Stolog

メモ

Michael G. Smith, Designing Detroit, Wirt Roland and the Rise of Modern American Architecture, Wayne University Press, Detroit MI, 2017 2

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第二章「学校に戻る」を読む

 

1902年にカーンはメイソンとの協働を解消し独立する。最も大きなクライアントはパッカード社。

ローランドは1910年にメイソンとカーンの推薦状をもってハーヴァードに「特別学生」として入学する。逆算すると32歳。最も大きな動機は建築史だったようだ。

ここでハーバート・ラングフォード・ウォレンの影響を最も受けたようだ。ウォレンは1893年にハーヴァードに着任するまでリチャードソン事務所に5年勤務し、自身の事務所を1885年に開設。『古典主義建築の基礎』と『ウィトルウィウス建築十書解説』を著している。ウォレンの考えでは建築は長く伝統的な原理と今日的な技術の統合から結果するというもの。

ウォレンの指定書のなかで、ローランドはヴィオレに影響され、それは二つの点においてであったという。

ひとつは建築史の統合的知。そしてもうひとつが幾何学の重要性。とりわけエジプト時代から続く等辺三角形の重要性である。

ヴィオレの『建築講話』から引用が続く。正確には、幾何学と比例の重要性ということか。

事務所に戻ってからのミシガン大学ヒル講堂では、さっそくこの幾何学と比例の原理が設計に用いられている。

ヴィオレからショワジーを経てル・コルビュジエの指標線へといたるラインと同じである。

カーンの建築は構法だけでなく、幾何学と比例に基づいている、それもヴィオレ経由の。

あらためてヴィオレ『建築講話』の重要性。

Michael G. Smith, Designing Detroit, Wirt Roland and the Rise of Modern American Architecture, Wayne University Press, Detroit MI, 2017

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アルバート・カーンのチーフデザイナーだったワート・ローランドについての評伝。序章と第一章「ディーンに働く」。

 

メモ

自動車産業の劇的発展により、デトロイトの人口は1900年の約30万人から1930年には160万人へと爆発した」p3

「1900年から1930年までのあいだのミシガンの眼を見張る経済成長は州の銀行資源を逼迫させたが、これら産業の成長はローランドに僥倖を与えた」p4

「ローランドは1901年にデトロイトにやってきた」p11

「ホテル・ポンチャトレインとタラ・ホテルは革命的建築技術、鉄筋コンクリートの見本である。19世紀後半エレベータの発明は高層建物の実現を可能にしたが、当時の建設法は高層構造物に適していなかった」p12

p14、工事中のヴィントンビルの写真1917. Cyclopedia of Architecture, Carpentry, and Building, American Technical Society, volume4)

1880年代に耐力壁に勝る鋼と鉄の剛接合内臓フレームが可能になったが、すぐさま鉄は熱に弱く、崩壊にいたることが明らかになった。耐火被覆のテラコッタで全てを覆うことはコストのかかるプロセスである。

1890年頃回転炉の導入がポルトランドセメントのコストを劇的に下げ、コストのかかる鋼の代わりにコンクリートの大量使用を刺激した」p15

「これらシステムは概して成功したが少し外れた設計を行うと劇的な失敗を招いた。ジャクソンの4階建オツエゴ・ホテルは1902年建設中に崩壊、一人が死亡、二人が重傷を負った。1904年にはバトルクリークで竣工間近のブースバッソビルで五階床が崩落し下部の床ともども崩壊させる事故が起きた。

メーソンとカーンはこの技術が持つ莫大な潜在力を認識しており、1902年に竣工したパームズアパートメントの床にこれを使用し、1903年ミシガン大学工学部棟にも用いた。カーンはしかし、「あまり分からないシステム」を用いるリスクに気付いており、コンクリートの建物を扱う会社は米国に数社しかなく、パームズアパートの床を施工したのはコンクリートの舗道を施工する会社だった。

木や鉄の小梁は最大耐力を超えて荷重がかかるとその中心が曲がったりひび割れたりするが、コンクリートは予期しない形で粉砕される。内部に鋼の補強材を入れれば強くなり得るが、その体系的方法はまだ発見されておらず、この素材の最大耐力を正確さをもって計算することは困難だった」p16

木や鋼の梁とコンクリートの崩壊モードは異なっており、これを木や鋼の梁の崩壊モードに近づけ、計算可能な方法がカーンシステムにおいて模索されたと見るべきか。

アルバート・カーンの兄弟モリツは説明する。「梁の耐力を計算するにあたり」「均一な荷重では曲げモーメントは中央で最大となり、ここを梁が崩壊する点であると仮定する。実際の崩壊試験では他の点で崩壊することを見出した。当初の仮定は誤りであり、その後の計算はすべて無駄に帰した」p16、ここでの引用はMoritz Kahn, “A Reinforced Concrete System with Rigid Shears,” Concrete and Constructional Engineering 1, no.1(March 1906):69

「この問題はもう一人の兄弟ジュリウスによって解決される」「カーンシステムは」「コンクリート部材に45度に設置された鋼部材により、その結果、鋼が引張材として、コンクリートが圧縮材として、一体的にトラスとして機能するものである」p16.

コンクリート部材の崩壊過程は、木材や鋼の崩壊過程と異なっており、それゆえコンクリート部材をトラスとして計算可能なものとするため、45度の鋼材バーをコンクリートに仕込むシステムがカーンシステムと言える。ここでもジェニーと同じく、橋梁工学への還元が隠然とある。

「鉄筋コンクリート構造の好ましい方法としてカーンシステムはますます採用されていった。その結果、鉄筋コンクリートは伝統的耐力壁や耐火被覆が必要な鋼構造にとって代わっていった。このことが最もはっきりしてたのはデトロイトにおいてだった。1906年の『セメント時代(Cement Age)』はこう記す。「鉄筋コンクリート構造はデトロイトに莫大なセメント需要をもたらし、ミシガンの多くの工場はこの能力を最大限に発揮し、それでも注文を捌き切れないほどだった」→Cement Age

Moritz Kahn, Concrete and Constructional Engineering 1906

 

RC造普及は火災時の死亡率の低さで、それはホテルから始まっていること。

「ホテル広告の主要な点は「耐火」を謳ったこと。ホテル火災はよく起こり、旅行者にとって重要な点であった。都市のホテルの大火災は死傷者が多く、小さなホテルの火災も犠牲者を加えた。ミシガン州では1903年メノミエのトラヴェラーズ・ホームの火災では、一人が死亡、三人が火傷を追った。翌年のランシングのブライアン・ホテルは「火口のように燃え」、少なくとも四人が死亡し、さらに四人が火傷または重傷を追った。さらに翌年、ビッグラピッズのパシフィックホテルは「更地になるまで燃え」、その結果死者一名を出した。鉄筋コンクリート構造は真に「耐火」でなくとも、石やレンガや木や鉄より耐火性がある。この理由だけでも鉄筋コンクリート造は一般的となり、ホテルや学校や劇場や工場や公共建築の選択の方法となった」p19

デトロイト火災については、Detroit Free Press, December29,1905  Detroit Free Pressは要チェック。

火災死亡率については1905年には10万人につき8.3人が2005年には1.1人となるという統計上の資料を用いて説得。p423

             

 

 

 

Michael H.Hodges, Building the Modern World, Albert Kahn in Detroit, A painted Turtle Book, Detroit, Michigan, 2018

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全体は11章構成。

メモ

最初の評伝、グラント・ヒルデブラント、『産業デザイン、アルバート・カーンの建築』(1974)

ヒルデブラントはカーン事務所勤務経験あり。

フェデリコ・ブッチの2002年の書。

リー・スミス『現代を造る、アメリカの産業、芸術、デザイン』(1993)

 

事務所設立は1896年、カーンにとってもデトロイトにとっても転機、ジンジャーエール工場。

ネトルトン・カーン・トロブリッジ事務所。

1897年にトロブリッジがコーネル建築学科設立のため抜ける。

トロブリッジ+リビングストンのあのトロブリッジか?

その三年後にネトルトンは結核で死亡。p25.

 

デトロイト・ニュース・トリビューン』p27

 

デトロイト周辺ではカーン兄弟が鉄筋コンクリートを発明したよく聞くが、それは違う。 それは1848年に遡り、1855年パリ万博で展示した漕船の実験をフランス人ジョセフ-ルイス・ランボは始める。フランスは実際この分野で主要な役割を果たす。1924年アメリカ・コンクリート協会について言えば、19世紀フランス人技師達、モニエ、コイニョ、コンシデレ、エヌビクのパレードにカーンは挨拶したにすぎない」p29

 

「ジュリウス・カーンが加わるのは1902年、ミシガン大学から土木学学位を授位されチーフエンジニアとして採用される。この野心的青年は既存コンクリート技術に批判的だった。というのもそれらは最悪の場合、壊滅的結果をもたらすからである」

「彼が作った最初のバーは、フレデリック通りの住宅地下においてである」 p31.

 

 1909年『コンクリート鋼構法』

 

p36、バンハム『コンクリートアトランティス』でのパッカード10への言及について、+ル・コルビュジエの言及について。

 

p39、バンハム批判、バンハムがパッカード10について見落としているのは、ネイティヴ・ソイルにおける最初のサインである。

 

p39、カーンがパッカードの仕事を始めたのは1903年。この年にライトはシカゴにE-Zポリッシュ工場を造る。

 

p40、フォードもカーンも未来の工場について理想的ヴィジョンを持っていた。光に満ちた空間。フォードの原理は生産性の最大化、そこで人間と機械が近く近接する明るいオープンフロア、カーンは、構造体がその使用者に及ぼす影響の人間的な配慮、という相違。

 

p40、1922年の『My Life and work』でフォードは、清潔で明るく、換気のよい工場。→要チェック。

 

p50、ハイランドパーク工場開場(1910)についての記述。

 

p51、グロピウス、ヴェルクブント関連、1913年

 

p51、デトロイト・フリープレス

 

p51、フォード社技師エドワード・グレイの苦情

 

p64、カーン→サリヴァンへのオマージュについて

 

p82、ミシガン・アーキテクト+エンジニア

 

p82、 Jonathan Glancey, Twentieth-Century: The Structure Shaped the Century

 

p83、スチールフレーム+ガラスの工場は1920年代を通してフォードの工場のテンプレとなる。

 

p113、Sonia Melnikova-Raich, Industrial Archeology,

 

p114、ソ連との契約は1929年5月、スターリングラード、ハリコフ、チェリャビンスクの3つのトラクター工場。1930年代後半には三つも戦時生産体制に移行。

 

p116、カーンとフォード以外にも、GEやインターナショナル・ハーヴェスターがクレムリンと協働。

 

p118-119、スターリングラードチェリャビンスクの工場についての記述。

 

p129、リヴェラによる壁画。

 

p133、カーンによるヨーロピアン・モダニズム批判について

 

p147、ニューディールとの関連、ヒルデブラント

 

p157、グロピウス、ル・コルビュジエとの関連

 

p158、ジョン・ドス・パソスル・コルビュジエへの言及

p162、デイヴィッド・ガートマンのミースについての記述の引用。鋼フレームを露出しながら、接合部分は隠した。

 

p163、カーンとボザール。シカゴのバーナムやNYのMMWのボザール・リヴァイヴァルにを評価していた。

 

P177,カーンはポール・フィリップ・クレをデトロイト芸術大学に推薦。

 

P178、カーンの死にソ連からの電報、ヴィクトール・ヴェスニンによる。*

 

 

松井裕美『キュビスム芸術史、20世紀西洋美術と新しい〈現実〉』名古屋大学出版会、2019

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メモ

ピカソは一九三三年のカーンワイラーとの対談のなかで、シュルレアリスムという言葉をアポリネールが一九一七年に発したときには、自身もまた「現実よりも現実的ななにか」を構想していたと回想している。この言葉が端的に示しているのは、現実との照合性を持たない自律した作品そのものを、ひとつの現実として認めようとする姿勢である。ただしそれは、絵画作品を色塗られた平面という物質として見るということではない」、

「だがピカソにとって、芸術とはやはり、素材や物質に完全に還元されてしまうものではなく、ひとつの虚構として機能する必要があった。「現実よりも現実的ななにか」という彼自身の言明の意味するものは、何も意味しない線や平面を装飾的にならべた抽象的な模様ではない。それは、例えば『聖マルトル』に挿入されたピカソの挿絵のように、幾何学的な構築という、人間の知性により科学の道具として培われてきた視覚言語を用いながら、ひとびとが慣習的に持つ現実のイメージとはかけ離れた、別の現実の描写法の可能性を提示する。

 それは虚構世界としての芸術をとおして「見る」ことを学び、「知る」ということにほかならない。」

「ここで重要なのは、「真実」とはなにか、芸術家が「求めていたもの」とはなにかということではない。」、「問題となるのはむしろ、ピカソが「真実」を伝えようとして用いる「嘘」という手段が、どのようなものかといことである。「嘘」としての芸術の最たる例は、もちろん、彼のキュビスム的な実験の結果生まれた作品である。」

ピカソが鑑賞者に期待してるのは、芸術作品が「嘘」であることを認識しながらも、それをとおして真実ないし現実について考察することである」

164-166

 

「作品を現実の模写と捉えるのではなく、現実と並行しながら自律した存在と捉えるこの見解は、キュビスムにおける「概念のレアリスム」と関連しているだけでなく、来るべきシュルレアリスムの誕生をも予感させるものである」

167

 

「リン・ガムウェルが指摘するとおり、第一次世界大戦からキュビスム理論にたびたび登場する「分析」や「総合」という語は、当時キュビスムの芸術家達やその周辺の文学者たちにより読まれていた哲学者イマヌエル・カントの『純粋理性批判』に由来する。ただしキュビスム批評が引用するカントの思想の解釈には誤謬が含まれていることがポール・クラウザーにより指摘されており、こうした語が厳密な意味でカント哲学にしたがうものではなかった点にも注意が必要である。

 実際、「分析的キュビスム」と「総合的キュビスム」を定義する際のこれらの語は、カントの理性批判とほぼ無関係であると言ってよい。分析的キュビスムのあとに続くキュビスムの発展の一段階として総合的キュビスムが定義されたのは、アルフレッド・H・バー・Jrにより一九三六年にニューヨーク近代美術館で行われた前述の展覧会『キュビスムと抽象芸術』においてであった。」

169

 

「これに対しピカソとブラックは、一九一一年頃から一九一二年にかけて、平面構成と立体表現のあいだのあらたな往還を開始し、総合的キュビスムを開始した。きっかけは、新聞紙や壁紙、段ボール紙という、平面的でありながら固有の厚みを持った素材の併用であった。これらの平面をカンヴァスの上に重ねることで、分析的キュビスムにおける幾何学的な平面の重なりを三次元的に再現することが可能になったのである。その最たる例は、カンヴァスに新聞紙やカードを貼り付けるパピエ・コレである。それは、三次元的な物質の重なりを二次元的な絵画空間に導入することにより、絵画作品とも立体作品ともとれるような新しい美術の概念を提示するものであった。」

170

 

「一九一○年から一四年にかけてのキュビスム批評では、キュビスム絵画における多視点的要素は、セザンヌと関連づけられてはいない。むしろそうしたキュビスム絵画の特徴はアンリ・ベルクソンの思想と関連づけられる傾向にあった。」

176

キュビスムは慣習的な絵画実践そのものもまた、実験の材料にして疑問に付し、再考察の対象とした。そのことによってキュビスムの芸術家達は、イメージを認識し構築するプロセスそのものに作品としてのかたちを与え、さらにはそうしたかたちが現実を新たに理解するための発見的なモデルとしての無限の可能性を有していることを示そうとしたのである」。

 こうしたなかで生み出された「概念のレアリスム」という言葉は、対照認識のメカニズムのなかに、眼による受動的な知覚以上のもの、すなわち知識や思考能力による解釈や構築のプロセスがあることを示すものであった。」

522

 

「そこで明らかになったことは、ロザリンド・クラウスが一九七九年の『オクトーバー』誌に掲載した論文「グリッド」のなかで提起した仮設に密接に関連する結果となったことに、触れないわけにはいかない。この論文は短いものではあるが核心をついており、キュビスム作品の記号論的な読みを展開するクラウスのその後の思考的発展を予見させるものである。クラウスはそこで、マレーヴィチモンドリアンの作品に描かれた格子のうちに「地図」としての性質があったことを指摘している。ただしこの格子は「地図」でありながらも、現実空間の事物の位置空間の投影ではなく、したがって「絵画表面の上に、部屋や風景や人物のグループを描出する」ことはない。この「地図」は、「絵画化されたイメージとそれが指し示す現実世界が相互に関係していた」ルネサンス期の透視遠近法とは本質的に異なる、「絵画それ自体の表面」を示すダイアグラムなのである。だが一方では、マレーヴィチモンドリアンが絵画に描いた格子が、単なる画布や絵の具の顔料以上のもの、「存在や心や精神」を意味するものであり続けたように、この「地図」は抽象絵画においてすら象徴的な意味を付与され得たのだとクラウスは指摘する。したがってクラウスのグリッド論は、たったひとつの線や色にも避け難く意味を付与してしまう人間の無意識の衝動を言いあてるものであると考えられるのだ。

 本書で立証したように、ダイアグラムとしてのキュビスム作品、すなわち「地図」そのものとしての作品は、まさに現実の似姿ではない、幾何学的な構成を描いただけの平面それ自体を見せながらも、同時に現実の対象から出発しながら、なんらかの方法で避け難く現実を指示してしまう性質を持っていた。さらにそこから一歩進んで本書で示したのは、キュビスムが単に無意識的にそうした実験を行っていたわけではなく、むしろ本能的な認知メカニズムについての考察に意識的にとり組んでいた点である。」p524

 

「あるかたちに意味を付与したり剥奪したりする造形的・理論的実験は、キュビスムの芸術家にさまざまな表現の可能性を与えた。なかにはピカソのように古い価値観を覆そうとする芸術家もいれば、グレーズやメッアンジェのように部分的にではあれ慣習的な文化を映し出すイメージを描いた芸術家もいた。換言すれば、かたちから意味を剥奪する行為だけでなく、かたちに意味を与え直すこともまた、彼らの試みの重要な一部分をなし得たのである。こうしたなかで、彼らの認識メカニズムへの問いは、どのような意味や意義をかたちのなかに選択的に与えていくのかという問い、すなわち価値システムへの問いに結びつくことになる。」

「そもそも、キュビスムに特定の「宣言」が存在しなかったことが示すように、キュビスムの芸術家たちは、様式やイデオロギー以上にむしろ現実や伝統を絶え間なく問い直すものを共有していた」、

「つまるところキュビスム運動とは、共通の理念で固く結ばれた流派というよりも、ゆるやかに集まった若い芸術家たちによる相互的な対話のなかで徐徐にかたちづくられていったいくつかのコミュニティーの総体さったのである。」

526

 

ポール・メイソン『ポストキャピタリズム 資本主義以降の世界』佐々とも訳、東洋経済新報社、2017

ニコライ・コンドラチェフの波から話を始め、産業革命以降を四つのコンドラチェフ波との関連でまず読み解く。技術革新と言われるものはこの波と関連していると見られる(シュンペーターの波動論)。1873年恐慌、1929年恐慌など。1929-1873=56年 1885-50=1835年→1837年恐慌、これが第二波の始まり。1873-1929年が第三波、第四波は2008年のリーマンショックまで(1987年のブラックマンデーでは駄目なのか)。第三波の技術革新の象徴はトランジスタという。第二波の象徴は石油エンジンか?

続いて労働価値説と限界効用価値説の再検討。労働価値説の大雑把な再評価。

資本主義登場の引金となったカタストロフはペストの流行だったとされ、21世紀においてポスト資本主義への引金となるカタストロフは、気候変動、少子高齢化、金融システム崩壊である、という見取図。

Luis Pancorbo Crespo, Ines Martin Robles, Architecture as technical object. Industrial architecture of Albert Kahn VLC architectura volume1 issue2, 2014

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文献

Terry Smith, Making the Modern Industry, art and design in America, Chicago, The University of Chicago press, 1993

 

Jordy Wiliom H. American Buildings and their architects.Vol.5, Yhe impact of European Modernism in the Mid-Twentieth Century, Oxford University Press, 1972

 

メモ

「この研究の目的は二つ。この影響を明確にすることと再評価である」1頁

 

スターリンの言明→My life and works中にある。

 

リー・スミスの評価。

 

「技術的、経済的適性、自然な構成、構造の明快さと素材の使用法。これがカーンの建築が欧州のモダニズトに与えたもの。。」→13頁

 

カーンの建築が登場するのは

 

1913、ヴェルクブントのヤールブッフ

1923、建築を目指して

1923、アドルフ・ベーネ、ズヴェックバウ

1926、モイセイ・ギンスブルク、ファクツーラ

1926、メンデルゾーン、アメリ

1929、モホリ=ナジ、建築素材

 

「1937年シカゴ到着以降、1939年のジョージ・ネルソンのモノグラフを通してミースはカーンを知る」13頁

 

→クラウンホール、インディアナポリスのキャンターレストラン、キューババカルディオフィス、

 

→1922年のグロピウスの写真

Claire Zimmerman,”Albert Kahn in the Second Industrial Revorution,” AA files 75,2018

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文献

 

Albert Kahn, “Our Travelling Scholar,”The American Architect and Building News XXXIII:812(18July 1891),pp39-41; for a selection of Kahn`s travel sketches,

http://exchange .umma.umich.edu/resources/24727

 

Thomas Crow, Modernism and Mass Culture in Visual Arts, Art in Common Culture (New Heven, 1996)

Giovannni Arrighi, The Long twentieth Century,…

 

メモ

「建築はとりわけ20世紀では長いこと空間デザインと同一視されてきた。あるプログラムのために空間を計画することは、利便性が最重要であるとカーンは主張し、設計はつねに内部から外部へと投影されると言う」

「しかしカーンの内部空間は大きすぎるように見えるとしばしば批判されてきた。空間的に充分に分節されておらず、また適切にプログラムされていないとも」、ここからMMWの図書室との対比。この批判はどこで?

75頁

 

「他のヴァイマールの文化理論家同様、アメリカニズムは文化的スペクトラムに新たな可能性をもたらすと理解していた。カーンの建物をこのレンズを通して見ると、特定しすぎず、設計しすぎないことの価値を示唆する。室空間を概念的に放っておき、建築家ではなくそこでの行為者に放っておくということである」→Ricardo Agarez

 

「パッカードは1903年に始まり、フォード・ハイランドパークは1908年、この中間にパースアロー工場(1906年)」

「組立線が労働力を空間に組織する。カーンは自動車製造のこの概念を具体化した」37頁。

 

「カーンの兄弟であるモーリツ・カーンはこの考えを『The Design and Construction おf Industrial Buildings(1917)』で規則化した」37頁

 

 

「「だがカーンの工場を髣髴させる欧州のモダニストの建物、構法論理と建物皮膜の関係はしばしばデトロイトで適用されたものから反転される。カーンは根底的に変化する建築に伝統的な被覆を被せた。カーンに影響された欧州の建築家は、この急進的建築のイメージを非・求心的建築に被せた」引用源消滅。これらの建築家にとって機能に関連した核となる組織原理は、二次的なものにすぎない」→バンハム『第一機械原理』 42頁。

 

「チャールズ・シーラーのエレガントなリヴァー・ルージュ工場群のイメージは、フォードによってそのネガティヴなイメージを払拭するために依頼されたもの」、「ミースによるテクノ・サブライムのはるか前に」75頁。

 

「カーンが参加したのは米国資本主義の市場が確固としたとき」75頁。

 

ジョヴァンニ・アリギによる商品経済と金融経済の言説、降車が前者を決定付け出す、75頁。

 

「1902年から1945年の一群の作品はある疑問を提起する。資本主義下の建築は商業行為以外の何物でもないのか、抵抗の方法は最も急進的なイメージに包まれ得ることなのか、建築家は政治的であるために政治を「所有」する必要があるのか、建築家

Claire Zimmerman, Albert Kahn`s Territories, Office Us catalog 2014

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ヒッチコック、ネルソン、コンディットによる言及。

匿名チームによるデザイン。→119頁。

 

建材、写真、建物、兵器の章で構成。

 

1910-20年代の欧州でのイメージ流通に関しては、

 

1993 issue of the German Werkbund yearbook

Werner Linder, Die Ingenieurbauten in ihre guten Gestaltung(1923)

Adolf Behne The modern functional building (1926)

 

ソ連での仕事については、ヴィクトール・ヴェスニンによる言及。

ラクター工場は戦車工場への転換を前提として荷重等が見込まれていた。122-123頁

Claire Zimmerman, “Building the World Capitalist System: The “Invisible Architecture”of Albert Kahn Associates of Detroit, 1900-1961,” Fabrications The Journal of the Society of Architectural Historians, Australia and New Zealand, vol29, 2019-issue2

 

文献

Albert Kahn Associates, Architecture of Albert Kahn Associates (New York: Architecture Catalog Company 1948)

Grant Hildebrand, Designing for Industry: The Architecture of Albert Kahn (Cambridge, Mass.: MIT Press,1974)

Chris Meister, “Albert Kahn`s Partners in Industrial Architecture,” Journal of the Society of Architectural Historians 72, no.1 (March 2013)

Henry-Russell Hitchcock, “The Architecture of Bureaucracy and the Architecture of Genius,” Architectural Review 101, no.60 (January 1947)

Jean-Louis Cohen, Architecture in Uniform: Designing and Building for the Second World War (Montreal: Canadian Center for Architecture, 2011)

Beatriz Colomina, Domesticity at War (Cambridge, Mass.: MIT Press, 2007)

Donald Albrecht, World War II and the American Dream (Cambridge, Mass.: MIT Press,1995)

Sonia Melnikova-Raich, “The Soviet Problem with Two “Unknowns”: How an American Architect and a Soviet Negotiatior Jump-Started the Industrialization of Russia, Part I: Albert Kahn,” IA: The Journal of the Society for Industrial Archeology 36,no.2(2010/2013)

Anatole Senkevich Jr. “Albert Kahn`s Great Soviet Adventure,” Dimennsions10(1996)

Jean-Louis Cohen, “L`oncle Sam Au Pays Dee Soviets,” in French

 

Jahrbuch DesDeutschen Werkbundes 1913-Die Kunst in Industrie und Handel (Berlin: Reckendorf, 1913)

 

メモ

「ヘンリー・ラッセル=ヒッチコックは、「天才」フランク・ロイド・ライトと比較し、カーンの建築を「官僚的」とレッテル張りした。これに続き、ヒッチコックらは「軍産複合体」をエレガントに批判する黙殺的な手つきで近代建築史から排除した」、この言葉はドゥワイト・アイゼンハワーが1961年に用いたものである」232頁

 

アルバート・E.カーンは熱心な共産主義者で、作家、ジャーナリスト、J.エドガー・フーヴァーに煙たがれた人物である」

 

「カーンはドイツ・ファシズムと米国覇権に強く反対していた。1940年に共産主義者のニューズレター『ジ・アワー』を創刊、ドイツ=米国軸や米国の親ナチ・プロパガンダ組織と戦った。アルバート・E.カーンはカーンの甥である」

 

「彼とカーンの戦時中の敵は同じ、つまりファシズムの打倒であったが、同じなのはここまでで、産業資本主義が社会改善の積極的動力となると信じたカーンの進歩的時代のものと異なり、アルバート・E.の政治的急進主義はこれに反対だった」233頁。

 

アルバート・カーンは北米を中心とした第二産業革命を目撃した。これは内燃機関の発明によって世界を変えるものだった。アルバート・E.は反対に「軍産複合体」出現を目撃した。これは軍の構築による経済的利益により、産業力を政治的影響力に変えるものである」 234頁。

 

「ジャン=ルイ・コーエンはカーンの立場を「生産ラインの生産者」と分析した。第二次産業革命は政府に対し、1942年以降の戦争の帰趨を決するほど強い力を民間産業に与えた一方、これら企業は優遇措置無しには憚るものだった。代わりに、国防工場公庫(DPC)が大恐慌後の復興金融公庫(RFC)を補助するものとして設立された。これは、フォード自動車、グレン・L.マーティンなど民間企業に莫大な資金を投下するためのものだった。だが1945年後も政府とこれら民間企業の関係は解消されることなく、冷戦時代に入っていく。

 カーンは建築における技術革命の一部だった。だがこの革命は、今日のパワーインバランスまで続くより大きな歴史的展開のなかで見なければならない。ここでの大きな歴史的素描は、世紀の変り目頃の自動車とエンジンの大量生産に始まり、1961年以降のどこかで終わるものである」234頁

 

挿話的メモ

The Reconstruction Finance Corporation(RFC

1929年恐慌後に、債務超過のおそれがある銀行支援のための組織として1932年に設立。

その後範囲が急速に拡大し、公共インフラ事業にも融資。

The Defence Plant Corporation(DPC)

RFC傘下。戦時中の工場や設備投資の資本を融資するための公庫。

 

カーンの仕事として、ミシガン大学工学部西棟(1905)、デトロイトのハドソン自動車会社(1910)、モーリツ・カーンによる書物『産業建物の設計と施工』(1917)が、それぞれ、技術、レギュレーション、理論という観点から述べられる。

 

カーンはトロブリッジとも業務提携。

 

「工学部西棟が竣工する1905年に三男のモーリツ・カーンが工学部を卒業する。彼はロンドンに送られ、その地でのフランチャイズの可能性を探る。1907年にロンドンにトラスコンをオープン、そこから大英帝国のネットワークを通じて、ニュージーランドやオーストラリアにもオフィスを拡げる」238頁。

 

「マイケル・スミスが指摘するように、パッカード10がデトロイトの最初の鉄筋コンクリート工場なのではない。」→ハドソン自動車。

 

『産業建物の設計と施工』(1917)239頁。

 

書物『産業建物の設計と施工』(1917)について。

「この書に記されている著者の政治的ゴールは英国とその植民地のネットワークに関係しており、トラスコンをグローバルに成功させることだった。設計や施工だけでなく、産業化によって起こる初期変化を資本主義と調停しようと試みることだった」(241頁)。

 

「同書の末尾は2章で括られ、一つは建築の扱い、もう一つが労働者の福祉である。これは機能主義者の考えの挿入である。成功した建築の扱いと幸福な労働者が、建築生産の技術的関心の成功した採決から自然に導かれるというものである。機能主義の核心を同書は採用する。使用や素材や技術の観点からの道具の正しい設計は、美と適正に結果するというものである。米国では19世紀の有機的機能主義は動物の生理に向けられ、建築家は機械技術とともにこの「設計」を模倣するとされた。『設計と施工』はこの種の機能主義を取り上げ、19世紀後半に出版されたテキストで強調された理論を提供する。反対にカーンは、この出版に4年先行して、自身が設計した建物に導入された生産ラインについて言及しない。当時最も急進的な生産過程のこの変化を示そうともしない。これはテイラリズムとフォーエリズムの科学的管理によって客観的に生産性が計測されるという圧力上に資本化されるものだった。『設計と施工』はラスキンで終わる。「より直接的には陸軍将校のようにより大きな集団の主人であり統率者のように、その仕事を通してなる」、これに続けて「新しい工場、未来の工場は、充分に生産的で、魂なしの組織としては、国によって認められない」243頁。

 

「カーン社は戦争契約で莫大な利益を得た」251頁。

 

「窓のない生産施設は戦後、一般的になった。安価なエネルギーや新しい気候管理という観点等から空間の最適化の声とこれは一体化する。カーンやその他大勢もこの複合物の物理的装置を建てた」250-251頁。

 

 

Frank Sedlar, Engineering Industrial Architecture, The Trussed Concrete Steel Company and Albert Kahn, University of Michigan, April 23, 2013

1

メモ

文献

American Concrete Institute, “Concrete Knowledge Center.” Web. April 15, 2013

Kahn, Albert “Albert Kahn, Architect, Detroit Michigan.” Architectural Catalog Co. New York. 1920

Kahn, Albert “Reinforced Concrete.” November 18 1918

Kahn, Albert “Reinforced Concrete Architecture These Past Twenty Years.” 20th Aniversary of American Concrete Institute. 1924

Kahn, Albert “Concrete and Metal Construction.” United States patent Office 736602, August 18, 1903

Marquis Akbert Nelson “Biography of Julius Kahn.” The Book of Detroit: Abiographical Dictionary of Leading Living Men of the City of Detroit. 1914

Meister, Chris. “Albert Kahn`s Partners in Industrial Architecture,” J. Soe. Of Architect .Hist., March 2013 PP. 78-95

Nelson, George. “Industrial Architecture of Albert Kahn Inc.” 1939. New York.” Republic Steel Corporation Audiovisual Collection,” Ohio History. Web.April 20. 2013

 

「短い梁、暗い室内、組立に熟練を要する伝統的重量木工造(mill construction)から、今日われわれが知っている近代産業建築への移行」(2頁)

 

「北ミシガンと日本での鉱山技師勤務の後、デトロイトに戻ってくる」(3頁)→Meister

 

「マイスターによれば、カーンらの最初の鉄筋コンクリートビルはパームズ・アパートメント(1902)」3頁

 

「1902年には鉄筋コンクリートはまだ不確かな技術だったと言ってよい」4頁

 

「科学的データがなかった」5頁

 

「しかしながら鉄筋コンクリート基準が普遍化する何年も前のことである。鉄筋コンクリート分野に新たな技術革新の潜在性はなかった。ジュリウス・カーンは鉄筋コンクリート・システムをさらに発展させたが、これは計算を正確化し、その使用への躊躇を緩和するというものだった」5頁

→カーンの功績=計算化

 

「試験なしにある柱や梁がどれだけの荷重を受け持つか、計算方法がなかったのである」5頁

 

「この関心はジュリウスをして「トラストコンクリートスチール補強システム」、一般的に「カーンバー」として知られるものへと導くことになる」、「最も特徴的なのは傾斜したウィング部とバーの長さである」6頁

 

→サンフランシスコ大地震1906年4月18日

 

「カーンバーの構造技術は、地震を経験したこの地域ですぐにきわめて一般的となった」11頁

 

「ジュリウスは1910年に東京に行き、そこで会社を設立した」、「日本事務所はとりわけ、大阪、名古屋、福岡、川崎へと急拡大した」「フランク・ロイド・ライトの帝国ホテルでも使用された」11-12頁

 

「1910年にパッカード工場が完成すると、トラストコンクリートシステムを使用によって、アルバート・カーンは建築家として潜在性を示した」25頁

→パッカード工場の立面と平面図

 

「1910年のパッカード10はパッカード工場の10番目の建物。それまでは重量木構造による。木製の短いスパン、暗い室内、思い床など。パッカード10はジュリウスのカーンバーを用いた最初の鉄筋コンクリートで、とともにトラスト・コンクリート・スチール社の鋼製建材を最大限活用したものだった」31頁

 

「重量木構造によえう最初のパッカード工場棟は12-14フィートスパンだったが、パッカード10は32フィートの大スパンを飛ばした」、大きな窓からは大量の自然光が工場内に供給され、そこで働く人たちを輝かせたに違いない」31頁

 

→33頁にパッカード工場全体の配置図、かなり面白いと思われる。

 

「ュリウスの特許取得は1903年」35頁

 

「スターラップ方式の鉄筋コンクリートはトラスコンのものより安価で熟練を要しない」、「1936年に製造を停止」36頁

 

「英国と日本のトラスコン社は1919年頃に終了」37頁→1910年設立、9年間操業か。

 

アルバートとジュリウスは1942年没、37頁

 

 

 

 

 

 

 

 

Michael Mcmodie, John B.Parkin Associates and Albert Kahn Inc.: An Industrial View of Architecture, Jssac24:1(1999) (Society for the Study of Architecture in Canada Journal)

 

建築を完結体と捉えるとともに、その設計作業と組織を完結体と捉える、カナダの建築家ジョン・B.・パーキンとジョン・C.パーキン(血縁関係はない)が、アルバート・カーンの組織にならったという話。

ドイツの新古典主義であれ、北米ボザールであれ、北米の古典的伝統にパーキンスやミース・ファン・デル・ローエやグロピウスの根底にある主題は根ざしている。これの代替は職人の伝統。しかしパーキンはこの方法でも、当時米国において最強とされたSOMでもなく、カーンに倣ったという。

カーンは自らの設計組織においてもフォード的組織を導入した。

 

メモ

「彼らは、非個人的、客観的、そしてテクノクラティック的社会のための、非個人的で、見かけは客観的、そしてテクノクラティック的デザインを創造した。テイラーの科学的管理法、フォードの父権的大量生産法、生産ラインが社会組織とその統御のモデルとなるものを提供した。カーンやパーキンの建物は、欧州のアヴァンギャルドを馴致し、北米においてそれを繁栄の象徴とした、機能的効率のイメージを提供した」、22頁。

 

George Nelson、The Industrial Architecture of Albert Kahn, 1939

The Architectural Forum, August, 1938, Albert Kahn

 

S・ギーディオン『機械化の文化史 ものいわぬものの歴史』GK研究所栄久庵祥二訳、鹿島出版会 1977年

 

メモ

「機械に取って代わられることになる手について述べる。その上で、一つの歴史的プロセスとしての機械化を取り扱う」、

「複雑な技術を機械に置き換えていくことが、高度な機械化の始まりを画する。この複雑な技術から機械化への移行は、十九世紀の後半アメリカで起こる。われわれはその経過を農夫・パン屋・肉屋・家具職人・家庭の主婦などの仕事の領域で見てゆく」、

「全面的な機械化の最初の兆しはアッセンブリーラインであり、そこでは工場全体が一つに噛み合った有機体として統合されている。十九世紀におけるその最初の出現に始まって、両大戦間における決定的な高度化に至るまで、アッセンブリーラインはアメリカ的制度である」、

6頁。

 

「十九世紀の後半は、アメリカの中西部がイギリスに代わって農業機械化の中心舞台になる。ここで人類史における新しい一章が始まる。すなわち、人間の土に対する関係の変化と伝統的農民の没落である」、

7頁。

 

「古代人は、世界を永遠に存在するもの、生成し続けるものと考えたが、われわれはそれを創造されたもの、時間的に有限な存在であると考える。すなわち、世界は最初から一度の週末あるいは目的を持ったものと考える。世界には一定の目的があるとするこの信念と密接に結びついているのが、合理主義の見解である」、「十八世紀は科学の進歩を、社会進歩、および人間自身完成していく姿と、ほとんど同一視したのである」、

27-29頁。

 

「機械化が発達するためには、マンチェスターのような、十九世紀以前には法的な地位も与えられず、従ってギルド的な制約によって縛られることもなかった人里離れた土地と、プロレタリア的な発明家が必要であった」、

35頁

 

「ヨーロッパの機械化とアメリカのそれとの違いは、十八世紀の初頭にも、それから一世紀半を経た時点でも見出すことができる。ヨーロッパでは機械化は、紡績、機織り、製鉄といった簡単な技術を対象に始まった。一方アメリカがとったコースは、これとは最初から違っていた。つまり複雑な技術を機械化の出発点としていた。

 一七八○年頃、リチャード・アークライトが未曾有の力の座を目指して奮闘していたとくい、オリバー・エバンスは、フィラデルフィアからあまり離れていない静かな川べりで、製粉という複雑な技術の機械化に取り組んでいた。この機械化は結局、連続的なライン生産によって達成されたが、そこでは人間の手は、小麦の荷がおろされる段階からこなになるまで、完全に除かれた」、

「一八五○年頃、大草原が農地へと帰られてゆくのとほぼ時期を同じくして必要な機械類が発明され、農作業上の複雑な技術が次第に機械化されていった。その過程は、十九世紀の歴史で最も興味深い、見どころの一つになっている」

36頁

 

「われわれは両大戦間を全面的機械化の時代と呼ぶ」

38頁

 

「すなわち機械化が、その時期に一挙に生活の身近な領域に浸透したという事実である。その間に、それ以前の一世紀半の時代に始まったこと、特に十九世紀の半ば以降、発芽し、育ってきたことが突然成熟をとげ、生活に全面的な衝撃をもたらしたということである」、

「アイロン、トースター、洗濯物の絞り機といった小物の類は一九一二年にカタログに現れている。電気掃除機は一九一七年、電子レンジは一九三○年、そして電気冷蔵庫は一九三○年にカタログに登場している」

「台所が機械化されていくにしたがい、加工食品や調理済み食品に対する需要も増大する」、

「全面的機械化の時代に入ると加工食品の生産量は大きく増大し、バラエティーも増す」

39頁。

 

「食物に大量生産方式を適用するという現象は、チェーン・レストランの発展にも見られる」

40頁。

 

アセンブリーラインは」「生産のあらゆる段階、使われる機会のすべてを結びつけ、工場全体を一つの道具へと鋳造することにある。機械の動きは互いに調整される必要があり、そのため、アッセンブリーラインでは時間が大きなファクターとなる」、

72頁

 

「生産の向上を図る工夫を備えたアセンブリーラインの発展は、大量生産への期待と緊密に結びついている。アッセンブリーラインは一八○○年頃に、イギリス海軍の軍需部糧食課でビスケットのような手の込んだ物の製造にも導入されていた。しかしそこでは機械は用いられず、生産は純粋に手工業的な過程をとって行われていた。」、「一八三○年代にシンシナティの屠殺場でも発達した。この場合でも、組織的なチームワークをとって豚の屠殺と精肉化の作業が行われたが、その過程に機械は介在していなかった。」、

「今も使われているコンベアの三つの型を連続生産に導入したのは、オリバー・エバンスであった」、

「水平走行式クレーンは、高架式レール・システム出現への第一歩である」、

「今日の意味でのアッセンブリーラインを導入したのは食肉加工の分野が最初である。オリバー・エバンスが初めてそれを一七三八年、製粉の過程に使った。一八三三年には、ビスケットの機械生産がイギリスの「軍需部糧食課」で行われている。その場合、ビスケットを焼く盆が絶えず動いているローラー・ベッドに載せられ」

73頁。

 

「アッセンブリーラインと密接に関連し、一九○○年以降、次第に重要性を増した一つの分野がある。それは、科学的管理法である。科学的管理法は、アッセンブリーラインと同じように、組織化の問題と大きな関係がある。一八○○年代、科学的管理法の生みの親フレデリック・ウィンスロー・テーラーは、その初期の実験で、一台のモーターを中心に置いて、その周りのさまざまな機械のスピードの調節を試みていた。」それ以上に意義の大きいのは、人間の作業過程を対象とした科学的管理法の研究である。その研究の発展は、労働の軽減とともに労働者の無法な搾取をもたらした。

 その最も優れた成果として、たとえば、フランク・B・ギルブレスの研究から生まれた作業と動作の性質に関する発見がある。ギルブレスが人間の動作の要素と過程を視覚化していく手順は、具体的な方法においても、応用の大胆さにおいても、実に見事であった。人間的な要素を深く究めようとする彼の研究のこの側面こそ、長期的には、最も重要な意義をもっていると考えられる」

「今日のアメリカの基本的な特徴は、連続生産方式にある。これこそ、アメリカの工業にとって当初からの中心的な関心事だった。」

「オリバー・エバンス(一七五五-一八一九)は、小麦を円滑かつ連続的に移動させ、人の手を借りないで小麦をつくる工場を建設した」

74頁。

 

「無限ベルト」(ベルトコンベア)、「無限スクリュー」(スクリュー・コンベア)、そして「バケットを連ねたチェーン」(バケット・コンベア)を彼は最初から使っていたが、それは今も、コンベアシステムの三つの型として残っている。

「円バスが付け加えて言っているように、「それは上射式の原理に従って動く」。ある優れた機械技術者は、一世紀後、次のように言っている。「エンバスの直立コンベアは、今では普通水平移動に用いられているベルト・コンベアの原型である」」

75-77頁。

 

「機械の製作がその例である。この場合に、部品は「組み立てられて」、一つの新しい全体である」、

「アッセンブリーラインはわれわれの時代における製造活動のバックボーンを形成している」

80頁。

 

「一九世紀以降、アッセンブリーラインは、労働節約のためのメカニズムである以上に、まず、合理的に計画された集団の協力、すなわちチームワークの上に成立している。そこでは、一八世紀にアダム・スミスが全生産の基盤であると考えた分業を踏まえ、次に各作業が時間と作業過程に関して調整されることが必要である」。

81頁。

 

「食肉産業についてだけは、特に詳しく検討したい。というのは、それに関しては、その後の発展の様子が現在見られるからである。アメリカ・オハイオ州シンシナティでは大規模な屠殺場が建設され、早くも一八三○年代に、旅行者は屠殺の過程とその組織化の有様を見て、アダム・スミスが言う分業のことを思い浮かべたものである。

一八三七年までには一チーム二○人が、機械を使わないで、八時間に六二○頭の豚を屠殺し、洗滌して解体し、包装するところまできていた」

83頁。

 

「ここでは、ヘンリー・フォードの著書『わが人生と仕事』(一九ニ二年)で示されている「道具と人を作業過程にそって配置する」という原則が、驚くほど忠実に守られていた」、

「十九世紀前半、特に一八三○年から一八五○年にかけて発明の機運が各地にもりあがり、人々は工業のさまざまな問題に果敢に取り組んだ。機械化の専門分化-すでに高度に発達していた紡績機械は別として-はまだ先のことだった」

84頁。

 

「一八五○年代、シンシティでは、食肉の生産工場が四○以上も操業していた。シンシナティ南北戦争のときまで工業の中心地であり、食肉生産に関する特許のほとんどがそこで生まれている」

88頁。

 

「一九○○年頃

時代の方向ははっきりしていた。企業間の競争は厳しさを増す一方、賃金の引下げは生産コストを下げる方法として実際的でないこともわかった。現に手元にある工作機械は今後も機能的に分化し専門分化し続けるだろうが、僅かばかりの改良を加えたところで生産性が上がる見込みはなかった。

 そこで問題は、工場の内部でのコストを引き下げ生産性の向上をはかるにはどうすればよいかという点に絞られてきた。世紀の変り目以前にも、企業家の関心は新たに何かを発明することより、すでに発明されているものを新しく組織化する方向に向かっていた」、

「十九世紀の最後の二、三十年間、多くの人が互いに独立に、工場内における作業の合理性をテーマとして研究していた」、

「科学的管理法と自ら名付けた発展的な分野の基礎を築いたのは、フレデリック・ウィンスロー・テーラー(一八五六-一九一五)と彼の仲間である。科学的管理法は彼らの二十五年にわたる不断の努力の産物であった。

テーラーがミッドヴェイル製鋼所(フィラデルフィア)で職工長となったのは、職工となって二年たった一八八○年である」

90頁

 

「作業を円滑にし疲労をできるだけ少なくするという主張の背後には、その時代が憑かれたように追及してきた不断の目標-是が非でも生産性を引き上げる、ということ-があった。人体が研究されたのも、その目的は、一体どの程度まで人体を機械に変えられるかを知るためであった」

91頁

 

「少なくとも科学的管理法が導入された当初は、テーラーが「軍事型の組織」と呼ぶ厳格なシステムが発展した」

「位階制や能率本位の軍隊的な規律は、まさに工場における軍隊生活だといって過言ではない」

テーラー主義と軍事活動は本質的に違う」

テーラー主義は労働者に、自発性ではなく、自動化することを要求する。つまり、人間の動作は機械を動かす単なる道具になってしまう」

「彼の仕事の意義は機械的な意味での能率を向上させた点にある。彼は、一九○○年型の専門家であり、その研究の対象である工場を、自己完結した有機体として把え、それ自体が目標であるかのように理解した。そこで何をどんな目的で製造するかということは、彼の問題の領域を超えていた」

92頁。

 

「結局それは空間-時間研究を中心にしていることがわかる。この方法の狙いは、空間的にはある動作の軌跡を決定し、時間的にはその経過時間を決めることにあった」

94頁。

 

ヘンリー・フォードの功績は、特権的な製品として取り扱われてきた乗物に、初めて民主主義の可能性を認識した点にある。自動車といった複雑な機械を、贅沢品から誰もが使えるものにし、価格を庶民にも買える範囲に押さえるという考えは、当時のヨーロッパでは思いも及ばぬことであったろう」

アセンブリーラインはテーラーの動作研究や、彼の後継者による疲労に関する一層混み入った研究にとって代わった。部品の互換性は農業機械の分野で一八六○年代、すでに刈取機に適用されていた」、

「フォードは、できるだけ作業時間を切り詰め賃金を上げるという、当時としては突飛なテーラーの考え方にならった」

106頁

 

「一九一○年代(その中心人物はフレデリックテーラーである)に最大の関心をよんだのは化学的管理法であった。それに対しては、企業は関心を向け、労働者は反対を叫び、世論は沸騰し、議会ではそれに関する公聴会が開かれた。科学的管理法が一層精度を増し、実験心理学と結合したのもこの時期である(フランク・B・ギルブレスがその代表的人物)。

 ヘンリー・フォードの活躍を中心とした一九ニ○年d内には、アッセンブリーラインがあらゆる産業ぶんやで中心的な地位にのぼり、その影響の輪を広げていった」

110頁

 

「人間の手による活動を一つ一つ機械の仕事に置き換えてゆくという、機械化の原理を把握するだけで機械化のパターンはおのずから明らかになる。あとはただ、発展の各段階を述べるだけでよい」

141頁

 

「あらゆる点からみて。刈取機が果たした役割は自動紡績機のそれより決定的だった。」

143頁

 

「マコーミックは発明家、製作者、財政家、そして販売と広報担当を兼ねていた。一八五○年代、代理店網をアメリカ全土にはりめぐらした最初の実業家である」

148頁

 

「この自動結束機の出現をもって、一八○○年代、農業の機械化は一応の完成をみる。この時期には、アメリカで収穫された小麦の四分の五が機械を使って刈り取られている」

153頁

 

 

デーヴィッド・A・ハウンシェル『アメリカン・システムから大量生産へ、1800-1935』和田一夫・金井光太朗・藤原道夫訳、名古屋大学出版会、1998

独立戦争から大量生産制登場までを、「機械」の生産を対象として見ていく。

アメリカン/システムとは独立戦争後、独立戦争において現地軍を支援した仏軍のゲージシステムから派生した工廠システムで、このアメリカン/システムから進展してきた米国の機械生産の延長で20世紀初頭に大量生産が成立する。

生産品としては、小火器→ミシン→タイプライター→自転車→自動車(→飛行機)という流れ。

始めも終わりも軍隊と戦争が関係している。

 

メモ

「英語の中に「大量生産」という語句が定着するに際し、この百科事典(『ブリタニカ』1925年)の項目は基本的な役割を果たしたのである。」

「自動車生産の特徴である組立ラインを用いる製造テクニックとこの用語とが同一視されるようになったことは、ほとんど疑いようがない、一九ニ五年以降、この用語は『定期刊行物案内』や『ニューヨーク・タイムズ索引』のようなレファレンス書の項目に現れるようになった。この用語は、それ以前に普及していたフォーディズムという表現にすぐにとって代わった。このようにして、意味が曖昧で文法的にも問題があるにもかかわらず、フォード署名の論稿によって、「大量生産」という表現はある種の普遍性を得たのである」3p

ル・コルビュジエ『建築をめざして』(1923)中の「量産住宅」は原語はMaison en Serie、英語訳はMass-Production Houses

 

「一八五○年代において合衆国を訪れたイギリス人、特にジョジェフ・ホイットワースとジョン・アンダーソンは、アメリカの製造業のあらゆる面に感銘を受けたが、もっとも注意深く詳細に分析したのは小火器の生産であった」(6p)

「軍需品部の役人が一八一九年ニ書き記したように、「部品の均一化という雄大な構造を達成するために」軍需品部は、四、五○年にわたって巨額の資金を費やしていた」(6-7p)

「このアメリカン・システムと大量生産との架け橋の役割を果たす新しい製品が生まれていた。その新しい製品とは、自転車である。アメリカの自転車産業は、数多くの理由により、大量生産を発展させる過渡的な役割を果たしていた」12p

「一八九○年代の間に、ますます多くのアメリカ人が自転車に乗るとともに」、「こうした態度が自動車の時代を早めたのである。さらに、アメリカの自転車産業とともに、広告は重要性を増し洗練された」12p

「自転車の製造は、それまでの他の何ものもなしえなかったほどに、アメリカ機械工の能力を引き出したのである」12p

「フォードは二○世紀初頭の最も洗練された耐久消費財にとって、適合的な市場として、「大衆」を認識したのである。ヘンリー・フォードが「大衆」という言葉を、一九世紀末の「民衆」すなわち「下層階級」として思い描いたか、または単に多数の潜在的な顧客として思い描いたかということは、ほとんど問題にならない」14p

アメリカン・システムとは、ユージン・S・ファーガソンが定義した「互換性部品を生産する一連の専用機械でおこなう工程の加工」を含む製造を意味する」23p

「一九世紀初めのアメリカの言い方によれば、「均一システム」・・の追求は、一八世紀フランスの軍事的合理主義から生まれ出たものである。最近では、ジャン・バプティスト・ドゥ・グリボヴァル将軍が、この構想の主要な草案者だと認められており、これには十分な根拠がある」36p

「ルイス・マンフォードはかなり前から機械化の推進主体として、特に標準化と大規模生産の主体として、軍隊の重要性を認識していたけれども、つい最近まで歴史家は彼の見解を十分には評価してこなかった」36p→Smith,military entrepreneurship→Yankee Enterprise

「ルイス・マンフォードは、一九三四年の彼の古典的著作『技術と文明』の中で、さまざまな要因を全て統合して描いている。その中で、彼は軍事こそが大量生産の源であり、それどころか救済策であると指摘している。・・・戦争こそ・・機械にとっての健康状態である」418p

Lewis Mumford Technics and Civilization

 

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1

 

Roger Matuz, Albert Kahn Builder of Detroit, Wayne State University Press, 2002

フェデリコ・ブッチの評伝と並んでアルバート・カーン伝の基本文献。

以下メモ

カーンの父ジョセフはラビ(15p)、メーソン事務所入所(21p)、アドラー+サリヴァン事務所にライト後任として誘いを受けている(39P)、

友人のヘンリー・ジョイがパッカード社マネージャーになったことがパッカード設計のきっかけ(36-38p)、

1906年にネトルトン+カーン+トロブリッジ事務所設立(40p)

最初のRCビルザ・パーム・アパートメントは1901年、これはまだ壁が多い(43pあたり)

ジュリアス・カーンについての経歴1896年にミシガン大学工学部卒業後、海軍工兵となる。1900-1902年に日本に滞在し、鉄と硫黄鉱山で建設監督と維持管理の仕事をしたとある(45p)。どこの鉱山? 日本で何をし、何を見聞きしたのか?

ジュリアスとRCの関係、トラスコン社の記述(47p)

デトロイト南北戦争時に急成長、ミシガンの銅鉱山が兵器に使用される。戦後、中西部の建設市場で使用される材木の製造拠点、鉄路のハブとなる。ヘンリー・ジョイの父親は鉄道オーナー(48p)。

RC構造のプレゼンテーション(49P)。

Albert Kahn Associates, Inc., Architects and Engineers, 資料?

パッカード工場についてのアルバートとジュリアスの記述(51P)。

より機能的な工場の設計→フォードT(52P)

ヘンリー・フォードに対するアルバートの印象(53P)。

1910年ハイランドパーク工場竣工、クリスタルパレスという仇名(55P)

はいらんドパークはRC、リヴァールージュはS(60P)

エリエル・サーリネンとカーンの関係(75P)

1928年のフィッシャービルは複合ビル(76-77P)。

大恐慌から第二次世界大戦についての記述(79p以降)

 

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5

 

Reto Geiser, Giedion and America, gta Verlag, 2018

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In Btweenが主題であるとして、米国と欧州のあいだにギーディオンを位置付ける。基本的にGSD教授となった1938年以降の話が主。第二章「言語」まで。

メモ

ギーディオンの立位置とヘンリー・ラッセル=ヒッチコックおよびルイス・マンフォードの立位置の対比。(9P)

彼は殲滅戦、技術発展、交通発展時代の文化状況によく適合(10p)。

ボザールの折衷主義的歴史に意図的に対比的でフレッチャー建築史にとって代わることを意図(35p)。

フランスの建築で取り上げたエッフェル塔は『空間 時間 建築』ではなくなった(42P)

代表作は『空間 時間 建築』と『機械化の文化史』(63p)

ヒッチコックの書とギーディオンの書の図版の扱いへの言及がある(71P)。

視覚的対比においてヴェルフリンとシュルツェ=ナウムブルクは同時代(1902-1929)。

ギーディオンの最初のシカゴ旅行は1939年。(82p)

ロックフェラーセンターとエッジャートンの写真、空間時間との関係(85p/577p)

『フランスの建築』でのモホリとの関係、そのデザイン(95p)