『古代・芸術史』の出版あたりから話が始まる。

 あえて大雑把に全体のストーリーを述べるなら、ヴィンケルマン以降の考古学的知見から古典主義をはじめとした過去の建物のリヴァイヴァルが始まったが、これはペヴスナーが述べるものと同じ考古学的・学術的厳密性に基づいた19世紀歴史主義の始まりでもあり、異なる時代の諸リヴァイヴァルが再現されていくにつれ、これらを折衷しようとする動きも現れるが、この動きは諸リヴァイヴァルの「趣味」の折衷主義となり、とりわけ18世紀末から19世紀初頭の趣味概念である「崇高」や「ピクチャレスク」を始めとしたものとなっていくこととなる。新・伝統ではこの折衷が「様式」の折衷主義へと再度変化していき、そして新しい時代を準備していった、と言えるだろうか。この過程が「ロマン主義と再統合」と言われる所以であろう。「第8章、新・伝統の本質」から。

「建築の新・伝統は趣味の折衷主義から、合理的・統合的方法を意図して様式の折衷主義へ向かうや、現れた」(90頁)。

ルネサンスバロックの関心はただ古典古代のみであったが、ロマン主義の時代に変化が現れた。次から次へとそして一度にいくつもの異なる時代の過去のリヴァイヴァルがあったが、しかし理論一般においてはまだロマン主義者はある時代のみのリヴァイヴァルについてそれぞれ信じており、あるいは少なくともそうした異なる時代は趣味においてのみ緊密に関連していた。それゆえ二つの主要な陣営のあいだで先鋭な闘争があった。古典主義者と中世主義者の二つの陣営である。象徴的機能的線に沿ってその違いを解消することは、趣味の折衷主義の理論においてなされたのである。ロマン主義の古典主義リヴァイヴァリストと中世主義リヴァイヴァリストの建築が少なくとも1850年まで持っていた様式の感覚をそれはまったく破壊してしまった」「ロマン主義の結論として19世紀は、過去への関係を規則化したのであり、建築に関してそうすることで多かれ少なかれ現在から完全にそれ自身を隔離したのである」(91頁)。

「建築に関しては、新・伝統は趣味の折衷主義を様式の折衷主義に置き換えた。90年代以降、これは重要な建物においてますます明らかとなった。ひとたび過去がそれぞれにおいて閉鎖的で相互に対立的なものの一揃いから全体的なものへと見做され得るや、たとえば極端な例を示すならロマネスクからはマスの効果を、そしてそれを支持するディテールはバロックからと、それぞれ模倣することが可能となった」「当初からしかしながら、各国の新・伝統の創始者達は、その借物を微妙にかつ刮目すべく統合し、また最良の職人術とある程度は同時代の技術とを統合し、それゆえ見た目は過去の残滓はないのだと説得されるほどであった。この事実から「モダニスト」の名が、新・伝統の建築家にしばしば与えられるのである」(92頁)。

 言い換えるなら、ロマン主義とともに始まった諸様式の考古学的リヴァイヴァルがやがて諸様式間の折衷を生み出し、これが最終的に過去の残滓を見えないようにまで効果的に用いられ、そこからやがて過去とは袂を分かった「現在主義者(モダニスト)」の登場を用意した、ということになる。何とも見事な説明である。

 本書はMoMAの「近代建築展」の底本になったものであるが、そこでいわれているもののほとんどは本書において既に述べられていると言っても過言ではない。まず、マス、ヴォリューム、関係、という諸概念が初めて述べられるのは18世紀建築についてである。

「18世紀後半の建築に支配的となる直接的なヴィジョンはたとえ絵画的規範であるにせよ、マス、ヴォリューム、それに関係性という説明をとる」(97頁)。

ヒッチコックはここで既に、マス、ヴォリューム、関係性(ル・コルビュジエの指標線)の規範を導入している。おそらくマンフォードの戦後の論考はヒッチコックのこの概念装置を踏襲しているのであろう。続ける。

「折衷的な線に沿ってマスとプロポーションのスタディへの増していく関心は同時に、幸運にも、ロマン主義に内在していた抽象的絵画的および心理的視点を支持する傾向があった」(99頁)。

「その一般原理を変えることなくそれゆえ最後の時代において新・伝統はどんどん装飾を捨てていった。それ自身のための単純化され還元された折衷的なマスの効果を探求し、それにくり型によることのない表面の肌理のバランスという二次的なものも与えた」(100頁)

 米国においてはリチャードソンがまずこの建築家の筆頭に挙げられる。リチャードソン、サリヴァン、ライトという線はここでも踏襲されている。

 ところでそのライトの線に関し、まずニューヨークのスカイスクレーパーの建築家達が批判され(104頁)、シカゴの建築家達が高く評価される。

「アメリカの創造的新・伝統への現在のスカイスクレーパーの関係は、ライトのシカゴの先行者に最良のものを見ることができる」(104頁)。

「20世紀アメリカの新・伝統の歴史はライトの仕事において顕著である。だがライトは意識的であれ無意識的であれ、彼が多くを負っている建築家の線の末尾にいるのである。彼の師・サリヴァンだけでなく、まずリチャードソンがその道を準備した。これはヨーロッパにおいてまだ新・伝統がなかった時代のことである」(104頁)。

 ちなみにジェニーは「大佐」になっている(この程度の認識であったか)。

「リチャードソンの死の前年、ジェニー大佐はHIBにおいて初めて金属のスケルトン構造を導入したが、これがスカイスクレーパーを可能にした」(108頁)。

これに続いてホラバード+ローシェのタコマビルが言及されている。

 余談ながらライトに関し日本建築の影響はまったく言及されず、「極東」のライトへの「影響」は本書では否定されている。東部の美術史家の当時の認識はそんなものだったのか、とも思わせる(117頁)。

 さてこの新・伝統に続いて「新パイオニア」が登場する。この部分はMoMAの展覧会のまさに底本となった部分であり、主要な主張は既にここに現れている。

「だがこの新しい手法は新・伝統のこのヴァージョンとは根本的に袂を分かっており、というのも、新・伝統は過去の芸術遺産にそのデザイン原理を置いていたからである。マスの三次元コンポジションにおいての代わりに新パイオニアはヴォリュームにおいて構成し、面白みの手段として複雑さを用いる代わりに、彼らはぎりぎりの統一性を探求し、表面の肌理の豊饒さや多様性の代わりに、彼らは単調さや貧しさをさえ希求する。ヴォリューム境界の幾何学としての表面という考えは、そうすることで最も明確に強調されるからである。装飾の排除はただ単に、今日では機械複製によってそれが無価値になっているということのみだけではなく、ヴォリュームと平面の探求が実行されるなら、過去においてそれを美しく装飾していたものは今日ではそれを破壊してしまうゆえ、完全な統一が実現されないからでもである」(160頁)。

これに続いて次頁では「技師の美学」が言及されている。

 MoMAの展覧会の基本骨子は既にここにおいて現れている。とともにル・コルビュジエの諸概念を精密化し、米国建築史ともある程度連結させているとも言える。検証点の一つであるかもしれない。

 ”space, time(time-space)”という概念はギーディオンの前にクヌッド・ロンバーグホルムが既に用いている(162頁)。

 

メモ

www.ubugallery.com

First Look: Knud Lonberg-Holm, Modernism's Long-Lost Architect

上田閑照編『西田幾多郎哲学論集I』「場所」、『西田幾多郎哲学論集III』「絶対矛盾的自己同一」、「歴史的形成作用としての芸術的創作」、岩波書店、1987、1989

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寄道する。

 西田の「場所」概念はあらためてカントの読替えとしてあると思われ、実際カントの名は参照点としてしばしば登場する。他方では同時代の現象学には批判的にも見え、これに対しライプニッツの「モナド」やベルグソンの「純粋持続」、そして近年のドゥルーズの「生成論」などに近いようにも、これはまた見える。「場所」のなかのカントについて論じたところでは 

「カントの意識一般もすべての認識の構成的主観としては、真の無の場所でなければならぬ」「この場所においては、すべて存在的有は変じて繋事的有とならねばならぬ。しかし意識一般もなお真の無の立場ではない。対立的無の立場から絶対的無の立場への入口に過ぎない。更にこの立場を越えて叡智的世界がある。理相即実在の世界がある。これ故にカントの批評哲学を越えてなお形而上学が成立するのである。有るものは何かに於いてなければならぬ、論理的には一般的なるものが、その場所となる。カントが感覚によって知識の内容を受取ると考えた意識は、対立的無の場所でなければなぬ、単に映す鏡でなければならぬ、かかる場所に於て感覚の世界があるのである」(I、90-91頁)。

  カントの「物自体」については

「映す鏡の底になお質料が残っている。無論それはいわゆる潜在、いわゆる質料ではないとしても、カントの物自体、現今のカント学派の体験の如く、除去することのできない質料である」(I、99頁) 

とも言われる。またこのあとの方で、

「知覚、思惟、意志、直観という如きものは、厳密に区別すべきものたるとともに、相互に関係を有し、その根底にこれらを統一する何物かがなければならぬ」(I、133頁)

とも述べられるが、これらはカントの諸主題でもあるだろう。この一文は、

「記憶、想像、感情など多く論ずべきものがあるであろうが」(I、134頁) 

と続けられるが、これはまたベルグソンの諸主題でもあるだろう。

 他方では現象学に対し批判的な言説が登場する。

現象学者は知覚の上に基礎付けられたる作用の底にも直覚があり、知識はこれに向かって充実せられて行くというが、知識の基礎となる直覚とはなお意識せられた意識であって、意識する意識ではない。真に意識する意識、即ち真の直覚は作用を基礎付け行くことによって変じ行くのではなく、かえって作用はこれにおいて基礎付けられねばならぬ」(I、109頁)、

現象学派においては作用の上に作用を基礎附けるというが、作用と作用とを結合するものはいわゆる基礎附ける作用ではなくして、私のいわゆる「作用の作用」という如きものでなかればならない。この場所においては作用は既に意志の性質を含んでいるのである。作用と作用との結合は裏面においては意志であるといってよい。しかし意志が直に作用と作用とを結合するのではない、意志もこの場所に於いて見られたものである、この場所に映されたる影像に過ぎない」(I、119頁)。

「前にいった如く、フッサールの知覚的直覚というのは一般概念によって限定せられた場所に過ぎない。真の直覚はベルグソンの純粋持続の如く生命に充ちたものでなければならぬ。私はかかる直覚を真の無の場所に於いてあると考えるのである」(I、127頁)。

などである。

 西田の述べる「場所」は意識の「野」のようなものとしてまず考えられている。 

「我々が物事を考える時、これを映す如き場所という如きものがなければならぬ。先ず意識の野というものをそれと考えることができる。何物かを意識するには、意識の野に映さねばならぬ。而して映された意識現象と映す意識の野とは区別されねばならぬ」「しかし時々刻々に移り行く意識現象に対して、移らざる意識の野というものがなければならぬ。これによって意識現象が互いに相関係し相連結するのである」(I、69頁)。 

さらに 

「しかし意識と対象と関係するには、両者を内に包むものがなければならぬ。両者の関係する場所という如きものがなければならぬ、両者を関係せしめるものは何であろうか。対象は意識作用を超越するというも、対象が全然意識の外にあるものならば、意識の内にある我々よりして、我々の意識内容が対象を指示するという如きことを考える」(I、70頁)、 

と述べ、この「場所」が襞構造をもっていることが示唆される。

そしてさらに

「直接には一般と特殊とは無限に重なり合っている、斯く重なり合う場所が意識である。右の如く考えるならば、判断において真に主語となるものではなく、かえって一般的なるものである」(I、135頁)

と述べ、

「我々は無限に特殊の下に特殊を考え、一般の上に一般を考えることができる。かかる関係において、一般と特殊との間に間隙のある間は、かかる一般によって包含せられたる特殊は互に相異なれるものたるに過ぎない。しかし一般の面と特殊の面とが合一する時、即ち一般と特殊の間隙がなくなる時、特殊は互に矛盾的対立に立つ、即ち矛盾的統一が成立する。是において一般は単に特殊を包み込むのみならず、構成的意義を有ってくる。一般が自己自身に同一なるものとなる。一般と特殊とが合一し自己同一となるということは、単に両者が一となるのではない。両面は何処までも相異なったものであって、唯無限に相接近していくのである。斯くしてその極限に達するのである。是において包摂的関係はいわゆる純粋作用の形を取る。かかる場合、述語面が主語面を離れて見られないから、私はこれを無の場所というのである。主客合一の直観というのは、かくの如きものであなければならぬ」(I、136-137頁)。

 と述べ、いわば生成論的な「絶対矛盾的自己同一」を、ここにおいて示唆している。

 さて、まさに「絶対矛盾的自己同一」と題された論考がある。この論考の冒頭は何とも結構的な記述から始まるが、まずはそのまま引用する。 

「現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによってできた結果であると考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物が相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くといういうことは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなるということであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない。個物と個物の相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである」(III、7-8頁)。

そしてこの絶対矛盾的自己同一の「時間」は先述したように襞構造をなしており、ベルグソン/ドゥルーズ的時間ともたいへん近いようにも思われる。たとえば、

「時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でばければならない」(III、9頁)、 

であり、 

「しかも現在は多即一一即多の矛盾的自己同一として、時間的空間として、そこに一つの形が決定せられ、時が止揚せられると考えられねばならない。そこに時の現在が永遠の今の自己限定として、我々は時を越えた永遠なるものに触れると考える。しかしそれは矛盾的自己同一として否定せられるべく決定せられたものである。時は現在から現在へと動き行くのである」(III、10頁)。

といった具合である。

 この絶対矛盾的自己同一の時間や世界はそれだけであれば動物も人間も同じではあるのだが、続く「歴史的形成作用としての芸術創作」への伏線にもなることだが、しかしながら歴史的主体としてあり得るのは人間だけであり、そしてそうなり得るのは人間が制作し得るからである、と述べられる。このあたりはラカンのRSI図式を彷彿させなくもない。

「絶対矛盾的自己同一の世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界は一つの現在として自己自身を形成し行く、作られたものより作るものへとして無限に生産的であり、創造的である。かかる世界は、先ず作られたものから作るものへとして、過去から未来へとして生物的に生産的である」「しかし生物的生命においては、なお真に作られたものが作るものに対立せない、作られたものが作るものから独立せない、従って作られたものが作るものを作るということはない。そこではなお世界が真に一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するとはいわれない。現在がなお形を有たない、世界が真に形成的でない、生物的生命は創造的ではない。個物はなお表現作用的ではない、即ち自由ではない。歴史的世界においては主体が環境を、環境が主体を形成するといったが、生物的生命においてはそれはなお環境的である。歴史的主体ではない。なお真に作られたものから作るものではなくて、作られたものから作られたものへである」(III、37-8頁)。 

「行為的直観」という言葉が登場するのもこの文脈においてである。

「物を創造するというのは、自己が物に奪われることではない。自己が物となること、自己がなくなることではない。さらばといって、単に自己が意識的に作用することでもない。作ることによって、真に能動的に、物の真実が把握せられることでなければならない。行為的直観ということが単に自己が物に奪われるということなら、論理を否定すると考えられるでもあろう。しかしそこには自己が何処までも能動的となることである。物をそのままに受取ることはできない。物を能動的に把握することである。我々は矛盾的自己同一的世界の形成要素として、そこに何処までも論理的でなければならない。論理を否定することは、自己を暗ますことである。行為的直観的に、ポイエシス的に、我々の自己は益々明となるのである。芸術は非論理的と考えられる。芸術的直観とは、行為の直観において、物が自己を奪うという方向において成立するものなるを以て、非論理的とも考えられるが、具体的論理の立場からは、芸術的直観もその一方向として含まなければならない(芸術も理性的でなければならない)」(III、65-66頁)。

 「歴史的形成作用としての芸術的創作」ではドイツ系美学・美術史にも一瞥が与えられているが、ウィーン学派への評価は高い。ゴットフリート・ゼンパーは「ゼンペル」という表記になっている。

 

 

コーリン・ロウ『コーリン・ロウは語る、回顧録と著作選』、「第一部テキサス、テキサス以前、ケンブリッジ」「ヘンリー=ラッセル・ヒッチコック」松永安光+大西伸一郎+漆原弘訳。鹿島出版会、2001

 

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  ヒッチコックの『近代建築』とギーディオンの『空間・時間・建築』についてコーリン・ロウが語っていた部分をメモ。

 「しかし、時のハーヴァード学長のジェイムズ・ブライアント・コナントがレストランを出て左に曲がり、次にチャーチ・ストリートの方へ右折して、右側の二軒目の現代的な家、グロピウス・アンド・フライ事務所、に、ハーヴァードからの知らせをもって入っていく姿は手に取るように見えるのだが、このことの意味をどう解釈してよいかまだ分からないのである。無論、限られた人々の間で密かに議論が交わされていたであろうが、ヒッチコックはこのメンバーに入っていなかったにせよ、この話題についてよく知っていたことは確実である。だがこの政治学の意味するものは何だったのだろう。私はこのことに関して何も知らないと言わねばならないのだが、それでもヒッチコックは瞬時にして自分がグロピウスを推薦したことを後悔することになったことはよく知っている。グロピウスがハーヴァードにやってきて、彼が一種のスポンサーということになれば、誰でも、彼の望みを想像するだろうが、私が想像する彼の希望の地位はジークフリート・ギーディオンに取られることになったのだ。

悲しい皮肉というか、おかしい皮肉というべきか。

 ともかく、その結果ギーディオンは一九三八年から三九年にかけて行われたチャールズ・エリオット・ノートン記念講演を増補して『空間・時間・建築』を出版することになり、これは一二年前のヒッチコックの『近代建築:ロマン主義と再統合』と匹敵するものとなった。

 両書とも同じ建築的土壌、一八世紀以降、を扱っているが、『空間・時間・建築』のギーディオン は、多分より先駆者といえるヒッチコックが手にできなかった一般的な成功を収めたので、これが建築の聖書になったとすると、一方は総じて外典の地位に留まることになった。その理由は、一つには時代が味方した、英語圏でもついに近代建築への興味が高まった、ということと、もう一つにはギーディオンが話題をより広範にわたり知的に見える土俵、究極的にはヘーゲル流の世界観をごく圧縮したもの、の中に位置づけたことである。そして多分、最も重要なことは、タイポグラフィーとレイアウトを見るとハーバート・バイヤー、彼自身バウハウスの出身であった、の仕事が好感を持って受け入れられたことである。そして多分、このタイポグラフィーとレイアウトを見るとハーバート・バイヤーの天分を認めざるを得ない。というのも、この二冊の本の見かけほどかけ離れたものはないからだ。一九二九年にヒッチコックの出版社は本文を前に置き、図版を後においたが、それもずっと後の方、つまり注釈や索引よりも後に持っていった。一方、一九四一年の時点でのハーバート・バイヤーは本文と図版ができるだけ近くに来るようにしたのだ。図版は本文の中に交じり合い、そのキャプションが本文の字面に変化を与える域にまで達しているのである。大変な偉業だ!流麗なプレゼンテーションで、これに比較されると一九二九年のヒッチコックの出来栄えはいささか生気のないものと感じられることになる。にもかかわらず、昔も今も私はヒッチコックの方が優れた判断を示していると感じている。だからこそ、私はイェールへ行き、決まり文句で言えば彼の門下生となったのである」「当然ながら、イェールでのヒッチコックの講義の多くは抜群であった(彼の話はニューヨークからいとも軽々とパリ/ロンドンに飛び、シカゴからブラッセル/グラスゴー/アムステルダムへ飛び、クライアントの生涯については微に入り細に入った説明があった)。しかし、これらの講義が誰を対象としたものであるかは私にはよく分からなかった。それと同様、彼がフランク・ロイド・ライトに熱狂していたにもかかわらず、私は彼がなぜ、そう興奮するのか全く理解できなかった。そして、その代わり、私は彼が一九二九年にライトについて書いたコメントを今に至るまで支持し続けている」(42-43頁)。

A.オザンファン+E.ジャンヌレ、『近代絵画』、吉川逸治訳、鹿島研究所出版会、1968年

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原著は1924年出版で『建築をめざして』(1923)の1年後である。『レスプリ・ヌーヴォー』は1920-1925年の刊行。主張するとことは『建築をめざして』とほぼ重なる。

以下、メモ。

まずマシンエイジが冒頭で言われる。

「機械主義の段階に達したわれわれの合理的な文明は、はたして絵画を必要とするものだろうか。もちろん必要とする。」「近代人にとっては、このような感動、感激は、模倣芸術という手段によっては、換言すれば自然の対象を多かれ少なかれ忠実に文字通り模写するという手段によってはとうてい付与されるべきものではない。この本の目的はわれわれの時代を真に満足させることのできるような芸術はどんな芸術であるかを探求しようというのである」(7-8頁)。

 

機械主義と鋼鉄、マスメディアについて。

「鋼鉄は社会に一大革命をもたらした。これによって機械文明が実現可能となった」「模倣芸術は写真と映画とによって遠ざけられた。新聞、書籍は芸術よりも有効に宗教的目的、道徳的あるいは政治上の目的に働きかける」(8頁)。

 

絵画の「使命」について

「それは、われわれの高級な段階の欲求を満足させること、これである」(10頁)。

 

続いて「近代的視覚の形成」

「絵画は、もっぱら、われわれの眼という経路を通じて、われわれの精神に達し得るところのものである。われわれの眼は近代生活の強烈な、集中的な光景によって特に洗練されている。機械文明の発達によって幾何学がいたるところに確立されている。われわれの精神自体、いたるところにこの幾何学、精神の創造物であるところの、を再発見して満足し、「既存」の絵画のややもすれば、堅固でない、非幾何学的な姿に対して反発する。ことに印象派芸術の統一なき流動性に対し反発する。今日の世界の示すありさまは本質的に幾何学的である」(10-11頁)。

「芸術はわれわれの詩的感情「リリスム(詩的精神)」の欲求に満足を与えることが唯一の目的であって、それ以外の目的は有しないのだということ」(12頁)。

 

キュビスムについて

「立体主義は、絵画は自然から独立している物象であるとみなす概念をもたらした。ただ単に感受性の法則と精神の法則とにのみ服従するという絵画の概念をもたらしたのである。このようなすぐれた見解こそ、明日の絵画を決定するものである」(14頁)。

最後の一文において、著者はキュビスムをいったん高く評価している。ここが始発の地点というべきか。とともに印象派にはまずは批判をくわえる。

 

そしてここから「個人的意見」として、美、直角、ピュリスムが言われる。美は「快」ではなく感動でありこれがいわば先述した「高級な段階の欲求を満足すること」に照応するかもしれない。直角についての謂いは「近代人」と同じくアドルフ・ロースを彷彿させる。eg.垂直線と水平線→「基本的感覚は重量の感覚であって、それは造形的言語においては、垂直線的なものによって翻訳される。これに対して、支持のしるしは水平的なものである」(17頁)。そしてこれがピュリスムの導入に言われる。

53頁にいわゆるプラトン立体の表が載っているが、これは『建築をめざして』のものとも重複するのではないか、ただし著者らは、そしてル・コルビュジエも「プラトン立体」という言葉は用いない。その前後からメモ。

「人間は、人工的なことをすることしか知らないのだ。人工的というこの言葉を軽蔑したものと考えるのは断じて止めよう。それどころか、この言葉を、人間の全活動の終局の目的と見なそうではないか」(52頁)。

また視覚に関して「幾何学的概念」の範囲として、形態、線、色彩、光線、等が挙げられる、メモ。

「視覚に関する物事においては、われわれの表現手段はみな幾何学的な概念の範囲に属している(形態、線、色彩、光線等)。自然が美しく映ずるのは、人間によって、言い換えれば、芸術に則って、美しいものにほかならない」(54頁)。

 

「近代的視覚の形成」の章では、この視覚が都市化の結果によるものであることが明言されている。

「現在の文明は、ほとんど徹底的に都市的なものである。そして、ものごとを考え、ものを創造する人びとは、この新しい都市的環境の影響を蒙らざるをえないのである。新しい都市的環境は、われわれの眼に、全然新しい外的秩序を構成している無数の要素をわれわれの眼におしつけるのである。このようにして、個々の人間は、この新しい環境に順応しつつ、自分のうちに、さまざまの必然的な習慣を産んでいく、そして、この習慣がさまざまの要求をまた産むのである。街上の光景はすべて、われわれを深く変化させずにはおかなかった」(74頁)。

「今日の文化は都市の文化である」(79頁)。

幾何学を集中的にさかんに実行することによって、人間の深奥に、一段と特に人間的なるものを発見したのである。つぎのような自覚をもったのである。人間は幾何学的動物である。人間の精神は幾何学的である。人間の諸感覚機能は、その眼は、以前に比を見ないほどいちじるしく、幾何学的明瞭性というものに鍛えられた。いまや、われわれは、先鋭な、鍛錬された敏捷な眼を所有している」(80-81頁)。

 

ピュリスムについての記述中、『建築をめざして』における「住宅は住むための機械である」と相同的な謂いが登場している。「形態的、色彩的諸要素から出発し、かつそれらをある定まった特定効力を有する刺激剤と見なしつつ、絵画作品を一個の機械として創作することができる。画は感動させるために仕組まれた一個の装置である。これが純粋主義の基本的な概念である」(170頁)。「絵画とは感動のための装置である」と言い直せるだろうか。

 

ピュリスムについてはアルフレッド・バーの

http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20080322

も。

ピュリスムについては、色彩、形態、主題、規格物、構図、の観点から述べられる。以下メモ。

「純粋主義は、立体主義から生まれて、その一般的概念を受け入れているが、立体主義が画家に与えた権利は制限する」(166-167頁)。

「純粋主義は、まず出発点として、現実に存在する物からある種のものを選んで、それら特有の形態を紬だして、芸術制作の基本的要素とする。これら要素は、優先的に、人間がもっと直接的に使っている物のなかから採用する。いわば人間の四肢にの延長と見なすことができるような、きわめてわれわれに親しい、平凡なもので、そういう性質上、それ自体として特に興味を起こす主題とか、逸話となるおそれのないものである」(171頁)。

 

 

 

Robert Bruegmann, The Architects and the City, Holabird and Roache of Chicago, 1880-1918, The University of Chicago Press, 1997

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 ダニエル・バーナムと並ぶホラボード+ローシュについての書。序章、第一章、第二章(~1893年)までを瞥見する。謝辞にデヴィット・ヴァン・ザンテン、グウェンドリン・ライト、それにシカゴ歴史協会の名がみえる。

 

いくつかメモ。

建築史と都市史の乖離について。

 「過去数十年の「都市史」のほとんどは第二次大戦後における中心市街地空洞化という危機に対するものとして成長してきた。都市の歴史家は大都市圏の発展におけるとりわけ「都市(urban)」を同定し、探求するのに汲々としてきた」「彼らはこの領域の周縁で起きていることにはあまり興味がなく、さらに、歴史家教育は主に、社会的、政治的、そして経済的力、それも活字化されたものや統計に焦点を合わせていたため、建造環境の構造体をしばしば軽視してきたのである。(そこにおいては)オスマン・ブールバールに沿ったアパートであれ、19世紀後半シカゴのオフィスビルであれ、建物というものは、より基本的な歴史的諸力の挿絵としてしか通常示されてこなかったのである。」

 「他方で、近代建築史はこれとはまったく異なる関心の一揃いから成長してきた。19世紀美術史学の理論的諸理念に大きく影響され、その美的特質や、ピラミッドからヴェルサイユを経てサヴォワ邸にいたる様式発展の過程にいかに適合するかに、建築史の一分枝は関心してきた。」「その結果は、都市史家の描く都市と、建築史家の描く都市に劇的に分かれてしまった。アメリカの都市によくある大きく、あるいは最も目立つ構造体は建築史にはほとんど登場せず、建築史の主要な記念物の多くは都市史では周縁において語られる」(Xi-Xii頁)

建築家の職能について

 「もう一つの問題が商業建築家の性質から出てくる。商業建築家はあらゆる建築家がそうであるように、部分的には芸術家として機能した。彼らは建物を使い易くかつ美しいものにしようとした。だがビジネスを続けようとすると、彼らはビジネスマンとしても機能せねばならなかった」(xiv)

 

ウィリアム・ホラバードもまた、ジェニーのオフィス出身である。

 「ジェニーの事務所でホラバードはのちにビジネス・パートナーとなる二人の男に遭遇する。オシアン・コール・シモンズとマーティン・ローシュである。」(10頁)

 

投資用オフィスビルについて

 「タコマビルと続くホラバード+ローシュ事務所の話をとりわけ面白くしているのは、短いながらもこの国の不動産市場を先導した変貌の時代に、彼らがそこを駆け上がっていったということである」「1880年代のシカゴにおけるオフィスにまったく入れ込むという考えは、まったく新しいものだった。19世紀初頭、ほとんどの会社のオフィスは商品が生産されるか取引されるかする場所に隣接してあった。ニューヨークやロンドンの銀行オフィスはたとえば、銀行フロアの中二階にあった。19世紀中葉にビジネスの規模に大きな飛躍があり、新しい管理者層が発展してきた。このオフィスワーカーは実際に物を作ったり売ったりするわけではなかった。彼らの仕事はペーパーワークであり、日々複雑になっていくビジネスの仕組みを制御することであった。その数が増えるにつれ、建物も大きくなっていった。銀行や新聞やそれに保険会社といったビジネスはこの発展を先導したが、なぜなら高度に訓練された専門職を数多く雇い入れなければならなかったからである」(65頁)。

 「シカゴにおいてまるまる1ブロックを第一級のオフィス用途に用いるのは1860年代後半までなかったように見える。当時の典型的な大オフィスは4から6階建てで、個人か、よく統御された小集団によって、5万ドルから10万ドルで建てられていた。」(66頁)。

 

さらにブルックス兄弟について少し踏み込んだ記述がある。この兄弟とジェニーはともにボストン出身で、さらに兄弟の祖父は海洋保険で財をなしたとあり、他方でジェニーの実家は捕鯨業であったゆえ、人脈的に両者はもともと近かったと言える。

 「ザ・モントークによってシカゴはニューヨークのあとを追うことになるが、後者では最初のきわめて高いビルが1870年代には建てられていた。ザ・モントークのファイナンスはボストンのブルックス兄弟である。1880年代のシカゴのブームにおける最大唯一のデヴェであるあの兄弟である」「ブルックス家の財はその祖父ピーター・チャードン・ブルックス(1767-1849)によって19世紀初頭になされた。海洋保険によって財をなしたボストン最初のミリオネアと言われている。友人たちは彼を落ち着いた保守的な投資家だったと描写し、その中傷者はドケチであったと描写する。相続者も似たような名声を獲得した。

 ブルックスのシカゴでの不動産投資を追跡するのは難しい。絶対に必要以上の情報を残さなかったからである。事実、ピーター・ブルックスはボストンの知人友人から不動産取引の情報を明らかに隠そうとしており、それゆえメドフォードにおいてジェントルマン・ファーマーとしての役を演ずることができたのだった」「大火後、彼らはウィリアム・ル・バロン・ジェニーにエレベータ付の8階建てのポートランドブロック・ビルを発注した。最終的にこの建物は5階建てとなったがエレベータ付高層ビルのアイデアは忘れられず、ザ・モントークにおいて結実することになる」(66-68頁)。

ブルックス兄弟のビジネス手法については、Miles Berger, They built Chicago: entrepreneurs Who Shaped a Great City`s Architecture(1992), 29-38

Earle Schultz and Walter Simmons, Offices in the Sky(1959),20,

 

さらに不動産と投資形態について

 「それまで最も重要なことは有限責任ということだった。この形式の初期のビジネス会社は、株式会社(stock company)と法人(corporation)、組合や大学やその他の公共体で見られるものの特質を組み合わせたもので、19世紀初頭の英国で多くみられたものだった。法人組織や株や債券は、個人やパートナーシップによるより、より大きな資本プールを可能にした」「法人は許可された業務を遂行するための建物を建設することはもちろんできたが、イリノイ州はしかし1872年の一般法人法によってそれ自身が必要とする以上の空間を開発することを禁じ、さらには不動産開発のための法人を厳に禁じた」「立法者はこの禁止によって、小ビジネスの保護と不動産開発の抑制を目ざした。デヴェロッパーが必要とする資本が大きくなるにつれ、ずる賢いビジネスマンはこの法律のまわりに様々な抜け道を見出した。」(71頁)。

 「少しのちのホラバード+ローシュによる二つの建物、ザ・ベネシャンとザ・シャンプランの場合では、兄弟は「マサチューセッツ・トラスト」を用いているが、これは法人による不動産開発の制限を取り除くもう一つの装置であった」→マサチューセッツ・トラストにおいては、イリノイ法人法は障害でなくなる。だがマサチューセッツ・トラストがイリノイで不動産開発するのにまったく障害がなかったかどうかははっきりしない(脚注による)。MBTについてはhttps://en.wikipedia.org/wiki/Massachusetts_business_trust

 「続く数十年、この二つの法的操作は何度も試みられた、イリノイにおいて法人による投機的不動産開発が確実に認められるようになったのは、20世紀に十分入ってからのことである」(72頁)。

 

 上記の記述からすれば、いわゆるシカゴ派の歴史的建造物のいくつかは、当時法律的にはグレーゾーンであったということになろう。メモを続ける。

 「長期におよぶ貸し付けと法人組織や、追加ローン、株や債券の手法を用いることで、デヴェロッパーは自身が持っている比較的小さい自己資金に対して、きわめて大きな建物を準備することができた」「ビジネスが下向きになるともちろん、こうした財務上のすべての装置は、今度は逆向きに働き、債務や地代をカバーし切れなくなる。ブルックス兄弟はそのきわめて保守的ビジネスのおかげで、他の多くが陥ったこの問題を免れていた」(72-73頁)。

 

 続いてオーディトリアムビルにおけるワート・D・ウォーカーの記述、この部分はヒュー・モリソンによるサリヴァン評伝の方が詳しい(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/hugh-morrison-l.html)。メモを続ける。

 「古い建物下部にある重い壁を取り除き、地上商業部の床面積を増すためにそれを大きなガラス窓に入れ替え、そうすることで多くの自然光を内部に取り込み、舗道に対して存在感を増させることは、商業ビルのオーナーにとって一般的になっていた。これはときに多くの費用を要してでもなされたが、立地のよいショップフロントの上昇する家賃がそれを要求したからである。この種のリノヴェーションをなすのに、重い耐力壁が取り除かれ、鉄の柱・梁による比較的薄い壁に置き換えられた。それゆえ柱の前面に大きな窓が挿入され得、その結果、ほぼ連続するようなガラスの表面が形成されたが、この面を遮るのはただ金属性あるいはテラコッタ製のフレームのみであった。」(75頁→Engineering News Record, 17,April, 1924, での H.J.Burtの論文)

 

 上記記述によれば、この構造が普及した原動力の一つは不動産価値の向上であったことになろう。メモを続ける。

 「最終的にこの古い建物をリモデルするには費用がかかりすぎるゆえ、同じ敷地に新しく12階建の建物を計画することを依頼する。これがローリング発案の計画をこの建築家が試す最初の機会であった。結果は既存両側壁を除いて、まったく骨組構造的なものとなった。ただこうしうた高層構造における風圧の効果を設計者も依頼者も明らかに危惧していた」「設計者は図面をワシントン大学の工学教授であるジョン・B.ジョンソンに送ったが、その結果は風圧用ブレース材は適切でないというものであった」「この所見は、背面と側面を石造耐力壁とし、前面のみを骨組構造とするという案に設計者を立ち帰らせた」「言いかえるなら、この建物はザ・ルーカリーのように、耐力壁構造と新しい骨組構造のハイブリッド(hybrid)なのである。ただし反転されていよう。ここでは骨組は外部にある」(77頁)。

 

メモを続ける。

「ウォーカーは彼の建物をザ・タコマと名付けたが、これは先住民の言葉で「最高」を意味し、他方では19世紀後半においてワシントン州にあるレイニア山のことを一般に意味していた」(80頁)。

 

 ウォーカー→つまりジ・オーディトリアムの建主がその財務手法を敷衍させ、ザ・タコマ計画に乗り出してきたことになる。続ける。

 「建設が始まるまでにウォーカーは債権を売却するために法人、タコマ保管会社(safety deposit company)を組織していた」(81頁)。

 「ザ・タコマはおそらく単一総合請負を用いた大規模建設の最初期の例である。これはこののち国中で大規模建設のビジネス実務を刷新(revolutionalize)するものであった。→ジョージ・A.フラー・システム。フラーシステム(ゼネコン・システム)が発展する前までは、契約は通常オーナーか建築家によって各個に、たとえば解体、石工、大工、配管、キャビネットメーカー、等になされていた。つまりあらゆる交渉事が建主か建築家によってなされていたのである。」(81頁)

「このシステムにおいてフラーが提供したものは、一社請負において、財務、技術、発注、それに施工そのもののエキスパートであった」「正しくやれ」「正しく工程表通りにやれ」(82頁)。

 

 ゼネコン・システムが登場したのはこのあたりということになる。続ける。

 ザ・タコマが着工した年にホームインシュアランス・ビルが竣工し、敷地は数ブロックと離れていない。

 「HIBが最初の金属骨組構造であるという主張は常に疑問視されてきたし、実際それは不正確であるにもかかわらず、多くの歴史家はこの建物がほぼ金属骨組構造であると、少なくともテクノロジーにおける重要な一歩であり、のちに大きな提供を残した重要なものであると、確信してきた。ザ・タコマの話はまた別のものを提供する。

 HIBにおける先行を疑いなくH+Rは知っていたが、骨組構造のまったく異なる視点からの使用を彼らは試みたのである。彼らは耐力壁の軽量化には興味を持っていなかった。彼らは背面における耐力壁と内壁によって、建物荷重と風圧荷重を可能な限り持つことを試みた」「結果は、HIBが比較的厚い壁で造られ、また注意をむけられなかったところに、ザ・タコマの被覆は明らかに薄く、一層ずつ施工する必要はなく、事実、被覆工事は2階、6階、10階から同時に始まっている」(83頁)。

 

 「多くのヨーロッパのモダニストが金属骨組構造にかくも興味を持ったのは、彼らが新しい素材に基づいた新しい建築を創造したかったからである」(85頁)。

 

HIBもザ・タコマも1930年に解体。

 

 

 

ジークフリート・ギーディオン「記念性について」、『現代建築の発展』生田勉・樋口清訳、みすず書房、1961

 

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 一瞥する。

 記念性の諸要素のうち、「色彩」についてはフェルナン・レジエから出てきている。レジエはピュリスム=反キュビズムにおけるル・コルビュジエの協働者であり、ということは、これはピュリスムにおける色彩の扱いから発展してきたと述べても過言ではなく、ギーディオン、レジエときて、ますますこの主題がタイゲらとの論争の延長上にあるのかと思えてくる。

 序論ではマンフォードについても触れられている。

 メモ

 「アメリカ合衆国においては、近代建築が多少とも単一家族のための住宅、住宅群建設、工場、事務所建築に限られていたため今日(1944)までは限られた影響力しかもっていない。そこでこの記念性の問題について論ずるのは時期尚早のように思われる。しかし情勢は急速に変わりつつある。近代建築が、ついさきごろまで美術館、劇場、大学、教会、もしくは音楽堂といった建築の解決のためにしか必要とされなかった国々においては、いまや機能の充足を超えたところの記念的表現の追求が要望されてきている。近代建築がこの要求を満たさない場合には、その発展全体がふたたびアカデミズムに逃避するという致命的危機におちいるだろう」(35頁)

 「すべての時代は、モニュメントの形で象徴をつくりだそうという衝動をもっている。モニュメントはラテン語の意味によれば「思いおこさせるもの」、後の世代に受け継がれるものということである」(36頁)

 

Lewis Mumford, “Monumentalism, Symbolism and Style,” April, 1949, Architectural Review

 

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 重要な論文と思われる。

 東京中の図書館をあたってもどこにもなく、地方の大学の図書館にあることが分かり、コピーを取り寄せた。

 向井正也の『モダニズムの建築』(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/1983-12fa.html)で詳述されるヴォリューム/マス概念のヒントになったと思われるものは、後ろの方にわずかながら出てる。とともにテクスチャー、色彩といった向井の他のキーワードも、それに続いて一度だけだが出てくる。

 この論文の主題はモニュメンタリズム「記念性」であり、マスやヴォリュームはその材料に留まる。

 「記念性」はこの時代の主要なアジェンダであったと思われ、CIAMにおける議論やカレル・タイゲ/ル・コルビュジエの論争、言いかえるなら「モニュメントではなく、インストゥルメントを」というおもに1920年代の議論がその前段にあり(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20090506)、その延長上で一連のこれらの議連が展開しているように、これはまた思える。ここでも導入はジークフリート・ギーディオンであり、彼が1946年9月26日にRIBAで行った「新しい記念性」がそれである。ギーディオンのこの議論はCIAMにおけるかつてのタイゲらとの議論と無関係ではなかろう。

 さらにまたこの少し前、1943年には同じくギーディオン、ホセ・ルイ・セルト、フェルナン・レジエによる米国における「記念性の九原則」(→『現代建築の発展』)が書かれ、さらにはまたこの一年後、つまり1944年にポ-ル・ズッカーによってコロンビア大学で関連したシンポジウムが開催されているが、このあたりが戦後のルイ・カーンの初発の地点であったことは比較的知られている。(ついでに述べれば、これに前後してカーンがサリヴァンやその背後にあるであろうリチャードソンにシンパシーを寄せていたらしいことは再確認、→TC274頁)。

 いずれにしてもギーディオンの文脈自体は、タイゲをはじめとしたノイエ・ザハリヒカイトとの論争から出てきており、初期モダニズムの「工学技士の美学」はヴォリューム概念およびK.マイケル・ヘイズの述べる「ポストヒューマニズム」で論じられなくもなく、またこの「美学」は「記念性」はなくとも、というよりは記念性を排除したうえでのアイコン性の獲得によってあらためて史的に論じられ得るとは思われるものの、ここにきてより重層的にむしろ論じた方がいいのか、とも思えてきた。

 ちなみに本論で述べられているもう一つの主題である「シンボル」は、ここにおいては「機械」、モダニズムの象徴としての「マシン」である。また冒頭においてジョン・ラスキンの「思想」とヒッチコクの「史書」が批判されているが、後者のものは言わずもがな『近代建築』であり、これについてはいずれ一瞥する。

 向井が参照したマス/ヴォリューム対概念の前段には、この対概念導入にあたって内向的/外向的という対概念が述べられ、そのさらに導入として著者はなぜかリチャードソンを持ってきている。

 「その作品においてリチャードソンは内部の調度品や仕上げを幾分軽視したが、それは全て外部において記念的な効果を与える必要のためであり、建物の前を通行する市民を印象付けることは、内部にいる人を直接的に喜ばせるよりは重要であると彼は考えていたからである。」(178-189頁)

 この謂いではリチャードソンは外向的/ヴォリューム的、の例としてと読めてしまう。いずれにせよ、外向的/内向的、ヴォリューム的/マス的、について述べた部分。

 「だが開放性と柔軟性を成就しようとするまさにこの試みにおいて、暗さや引き籠り、休息やぬくぬくとすることへの要求が生活にはあるのだということを忘れてはならない。こうした要求は防空壕にのみ求められているわけではない。それゆえ目下の開放性の発明を喜んで受け入れるとともに、未来に向かってはこれを修正するものを導入することを期待したい。つまり、もっと光を、もちろん、ただしいくばくかの暗さを。もっと開放性を、しかしいくばくかの閉鎖性を。もっとヴォリュームを、しかしいくばくかのマスを」(179頁)。

 ヴォリューム/マスが対概念として登場するのはこの一文においてのみである。本論の主題である記念性について。

 「記念性の別名は印象深さ(impressiveness)である。鑑賞者や使用者に与える効果である。それは尺度や建物の配置、高さや巾、壮麗さ、機能や目的の劇的強調であり、これはマス、ヴォリューム、テクスチャー、色彩、絵画、彫刻、庭園、水路、背景を形成する建物の配置方法といった可能な諸手段によって、なされる」(179頁)。