Stolog

メモ

Terence Riley, Portrait of the Curator as a Young Man, Philip Johnson and The Museum of Modern Art, Studies in Modern Art 6, The Museum of Modern Art, New York, 1998

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 フィリップ・ジョンソンMoMAについてのアンソロジーからテレンス・ライリーのペーパーに一瞥を与えておく。

    フィリップ・ジョンソンのフルネームは、フィリップ・コーテルユー・ジョンソン(Philip Cotelyou Johnson)(35頁)。

 ジョンソンは弱冠24歳で新設MoMAの建築部門のディレクターに指名され、近代建築展の1932年から機械芸術展の1934年までを務め、大恐慌下の極右的政治状況においてこの展覧会後に罷免され、11年のブランクののち、再びMoMAに戻ってきた、という(35頁)。この1932年から34年まではしかし、ジョンソンによってまるで連続打ち上げ花火のように企画が打たれている。 まず有名な『近代建築、インターナショナル・スタイル展』(1932)、『初期近代建築展』(1932)、『中西部の若手建築家展』(1933)、『選ばれなかった建築家展』(1933?)、『住むための住宅展』(1933?、ルイス・マンフォードに参加要請して開催された近代建築展の一環、と佐々木宏氏がその著で述べていたのはこの展覧会のことか?)、そして『機械芸術展』(1934)である。

 『近代建築展』では建築家ミース・ファン・デル・ローエにジョンソンが生活していたニューヨークのアパートのリノヴェーションを依頼しているし、『選ばれなかった建築家展』はいわば建築のアンデパンダン展のようなもので、ジョンソンはこのときサンドイッチマンを雇って建築家連盟でデモをさせたという。後者はフランス絵画における印象派の手法を彷彿させなくもなく、またジョンソンの一連のあり方に著者はエドワード・バーネイズの「プロパガンダ」と同質のものを見ている。

 バーネイズのプロパガンダの手法の一つは「仮想敵」を作りだすことで、近代建築展ではたとえば国内のボザールを含むエスタブリッシュされた建築家とヨーロッパにおける社会主義的建築家がこの仮想敵に充てられたとされ、そして初期近代建築展では「だが、エンパイアステートビルクライスラービル、それにロックフェラーセンターの造形にプライドを持っていたニューヨークでは、スカイスクレーパーの大衆的に人口に膾炙した歴史を見直すこのキュレータの視点に、プレスはいささか唖然とした。匿名の記事、「スカイスクレーパーはニューヨークにおいて誕生したと通常そう考えられているのに対し、この展覧会はシカゴにおいて誕生したと考えるよう強いているようだ」、『ニューヨークサン』のヘンリー・マクブライドは「フィリップ・ジョンソンは早死にするのではないか?ニューヨーカーが彼を殺してしまうのではないかと、私は恐れる。彼が最近しでかしたことをご存知か?スカイスクレーパーはシカゴで誕生したという趣旨の展覧会を彼はMoMAで企画したのだ」(46頁)として、ニューヨークがこれに充てられたとする。

 こうした側面があったことは留意しておく。

ジュディス・バトラー+ガヤトリ・スピヴァク、竹村和子訳『国家を歌うのは誰か?』岩波書店、2008

 

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    いちおう「批判的地域主義」概念の整理のために一瞥しておく。大雑把に述べて、前半ではおもにバトラーが語ってスピヴァクが聞き、後半ではその役割が反転という感じで、「批判的地域主義」が登場するのは後半、57頁以降である。

    書名は本文中に登場する、スペイン語で合衆国国家をストリートで移民が歌う挿話から来ているのだろうと推測する。つまり、「非常にドラマチックだったのはロサンゼルス地域です。そこでは、米国国歌がまるでメキシコ国家であるかのようにスペイン語で歌われました。「ヌエストロ・ヒムノ」(我らの歌)の出現は、国民の複数性つまり「わたしたち」や「わたしたちの」という興味深い問題を提起しました。非ナショナリズム的あるいは対抗ナショナリズム的な帰属形態に寄与するのは何かという問いを立てるときには、グローバル化について語る必要があるでしょう。ガヤトリが答えてくれると思いますが、このデモで主張されているのは、国家を歌う権利、つまり所有の権利だけではなく、多様な帰属形態でもあるのです。というのもここには、「我ら」に含まれるのは誰なのかという問いがあるからです。「我ら」が歌い、スペイン語で自己主張するとき、それはまさに国民についての考え方や平等についての考え方に働きかけます。それは大勢の人たちが一緒に歌っているだけでなく(たしかにそうなのですが)歌うということが複数性の行為となり、複数性の表明となっているのです。このときブッシュが言ったように、米国国歌は英語のみで歌われるべきなら、国民は明らかに言語的多数民を意味することになり、国に帰属しうるのは誰かを定める決定的な統制手段が、言語になるのです。アーレント流に言うなら、それはナショナルな多数民が自分たちが望む条件で国民を規定しようとし、さらには、自由を行使できる人を定める排除規定を打ち立て、それを取り締まりさえする契機ということになります」(43頁)という挿話である。

 ジュディス・バトラーが論を立てる起点は、ハナ・アーレントの『全体主義の起源』のなかの「国民国家の没落と人種の終焉」の章である。

 ずいぶん昔に読んだものゆえうろ覚えだが、同書においてアーレントナチス・ドイツから亡命者/難民として逃れ、国籍を持たない亡命者/難民、あるいは国家の外部に存在せざるを得ないものがいかに惨めであるかを、これでもかこれでもかと論じていたように思う。アーレントは最終的に、陰鬱なヨーロッパから西海岸のスタンフォードへと逃れ、そこでアメリカ国籍を取得し、平穏な市民生活を送るようになる。まずはめでたし、という話になっていたようにも記憶するものの、これはバトラーが述べるように今日では敷衍的な問題を含んでいる。つまり、ジョルジョ・アガンベンの述べる「ホモ・サケル」(や「例外者」)、POW、それに移民や難民、さらには「主権国家の紛争解決手段としての戦争」とは異なる「テロ」の問題も、ここに含まれてくるであろう。

 バトラーの主張は「アーレントに逆らって読むこと」(19頁)であり、「ひとたび追放されれば、その人は剥き出しの生の空間に追いやられ、その生(bios)はもはや政治的身分とは何のつながりもなくします。ここで「政治的」という意味は、市民の地位にいることです」「むしろここでもっと重要なことは、放棄された生-追放と包摂の両方を受けている生-は、市民性を奪われた瞬間に、まさに権力にどっぷりと浸ると理解することです。市民権に関する事柄を包摂しつつ、さらにそれをも超えるのが「権力」だという考えを使って、「国家/状態」の二重の意味を解き明かさねばなりません」(27-28頁)である、と言える。

 これに対してスピヴァクの鍵概念が「批判的地域主義」である。それはまず「重要な点は、規制ナシの資本主義に反対することであり、無審査で資本主義国家の一員となることにユートピア的特質を見出すことではないのです。国家の再創成は国民国家の枠を超えて、批判的地域主義に入っていくことです」(57頁)と言われる。さらに(アーレント/バトラーの論を受けて)「国民国家の衰退を、抽象的な福祉構造への転換とみなすこともできるでしょう。それこそが、グローバル資本と闘う批判的地域主義に向かうものです。ハンナ・アーレントは資本主義を資本の次元ではなく階級の次元で考えていますが、わたしたちに必要なのは、国家的でないもの-国家によって決定されていないもの-が決定力をもつことに気づくことです。まさにこれが資本ですが、アーレントはこれについては思考しませんでした。

 グローバル化する資本は何をおこなうのか。ちょっと考えてみましょう。グローバル化する資本の動き(資本本来の性質ですが、加えて昨今はテクノロジーの進展でさらに加速されています)は、かならずしも国民国家に関係しているのではなく、また悪しき政治に関係しているものでもないことを、念頭におかねばなりません。資本の動きのために、脆弱な国民経済と国際資本のあいだの障壁は取り払われ、その結果、国家は再配分能力を失っていきます。優先事項が国家に関係することではなく、グローバルなことになっていきます。現在存在しているのは、市場モデルに倣った経営的国家です」(58頁)と、アーレントが見落とした点と、グローバリゼーションにおける国民国家の衰退とを整理して見せる。続ける。「アーレントは無国籍を、国民国家の限界を示す兆候と捉えました。このタイプの解釈はマルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』に連なるもので、そこで彼は、ブルジョア革命は行政執行部のさらなる権力強化の下地を作ると解釈しています」「一見してブルジョア革命は議会制民主主義と市民参加の可能性を呼び込んだようですが、実際にそれが行ったのは行政執行部の権力強化であることをマルクスが示しましたが、これはよく知られていることです」「わたしが言いたいのは、パフォーマティヴな矛盾ではなくて宣言的なもの-普遍的な宣言-のなかに存在している権利のことで、それは国家(アーレント)と革命(マルクス)の両方の失敗のうえに成り立っているということです」「この線に沿った典型の一つは、(帝国主義でも共産主義革命でもなく)古いかたちの社会主義運動で、国家の腐敗から市民社会を守ろうとした国家外集団です。過去の推進力の残滓が、今、国家の再考にますます関心を抱いているようです」(59-60頁、和訳は日本語としておかしくないか?)。「そのような協力の最初のプロジェクトは、第三世界の名のもとに1955年にバンドンで開かれた第一回アジア・アフリカ会議です。現在ではブルガリアのグループが、批判的地域主義に必要な構造的変化について構想しています。ペティア・カバクチエヴァの仕事はとくにわたしには興味深いです」(61頁)。

 さらに続ける。「批判的地域主義は、ナショナリズム、さらには民族を母体にした副次的ナショナリズムに陥る可能性をもっており、また他方で、トランスナショナルなエイジェンシーも国民国家によって国民国家になりますので、なかなか扱いにくいのです」(64-65頁)。

 「デリダはここでカントの知識体系に目を向け、カントが世界や自由を考えたときに生み出した「あたかも・・のよう」の概念や、コズモポリタン的普遍主義と戦争との関係では、来るべきグローバルな民主主義を思考したり、それにコミットすることができないと述べています。またわたしがここでまで述べてきたように、ハンナ・アーレントは無国籍を語るときに国家と国民を別物と考えていたので、彼女にもう一度目を向けることも重要でないわけではないのです。デリダはのちに『友愛のポリティクス』のなかで、生まれと市民性の連結を解体しようとするこの試みを、系譜学の脱構築と呼んでいます。批判的地域主義が始まるのは、まさにここなのです」(66-67頁)。

ハーバーマスなどのヨーロッパ知識人はコズモポリタンな民主主義について語りますが、それはデリダが問題視したこととであり、わたしはデリダの影響下にあるということです。コズモポリタン的普遍主義の概念はグローバルな民主主義の未来を生み出さないというデリダの意見に、賛同しています。わたしが語ったのは、民族や階級のことではありません。わたしが語ったのは、あたかも運転免許証を取るようにあらゆる再配分構造を扱えるような、国家の抽象的構造なのです」(71頁)。

  「ここで言っておきたいのは、批判的地域主義は分析ではないということです。まだ毛が生えたばかりのプロジェクトではありますが、それには歴史があり、わたしたちにとってそれは、たとえば女の人身売買や、HIVエイズとともに生きる女の経験から生み出されたものです。ジュディスにとっては、それはパレスティナの経験から生み出されたものでしょう。その粘り強い批判は、永遠の説得者としての知識人という、グラムシの概念を導きいれるかもしれません。だからそれは分析ではないのです」(83頁)。

ジークフリート・ギーディオン、『空間 時間 建築2』太田實訳、丸善、1969

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 この書の表題になっている「空間 時間」についての部分を再読。K.マイケル・ヘイズの「ポストヒューマニズム」では「主体/主観」の問題として捉え直されていたものを、一応「空間」の問題としても見ておく。第四章「新しい空間概念:時-空間」では、しかしながらその解説はきわめて短い。→http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/1931-193921969-.html

 著者が美術史家であることを勘案するなら、「立体派によるルネサンス以降の線遠近法の解体」から話を起こすのは自然として、ただし立体派を説明するのにアルフレッド・バーに依拠している点は留意しておく。原書は1941年でアメリカを意識していたとはいえ、ヨーロッパの芸術運動について記すのにMoMAの言説に依拠して書いたということには、留意しておく。

 以下、「空間 時間」についての記述、メモ。

 「時-空間

立体派は、対象の外観を有利な一点から再現しようとしたのではなくて、対象の周りをめぐり、その内的構成を把握しようとしたのである。彼らはちょうど、現代科学が物質現象の新しい水準をも包括するような記述方式を拡張してきたように、感情を表す尺度を拡張しようとしてきたのである。

立体派はルネサンスの遠近法と絶縁している。立体派は対象を相対的に眺める。すなわり数多の観点から見るのであって、そのどの観点も絶対的な権威を持っていない。こういうふうに対象を解析しながら、あらゆる面から、上からも下からも、内からも外からも、同時に対象を見るのである。立体派はその対象の廻りをめぐり、対象の中に入り込んでいく。こうして、幾世期かにわたる構成的事実として優位を占めていたルネサンスの三次元に、つまり時間が加わったのである」「いろいろな観点から対象を表示するということは、近代生活に密実な関係のある一つの原理、同時性、を導き出す」510-511頁。

 運動性を言いながらギーディオンはヴォリュームという言葉はまったく用いていない。他方ではMoMAにおけるヴォリューム概念では運動性/時間性についてはほとんど触れられない。もう一点、ヴォリューム概念はメイヤ・シャピロによる印象派とその環境の関係からも分析を加えてみてもいいのではないか。→http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/index.html。シャピロとクラークの論は補強材料として使える可能性は十分あろう。

 ついでに。K.マイケル・ヘイズがポストヒューマニズムアルチュセールを引用しながら主体/主観の問題として記述しているものは、上野千鶴子にあっては「構築主義」と述べられているものである。

 これもメモしておく。

 「二〇世紀の思想的な発見のひとつは、言語の発見であった」「ソシュールからラカンに至る構造主義系譜をたどれば、言語は他者に属する。そしてその他者に属する言語に従属することを通してのみ、主体は成立する。したがって主体の集合が社会を成立させるわけもなければ、主体は社会に外在するわけでもない」「構築主義が対抗しているのは、本質主義である」「ポスト構造主義は、構造主義が「差異の体系」とみなした空疎な構造を、やがて実体現するに至ったことに強く反発し、その決定論的性格から逃れようとした」上野千鶴子編、「はじめに」『構築主義とは何か』、勁草書房、2001、i-iii頁。

 さてもう一度ギーディオンに戻る。http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/11969-b78b.htmlでは方法論について述べた。しかしながらあらためてギーディオンと、マンフォードやヒッチコックの記述を比較すると、後者には前者にはあるものがすっぽり抜けている。言いかえるならこの抜け落ち、もっと述べればこの削除は意図的なものではないかと思えてくる。ギーディオン(唯物論的に)ともどもしつこく構法について述べながら、近代的な空間概念について述べるのにある部分を意図的に削除し、さらには同時に米国建築史を効力批評的にさえ描いていると言えるが、ここから反照されるものがあるはずである(→バンハム「シカゴ・フレーム」論もこれは同じである)。

 

Henry-Russel Hitchcock and Philip Johnson with a new foreword by Philip Johnson, The International Style, W.W.Norton and Company. Inc., 1932

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念のため英語版で「歴史」、「第一原理」、およびフィリップ・ジョンソンによる1996年の新たな序文を確認する。

 

まずジョンソンによる1996年版への序文からメモ。

「1930年5月のパリで、バーは私をヒッチコックに紹介した。すぐさま我々全員にとって目下の新しい様式が関心の的であることを感じ取り、それを見て回るのにヨーロッパ中を車で旅行することを決めた。1930年と31年のこの三人での旅行は私にとってよい教育となった」「3人のなかではラッセルが素晴らしい目を持っていた。彼は卓越した歴史家であり、我々の本のテキストは彼のものだった。バーはきっぱりしたイデオローグで「インターナショナル・スタイル」を大文字で始めることを主張していた」「マルクス主義者と建築の社会的側面に興味を持つ一方の側からは、デザインとスタイルを強調することに反対された。彼らは人間活動の源泉としての大文字の芸術を信用しておらず、テクノロジーと利便性にしか興味がなかった。他方では老建築家たち(20代だった我々からすれば)は、現代建築の薄っぺらで過剰に単純化されたハコ、短絡的で白く、キャラクターがなく、誰でもできる構造、に激怒した」(14-15頁)。

「今日でも1920年代の主要な出来事と認識されているヴァイゼンホフジートルンクを考えてみよう。ミースは参加者に「スタイル」を強制しなかったか? 全て白のスタッコ、陸屋根、大きな水平窓。「様式」という言葉は十分興味深いことにアカデミズムによってではなく、実務的建築家によって課せられた制限だったのである」(16頁)。

 

続いて第二章「歴史」からメモ。

「フランスにおけるペレによる鉄筋コンクリートを用いた構法は支持体のスケルトンの分節を目に見えるものとし、壁は柱間の単なるスクリーンとなった。第一次大戦前のそれぞれのヨーロッパ諸国ではそれゆえ、インターナショナルスタイルというコンセプトは別個のものとして出てきたのである」「しかし、未来を約束された様式が最初に登場し、戦争までに最も急速にそれが発達したのは、アメリカにおいてである」「(リチャードソンに続いて)ルートとサリヴァンが鋼鉄スカイスクレーパー構法から演繹し、変更を加えそして後続世代は本質的に変えた。彼らの1880年代と90年代の仕事はまだほとん知られていない」(41頁)。

この頁(41頁)に「シカゴ派(the Chicago school)」という言葉が本書において一度だけ登場する。

 

続いて第四章「第一原理、ヴォリュームとしての建築」からメモ

冒頭は実質シカゴ構法についての解説。

「支持体が金属であれコンクリートであれ、距離を置いて見れば水平線と垂直線の格子に見える」「今や壁は単なる二次材であり、支持体のあいだに張られたスクリーンかそれらの外側に下げられたシェルなのである」(55頁)。

「これまで建築の主要な特質であると考えられてきたマスの効果、静的な密実性は全て消えていった。それに代わったのがヴォリュームの効果であり、より正確にはヴォリュームを境界付ける平面表面の効果である。建築の主要な象徴はもはや密実な煉瓦にではなく、開放的なハコにある」(56頁)。

「保護膜のみで覆われたスケルトン構法では、マスという伝統構法への敬意から道をそれようとしない限り、ヴォリューム表面の効果が達成される」(56頁)。

「われわれの工場ではクライアントが飾り立てようとしない限り、ヨーロッパの機能主義者の構法のようになる。たとえ建築家が(ヴォリューム原理という)受容すべき原理を決して受容しない場合でもヴォリューム表面のように明快かつ効果的に存在する」(58頁)。

ヨーロッパの機能主義者とアメリカの工場建築が同列に並べられていることには留意しておく。

「ヴォリュームは非・物質的で無重力として、幾何学的に境界付けされた空間として感じられる」(59頁)

「それゆえヴォリュームの表面原理の公理として、支持体であるスケルトンにぴんと張ったスケルトンのように、表面は効果として連続されるべきであるというさらなる要求がある」(59頁)。

「標準化されたユニットで耐蝕性と耐久性のある金属の軽快で単純な窓枠は美学的にも実務的にも望ましい」(61頁)。

バルセロナ・パヴィリオンでは壁はスクリーンだが、固定したヴォリュームを定義していない。柱に支持された屋根の下のヴォリュームはある意味で想像上の境界によって境界付けられている。壁はこの統合的なヴォリュームのなかに独立したスクリーンとしてあり、それぞれ分離した存在として、また下位のヴォリュームを創出するものとしてある」(62頁)。

「ある特定の構法に起源があることも、将来における可能性も、どちらも忘れることなく、インターナショナル・スタイルが発展するほどに、ヴォリューム表面という原理に確かでたゆまぬ指針を、建築家は見出すべきなのである」(63頁)。

 

 

William Mundie

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シカゴ美術館マイクロフィルム・アーカイヴ所蔵、ウィリアム・マンディーによる原稿。すべてタイプ打ちで、「ウィリアム・ル・バロン・ジェニー、マサチューセッツ州フェアヘヴン1832年9月25日生」というジェニーの生涯についての短い伝記と「スケルトン・コンストラクション」というビル構造についての同時代史のようなものからなる。後者は出版予定だったのかもしれないが、出版はされていない。全体的にいささか幼稚な作文という印象がなくもなく、ただジェニーのパートナーとして同時代のオーラル・オーラルヒストリーを辿る感じになるかもしれない。

 

メモ、以下すべてSkeleton Construction, Its Origin and Development Applied to Architecture(1887,1893,1907,1932)

 

「シカゴ最初の建築家ジョン・M.ヴァン・オスデルによる1844年の『初期シカゴ回想』にならって40年遡行しよう。」(12頁)「建築的にはこの時期のシカゴはプリミティヴであり、ループ内の街路沿いの建物は3-4階建てに抑えられていた」(15頁の表記があるが14頁?)。

「(大火までに)ビジネス地区の建物は5-6階建てとなった」(14頁)、「高い1階を持つ9階建てのモントーク・ビルは1888年に竣工した。これはデザインにおける画期的な進歩だった。重い耐力壁の外壁と、内部の鉄の柱と小梁、中空タイル床と間仕切壁からなっていた。この建物において鉄製レールがフーチングの成を低くするのに用いられた」「(1883年の貿易ビル、1884年のロイヤル・インシュアランス・ビルは)同じ耐火構造を用い、傑出したものだった。シカゴの建築はデザインと構法において再生したように見えた。さらに水力式昇降機によって階高や床に関わらず床を貸すことが実務的に可能になった。

1883年の後半、ニューヨークのホームファイア・インシュアランス社がシカゴに新しいオフィスを出すことを検討した」「社長のマーティン氏のジェニーへの要望。2階以上の小割にされたオフィスに十分な光を供給するものを最大限、これが窓間の付柱をして荷重を負担するには小さすぎるものになることは認識している。ジェニーの返答。自分が考えていた主要な特質もそうであり、」(16頁)。「マーティン氏は証券マンになる前はエンジニアでジェニーのデザインを精査した、(この頁はHIBのデザインの合意過程について)(17頁)。

「ここがビル構造の転回点だった・・以下交通システムについての記述」(18頁)。

HIBにおいては橋梁エンジニアのジョージ・B・ホイットニーが雇用されたこと(18頁)。

カーネギー鉄鋼社とベッセマー鋼の記述は22ページ。フェニックス社の錬鉄に代わってベッセマーの梁が使用された可能性(22頁)。→ただし6階より上、柱は鋳鉄製(23頁)。

1890年前後のHIBの影響について(23頁)

以下、各建物についての記述が続く。このなかにはジェニー+マンディー以外のものも含まれるが、最も明快なスキーム/立面を持つものの一つである1892年のLudington Building(https://en.wikipedia.org/wiki/Ludington_Building)についての記述はない。

第一ライター、第二ライター、HIB、フェアビルについての記述は再考。ルディントン・ビルについての当事者の記述はどこかにないのか?

Frederic Baumann, Improvement in the Construction of Tall Buildings, 1884

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しばしば言及されるフレデリック・ボウマンのパンフレット。

3頁のペラで文字通りパンフレットである。シカゴ美術館のマイクロフィルム・アーカイヴのものにはバウマン直筆の1914年のメモが冒頭と末尾についている。

またシカゴ美術館のマイクロフィルムには他も “Regarding method of strengthening party walls and existing foundations to accommodate tall buildings,” “Shielding Goods in Tall Buildings”(いずれも書かれた年は不明記)があり、そして3つとも表題に高層建築(tall buildings)が付いていることから、ボウマンの主要な関心は建物の外皮より高さにあったのかなとも思わされる。二つ目のものは既存基礎のフーティング下に薄い耐圧版を挿入することで耐力を増そうというもの。

さて内容である。

建物の使用者は利便性、安全、光そしてエレガンスを求めるという前提のもと、これらをうまく統合することが高い家賃をもたらすのだと主張している。この点から鉄の構造体は耐火性能を持ったエレガントな被覆で覆われるべきと述べる。これが鉄・内蔵構法のアイデアと言う。

以下、その詳細が21項目にわたって述べられる。1、鉄の強靭な胴体(hull)または骨組(skelton)に築かれるべきであること。2、まず外側から建設されるべきこと。3、しかし室内工事は外皮より速く進む。屋根は2か月以内に架けられる一方、外皮は4層以上に進むことはない。4、屋上に起重機を設置すればその後の外皮工事は楽になる。5、そのあいだも室内工事はどんどん進む。6、それゆえ室内工事は一旦終わりプラスターの仕上工事に入る、そのかん外皮工事はすすむ。7、よってこの構法は天気に影響されにくく、速く進む。8、シカゴでは実務上12層以上の建物が建てられる。9、光は最も欲されるものである(ここでボウマンはdesideratumという言葉を既に用いている)。10、付柱は光を内部に多く取り込むために見付・見込とも薄くされるべきである。11、外皮を支える直立柱は突起した一連のブラケットとしてなされること。12、外皮ライニングは火災その他のダメージを受ける可能性があるのでブラケットは独立させるべきであること。13、大梁は両端で柱に剛接合されるべきであること。これは構造体を堅固なものとし、大梁の剪断耐力を1.5倍にする。14、小梁の両端は大梁に剛接合されるべきであること。これは小梁の耐力を20%増加させる。15、よってヴォールト、間仕切り、火を用いる場所は小梁を小さくするため大梁上に配置すべきであること。16、このことは鉄材の節約になること。17、ヴォールトは4×5フィートで9インチの多孔煉瓦からできるが、床と天井に軽量鉄製プレートを挟ませると4トン未満となる。18、ファイアプレースは1トン未満となる。19、それゆえヴォールトとファイアプレースは大梁上であればどの階でもどの位置でも設置できる。20、8階建ての場合、外皮の鉄柱にかかる費用はそれによって減じられる石材の費用とほぼ相殺されること。21、8階以上の建物であれば、この構法を用いた方が工費は安く上がる。

以上の21要点を記したのち、建物の建設にあって最も重要なアイテムは、光、利便性、空間、時間であると述べている。

最も重要なアイテムの筆頭に「光」が挙げられていること、また「空間、時間」が並んで挙げられていることには注目しておく。

 

 

Carl W. Condit

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こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/jenney-and-the-.html)で読んだカール・コンディットの著作のジェニーについての部分の再読。

 

メモ

「初期の鉄フレーム構造についての英国の主導的歴史家であるA.W.スケンプトンは聖オーウェン倉庫をホームインシュアランスに類比する位置に置いている・・・だが鉄フレーム構造のもう一つの外国のソースはヴィオレ=ル=デュクの『建築講話』でありこれは1881年に米国に訳出されている。この書においてフランスの歴史家・理論家は鉄製部材のスケルトン構造でヴォールトを囲むアイデアを述べているが、この計画はしかしながら多層構造には適さない」

「ジェニーにより身近なものだったのはシカゴの技師・フレデリック・ボウマンによる1884年に印刷されたパンフレット『高層建造物の構法改善』で提起されたものである。ボウマンはここで彼が呼ぶ「高層建物の鉄骨隠蔽型構法」が、高層建物の堅牢性、採光、それに建設の施工性と経済性に有益であると主張している。ホームインシュアランス・ビルのプランの準備期にこの論文は書かれているが、しかしジェニーはバウマンを知っていたのでもっと早くに意見交換がなされていたかもしれない。

ソースが何であれ、建物をして石を着込んだ甲殻類からただ薄皮一枚に覆われた脊椎類へと進化させる大きな一歩を、ホームインシュアランス社のシカゴオフィスのコミッションを得たその次の2年で彼はなした。この建物は1931年に解体されるまでラサール通りとアダム通りの北西角に建っていた。スカイスクレーパーの大元祖であり、大規模都市構造物への最初の適切な解答だった。この業績一つだけでもジェニーの名声を不朽にするに十分だが、彼はさらにその技術的発明に適切な建築的表現を与えるところまで進んだ。彼がなしたことは構造的であるとともに審美的なものでもあったのであり、たとえその潜在性が完全なものになるのは1890年の第二ライタービルを待たねばならぬとしても、そうなのである。ホームインシュアランスの構造システムはディテールを部分的にジェニーの技術助手であったジョージ・B.ホイットニーに負っている。

この建物の構法と機能の配列は既に確実であった技術から直接的に単純に出自して来ている。フレームは柱・梁の連続からなるもので、柱鉄円柱と錬鉄角柱と錬鉄と鋼鉄のI型梁を結合することで床荷重を支えている。リンテルとマリオンは鋳鉄、6階より上のスパンドレルの小梁と大梁はベッセマー鋼によるもので、それゆえこの素材の建物への最初の使用を記すものとなった。これは合衆国において三つの橋梁においてのみ使用されていたに過ぎない。セントルイスのイアーズ橋(1868-74)はシカゴのビルダーにとって最も影響が大きいものであった。ホームインシュアランスのフレーム部材はアングルとウェブとガセットプレートによってボルト固定されていた。」(82-3頁)

 

 

 

 

 

 

 

ヤーコプ・フォン・ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』日高敏隆・羽田節子訳、岩波書店、2005年

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 前半の生得的な環世界から後半に登場する経験によって獲得される環世界、さらに作用像が知覚象を発生させる、幻覚的な環世界までが論じられる。環世界の原語はUmweltで、これは各主体にとっての知覚世界(Merkwelt)と作用世界(Wirkwelt)から形成されるとされる(7頁)。有名なマダニの例を冒頭に持ってきたのはこれが最も理解し易いからであると思われる。

 とともに、環世界は空間的なものだけでなく、時間もまた、「時間は主体が生み出したものだとはっきり述べたことは、カール・エルンスト・フォン・ベーアの功績である。瞬間の連続である時間は、同じタイム・スパン内に主体が体験する瞬間の数に応じて、それぞれの環世界ごとに異なっている。瞬間は分割できない最小の時間の器である」(53頁)であると述べられている。人間にとっての「瞬間」、最小の時間単位は1/18秒であるとされ、なぜなら触覚的にも視覚的にも聴覚的にもこれ以上小さな時間単位を人間は知覚することができないからであるという。知覚主体としての人間にとっての時間はこの1/18秒の時間が連続して形成されるものだということになろうが、たとえばベルクソンのいう「時間」なども実はこうした環世界的に構成された時間であると見ることも可能なはずである。

 同じようにして「環世界」的な空間とは、たとえば戸坂潤がその『空間論』で述べた「直観空間」つまり「空間表象」のあり方であると措定することは可能なはずである。戸坂は空間を「直観空間」、「幾何学的空間」、「物理的空間」に分類しているが、一般に「均質空間」と呼ばれるものは「測定」を解して認識される幾何学的空間以降のものと、さしあたり述べ得る。

 

アリストテレス『形而上学(上)、(下)』出隆訳、岩波書店、1959、1961年、『詩学』岩波書店、1997年

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前者は今日「自然科学」と呼ばれるものについての考察と大雑把に言える。本論はさておき、はじめの方で「棟梁術」となっているのはおそらくアルキテクトニケ・テクネのことではないかと思われ、アルケーとかテロスとかそれほど深い意味で考察しなくともこれは「棟梁」や「棟梁術」との関係で考えていておいてもよいのであろう。ところがなかほどまで読み進めてくると今度は「建築家」という言葉が登場してくる。この「建築家」という言葉ははじめの方で出てきた「棟梁」と同じ言葉なのか異なる言葉なのか、個人的にはおそらく同じ言葉をうっかり異なる訳語で訳出したのではないかと推測する。

いずれにせよ「建築家」は「教養人」として出てくる。

そしていずれにせよ、西洋における「建築家」の意味合いが異なってくるのはルネサンス以降のことであり、とりわけアルベルティの“creative thinker”(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20080819)以降のことと見てよいと思われる。

さて『詩学』について。

詩、詩作はポイエンインつまり創作であると一般的に理解されているふしがあるかもしれないが、詩学において最も重要なものは実は構成であると読める。この点でもあらためてセルゲイ・エイゼンシュタインの『モンタージュ論』が本書を参照し、そのエイゼンシュタインモンタージュの理論通りに制作した映画が『戦艦ポチョムキン』であり、つまりはアリストテレスの本書『詩学』を基本に据えたものであったということが思い出される。エイゼンシュテインが同作において踏襲したものは五幕の悲劇形式であったが、その悲劇形式は本書においては教養ある観客を対象とした叙事詩に対し、低俗な観客を対象としたものであったと述べられている。裏を返して述べるなら、エイゼンシュテインは映画という当時の新しいメディアを、それが対象とする観客をも含めて古典のセオリー通りに用いて制作したということである。

 

 

 

 

 

 

 

 

板谷敏彦 『金融の世界史 バブルと戦争と株式市場』新潮社2013

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メモ

「こうした状況を変えたのが、大規模な資金調達を必要とする鉄道という事業でした。そしてイギリスよりも州単位で立法するアメリカの方が、企業誘致の競争上の観点から、この問題に早く対応することになったのです。

1837年にコネチカット州で、株式会社設立に、特許会社のようにいちいち法律を造る必要がなくなり登記だけですむようになると、各州が競争して障壁を下げる方向にすすみました。現在の我々に馴染みの深い「登記だけで会社が設立できる制度」は、この頃から始まったものです。

イギリスは少し遅れて1844年に共同出資法が制定され、自由に株式会社を設立できるようになり、1856年の株式会社法によって有限責任法の諸条件が撤廃され、株主の有限責任が一般化しました。登記だけで株式会社が設立でき、株主に出資分以上に損をすることがなくなったと同時に、無限責任の支払い能力を求める必要もなくなり、相手を気にせず株式を自由に売買できるようになったのです。株価はゼロより下へはいかなくなったのです。そして「1862年会社法」と、それに追随したイギリス以外の各国の新しい法律によって、規制から解放された会社が、19世紀末の最初のグローバル化黄金時代を形成することになります。『株式会社』(クロノス選書)を著したジョン・ミクルスウェイトとエイドリアン・ウールドリッジは、この法律を「株式会社の発明」と呼んでいます。」(144-145頁)

連邦政府は、軍資金調達のための国債消化に苦慮していました。戦争と国債は、切っても切れない関係にあります。北軍のペンシルベニア州は300万ドルの州債を発行しようとしましたが、1841年に一度デフォルトしていたので信用がなく、全く買い手がつきませんでした。

そこに、その当時フィラデルフィアの駆け出しのプライベート・バンカーだったジェイ・クックがこれを引き受けて、州民の「愛国心に訴える」ことでなんとか乗り切ったのです。

クックは一口の販売単位を個人でも買える50ドルにまで落として、投資家の裾野を広げ、地方新聞の広告欄をフルに活用し州債の認知度を上げたのでした。」「この国債販売は、アメリカの証券投資家人口の裾野を広げ、その後の米国における証券投資販売の基礎となりました」(150-151頁)

 

ルイス・マンフォード「第三章 近代建築へ向かって」『褐色の三十年』、富岡義人訳、鹿島出版会、2013

 

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こちらの書(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/2013-7c39.html)の第三章、この部分(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/towards-modern-.html)の和訳である。

 あらためてリチャードソン、サリヴァン、ライトという建築家を主軸とした米国建築史はマンフォードのこの書あたりで始まったのではないかと思えてくる。

 他方ではジェニーについてはほんの一言だけ、「そしてついにウィリアム・ル・バロン・ジェニーのホーム・インシュアランス・ビルディング(一八八五年)で、完全な鉄骨構造が実現され、外壁は耐力部材から耐火カーテン部材へと変わり、各部材がそれぞれの階で支えられることになったのだ」(139頁)と述べられるに留まる。しかしながらこれはかなり重要な記述ではなかろうか、というのもこれはまさにMoMAにおける「近代建築展」の主要なコンセプトを準備したものだったからであり、言いかえるなら本書の初版が出版された1931年に1932年の「近代建築展」のコンセプトがマンフォードによってほぼ出来ていたと述べ得るからであり、にもかかわらずマンフォードはそのコンセプトが生成された別のところにあたかも米国建築史の主軸があるかのように述べているからである。またヒュー・モリソンのサリヴァン評伝(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/hugh-morrison-l.html)が出版されるのが1935年である。つまり1930年代に米国建築史の軸となるものが書かれたと言っても過言ではなく、その視点はつまり著者たちの「近代建築」から「近代建築へ向かって」という視点において歴史が記述あるいは組まれた、あるいは組み直されたと述べ得るものであり、それでありながらその主軸となる視点からは主要である出来事がほぼすっぽり抜け落ちており、言いかえるならその主要な出来事が主要なコンセプトの生成あるいは成立そのものでありながら、著者達の視点にはそぐわないものに見えたのであると見做し得ると述べ得る。

 とともに著者達の「近代建築」という視点はその対象である「近代建築へ向かって」いく対象とは無関係ではあり得ない。

 これをhindsightというのは可能かもしれないが、あるいは効力批評(operative criticism)と見做すことも可能なのかもしれないが、この二つの時代を行ったり来たりせねばならないとも言わねばならない。Inter-というのは、時代的にもInterであることを要求する。

 

マルクス+エンゲルス『共産党宣言』大内兵衛・向坂逸郎訳、岩波書店 1951

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 まず1888年英語版への序文に目が行く。ここで著者たちは英国他の社会主義者を批判して「共産主義者」という概念を提出している。「社会主義者」とは「1847年には社会主義者といえば、一方ではさまざまの空想的体系の信奉者、すなわち、すでにともに委縮してしまって単なる宗派となり、次第に死滅しつつあったイギリスのオーウェン主義者やフランスのフーリエ主義者を意味し、他方では、膏薬をべたべたはって、資本にも利潤にも危害を加えずに、あらゆる種類の社会の弊害を取り除くことを約束する種々雑多な社会的やぶ医者を意味した。両方とも労働者運動の外部に立ち、むしろ支持を「教養ある」階級に求める人々であった」「社会主義とは、少なくとも大陸では、「サロンに出入りできるもの」であり」(26-27頁)と述べている。名前が挙げられるわけではないがしかし、1849年に『建築の七灯』を上梓したジョン・ラスキンの中世的社会主義も、ここでの批判対象の範疇に入るのであろうと思われる。もっと述べれば19世紀英語圏の建築家に大きな影響を持っていたラスキン主義とは「サロンに出入り」する「教養ある階級」のものとしてここでは批判対象の範疇に入ると思われる。

 他方ではこれに対する著者たちの「共産主義者」の描写に目が行く。つまり「社会の全面的改造の必要を要求した部分はみずからを共産主義者と称した。それは粗野な、粗削りの、純粋に本能的な共産主義であった」(26-27頁)である。これは何とも美学的描写ではないだろうか。つまり「粗野な」「粗削りの」「純粋に本能的」、これらの形容は19世紀の建築論者や美学論者が「原始人」に対して用いたものとほとんど相同であり、さらに美学的にはまさに「崇高」の範疇に入るものであるからである。言いかえるなら、社会に根底的な力を及ぼす「崇高なもの」、伝統的には「崇高な自然」などと描かれてきたものと相同的なものとしてあるいは反・都会的なものとして、ある人間集団あるいは「階級」を描写しているということである。

 とともに米国におけるマルクス(主義)受容の速さにも目が行く。『共産党宣言』の英語版はロンドンではなくニューヨークで初版が出版され、パリ・コミューンの総括の最初のものはヨーロッパではなくシカゴで出版されたという。

 1848年に初めて出版され、6月暴動の直前に仏語訳がパリに運び込まれたという本書において著者はブルジョアを既に「階級」として措定し、また「階級」について「こうしてプロレタリアは階級へ、したがってまた政党へ組織される」(56頁)と述べ、階級は「党」を持つとしている。ところで他方、T.J.クラークは『絶対ブルジョワ』においてこの時代のブルジョワはまだ階級(class)ではなくポジションであったと述べ、さらに同書冒頭での1848年2月革命の描写において「フォブール・サンドニ地区からは『ル・ナショナル』紙の読者である洋品商たちが、フォブール・サンアントニン地区からは『ラ・レフォルム』紙の読者である職人衆が・・・バリケードへとやって来た・・・」と述べ、この革命の軸となったものは党ではなく、『ル・ナショナル』や『ラ・レフォルム』といった新聞であったことを暗に指摘している(以下)。

d.hatena.ne.jp

 ケネス・フランプトンの『テクトニック・カルチャー』では20世紀末以降のグローバリズムにおけるスペクタクル社会を19世紀中葉の社会の変容に準えていたが、実際、19世紀中葉のヨーロッパ社会はかつてないほどのグローバル化のなかのスペキュタキュラーな時代・社会であったことが、本書の記述からは見えてくる。ヘーゲルの精神史を転倒し、実証主義と何か化学反応を見るかのような記述はそれ自身、19世紀のエピステーメーではあるかもしれない。

 さて、生産様式の変容と建築の様式の変容。時代精神(Zeit Geist)という言葉にもしもヘーゲル的な含みがあるとすれば、それは生産様式の変容であるとともにそこでの精神のありようを見ていくことでもあるかもしれない。ふたたびクラークの方法論、「歴史とそれに固有の決定因との遭遇は、芸術家自身によってなされる。彼がたまたま遭遇した構造の一般特性の発見へと、芸術・社会史は乗り出すのである。ただしこの遭遇の特定条件を位置づけてもみたい」「これらは、芸術はときに歴史に効果的であるという理念に、われわれをたち返らせる。ほかの諸活動や出来事や諸構造と同じく、芸術制作も歴史的プロセスであり、それは歴史におけるとともに歴史に対する諸行為の連続である。それは意味の構造のある特定の文脈においてのみ理解可能である。だが今度はそれがこれらの構造をときとして変え、そして破壊もする。芸術作品はその素材としてイデオロギー(言い換えるなら、一般的に受容され、支配的な理念、イメージ、価値観)を持っているだろうが、しかし作品はその素材に作用する。それは素材に新しい形式を与え、あるときその新しい形式自身がイデオロギーを破壊するものとなろう」。

 ここで「芸術家」と呼ばれているものを「建築家」に置き換えてみる。

 歴史とそれに固有の決定因との遭遇は建築家自身によってなされる。彼がたまたま遭遇した構造の一般特性の発見へと乗り出すのである。ただしこの遭遇の特定条件を位置づけてもみたい。さらに生産様式のある変容があったとして、建築家はそれにどう対応し、何を考え、何を表現しようとし、何の美学をもたらし、また建築はあるイデオロギー(言い換えるなら、一般的に受容され、支配的な理念、イメージ、価値観)を素材として持っているであろうが、そのイデオロギーに形式を与え、そしてあるときその新しい形式自身がイデオロギーを破壊する可能性を孕む可能性を持ち得ることを、・・・で起こったことを見ていくのである。

 

9 Noncommercial Work, 10 The Home Insurance Building, 11 Commercial Work,1886-92, 12 The World`s Columbian Exposition and Last Works

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「フランス・ラディカル理論の論者にして構造の改革者として、建築の革命を彼はなした。あらゆる革命がそうであるように、それはいくつかの段階を経ている。1885年に最初の段階が始まり、1885年から1892年が英雄的段階、そして1893年がテルミドールとなる」(302頁)

 

「デュランやヴィオレ=ル=デュクの哲学に体現される建築左派に彼は固執した一方、1869年の最初の論文からボザールに対しても多くの積極的な特質を見出していた」(304頁)

 

ジェニー評伝の最終四章。非・商業施設はリチャードソニアン・ロマネスクのものをはじめ、ジェニーのなかでは派生的な仕事と言っていい。

ホームインシュアランス・ビルにはまるまる一章が割かれている。その外見上の後退にもかかわらず、構造においては耐力壁との混構造であった第一ライタービルよりも鉄の柱・梁によるフレーム構造へとより純度をあげていることが指摘され、このあたりの記述はカール・コンディットの外観をもとにした評価とは対照的である。つまりコンディットは構法に評価の力点を置きながら構法そのものを見ておらず、外観で判断していたということになるだろう。

またルイス・マンフォードが述べていた「ミネソタの建築家バッフィントン」の特許問題はこのホームインシュアランスにバッフィントンが霊感を受けたものであり、ジェニーは当然それに抵抗したことも記述される。

構造のこの純化はさらに第二ライタービル、そしてシカゴ・フレームの象徴としてコーリン・ロウらによって取り上げられるフェア・ビルにおいてはほぼ完全なスチール・フレーム構造が完成されることとなる、とされる。

最終章はコロンビア博について。「1950年代に建築史の勉強を始めたものにとって世界コロンビア博は米国建築に否定的影響を与えたと教えられてきた。サリヴァンによる、これはその後50年にわたって米国建築を破壊するだろうという謂いは彼の死の直前での自伝において述べられたもので、博覧会当時において述べられたものではない」(303頁)。

ジェニーはむしろこの博覧会に好意的に関わったことが述べられる。そもそもサリヴァンもバーナムもともにジェニーの弟子であり、著者の考えではジェニー晩年においては反ボザールという立場よりも親・フランス的心境が勝ったのであろうと推測している。

コロンビア博が提起した問題は、のちのルナパークやコニーアイランドなどの問題提起に連なっていくものであり、これはこの時期に登場し始めた大衆消費社会の問題(マンフォードならそれを帝国と関連付けて論じるかもしれない)や、都市の問題としてもっぱら論じられるものであり、建築単体の構法、美学、社会的問題とはまた別の次元において主に論じた方がより生産的であると思われる。

Jonna Merwood-Salisbury, American Modern, The Chicago School and the International Style at New York`s Museum of Modern Art

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『Chicargo 1890』の著者・ジョアナ・マーウッド=ソールズベリーのペーパー。

academia.eduでダウンロードできる。年代等は不明だが近年に違いなく、頁の打ち方からしてアンソロジーか何かに収録されたか収録される予定だったものと思われる。

『シカゴ1890』(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/joanna-merwood.html)の終わりの方では、MoMAの『近代建築』展における耐力壁からカーテンウォールへというフィリップ・ジョンソンらによって付けられた鮮やかな道筋ののち、その1年後の『初期近代建築、シカゴ』展についても言及されていたが、やはり後者の展覧会は前者に付随するものであり、前者において示された視点をもって米国内部におけるそれに相応しい起源を探すべく、シカゴの建築を渉猟して組織されたとある。

またこれらの点からしても「シカゴ派」という命名が登場するのはおそらくこの時代であり、この流れにおいてジョンソンらに先行するルイス・マンフォードの著作、とりわけ『スティックス・アンド・ストーンズ』と『褐色の三十年』が大きな影響を与えているのではないかと思われるのである。

リチャードソン、サリヴァン、ライトと続く系譜がマンフォードによって整理されたとして、しかしながらカーテンウォールやのちにマンフォード自身によって「ヴォリューム」として定式化される概念に直接的に関係する建築家は、この3人にのなかにはいない。

ルイス・マンフォード/向井正也によって定式化された対概念は、浜口隆一の1944年の論文における「物体的構築的/行為的空間的」と実はほぼ同じものを示しているといえる。前者が「インターナショナル・スタイル」、後者が「日本国民様式」に結びつけられて提案されたこと、つまり前者は「インターナショナル」、後者は「国民」、しかしながらそしてともに「スタイル/様式」概念であるというところは示唆的かもしれない。

浜口論文と当時の日本建築の文脈を読み解いていくことは、私の修士論文の主題の一つでもあった。上記の点からこの研究はその延長線上にあるとも言えるし、向井らの研究の延長上にあるとも言える。

マンフォードが「帝国のファサード」と呼んだものをあいだに挟みながら、とはいえMoMA創設期の展覧会が開かれた時代はまだ「アメリカン・ルネサンス」期ではあったとはいえ、その後の歴史的視点整理と実際の、そして実はその整理自身のずれを追いながら、20世紀建築最大の概念であったといってもいいものの起源を、ここでは追っていく。

とともにソールズベリーもまた、コーリン・ロウやビアトリス・コロミーナらと相同的な視点、つまりヨーロッパから見たアメリカ建築に対するいささか批判的な視点で論じているふしがある。

この研究ではこれまで踏襲されてきた上記のような視点をも問題としていく。T.J.クラークの方法論が有効となるのはここにおいてかもしれない。