Stolog

メモ

William Mundie, William Le Baron Jenney +Skelton Construction: Its Origin and Development

こちらの再読。一応一次資料。

 

http://madhut.hatenablog.com/entry/2016/04/30/143005

http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-a308.html

 

まずジェラニオティスのこちらの論文で触れられるボウマンのパンフレットとHIBの関係について。 

http://madhut.hatenablog.com/entry/2018/01/16/172044

この問題はこの建物の竣工前後から言われているようである(→ P92 からThe Claim

of Mr.Frederick Baumann)

バッフィントンの件については第一ライタービルとの写真とバッフィントン設計の建物の写真がきわめて示唆的(p27,28grilled building という言葉は当時すでにあった)。

 

メモ

ジェニーのマニラ建築関係はまず本人の回想を含めた軸組構法の「進化」として、続いて本人の回想として述べられる。本人の回想と、その回想を引き出したことも含め、

 

http://madhut.hatenablog.com/entry/2017/12/04/181657

 

の記述との相同性。および

 

http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/index.html

 

メモ

 

「今日「スカイスクレーパー」「スケルトン・コンストラクション」として言われるものの起源と発展について過去10年、執筆するよう乞われてきた。」(p2

この10年、つまり1922年頃以降 『建築をめざして』(1923)、『インターナショナル・スタイル』(1933)、この原稿はほぼ後者発行と同時期、外伝的。とともに中西部の・・と並行的

 

第一部のテーブルから

1、第一ライター 1879

2HIB →インランド18849月号

3、ザ・ルーカリー →18866月号

4、ランド・マクナリービル 最初の鋼製スケルトン構造 1889-90

5、マンハッタンビル、ジェニー作、シカゴ初の全スケルトン構造 →インランド18897月号(→記述なし、間違いか?)

6、ザ・ライター・ストア 1889-90 ほぼクリアフロアこの建物に関する記述はなし。これは現存作

 

第二部、スケルトン構法について、冒頭でマニラが上述の出てくる。全体としてはevolution という記述。

10-

HIB設計における橋梁技師の雇用 →p17

HIB打合せの始まり →P18

party wall の件 →p19

基礎、ケーソン工法について →p23

 

第一ライタービルについては p24-

第一ライタービルはセンセーションを起こした p27

バッフィントンとの比較 

masonry skelton の対比 p37

再びHIBについて →p32

 

「ジェニー=リーダーシップ」の記述、p86

 

フランチェスコ・ムジカに関する記述 1929・・・The History of Skyscraper

シカゴ・トリビューン1907623日 日曜版、要チェック

 

 

 

 

 

Roula Mouroundellis Geraniotis, German Architectural Theory and Practice in Chicago,1850-1900, Winterthur Portfolio, winter 1986 University of Chicago Press

ジェラニオティスの論文その2

 

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メモ

「ドイツ1848/49年の民主化革命失敗後、ドイツ系移民建築家がシカゴに到着し始める。彼らは故国の独裁的政治的風土を嫌った民主主義者か、あるいはこの政治的条件から帰結する機会の欠落に怒っていた若い専門家たちであった。この両者にとって中西部の急成長する都市は約束の地であるように見えた。これに続くシカゴへのドイツ系移民の理由に1870年代のビスマクルの「文化闘争(Kulturkampf)」があり、これはカトリックの排除も含まれ、多くを国外に追い出したのだった。1871年のシカゴ大火はこの都市の大部分を灰燼に帰し、熟練労働力の緊急需要を生み出した。さらに1893年の世界博がある」(p293)。

 

フレデリック・ボウマンはこの第一世代であり、政治亡命者であることが明言され、さらに哲学にも造詣が深く、カント主義者であったことも言われている。引用を続ける。

 

「二年半(王立工業学校で、ベルリン工科大学というサリヴァン自伝での表記は誤りか)勉強し、科学、建築設計、構法の厳格かく完全な教育を受けた。教授陣の多くは大学教授であった。その教育はしかし、1849年の革命への彼の参加によって突如中断される。革命の失敗によりボウマンはドイツを去り、シカゴに直行し、18508月に到着し、すぐにジョン・M.ヴァン・オズデルの事務所で最初の専門建築家として勤務している」「彼はそれからドイツ系の石工職人組合に加入し、またオーギュスト・ウォルバウムの施工会社に入り、1865年まで施工の仕事を続ける」(p294

 

ボウマンの生涯についてはConstruction News41No3January15,1916

ボウマン以外のドイツ系建築家についての記述が続く。

 

「ここまで述べてきたシカゴの建物はすべて18711089日の大火で破壊された」「ドイツ系建築家とその会社はシカゴ再建にあたって、かつてこの街を建設した時と同じほど重要な役割を演じた」(p298)。

「国中に拡がった1873年恐慌はこの年代中続き、大火後のシカゴの再建を著しく遅らせた」(p300)。

「これらドイツ系建築家、この職能では最大の単一民族集団は、この街に高度に熟練し教育のある設計力を提供した」「ここで強調すべきはこれらドイツ人は故国と絶え間なく途絶えることのない知的交流を続けたということであり、これがシカゴの建築の発展に大きな影響を与え、この街の主要な建物の重要な特質の導入を容易にもした。

建築実践は設計や教育だけでなく理論をも伴う。ドイツの影響が頂点に達したのはここであり、その最も大きなチャンネルはボウマンで、その明晰な精神は深い哲学的思考と驚くべき幅広い知識を結び付けていた。

1887年のシカゴでのイリノイ州建築家協会でのシンポジウムで「建物の本質的構造要素をどの程度まで強調する必要があるか」という問いを扱い、ここでボウマンはウィルヘルム・リュプケ、ジョン・ラスキン、それにゴットフリート・ゼンパーという権威を引用しながら詳しく述べている」「私はただ様式、ある様式ではなく、を知るのみである。これはゼンパーが「その生来にいたる主要条件と建物の調和」と述べたものである。(→インランド、1887559-61

実際、シカゴの建築家たちは純粋なアメリカ様式を生み出すことをしばしば議論していた。こうした議論の一つで現代(近代)における建築芸術の本当の基礎となるものと彼が見なしたものを強調し、ゼンパーの様式定義を引用しながらそれを、まずドイツ語で、それから英語で結論した。「様式とは構造とその出自の一致である」」。(→インランド、18873月)

「「建築について」と題した1889年ワシントンD.C.でのAIA大会でのレクチャーでゼンパーの書物に全面的に依拠した詳細な歴史的分析を提供している。彼はゼンパー理論の主要点を強調する。つまり建築の空間的特質は織物芸術に起源があること、建築形態的語彙の様式的起源は、建築創造に先行する装飾芸術や応用芸術に見いだされ得ること、建築構法はつねに四つの要素からなること、つまり中心としての炉、保護する屋根、囲む壁、それに基礎である。それからボウマンは同時代の有機的建築の考えをゼンパーの古代ギリシア神殿の挿絵を用いながら支持する」(p305

「様式論」と名づけられ、1892年のシカゴでのAIA年会で読まれた長いペーパーで、ボウマンは絵画、彫刻、それに建築の様式を時代を通して論じる。彼はまず・・まさにカント的手つきで・・機械芸術の様式と純芸術のものとを区別する」(p305)。

「ゼンパーは重ねて説明する、ゼンパーは様式を絶対のものではなく、結果のものであるとして与えたという定義をである」(p306)。

「おそらく彼の信条と1848/49年の民主革命への積極的な参加は、似たような境遇を共有していたシカゴの多くのドイツ人たち、故国を追い出された彼ら、に共感を与えたことだろう。最も重要な理由は疑いなく、ゼンパーの考えが、19世紀シカゴ建築の傾向に対応していたということであり、型、様式、それに芸術と建築における有機性や機能性という主要問題を与えたということである。ゼンパーの様式定義は与件に出自し与件と調和することを強調しており、これは様式を決まりきった形態装置に代わって技術的・社会的な範疇として様式を定義するものだった。そしてデザインの機能的側面を強調した。これは、かつてない機能的・技術的問題に直面していたシカゴの建築家たちに驚くほど合致したのであった」(p306

「シカゴのドイツ系移民建築家たちはチャンネルとして働き、そこを通して重要なドイツの考えが中西部に到達し得、その文化と建築に影響を与えたのだった」(p306

 

 

 

 

 

 

 

 

Richard A.Etlin, Frank Lloyd Wright and Le Corbusier, The romantic legacy, Manchester University Press, 1994

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リチャード・A.エトリンのフランク・ロイド・ライトル・コルビュジエ論にも目を通しておく。エトリンの書は以前、ジュゼッペ・テラーニ論を書く際にそのイタリア近代建築史を引用させてもらった。序文によればプリンストン大学でのフランス啓蒙主義建築についての学位論文執筆後、イタリア近代建築の同書と本書をほぼ同時期に行きつ戻りつ執筆した、とある。

大雑把に述べて1820年頃から第二次世界大戦(1940年頃)までを一つの時代(それがいわばロマン主義モダニズム期)と捉えて見ていくものと述べてよく、1820年頃に一つの時代の嚆矢を見るという点では同時代あたりのソーマトロープに近代的視覚性の嚆矢を見たジョナサン・クレーリー(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20090927)を思い出させなくもない。これも大雑把に述べて、この時代の始まりに位置しているのがキャトルメール・ド=クワンシーとウジェーヌ・ヴィオレ­=ル=デュクであり、そしてこの時代の終わりに位置しているのがフランク・ロイド・ライトル・コルビュジエであった、とこれもそう述べうるだろうか。

少なくともニコラウス・ペヴスナー以降、19世紀は様式建築の時代、それも考古学的科学的様式主義の時代(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/nikolaus-pevsne.html)であると見做され、あるいはエクレクティシズムの時代と見做されてきたが、これら諸様式のなかにあって二つの大様式となっていくもの、あるいは二つの主義となっていくものがあり、つまりそれがゴシック主義と古典主義であり、そしてその大きな要因としてあったものが「建築的体系」なのであったと言う。言い換えるならゴシック主義と古典主義は単なる様式ではなくそれぞれ別個の内在的体系をもった「建築的体系」なのであり、こうした考えは1820年頃にド=クワンシーとヴィオレらによってじょじょに始まり、ライトやル・コルビュジエによってその完成を見たのである、とこれもそう述べうるであろうか。

全体は1・建築的体系、2・ピクチャレスク、3・エクレクティシズムと近代建築、4・時代精神の四章からなり、大きな頁が割かれているのは1章と2章である。

論点を大雑把に述べると、ピクチャレスクはその非・対称性、不規則性から、プログラムの非・対称的配置、配置計画に影響を与え(distributionやマスの配置であるponderation他)、またロマン主義的ヘレニズムという古代ギリシア建築の評価へとこれはさらに続き、つまりゴシック/ロマン主義的であったものが、古典主義のなかへも浸透してその評価のあり方さえ変えていったとされる。

とりわけアクロポリスの地形に沿った配置のあり方、垂直でも直角でもなく微妙な歪みが発見されるにつれ、こうしたあり方は強まっていくという。19世紀初頭ボザールで古典建築といえば古代ローマ建築であり、1829年にアンリ・ラブルーストが古代ギリシアの復元図を提出した時これは猛然と反発され、1845年にいたってロマン主義的ヘレニズムへと変わっていったという。

エクレクティシズムについて。

19世紀初頭のフランスにおいて、エクレクティシズムは建築だけでなく様々な分野で言われたことであり、たとえば哲学の分野では「哲学史を真偽を区別するものとしてではなく、それぞれの哲学体系をそれ自身において肯定し、ただし他の哲学体系の視点から見ると不完全なものと見做す」ものとして唱えられていたという(151頁)。

ここから逆に「普遍的なもの」が反照される。とともに建築においてはそれはまた当時の世界化の過程とも不可分のものであったはずである。「『建築講話』のヴィオレ・ル=デュクは近代的な世界旅行の利点を歓迎し、それによって建築の第一原理を説明するための普遍的建築を組織する事を主題とする書を書いたのである。これはまたヴィオレが「エクレクティックな手つき」と名づけた方法に従って束ねられ得る異なる原理を説明できるかもしれないものであった。講話(1862)の第一巻で、19世紀の世界に関する文化的知見の拡張によって惹起された挑戦を、彼がいかに受容したかを述べる」(153頁)。

言い換えるなら、エクレクティシズムは当時世界へと拡張していった西洋の知見のなかで取り得た方法であるとともに、そこから世界的に普遍的な原理を見出そうとする根底を提供したものであった、とも言えるであろうか。

時代精神について。

これはウィーン学派の考えともある程度共通するもののように見える。「1820年から1940年にいたる新しい建築の探求はある確信に支配されていた。文化とは、ナショナル・アイデンティティと時代の大意に関係したそれぞれの性格をもっている、という確信である」(165頁)。

さて建築的体系である。この体系は、構法体系、形態(形式)体系、装飾体系からなり、後二者の基本をなしているのが、構法体系であるという。

以下、ル・コルビュジエ関連。

「当時ル・コルビュジエは「純粋で完全な構法システム」を描いていた。これは一つの構造スケルトンに組み立てられる、量産品、標準品、に倣ったものであった。六本の薄い鉄筋コンクリート柱が床を支え、その床はキャンティレヴァー形式で柱部分からわずかにはみ出、という基本構造である」「耐力壁が抹消されて外壁ファサードはまったく開放され、「ドミノ」フレームは使用者にその内部の自由な配置と、自然光と換気をももたらした」「のちの1926年の新建築の五要点で」「ル・コルビュジエフランク・ロイド・ライトのように暗くじめじめしたものは不便であると見ていた」(15頁)。

シカゴ派関連

「ライトのプレーリーハウスはしかし、慣習的建築的体系理解を、ドイツの建築家・理論家ゴットフリート・ゼンパーが説明した象徴的建築的体系に結び付けている。

ヴィオレ=ル=デュクとオーギュスト・ショワジーは建物芸術に根差した建築的体系がいかに豊穣なものになり得るかを示した一方、ゴットフリート・ゼンパーは『建築的体系』において歴史的な様々な文化においてそれが神話的に示唆的であるかを解説した。歴史的建築の背後にある主要な衝動は炉という中心的な焦点のまわりにシェルターを造ることであるとゼンパーは信じていた」「炉とは、ゼンパーは強調する、「最初にして最も重要なものであり、建築の道徳的要素である」、「そのまわりに他の三つの要素が集められる。屋根、囲い、そして基壇である。これらは炉の火を自然界の他の三要素から守り防ぐものである」。ゼンパーは囲いが歴史的に織物から発展してきたことを強調する」

「ライトがシカゴに初めてやって来たとき、ゼンパーの諸理念はこの街の知的関心事の一つであった。ドイツ生まれの建築家フレデリック・ボウマンは機会を捉えてそれらを紹介し、その一部は『インランド・アーキテクツ』に記録されている。この進歩的雑誌は同時にゼンパーの『様式論』を、ジョン・ウェルボーン・ルートとフリッツ・ワーグナーの翻訳で掲載している。シカゴの建築家たちはここで読めたはずである」。

「『インランド・アーキテクツ』でゼンパーの四要素の考えが掲載されて数年後、「シカゴの進歩的な若い建築家の一群(そして多く)は、ゼンパーの象徴的建築的体系の構成要素が「鳳凰殿」という形で目の前に現れたことに心奪われたのだった。これは1893年シカゴ・コロンビア万博において日本の神殿を非宗教的に改変して建設したものであった。この日本建築の基本要素は聖廟であり、これはゼンパーの炉に相当し、さらに基壇があり、非・構造的な襖・障子はゼンパーの網代的な壁に類比的であり、そして拡がり行く屋根が載っていたのである」。「プレーリーハウスの構成要素は、住宅の祭殿のように扱われる暖炉とその煙突、拡がり行く屋根、低い基壇」「そしてこれらの窓はしばしば連続的しており、屋根が壁の上に視覚的に浮いているかのように見せるものであった。そのことによって壁と屋根を分節もしていたのである。

日本建築の例はゼンパーの象徴的建築的体系の教義を単に補強しただけでなく、住宅建築の護られているという心理的感覚をも示していた。これはのちにAIA会長となるアーヴィング・K.パウンドが示したものであり、ジョン・ラスキンの「家」を反映したものでもあった」(27-29頁)。

「最終的にライトは彼が「内臓暖炉(integral fireplace)」と呼ぶものを生み出す。これは大きな煙突を外部に持ち、石造壁にくり貫かれた印象的な開口のことである」(30頁)。

「ラーキン管理棟からユニティ・テンプルからジョンソン管理棟へ、さらにグッゲンハイム美術館へと、大きな内部空間にバルコニーを設ける理由をライトはつねに帰結させる。このバルコニーは外部からは切り離されている。ある意味で彼の公共的な建築を訪れることは、外部世界を遮断し、内部を精神的なもので満たすようまさに強制することである。(全てではないにしても)多くにおいて、陽と水の詩がそこを支配している。住宅建築では詩的想像力は土と火と風に根ざしている一方、公共的な建築は水の領域にある」(61-62頁)。

カウフマン邸は地火風水の結節点にあるというべきか。

とともにゼンパーのシカゴへの到達時期と日本建築の到達時期についても要考察。

北川フラム『ひらく美術―地域と人間のつながりをお取り戻す』ちくま新書2015、北川フラム「瀬戸内国際芸術祭」、福武聰一郎 安藤忠雄ほか『直島瀬戸内アートの楽園』新潮社2011、金晴姫第6章、鎌田裕美第7章、古川一郎編『地域活性化のマーケティング』有斐閣2011

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メモ

「当初の数年、地元の方々から彼らは鼻もひっかけられず、無視されたそうです。集落でうまくうまくいかないことが起こると「日芸のせいではないか」と疑われたこともあったそうで、とにかく認められるまではと、歯を食いしばり何年も耐えたということです。想像はつきます。彼はその間、どんなグチも私にもらしませんでした。“彫る”という身体的な労働が、それらの人間的な、都会的なアレコレを超えさせる力だったのではないか、と私は想像します」(北川2015、54-55頁)、「地域に影響力があった市の文化協会のリーダー達は、具象と平面構成以外の抽象的な美術は嫌いなのです。彼らの一部が大騒ぎして、あらゆる工作をして北川追い落としが図られました。確かに「芸術は爆発だ」と叫んでいたアーティストがいたぐらいなのですから、現代美術は非常識、反体制、少数の変わり者の遊びだと思われていたのです」(ibid.p91)。「こういう土地で作品製作するというのは、まさに互いの理解のうえに成り立っていく未知のものに向かっての協働であり、土地という私有、知識という専有を離れた喜びのなかで進んでいくのです。そしてそこにできていくのは赤ん坊のような、不思議で楽しい、しかし手のかかるもので、美術は天からの贈り物のような媒介物になっていくのです。人の土地にものを作ろうとすることが私有制を超えていくのです」(ibid.p97)。「当初地域づくりの起爆剤を考えた時、それはディズニーランドやシーガイアなどのテーマパークではありませんでした。お金もない、長く続けることができるその土地にしかない固有のもの。参考になったのは四国八十八箇所巡りや、金毘羅さんの千段の階段、わざわざ山の上まで登る醍醐寺上醍醐など、おもてなしと身体全体を使った旅のことでした。そのままの土地の生活、そこを巡る身体いっぱい五感全開の旅と、すべてを受け入れたどんづまりのホスピタリティ。これをかたちにするしかない」(ibid.,p108-109)   

「芸術祭は、田舎で行われる、現代アートが中心の、お祭りでありたい。これが当初からの主軸です。しかし国際社会のなかでの、日本の政治的、経済的な迷走、凋落のなかで、どうやって田舎の人口減をストップし、農業を中心としたものづくりをし、生産力の低下という課題に対応するか?という根本的な問題があります。それらを解決するための旗、3年に1回の里程標として芸術祭を考えてきました」(ibid.,p119)。

「ほとんどのアーティストは日本(国家)が決めている模範や流行を消化するのにせいいっぱいなだけです。また凡百のアーティストは創造的なわけではありません。よく言ってみても修行中なのです」(ibid.,p151)。「しかし志ある人はどんな組織にもいるはずで、私たちは正攻法で、将来のヴィジョンを示し続け、理解できる活動をし続けなければならないと思います。それら政治の問題はともかく、知識人と呼ばれる人たちが、権力とマスコミの刹那的なこと、つながれば何でもよいこと、効率のよいこと、異質者の排除に向かっていることが問題なのです。それを戒めながらチームをつくっていかねばなりません」(ibid.,p162)。

「瀬戸内国際芸術祭は、2010年7月19日の海の日から10月31日までの105日間、直島・豊島・女木島・男木島・小豆島・犬島・大島の七つの島と高松を舞台に繰り広げられた。来場者は97万人にのぼった。世界中(18カ国・地域)から75のアーティスト・プロジェクトが集い、島に入り、作品をつくった。また16のイベントを行い、来場者を楽しませた。ボランティアサポーターの「こえび隊」には約2600名の登録があった」(北川2011、p110-111)。

「当時こへび隊のメンバーは100人強、初めての越後妻有に期待を膨らませていた都会の若者たちは、門前払いをされたり、胸ぐらをつかまれたりと、現地住民の冷たい反応に大変なショックを受け、泣きながら帰ってくる人もいたという」「「異質なものをぶつける。北川や渡辺がやってもダメ。最初は住民は全然動かない。だが、、若者、しかも都会の何も知らない若者を前面に出すとものが動き出した。結局は、人間の好奇心だと思う」(金晴姫2011,p201-205)。

「雇用面に関してはどうだろうか。越後妻有では現在、さまざまな形で通年100人ほどを採用している。芸術祭開催の年には400人ほどの雇用が生まれる。地元の住民は、作品の管理や説明など。自分たちの生活を表現してそれが収入になる。一方、瀬戸内では、緊急雇用創出基金実行委員会の直接雇用で県が272人、高松市、土庄町、直島町があわせて33人を雇用したほか、開催期間中に実行委員会の直接雇用で5人、BASNなどの関係団体で51人を雇用し、全体で400人弱となった」(金ibid.,p212)。

「1992年、現代アートのためのベネッセハウスによるミュージアムが開館する。安藤忠雄氏の設計による美術館で、ホテルを併設した「宿泊できる美術館」である。これ以降。現代アート作家の作品が屋外に展示されるなど、自然とアートを融合させる計画が進んでいく」(鎌田2011、p241-242)。「「現代アートによる地域づくり」が及ぼした直島の変化として、民宿などの宿泊施設やカフェをはじめとする飲食店が増えていることもある(直島町インタビュー調査)。筆者も約1年の間に数回訪問したが、そのたびに、カフェなどの飲食店が増えたことを実感した」(鎌田ibid.,p249-250)

 

G.R.Larson and R.M.Geraniotis, Toward a better undestanding of the evolution of the iron skelton frame in Chicago, Structural Iron and Steel, 1850-1900, edited by Robert Thorne, Studies in the History of Civil Engineering, Volume 10, Ashgate Publishing Li

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R.M.ジェラニオティス(Geraniotis)の論文がようやく入手できた。全体は鉄鋼構造史、各論文初出をそのまま合本したもので論文ごとに文字の大きさもフォントも異なり、また全体構成は第一章が水晶宮とその後、第二章が橋梁と展覧会建物、第三章が鋼フレーム構法の到来、という構成。本論文は第三章に含まれる。

前半はほぼHIB批判である。とはいえHIBが「初のスカイスクレーパー」ではないことはこの直前のカール・W.コンディットの論文でも述べられていることであり、「HIBは初のスカイスクレーパーではない」、「ジェニーはスカイスクレーパーの父ではない」という謂い自体が、それほど重要とは思えない。「スカイスクレーパー」「鉄鋼フレーム構造(シカゴ構法)」の問題はまた別に考えた方がいいようにも思える。

むしろ自然光採光のためにこの「構法」を用いたこと、desideratumとしてのdaylight(それは不動産価値に直接的に関係している)をジェニーが意識していたこと(304頁)は、ボウマンやブルックス・ブラザースとの共通の認識(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/franklloydwrigh.html)であったことを窺わせる。

さてボウマンの小論(Frederic Baumann, Improvement in the Construction of Tall Buildings, 1884 - Stolog)の位置づけである。この論文を今日の時点で読み返すと「ふむふむそうか」で終わりそうであるが、この論文はHIBより前に発表されており、なおかつこの論文で述べられていることは、まだ実現されていないフレーム構造のtall buildingなのであると、著者は述べる。

つまりボウマンはこの論文において概念として、そしてそれが概念上のものであるがゆえにより一層、純粋な構法を初めてここで前提とし、かつ論じている、ということになるのである。ボウマンはヨーロピアンだなとも言えるか。

とはいえ他方では、HIB背面の耐力壁がなければ通りに面したフレーム構造はまったく機能しないこと、EVバンクの向こうには(定型ではあるが)光井戸があること、背面耐力壁、前面フレーム構造(ただしジェラニオティスによれば構造的には完全なものではない)という見ようによっては明快な使い分けには留意しておく。

 

Sullivan, Louis H. The tall office building artistically considered. Lippincott`s Magazine, March 1896, MIT OpenCourseWare

 

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ルイス・ヘンリー・サリヴァンの重要論文であり、そのエッセンスが詰まった論文である。

まずサリヴァンの関心事はformにあり、本論もモダンオフィスビルディングの形(form)はどうあるべきかという点から論が起こされ、最終的な「法則(the law)」である有名な「形はつねに機能に従う(Form ever follows function)」が導き出されていく。ただしサリヴァンの述べる「機能」は有機主義的なものであり、このことがホレーショ・グリーノウとの関連性を参照させてきたものである一方、グリーノウとの関連は単なるこじつけのようにも見え、実際、グリーノウはここにあってはほとんど関係ないように見える。こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/function-and-fo.html)とこちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/adler-and-sulli.html)も。

前半部分はまさにマンフォードが『褐色の30年』で引用した通りで(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/towards-modern-.html)、しかしながらこの論文の主旨は『キンダーガーテン・チャット』の記述ともある程度は重複するが、それより後ろの部分にあるように見える。

まず「建築家」を「投資家・技師・施工者」と対比的に捉える視点、それもいわば詩人/芸術家としての建築家として捉える視点である。そのまま引用する。「投資家-技師-施工者たちによる忌まわしい想像される建物を超える段階、というのも建築家の手がいまや確かに確たる位置に感じられるなら徹底的に確固とし、論理的で、与条件の一貫した表現の示唆がはっきりしたものとなってくる」、「彼にディテールにいたるまで形の才能があるなら、それへのいくばくかの愛があるなら、その結果はさらに、その表現における簡明でまっすぐなナチュラルネスで完全なものにくわえ、魅惑的な情感をも持ち得るであろう」(3頁)。

サリヴァンがここから高層オフィスビルに見るそれゆえナチュラルな形の性質は上昇感(lofty)である(And at once we answer, it is lofty)。「高さの諸力(force and power)は栄光に包まれるに違いなく、そこには上昇のプライドがある」(3頁)。

有名な「形はつねに機能に従う」の前後の文章はこうである

「空を飛ぶ鷲がその翼をのばすときであれ、林檎の花が咲くときであれ、働き馬が歩むときであれ、あるいは明るい白鳥、枝分かれするブナの木、底流の渦巻き、流れゆく雲、何にもまして太陽の運行、これらにおいて形はつねに機能に従う。そしてこれは法である。機能が変わらなければ、形も変わらない」(3頁)。

ここから二つのことが窺える。一つはこの有機主義はいわゆる「技師の美学」とは異なるものであること、そしてもう一つはサリヴァンの最大の関心事は「形(form)」であること。

 

 

Eugene Viollet-le-Duc, The Habitations of Man in All Ages, translated by Benjamin Bucknall, Sampton Low, Marston, Searle, & Rivingston, London, 1876

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こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/theodore-turuk.html)に関連して。序文冒頭でヘーゲルの『哲学史』英語版の訳者(ジョン・シルビー)への謝辞が述べられている。ヘーゲルの言説のように大きな道筋を必ずしも描いていくというわけではないが(ところどころ地理的歴史的に飛躍する)、20世紀の風土論とされるものは19世紀のこうした諸言説の延長上に成立したのだろうとは思わせる。全体は「進歩主義者」のエパーゴスと保守主義者の「ドキシアデス」という二人の語り部の語りを交えて進んでいく。

まず最も原始的な小屋として登場するのはほぼオーストロネシアの転び破風/原始入母屋住居(http://madhut.hatenablog.com/entry/2017/07/06/234618)である。描写を引用する。

「エパーゴス:二本の木の先端をまず緊結し、円形(平面)状の木をそれに立てかけてゆくことを、それで誰が示したのか。それらのあいだをイグサや小枝やそれに編み上げられた長い草で塞ぎ、根を粘土で覆い、構造全体が連続的となることを、彼は示した。風雨が吹き込む側と反対側は開口のままとした。床には枝や葦を敷き詰め、泥は足で踏み均された。

その日の終わりごろには、この小屋は完成した。そしてナイリッティのそれぞれの家族は、それぞれの小屋を持ちたがった」(6-7頁)。

この小屋の制作者は「生物」と呼ばれていて完全な人類とはみなされていなようでもある。

ちなみに「アーリア人」に関する記述はこんな感じである。

「体格がよくハンサムで勇敢であるアーリア人は、これら有色人種のなかにあって優越な存在として自らを示し、命令するものとして生れ、(有色人種の)数にも関わらず抵抗の試みはすぐに放棄された」「抵抗の試みが抑えられると、アーリア人は征服した土地に永住することを考え出した。しかし征服された人種の住居はレンガや植物の茎でできており軽量で薄弱なものだったので、新たな征服者には向いていなかった。彼らは頑丈で抵抗者の攻撃や風雨をしのげる住宅を欲したのである」(45頁)。

これより少し前、人間の住居らしいものは「黄色人種(The Yellow Race)」によるもので、その住居は竹でできている。

「この建物はすべて竹でできている。茎によるトレリスは味わい深く構成されており、あらゆる開口を塞ぎつつ空気は通した」「厚い竹でできた大屋根は曲げられ葦で巧みに覆われていた。これが雨と熱から内部を守っていた。この覆いは厚かった」「建物は大きな石の基壇上に載り、この基壇は上部と完璧に一致しており、しかし不規則な形をしていた。内部も外部も彩度の高い色で彩色されており、とりわけ黄色と緑色が際立っていた」(30-32頁)。

「見ろよ、と相棒は言った。この見た目は弱い素材を用いながら、軽くて強い大きな屋根を造ることに彼らは成功している。これらブラケットがいかに器用に扱われていることか! 気候熱による不快を排除しつつ、室内を空気がいかに自由に流れていることか!」(35-36頁)。

続ける。

「しばし考えたのちエパーゴスはしかしながら、こう考えた。様々な長さや厚みのこれらの茎をフレームするというこのアイデアは、この素材をまず所有するところから始まる。しかしアーリア人が暮らす山にはこの種の植生はなく、たとえば仮に彼らがそれを持ちえたとしても、その高度の気候は、こうした構造体がシェルターとして機能するには厳しいものである。広く湿気のあるこの平野では反対に、これら「オープン・ワーク」の住居は最も適合したものである」(37頁)。

この「黄色人種」の住宅(ふとっちょフーの家)が具体的にどこのものかは定かではないが、アジア・モンスーン地帯のどこかを想定しているのではないか。

また幾何学の誕生は古代エジプトにおいてと見做され(ヴィルヘルム・ヴォーリンガーの言説もこうした19世紀の言説の延長上に成立したのだと思わせる)、のちのピタゴラス三角形(完全三角形)の辺のそれぞれに「オシリス」、「イシス」、「ルスス」の名前が当てられ、こうした幾何学の誕生が地震という外部与条件の観点から説き起こされている。

最終章はルネサンスについてである。こうしたところもヘーゲルとは異なる。

John Szarkovsky, The Idea of Louis Sullivan, A Bulfinch Press Book, 1956, reprinted 2000

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閑話休題的に。

こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/hugh-morrison-l.html)と、こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/h2012-7851.html)にも関連して。ちなみに著者のジョン・ザルコウスキー(1925-2007、MoMAディレクター1962-1991)は石元泰博(1921-2012)と大雑把にみて世代的に同じと言える。復刻版ではテレンス・ライリーの序文があり、そこで写真家アンドレアス・グルスキーによるグンナー・アスプルンド、ノーマン・フォスターらの写真と、トーマス・ルフによるヘルツォーク・アンド・ドムーロンの写真などについても言及されている。

基本的な構成はほぼ見開き頁にザルコウスキーによるサリヴァン建築の写真と、サリヴァンの著作からとられた箴言めいた言説等が並んでいくもので、サリヴァンの短いバイオグラフィーが途中に挿入されている。ここで年代記的に少し整理。

1856年9月生まれ

1873年不況でフランク・ファーネス事務所→シカゴ、同地でポートランド・ブロックを見てジェニー事務所入所(17歳頃)、ジェニー事務所には約半年、約1年のボザール留学。

留学後、ジェニー事務所であったエーデルマンの事務所等、いくつか(several)の事務所に5年勤務。

1879年、アドラー事務所入所

1880年-、アドラー+サリヴァン事務所

1889年、オーディトリアムビル

1890年、ウェインライト

1894年、ギャランティ

1894年、サリヴァン事務所

1896年、The tall office building artistically considered. Lippincott's Magazine, March 1896

1899年-1904年、シュレジンジャー+メイヤー

 

Joanna Merwood-Salisbury, The Gothic Revival and the Chicago School: From Naturalistic Ornament to Constructive Expression, Skyscraper Gothic, Medieval Style and Modernist Buildings, ed by Kevin D.Murphy, Lisa Reilly, University of Virginia Press, 2017

 

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 ジョアナ・マーウッド=ソルスベリー(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/joanna-merwood.htmlhttp://madhut.hatenablog.com/entry/2015/09/18/171408 )のペーパー。大雑把に述べて「思想/様式」から引き剥がされたとでも言うべきあり方で近代建築が成立したといった諸言説に対して、シカゴ派建築のなかにゴシック・リヴァイヴァル→ロマネスク・リヴァイヴァル→ゴシック・リヴァイヴァルといった思想/様式を読み取っていくものといえる。カール・コンディット(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/adler-and-sulli.html)ともどもマンフレッド・タフーリの論文( http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/manfredo-tafuri.html )も終わりの方で批判的に瞥見されている。

 ロマネスク・リヴァイヴァルは言わずもがなヘンリー・ホブソン・リチャードソンのリチャードソニアン・ロマネスクを嚆矢とし、これがマーシャル・フィールズを通してシカゴ等に広まったことはこれまでも述べられてきた。初期のゴシック・リヴァイヴァルと後期のゴシック・リヴァイヴァル(それぞれが意味するものは異なっている)については、これまであまり触れてこられなかったものである。

 

メモ

1920年代以降数十年にわたり、批評家たちはシカゴ派は様式の欠如によって定義されると固く信じてきた、たとえばスカイスクレーパーを可能にした新しい構法は、先行する歴史様式の参照をも無効にしたといった具合である。「シャルトルのゴシック聖堂に対するものと同じ関係が、モントークの高度な商業ビルに対する関係である」と建築家トーマス・トルマッジは1941年に書いた」(88頁)。

「米国の建築家がジョン・ラスキンやウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクから学んだものは固定した様式としてのゴシックではなく、柔軟で時代の利便に容易に適用できるものなのであった。このようにしてこれはスカイスクレーパーの理想的な先行者となったのであり、1880年代に広くその変形が用いられたのである」(89頁)。

このゴシックの例として、P.B.ライトのレノックスビル(1872)とジェニーのポートランドブロック(1872)、メイソンブロック(1880)が挙げられる。「尖頭アーチを持った狭い窓、自然主義的装飾、それに複数の色を持つ石とレンガの組み合わせ」という特徴によってである(90頁)。

「ゴシック・リヴァイヴァルの道徳的連想はシカゴにおいてとりわけ重要であった。ニューヨーク以上にシカゴは町全体が金儲けのためのアメリカン・ゴッサムと見做され、1833年の開闢以降、この中西部のメトロポリスはその市民の側の文化的感覚や精神的感性のなさ、そして建築の質の低さにおいて19世紀を通じてつねに軽蔑されてきたからである」(93頁)。

「ライト(1871年にシカゴにやってきた)やジェニーといった建築家の心中においてはゴシックを商業ビルに採用することは美的進化にぴったりだったのである」(93頁)。

 

後期のゴシック・リヴァイヴァルについての記述もメモ

「ゴシック・リヴァイヴァルは近代性や産業化の批判から、ビジネスそれ自体を道徳的冒険とする表現へと変容していったのである。地平線高く聳えるゴシック・スカイスクレーパーは産業化社会における調和という新しい時代の象徴を意図したのである」(105頁)。

 

この分野における研究者達の展開もだんだん見えてきた。

Joseph M.Siry, The Chicago Auditorium Building, Adler and Sullivan`s Architecture and the City, The University of Chicago Press, 2002

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労作である。

2003年の米国建築史家協会・アリス・デイヴィス・ヒッチコック賞を受賞している(https://en.wikipedia.org/wiki/Alice_Davis_Hitchcock_Award)。また「シカゴのオーディトリアム・ビルディング、オペラかアナーキズムか」という論文が『米国建築史家協会誌』1998年6月号にあり、これはおそらく本書のスケッチと思われる。

謝辞にはロバート・ブルーグマン、デイヴィッド・ヴァン・ザンテン、リチャード・エトリンらの名前が見え、そのロバート・ブルーグマンのホラバード+ローシュ論(http://madhut.hatenablog.com/entry/2016/09/12/200807)でも述べられていたことであるが、建築史と都市史はまったく別のルートをたどってきたといえなくもなく、少なくとも建築史についてはブルーグマンが示唆しているように美術史の一部として述べられてきたといえ、言い換えるならヴィンケルマン、ヒルト、ヘーゲルからギーディオンにいたるドイツ系美術史学の一つであれ、あるいはルドルフ・ウィットコウアからコーリン・ロウにいたるウォーバーグ派の流れであれ、あるいはベネデット・クローチェらのイタリア系その他であれ、そうであろう。

ちなみに「ニューアートヒストリー」についてオックスフォード・クイック・リフェレンス(http://www.oxfordreference.com/view/10.1093/oi/authority.20110810105459575)では、「マルクス主義記号論(意味論)、脱構築主義等の諸要素からなる、第二次世界大戦後に展開してきた様々なアプローチを包摂する用語であり、現代ではあまり適切ではなくなりつつある先行する美術史に対するものとしてある云々」となっている。この文脈ではマイヤ・シャピロなどの米国のマルクス主義美術史学などはむしろ異端であったように見えなくもない。

いずれにせよ、T.J.クラークの「芸術・社会史」(2008-09-26 - RCaO1.0 )やヴェネチア派のアプローチ/方法論(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/giorgio-ciucci.html)なども広い文脈でとらえるならこうした大きな潮流に含まれるように思われ、ついでに付言すれば英米系の実証主義に対してイタリアやフランス系の方法論主義などという謂いも、そもそも実証主義とは方法論の根底であり、程度の差はあれ実証主義的でない方法論というのも本来あり得ないはずではないだろうか。

いま仮に、そして昨今流通し始めた言葉を敷衍して述べ、そして建築史と都市史を連続的に述べ得る言葉があるとすればそれはやはり建造環境史、ということになるように思われる。

さて、本書におけるprotagonistをあえて述べるなら、建築家のダンクマール・アドラーでもなければルイス・ヘンリー・サリヴァンでもなく「伝説のディヴェロッパー」ファーディンナンド・ワイズ・ペックということになろう。ペックについでは既に1935年初版のサリヴァンについてのヒュー・モリソンによる古典的評伝(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/hugh-morrison-l.html)でも触れられている。米国が世界に先駆けて実現化した株式会社の手法を用いた「ジ・オーディトリアウム・アソシエーション」はこのまさに財務手法という点でも画期的であり、その財務を担いかつこのプロジェクトを主導したのがペックであった。protagonist云々と述べればソルスベリーの著作(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/joanna-merwood.html)にまさにズームアップの手法を取り入れたようでもある。

ヨーロッパであるなら、たとえばフランスの「国家建築家」であればそのパトロンは国家でありその財源はつまり国税であり、ドイツの建設総監つまり都市建築家であればそのパトロンは諸侯あるいはその地方国である、と言える。

米国においてはそのような「国家建築家」も封建諸侯も存在せず、株式会社あるいはアソシエーション、あるいは今日の言葉でいえば特定目的会社のようなもので資金を調達するしかなく、言い換えるなら文字通りそれはブルジョアの手による建築あるいは文字通りの都市建造物であったといえる。

そしてここで着目すべきと思われることの一つは、ヨーロッパの国家建築家や都市総監が手掛ける究極の建築がおうおうにして「オペラハウス」であったということであり、なおかつ収益性という点で見ればオペラハウスは資本主義の市場にはきわめてのって来ずらいものであるにもかかわらず、ペックらがここで計画したものもオペラ劇場的な劇場、それも当時世界でも最大級の劇場であったということである。収益性と相反するにもかかわらず、なぜ「劇場」なのか、ここにもうひとつのアジェンダがあるように思われる。つまり「文化闘争」である。

ジ・オーディトリアムが竣工した1889年に先立つ1880年代あるいはその前後のシカゴは、世界のいわば「階級闘争」の最前線であったことが瞥見される。ペックのような地元資本家も労働運動の指導者層も労働者階級の俗悪・低俗な文化に代わるものを模索していた。ただし、その方向性は一方は「オペラ」に体現されるもの、他方は「左翼の政治文化」に体現されるもの、と異なっていたとされる。ここで「左翼の政治文化」とされるもの、たとえばパレード、体操、合唱、等はドイツの民衆文化からきているのではないかと思えなくもない。実際、著者によればシカゴにおける資本家と労働者の「階級闘争」とされるものは、ペックのようなWASP先行者と大西洋を渡ってやって来た後発のドイツ系移民労働者のあいだの闘争としてもっぱら描かれている。面白いことかもしれないが19世紀米国でWASPとドイツ系移民のあいだで闘われたこの「階級闘争」は次の世紀ではヨーロッパにおいて二つの大戦争として戦われ、「左翼の政治文化」とされたものはその少なからぬ部分がナチによって換骨奪胎されたように見えなくもないかもしれない(ファシズムは左翼の失敗にとって代わる/ベンヤミン)。

また、本書ではまったく触れられないが、南北戦争終結後に南部農村地帯から北部の都市部へと流入してきた「移民」もこうした摩擦の要因であったかもしれない。たとえばヘイマーケット事件(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6)の共謀者として処刑されたアナーキストアルバートパーソンズは元・南軍兵士であり、戦後に北部に移住して社会主義者となりそしてアナーキストとなったとある(https://en.wikipedia.org/wiki/Albert_Parsons)。パーソンズらが発行していたアナーキスト系新聞はドイツ語紙ではなく英語紙であった。1890年のシカゴ市の人口の30%がドイツ系であり、また絶対数でいえばベルリン、ニューヨークに次ぐドイツ人都市であったことなども述べられるが、資本側もジーヴァイ・ライターはオランダ系など全てがWASPというわけではなく、英語、ドイツ語、それぞれ資本家側、労働者側の新聞が発行されていたという。

アナーキストの爆弾闘争」が「身近なもの」であったことはたとえばヘンリー・ホブソン・リチャードソンの歴史的名作・グレスナー邸(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/american-archit.html)がまるで城塞のようなデザインになっているのは、リチャードソンのマッシヴないわば「ラディカル・ボザール」によるものものだけでなく、実際に「爆弾から」身を守るようにして設計されたからであり、このグレスナー邸があった一帯は当時はシカゴのエリート資本家の邸宅地帯であり、一方では身を寄せ合って防御的に生活していた様も言われる。ジ・オーディトリアム・アソシエーションの構成員約200人もほぼこの一帯の住人であったという。

もう一点これも本書にはまったく登場しないが、シカゴ派のディヴェロッパーとして他方でしばしば名前が登場するブルックス・ブラザーズが終始ボストンを離れず、シカゴを不動産投資の対象として見、そこでの収益をボストンにおそらくまわしたことに比較して、地元資本家であるペックが「文化」(や教育)にかくもこだわったという点である。

闘争につぐ闘争にも関わらず終始揺るぎない「博愛主義者」であったと、ペックはされる。この点はニューヨークのロックフェラーがまた敬虔なプロテスタントであったという、何か覚醒した「狂気」に近いものを感じないわけでもない。

収益性の見込みのない劇場は収益性を上げるために他のプログラムと組み合わされる。地上部分の商業施設にくわえ、上層階のオフィス、そして必ずしも収益性が高いわけでないが劇場よりは収益性があるホテルなどである。ホテルはこののち米国の今度は都市間競争の舞台として、用いられていく。

大規模・複合・施設がヨーロッパではなくなぜ米国で生まれ、都市環境建造物の一類型となり、もっと述べるならあるいは向井正也に倣って述べるなら「モダニズム」とは「大資本主義様式」でなぜあるかが、その仕組みの原点が読み解かれるといえなくもないかもしれない。

とはいうもののジ・オーディトリムは収益性という点ではやはり文化に重きを置いたものであり、竣工後・配当金が支払えず、ペックはアソシエーションの会長を解任されている。

 

方法論について確認するのは、そろそろ一段落してもいいような気がしてきた。

 

 

 

 

デイビッド・J.スタインバーグ『フィリピンの歴史・文化・社会、単一にして多様な国家』堀芳枝、石井正子、辰巳頼子訳、明石書店、2000年、萩野芳夫『フィリピンの社会・歴史・政治制度』明石書店、2002年、鈴木静夫『物語フィリピンの歴史、「盗まれた楽園」と抵抗の500年』中公新書、1997年、石井米雄他『東南アジアの歴史四』弘文堂、1991年、帝国書院編集部『世界の国々1、アジア州1』帝国書院、2014年、小松義男『地球生活記、世界ぐるりと家めぐり』福音館書店、1999年、歴史教育者協議会編『フィリピンと太平

 

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 ざっと目を通す。

 ラテン・アメリカで至る処に記されているスペイン人の残虐非道ぶりはフィリピンでも同じ。ただしフィリピンではスパニヤードだけでなくさらにメキシコ人の傭兵が支配側に加わる。マニラとアカプルコのあいだの「海のシルクロード」ことガレオン貿易を支えたのは中国からの移民で、これもまたラテン・アメリカとは異なる。

 とはいえここではフィリピン史を見るわけではない、ものの、シカゴ派とマニラの因縁のようなものもまた見えなくもない。米西戦争後、米国はフィリピンにおいてウィリアム・タフトによる友愛的融和策とアーサー・マッカーサーによる過酷な軍政をいわばアメと鞭のように使い分けた植民地政策を実行する(これはのちの日本の「内鮮一体」や「三光作戦」のモデルとなったものかもしれない)。そのタフトの融和策の一つが社会資本の充実、言い換えるなら都市計画である。

 タフトはマニラ他の都市計画のためにダニエル・バーナムをマニラに召還している。「マニラ」についてはこちらも(https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/77/681/77_2545/_pdf)。ついでに述べればマリオ・マニエリ=エリアによれば(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/giorgio-ciucci.html)、バーナムはマニラに向かう途中に合衆国大統領特使として日本に立ち寄り、日本の天皇外務大臣海軍大臣陸軍大臣らに面会し、また当時日本は日露戦争前という状況もあって軍事パレードを観ている。さらに述べれば、日本は米西戦争に際して米国側についてスペインと戦争している(日西戦争)。米国太平洋艦隊がマニラに向かう途中に日本の寄港地を提供し、さらにマニラ湾封鎖に海軍を派遣もしている。米西戦争自体が1885年のキューバ革命と翌年のフィリピン革命に便乗したものであり、スペインが植民地でいかに現地住民を苦しめているかをプロパガンダし、現地住民を解放すると称しての戦争だったとすると、米国のこうしたやり方はこの時代あたりに原型が出来たのかとも思われ、同じく軍事的に強そうな国と同盟を結んで火事場泥棒的に参戦する日本のやり方も、だいたいこの時代あたりから始まっているのかとも思えてくる。J.A.ホブソンが述べた「帝国主義」時代の始まりでもある(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/imperialism-a-s.html)。

 バーナムはマニラ以外にも「夏の首都」バギオの計画を手掛け、バーナムパークは彼の名前に因んだものという。「シティービューティフル」は植民地においてこそ部分的に実現したことになるのだろうか、いつものことながら。

 米国の捕鯨業の衰退が始まる契機は1859年のペンシルヴェニアにおける石油の採掘(歴史教育者協議会、6頁)。

 またフィリピンの住居群でまず目が行くのはその屋根形態である(小松、242-247頁)。果たして初めてそれらを見た素人がその構造体をもよく理解したかどうかは吟味してみる必要がある。

 

布野修司 田中麻里 チャンタニー・チランチャット、ナウィット・オンサワンチャイ、『東南アジアの住居 その起源・伝播・類型・変容』、京都大学学術出版会、2017

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 フィリピン住居については第一章「オーストロネシア世界」の住居で触れられるにとどまる。

 全体は序章で「住居の原型」が概観され、第一章でオーストロネシア世界他の「伝統的住居」が概観され、第二章で主にインドシナ半島の住居が概観され、第三章で同地域の都市型住居(ショップハウス)に焦点が当てられ、さらに第四章と終章でメガロポリス化していく同地域の都市状況について述べられていく。第一章はロクサーナ・ウォータソンの書(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20080214)の主題と共通する部分があるようにも見え、第四章と終章は東大・村松研の研究主題と共通するものがあるようにも見える。

 

メモ

『世界ヴァナキュラー建築百科事典EVAW』全三巻、『世界住居誌』(布野修司編、2005)

 

「建築は、一般的には屋根、壁、床によって構成される。最も重要なのは屋根を支える建築構造である。建築構造あるいは架構方式によって空間の規模や形は大きく規定される。

構造方式、架構形式を大きく分けると、

SA 天幕構造、

SB 軸組構造(柱梁構造)、

SC 壁組構造(組積構造)、

の三つに区別される。」(15-16頁)

「2-3|高床-海の世界

 天幕構造の住居とともに広大な地域を移動した陸上の遊牧民たちに対して、海上を移動する海人(シー・ノマド)の世界がある。彼らの住居は、海や川、湿地の上に床をつくって建てる高床式住居である。地面から離して空中に床を設ける住居の原型は、樹上住居である。床を地面から離すことで、湿気を防ぎ、洪水を避け、また猛獣や害虫を防御するというのは、居住しにくい環境に暮らすために人類が選択した、ひとつの解答である。もともと、人類は樹上に生活していたのである。パプア・ニューギニアコロワイ族の樹上住居が知られるが、インドネシア中南米の熱帯降雨林に実際に見られた。より一般的な高床式住居であれば世界中に見られるが、集中するのは東南アジアである。

 スンダランドを揺籃の地とするモンゴロイドが住みついたのは太平洋沿岸であった。アボリジニやパプア人はその末裔である。しかし、彼らの言語は近接するインドネシア語タガログ語オセアニア語とは系統を異にする。そこで考えられているのが第2派となる集団の移住である。オーストロネシア語族と呼ばれるその集団は、東はイースター島から西はマダガスカル島まで実に広大な海域世界に分布する。

 その源郷は、台湾もしくは中国南部と考えられている。紀元前4000年から3500年にかけて、まず先オーストロネシア語系民族が台湾に移住し、紀元3000年頃フィリピン北部へ、紀元2500年から2000年にかけてフィリピン南部からボルネオ、スラウェシ、マルク方面へと次々に拡散していったというのである。

 ブラストは、古オーストロネシア語を復元することによって、原初オーストロネシア文化の特徴を、1 米と雑穀耕作、2 杭上の木造家屋、3 豚、犬、水牛、鶏の飼育、4腰機による機織り、5 弓矢の使用、6 土器の製作、7 錫など金属についての知識、と推定した。

 高床式(杭上)住居も様々な形式がある。しかし、オーストロネシア世界全体に同じような住居形式が建てられ続けてきたと思わせるのが、ドンソン銅鼓の分布とそこに描かれた家屋文様である。また、石寨山などから出土した家屋模型である。ミナンカバウ族、バタック族などの住居の屋根形態は、そうした家屋紋によく似ているのである。オーストロネシア世界の高床式住居については第1章で詳しく見たい」(27-29頁)。

「2-4|井籠-森の世界

 木材が豊富にあるユーラシア大陸および北アメリカの北方林地帯に分布する井籠組壁構造(木造組積造、ログ構造、校倉造)については、先に触れた通りである。この井籠組壁構造の起源については議論があるが、黒海周辺で発生したという説が有力である。そうした意味では、森の世界の住居の原型と言えるであろう。森の世界でも熱帯降雨林の場合は、木は豊富であるが、暑さと湿気の問題があるから、一般的には熱帯には向いていない。しかし、東南アジア地域にも井籠組壁構造をみることができる。黒海周辺起源説に基づくと北方へシベリア方面に向かったものと、南方へインドシナ半島を下ったものとの2系統を考える必要がある。東南アジアの井籠組壁構造については第1章でみよう」(29頁)。

「1-6|海の世界

 一般に海の世界は人間の居住空間とは考えられない。しかし、海上に集落を建設する例もなくはない。海は古来豊富な資源をもたらし、交易のネットワークを支えてきた、水上居住あるいは船上住居という居住形態も珍しくない。海の世界とそれをつなぐ交易拠点は、陸の世界と同様極めて重要である。世界史的な交易圏を考慮すると、アジア大陸は、東アジア海域世界、東南アジア海域世界、インド洋海域世界、地中海海域世界に囲われ、成り立ってきた。建築の様式や技術も海の世界を通じても伝えられる。フィリピンのルソン島の山岳地方にはイフガオ族の住居など、日本の南西諸島の高倉形式と同じ建築構造の住居がある。明らかに両者の間には直接的関係がある。高床式の建築の伝統はさらに広範である。その建築の伝統を支えた海の世界がオーストロネシア世界である」(59頁)。

「東アジアの島嶼部の大部分で用いられている言語はオーストロネシア語であり、世界で最も大きな言語族を形成している。最西端のマダガスカルから最東端のイースター島まで、地球半周以上にわたって分布し、東南アジア諸島全体、ミクロネシアポリネシア、そしてマレー半島の一部、南ヴェトナム、台湾、加えてニューギニアの沿岸部までにもわたる。この広大な諸言語は、全て、プロト・オーストロネシア語と言語学では呼ばれる。少なくとも6000年前までは存在していたらしい言語を起源としているとされる。言語学的な足跡は自然人類学や考古学の分析結果ともかなりよく一致し、新石器時代の東南アジア諸島における初期移住の状況を物語っている。

 プロト・オーストロネシア語の語彙の分布を復元することによって、人びとの生活様式が窺える。住居は高床式であり、床には梯子を用いて登ること、棟木があることから屋根は切妻型であり、逆アーチ状の木や竹によって覆われていたこと、そして、おそらく、サゴヤシの葉で屋根が葺かれていたこと、炉は、壺やたき木をその上にのせる棚と共に床の上につくられていたことなどが語彙から窺われるのである。

 新石器時代に高床式住居が発達していたことはタイの考古学的資料によっても裏付けられている。西部タイで、三千数百年から二千数百年前頃の土器群が発見され、バンカオ文化と呼ばれている。言語学者ポール・ベネディクトが復元したプロト・オーストロ・タイ語は、「基壇/階」「柱」「梯子/住居へ導く階段」といった単語を含んでいるという。すなわち、高床式住居は、オースロトロネシア語族(特にその下位グループとしてのマラヨ・ポリネシア語族)と密接に関わりをもっているとされる」(61-62頁)。

「2-3|住居の原型-ドンソン銅鼓と家屋文鏡

 東南アジアの住居が木造(あるいは竹造)の高床式であったことは、プロト・オーストロネシア語の復元によって推測されるのであるが、具体的な形態が分かるわけではない。東南アジアはインド文化の洗礼を受け、続いてイスラーム文化の波を受けた。基層文化としての土着文化は、インド文化、イスラーム文化と混淆してきた。漢文化の影響は断続的にある。そして、住まいの伝統を考える上で決して無視し得ない西欧列強による植民地化の長い歴史がある。ヴァナキュラー建築の形態がどのようなものであったかを明らかにするのはそう容易ではない。

 しかし、相当以前から各地域の住居は今日と同じ様な形態をしていた。また東アジアの住居が共通な起源をもつのではないかと思われる手がかりがある。ひとつは考古学的出土物に描かれた図像資料、もう一つは各地につい最近まであるいは現在も建てられている住居そのものである。すなわち、その2つに類似性が認められるのである。

 大きな手掛かりとなるのが、ドンソン銅鼓と呼ばれる青銅鼓の表面に描かれた家屋紋である。また、アンコール・ワットやボロブドゥールの壁体のレリーフに描かれた家屋図像である。さらに中国雲南、石寨山などから発掘された家屋模型の墓葬群で、数多くの家屋銅器、家屋紋が出土し、住居の原像を考える大きな手がかりを与えてくれる。そして、日本にも家屋文鏡、家屋模型が出土している。

 まず、ほとんど全ての図像が高床式住居である。古くから高床式住居が一般的であったことが明らかである。そして、わかりやすいのが屋根形態である。切妻、寄棟、方形、円形屋根など様々な屋根形態があるが、注目されるのは、「転び破風」屋根、あるいは船型屋根もしくは鞍型屋根といわれる屋根形態である。棟が大きく反りかえり、端部が妻壁から大きく迫り出している極めて特徴的な形態である。この「切妻転び破風」屋根は、バタック諸族の住居、ミナンカバウ族の住居、トラジャ族の住居を代表例とし、大陸部ではカチン族など、島嶼部ではパラオなどにも見られる。東南アジアの住居についてひとつの共通のイメージを抱くことができるのはこの特徴的な屋根形態の存在があるからである」(62-63頁)。

「2-4|原始入母屋造・構造発達論

 何故、オースロロネシア世界という広大な領域に共通の建築文化が想定されるのかについては、木造の構造力学的原理に関わるもうひとつの理由も挙げられる。木材を用いて空間を組み立てる方法は無限にあるわけではない。荷重に耐え、風圧に抗するためには、柱や梁の大きさや長さに自ずと制限がある。架構方式や組立方法にも制約がある。歴史的な試行錯誤の結果、いくつかの構造方式が選択されてきているのである。そうした問題を考える上で興味深いのがG.ドメニクの構造発達論である。ドメニクによれば、実に多様に見える東南アジアの住居の形式を、日本の古代建築の架構形式も含めて、統一的に理解できるのである。

 ドメニクは、東南アジアと古代日本の建築に共通な特性は「切妻屋根が棟は軒より長く、破風が外側に転んでいること」(「転び破風」屋根)であるという。そして、この「転び破風」屋根は、切妻屋根から発達したのではなく、円錐形小屋から派生した地面に直接伏せた原始的な入母屋の屋根で覆われた住居(原始入母屋住居)とともに発生したとする」(66頁)。

 

→Domenig G.(1980) Tectonics of Primitive Roof Building: Materials and Reconstructions Regarding the Phenomenon of the Projecting Gables on Old Roof Forms of East Asia, Southeast Asia, and Occeania, ETH Zurich

G.ドメニク 構造発達論よりみた転び破風屋根、入母屋造の伏屋と高倉を中心に (杉本尚次編 1984

 杉本尚次編

日本のすまいの源流―日本基層文化の探究 (1984年) ?

住まいのエスノロジー―日本民家のルーツを探る (住まい学大系) 単行本 – 1987/12/20 ?

 

Robert A. Blust

Austronesian Languages (Cambridge Language Surveys) (英語) ペーパーバック – 2001/5

 

 

拙訳書での「支那」という言葉の使用について

 拙訳書『テクトニック・カルチャー』では「支那」という言葉を使用している箇所があります。これについて留学生の方からこの言葉を使用する意図は?という趣旨のeメールをいただきました。

 誤解や曲解があるとよくないと思い、どなたでも目にすることのできるブログにも、回答文を載せておこうと思います。

 

 メール有難うございました。

おそらくヨーン・ウツソンの章のことをおっしゃっているのではないかと思います。

ウツソンと12世紀宋の時代に著された『営造方式』ほかの話が出てきます。

  この書の翻訳作業を行っていたのは1990年代末で、当時は岩波書店広辞苑』が信頼できる辞典とされていました。

 そこには「中国」は中華民国または中華人民共和国の略称、「支那」は一般的な地域の呼称、といったことが書かれていたと思います。

 ですので、「中国」でも「宋」でもなく、一般的地域としての「支那」という意味で用いています。「他国を侮辱」する意味はありません。

  今だと、(どこまで信頼できるかはともかく)簡易検索としてwikipediaを参照すると、 

中国 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD

(中文版 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9C%8B 、ハングル版 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%A4%91%EA%B5%AD 異なることが書いてあるかもしれませんが) 

 

 中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。

 近年は[いつ?]、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている[1][2][3]。現在[いつ?]ではその地域に成立した中華民国中華人民共和国に対する略称としても用いられる。

 

 とあり、二行目はかつてと同じですが、1行目はもう少し広い定義での使用も述べています。

  また

 支那 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E9%82%A3

(中文版 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E9%82%A3 、 ハングル版 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%A7%80%EB%82%98 異なることが書いてあるかもしれませんが)

 では諸説いろいろありますが、用法として 

 

1、漢民族とその土地・文化等に用いられる、王朝や政権の変遷を超えた国号としても使用可能な通時的な呼称[6]。

 

という中性的な意味で『テクトニック・カルチャー』では用いています。

またこの頁を下にスクロールしていくと「学術的な使用」という項目があり、そこでは

 

学術界における「支那(シナ)」の使用は、

概念と用語に厳密であろうという学術的態度。

シナの部分だけを指す王朝や政権の変遷を超えた国号としても、使用可能な固有名詞の呼称が存在しないこと。

等に起因するものであり、使用者側の政治的立場との関連性は見られない[47]。

 

と述べられています。

重ねて述べると「他国を侮辱」する意味はまったくありません。

 ただおっしゃるように、そのすぐ後の「言論での使用」で

 

「主に右派で使われることが多く」、「インターネット上では、中国に反感を持つ層が「シナ」を使う例が多い」

 

とも述べられ、

また、前の方に少し戻って(この言葉の)歴史という項目では、

 

「当初「支那」は同様に歴然として辱めた意がなかった。中華民国成立以前の日本公文書においてもいくつか支那の使用例は存在する[5]。しかし佐藤三郎は」「実藤恵秀も日清戦争後には日本人の「支那」という言葉には軽蔑が交じっていたと指摘している[15]。」

 

と述べられ、「学術的使用」以外に、言葉としての歴史を背負ったものであるのも事実なのだろうと思います。

 

ですので、「他国を侮辱」する意味はまったくありません。

ただ言葉としては、おっしゃるように難しい言葉かもしれません。