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メモ

コーリン・ロウ『コーリン・ロウは語る、回顧録と著作選』、「第一部テキサス、テキサス以前、ケンブリッジ」「ヘンリー=ラッセル・ヒッチコック」松永安光+大西伸一郎+漆原弘訳。鹿島出版会、2001

 

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  ヒッチコックの『近代建築』とギーディオンの『空間・時間・建築』についてコーリン・ロウが語っていた部分をメモ。

 「しかし、時のハーヴァード学長のジェイムズ・ブライアント・コナントがレストランを出て左に曲がり、次にチャーチ・ストリートの方へ右折して、右側の二軒目の現代的な家、グロピウス・アンド・フライ事務所、に、ハーヴァードからの知らせをもって入っていく姿は手に取るように見えるのだが、このことの意味をどう解釈してよいかまだ分からないのである。無論、限られた人々の間で密かに議論が交わされていたであろうが、ヒッチコックはこのメンバーに入っていなかったにせよ、この話題についてよく知っていたことは確実である。だがこの政治学の意味するものは何だったのだろう。私はこのことに関して何も知らないと言わねばならないのだが、それでもヒッチコックは瞬時にして自分がグロピウスを推薦したことを後悔することになったことはよく知っている。グロピウスがハーヴァードにやってきて、彼が一種のスポンサーということになれば、誰でも、彼の望みを想像するだろうが、私が想像する彼の希望の地位はジークフリート・ギーディオンに取られることになったのだ。

悲しい皮肉というか、おかしい皮肉というべきか。

 ともかく、その結果ギーディオンは一九三八年から三九年にかけて行われたチャールズ・エリオット・ノートン記念講演を増補して『空間・時間・建築』を出版することになり、これは一二年前のヒッチコックの『近代建築:ロマン主義と再統合』と匹敵するものとなった。

 両書とも同じ建築的土壌、一八世紀以降、を扱っているが、『空間・時間・建築』のギーディオン は、多分より先駆者といえるヒッチコックが手にできなかった一般的な成功を収めたので、これが建築の聖書になったとすると、一方は総じて外典の地位に留まることになった。その理由は、一つには時代が味方した、英語圏でもついに近代建築への興味が高まった、ということと、もう一つにはギーディオンが話題をより広範にわたり知的に見える土俵、究極的にはヘーゲル流の世界観をごく圧縮したもの、の中に位置づけたことである。そして多分、最も重要なことは、タイポグラフィーとレイアウトを見るとハーバート・バイヤー、彼自身バウハウスの出身であった、の仕事が好感を持って受け入れられたことである。そして多分、このタイポグラフィーとレイアウトを見るとハーバート・バイヤーの天分を認めざるを得ない。というのも、この二冊の本の見かけほどかけ離れたものはないからだ。一九二九年にヒッチコックの出版社は本文を前に置き、図版を後においたが、それもずっと後の方、つまり注釈や索引よりも後に持っていった。一方、一九四一年の時点でのハーバート・バイヤーは本文と図版ができるだけ近くに来るようにしたのだ。図版は本文の中に交じり合い、そのキャプションが本文の字面に変化を与える域にまで達しているのである。大変な偉業だ!流麗なプレゼンテーションで、これに比較されると一九二九年のヒッチコックの出来栄えはいささか生気のないものと感じられることになる。にもかかわらず、昔も今も私はヒッチコックの方が優れた判断を示していると感じている。だからこそ、私はイェールへ行き、決まり文句で言えば彼の門下生となったのである」「当然ながら、イェールでのヒッチコックの講義の多くは抜群であった(彼の話はニューヨークからいとも軽々とパリ/ロンドンに飛び、シカゴからブラッセル/グラスゴー/アムステルダムへ飛び、クライアントの生涯については微に入り細に入った説明があった)。しかし、これらの講義が誰を対象としたものであるかは私にはよく分からなかった。それと同様、彼がフランク・ロイド・ライトに熱狂していたにもかかわらず、私は彼がなぜ、そう興奮するのか全く理解できなかった。そして、その代わり、私は彼が一九二九年にライトについて書いたコメントを今に至るまで支持し続けている」(42-43頁)。

A.オザンファン+E.ジャンヌレ、『近代絵画』、吉川逸治訳、鹿島研究所出版会、1968年

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原著は1924年出版で『建築をめざして』(1923)の1年後である。『レスプリ・ヌーヴォー』は1920-1925年の刊行。主張するとことは『建築をめざして』とほぼ重なる。

以下、メモ。

まずマシンエイジが冒頭で言われる。

「機械主義の段階に達したわれわれの合理的な文明は、はたして絵画を必要とするものだろうか。もちろん必要とする。」「近代人にとっては、このような感動、感激は、模倣芸術という手段によっては、換言すれば自然の対象を多かれ少なかれ忠実に文字通り模写するという手段によってはとうてい付与されるべきものではない。この本の目的はわれわれの時代を真に満足させることのできるような芸術はどんな芸術であるかを探求しようというのである」(7-8頁)。

 

機械主義と鋼鉄、マスメディアについて。

「鋼鉄は社会に一大革命をもたらした。これによって機械文明が実現可能となった」「模倣芸術は写真と映画とによって遠ざけられた。新聞、書籍は芸術よりも有効に宗教的目的、道徳的あるいは政治上の目的に働きかける」(8頁)。

 

絵画の「使命」について

「それは、われわれの高級な段階の欲求を満足させること、これである」(10頁)。

 

続いて「近代的視覚の形成」

「絵画は、もっぱら、われわれの眼という経路を通じて、われわれの精神に達し得るところのものである。われわれの眼は近代生活の強烈な、集中的な光景によって特に洗練されている。機械文明の発達によって幾何学がいたるところに確立されている。われわれの精神自体、いたるところにこの幾何学、精神の創造物であるところの、を再発見して満足し、「既存」の絵画のややもすれば、堅固でない、非幾何学的な姿に対して反発する。ことに印象派芸術の統一なき流動性に対し反発する。今日の世界の示すありさまは本質的に幾何学的である」(10-11頁)。

「芸術はわれわれの詩的感情「リリスム(詩的精神)」の欲求に満足を与えることが唯一の目的であって、それ以外の目的は有しないのだということ」(12頁)。

 

キュビスムについて

「立体主義は、絵画は自然から独立している物象であるとみなす概念をもたらした。ただ単に感受性の法則と精神の法則とにのみ服従するという絵画の概念をもたらしたのである。このようなすぐれた見解こそ、明日の絵画を決定するものである」(14頁)。

最後の一文において、著者はキュビスムをいったん高く評価している。ここが始発の地点というべきか。とともに印象派にはまずは批判をくわえる。

 

そしてここから「個人的意見」として、美、直角、ピュリスムが言われる。美は「快」ではなく感動でありこれがいわば先述した「高級な段階の欲求を満足すること」に照応するかもしれない。直角についての謂いは「近代人」と同じくアドルフ・ロースを彷彿させる。eg.垂直線と水平線→「基本的感覚は重量の感覚であって、それは造形的言語においては、垂直線的なものによって翻訳される。これに対して、支持のしるしは水平的なものである」(17頁)。そしてこれがピュリスムの導入に言われる。

53頁にいわゆるプラトン立体の表が載っているが、これは『建築をめざして』のものとも重複するのではないか、ただし著者らは、そしてル・コルビュジエも「プラトン立体」という言葉は用いない。その前後からメモ。

「人間は、人工的なことをすることしか知らないのだ。人工的というこの言葉を軽蔑したものと考えるのは断じて止めよう。それどころか、この言葉を、人間の全活動の終局の目的と見なそうではないか」(52頁)。

また視覚に関して「幾何学的概念」の範囲として、形態、線、色彩、光線、等が挙げられる、メモ。

「視覚に関する物事においては、われわれの表現手段はみな幾何学的な概念の範囲に属している(形態、線、色彩、光線等)。自然が美しく映ずるのは、人間によって、言い換えれば、芸術に則って、美しいものにほかならない」(54頁)。

 

「近代的視覚の形成」の章では、この視覚が都市化の結果によるものであることが明言されている。

「現在の文明は、ほとんど徹底的に都市的なものである。そして、ものごとを考え、ものを創造する人びとは、この新しい都市的環境の影響を蒙らざるをえないのである。新しい都市的環境は、われわれの眼に、全然新しい外的秩序を構成している無数の要素をわれわれの眼におしつけるのである。このようにして、個々の人間は、この新しい環境に順応しつつ、自分のうちに、さまざまの必然的な習慣を産んでいく、そして、この習慣がさまざまの要求をまた産むのである。街上の光景はすべて、われわれを深く変化させずにはおかなかった」(74頁)。

「今日の文化は都市の文化である」(79頁)。

幾何学を集中的にさかんに実行することによって、人間の深奥に、一段と特に人間的なるものを発見したのである。つぎのような自覚をもったのである。人間は幾何学的動物である。人間の精神は幾何学的である。人間の諸感覚機能は、その眼は、以前に比を見ないほどいちじるしく、幾何学的明瞭性というものに鍛えられた。いまや、われわれは、先鋭な、鍛錬された敏捷な眼を所有している」(80-81頁)。

 

ピュリスムについての記述中、『建築をめざして』における「住宅は住むための機械である」と相同的な謂いが登場している。「形態的、色彩的諸要素から出発し、かつそれらをある定まった特定効力を有する刺激剤と見なしつつ、絵画作品を一個の機械として創作することができる。画は感動させるために仕組まれた一個の装置である。これが純粋主義の基本的な概念である」(170頁)。「絵画とは感動のための装置である」と言い直せるだろうか。

 

ピュリスムについてはアルフレッド・バーの

http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20080322

も。

ピュリスムについては、色彩、形態、主題、規格物、構図、の観点から述べられる。以下メモ。

「純粋主義は、立体主義から生まれて、その一般的概念を受け入れているが、立体主義が画家に与えた権利は制限する」(166-167頁)。

「純粋主義は、まず出発点として、現実に存在する物からある種のものを選んで、それら特有の形態を紬だして、芸術制作の基本的要素とする。これら要素は、優先的に、人間がもっと直接的に使っている物のなかから採用する。いわば人間の四肢にの延長と見なすことができるような、きわめてわれわれに親しい、平凡なもので、そういう性質上、それ自体として特に興味を起こす主題とか、逸話となるおそれのないものである」(171頁)。

 

 

 

Robert Bruegmann, The Architects and the City, Holabird and Roache of Chicago, 1880-1918, The University of Chicago Press, 1997

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 ダニエル・バーナムと並ぶホラバード+ローシュについての書。序章、第一章、第二章(~1893年)までを瞥見する。謝辞にデヴィット・ヴァン・ザンテン、グウェンドリン・ライト、それにシカゴ歴史協会の名がみえる。

 

いくつかメモ。

建築史と都市史の乖離について。

 「過去数十年の「都市史」のほとんどは第二次大戦後における中心市街地空洞化という危機に対するものとして成長してきた。都市の歴史家は大都市圏の発展におけるとりわけ「都市(urban)」を同定し、探求するのに汲々としてきた」「彼らはこの領域の周縁で起きていることにはあまり興味がなく、さらに、歴史家教育は主に、社会的、政治的、そして経済的力、それも活字化されたものや統計に焦点を合わせていたため、建造環境の構造体をしばしば軽視してきたのである。(そこにおいては)オスマン・ブールバールに沿ったアパートであれ、19世紀後半シカゴのオフィスビルであれ、建物というものは、より基本的な歴史的諸力の挿絵としてしか通常示されてこなかったのである。」

 「他方で、近代建築史はこれとはまったく異なる関心の一揃いから成長してきた。19世紀美術史学の理論的諸理念に大きく影響され、その美的特質や、ピラミッドからヴェルサイユを経てサヴォワ邸にいたる様式発展の過程にいかに適合するかに、建築史の一分枝は関心してきた。」「その結果は、都市史家の描く都市と、建築史家の描く都市に劇的に分かれてしまった。アメリカの都市によくある大きく、あるいは最も目立つ構造体は建築史にはほとんど登場せず、建築史の主要な記念物の多くは都市史では周縁において語られる」(Xi-Xii頁)

建築家の職能について

 「もう一つの問題が商業建築家の性質から出てくる。商業建築家はあらゆる建築家がそうであるように、部分的には芸術家として機能した。彼らは建物を使い易くかつ美しいものにしようとした。だがビジネスを続けようとすると、彼らはビジネスマンとしても機能せねばならなかった」(xiv)

 

ウィリアム・ホラバードもまた、ジェニーのオフィス出身である。

 「ジェニーの事務所でホラバードはのちにビジネス・パートナーとなる二人の男に遭遇する。オシアン・コール・シモンズとマーティン・ローシュである。」(10頁)

 

投資用オフィスビルについて

 「タコマビルと続くホラバード+ローシュ事務所の話をとりわけ面白くしているのは、短いながらもこの国の不動産市場を先導した変貌の時代に、彼らがそこを駆け上がっていったということである」「1880年代のシカゴにおけるオフィスにまったく入れ込むという考えは、まったく新しいものだった。19世紀初頭、ほとんどの会社のオフィスは商品が生産されるか取引されるかする場所に隣接してあった。ニューヨークやロンドンの銀行オフィスはたとえば、銀行フロアの中二階にあった。19世紀中葉にビジネスの規模に大きな飛躍があり、新しい管理者層が発展してきた。このオフィスワーカーは実際に物を作ったり売ったりするわけではなかった。彼らの仕事はペーパーワークであり、日々複雑になっていくビジネスの仕組みを制御することであった。その数が増えるにつれ、建物も大きくなっていった。銀行や新聞やそれに保険会社といったビジネスはこの発展を先導したが、なぜなら高度に訓練された専門職を数多く雇い入れなければならなかったからである」(65頁)。

 「シカゴにおいてまるまる1ブロックを第一級のオフィス用途に用いるのは1860年代後半までなかったように見える。当時の典型的な大オフィスは4から6階建てで、個人か、よく統御された小集団によって、5万ドルから10万ドルで建てられていた。」(66頁)。

 

さらにブルックス兄弟について少し踏み込んだ記述がある。この兄弟とジェニーはともにボストン出身で、さらに兄弟の祖父は海洋保険で財をなしたとあり、他方でジェニーの実家は捕鯨業であったゆえ、人脈的に両者はもともと近かったと言える。

 「ザ・モントークによってシカゴはニューヨークのあとを追うことになるが、後者では最初のきわめて高いビルが1870年代には建てられていた。ザ・モントークファイナンスはボストンのブルックス兄弟である。1880年代のシカゴのブームにおける最大唯一のデヴェであるあの兄弟である」「ブルックス家の財はその祖父ピーター・チャードン・ブルックス(1767-1849)によって19世紀初頭になされた。海洋保険によって財をなしたボストン最初のミリオネアと言われている。友人たちは彼を落ち着いた保守的な投資家だったと描写し、その中傷者はドケチであったと描写する。相続者も似たような名声を獲得した。

 ブルックスのシカゴでの不動産投資を追跡するのは難しい。絶対に必要以上の情報を残さなかったからである。事実、ピーター・ブルックスはボストンの知人友人から不動産取引の情報を明らかに隠そうとしており、それゆえメドフォードにおいてジェントルマン・ファーマーとしての役を演ずることができたのだった」「大火後、彼らはウィリアム・ル・バロン・ジェニーにエレベータ付の8階建てのポートランドブロック・ビルを発注した。最終的にこの建物は5階建てとなったがエレベータ付高層ビルのアイデアは忘れられず、ザ・モントークにおいて結実することになる」(66-68頁)。

ブルックス兄弟のビジネス手法については、Miles Berger, They built Chicago: entrepreneurs Who Shaped a Great City`s Architecture(1992), 29-38

Earle Schultz and Walter Simmons, Offices in the Sky(1959),20,

 

さらに不動産と投資形態について

 「それまで最も重要なことは有限責任ということだった。この形式の初期のビジネス会社は、株式会社(stock company)と法人(corporation)、組合や大学やその他の公共体で見られるものの特質を組み合わせたもので、19世紀初頭の英国で多くみられたものだった。法人組織や株や債券は、個人やパートナーシップによるより、より大きな資本プールを可能にした」「法人は許可された業務を遂行するための建物を建設することはもちろんできたが、イリノイ州はしかし1872年の一般法人法によってそれ自身が必要とする以上の空間を開発することを禁じ、さらには不動産開発のための法人を厳に禁じた」「立法者はこの禁止によって、小ビジネスの保護と不動産開発の抑制を目ざした。デヴェロッパーが必要とする資本が大きくなるにつれ、ずる賢いビジネスマンはこの法律のまわりに様々な抜け道を見出した。」(71頁)。

 「少しのちのホラバード+ローシュによる二つの建物、ザ・ベネシャンとザ・シャンプランの場合では、兄弟は「マサチューセッツ・トラスト」を用いているが、これは法人による不動産開発の制限を取り除くもう一つの装置であった」→マサチューセッツ・トラストにおいては、イリノイ法人法は障害でなくなる。だがマサチューセッツ・トラストがイリノイで不動産開発するのにまったく障害がなかったかどうかははっきりしない(脚注による)。MBTについてはhttps://en.wikipedia.org/wiki/Massachusetts_business_trust

 「続く数十年、この二つの法的操作は何度も試みられた、イリノイにおいて法人による投機的不動産開発が確実に認められるようになったのは、20世紀に十分入ってからのことである」(72頁)。

 

 上記の記述からすれば、いわゆるシカゴ派の歴史的建造物のいくつかは、当時法律的にはグレーゾーンであったということになろう。メモを続ける。

 「長期におよぶ貸し付けと法人組織や、追加ローン、株や債券の手法を用いることで、デヴェロッパーは自身が持っている比較的小さい自己資金に対して、きわめて大きな建物を準備することができた」「ビジネスが下向きになるともちろん、こうした財務上のすべての装置は、今度は逆向きに働き、債務や地代をカバーし切れなくなる。ブルックス兄弟はそのきわめて保守的ビジネスのおかげで、他の多くが陥ったこの問題を免れていた」(72-73頁)。

 

 続いてオーディトリアムビルにおけるワート・D・ウォーカーの記述、この部分はヒュー・モリソンによるサリヴァン評伝の方が詳しい(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/hugh-morrison-l.html)。メモを続ける。

 「古い建物下部にある重い壁を取り除き、地上商業部の床面積を増すためにそれを大きなガラス窓に入れ替え、そうすることで多くの自然光を内部に取り込み、舗道に対して存在感を増させることは、商業ビルのオーナーにとって一般的になっていた。これはときに多くの費用を要してでもなされたが、立地のよいショップフロントの上昇する家賃がそれを要求したからである。この種のリノヴェーションをなすのに、重い耐力壁が取り除かれ、鉄の柱・梁による比較的薄い壁に置き換えられた。それゆえ柱の前面に大きな窓が挿入され得、その結果、ほぼ連続するようなガラスの表面が形成されたが、この面を遮るのはただ金属性あるいはテラコッタ製のフレームのみであった。」(75頁→Engineering News Record, 17,April, 1924, での H.J.Burtの論文)

 

 上記記述によれば、この構造が普及した原動力の一つは不動産価値の向上であったことになろう。メモを続ける。

 「最終的にこの古い建物をリモデルするには費用がかかりすぎるゆえ、同じ敷地に新しく12階建の建物を計画することを依頼する。これがローリング発案の計画をこの建築家が試す最初の機会であった。結果は既存両側壁を除いて、まったく骨組構造的なものとなった。ただこうしうた高層構造における風圧の効果を設計者も依頼者も明らかに危惧していた」「設計者は図面をワシントン大学の工学教授であるジョン・B.ジョンソンに送ったが、その結果は風圧用ブレース材は適切でないというものであった」「この所見は、背面と側面を石造耐力壁とし、前面のみを骨組構造とするという案に設計者を立ち帰らせた」「言いかえるなら、この建物はザ・ルーカリーのように、耐力壁構造と新しい骨組構造のハイブリッド(hybrid)なのである。ただし反転されていよう。ここでは骨組は外部にある」(77頁)。

 

メモを続ける。

「ウォーカーは彼の建物をザ・タコマと名付けたが、これは先住民の言葉で「最高」を意味し、他方では19世紀後半においてワシントン州にあるレイニア山のことを一般に意味していた」(80頁)。

 

 ウォーカー→つまりジ・オーディトリアムの建主がその財務手法を敷衍させ、ザ・タコマ計画に乗り出してきたことになる。続ける。

 「建設が始まるまでにウォーカーは債権を売却するために法人、タコマ保管会社(safety deposit company)を組織していた」(81頁)。

 「ザ・タコマはおそらく単一総合請負を用いた大規模建設の最初期の例である。これはこののち国中で大規模建設のビジネス実務を刷新(revolutionalize)するものであった。→ジョージ・A.フラー・システム。フラーシステム(ゼネコン・システム)が発展する前までは、契約は通常オーナーか建築家によって各個に、たとえば解体、石工、大工、配管、キャビネットメーカー、等になされていた。つまりあらゆる交渉事が建主か建築家によってなされていたのである。」(81頁)

「このシステムにおいてフラーが提供したものは、一社請負において、財務、技術、発注、それに施工そのもののエキスパートであった」「正しくやれ」「正しく工程表通りにやれ」(82頁)。

 

 ゼネコン・システムが登場したのはこのあたりということになる。続ける。

 ザ・タコマが着工した年にホームインシュアランス・ビルが竣工し、敷地は数ブロックと離れていない。

 「HIBが最初の金属骨組構造であるという主張は常に疑問視されてきたし、実際それは不正確であるにもかかわらず、多くの歴史家はこの建物がほぼ金属骨組構造であると、少なくともテクノロジーにおける重要な一歩であり、のちに大きな提供を残した重要なものであると、確信してきた。ザ・タコマの話はまた別のものを提供する。

 HIBにおける先行を疑いなくH+Rは知っていたが、骨組構造のまったく異なる視点からの使用を彼らは試みたのである。彼らは耐力壁の軽量化には興味を持っていなかった。彼らは背面における耐力壁と内壁によって、建物荷重と風圧荷重を可能な限り持つことを試みた」「結果は、HIBが比較的厚い壁で造られ、また注意をむけられなかったところに、ザ・タコマの被覆は明らかに薄く、一層ずつ施工する必要はなく、事実、被覆工事は2階、6階、10階から同時に始まっている」(83頁)。

 

 「多くのヨーロッパのモダニストが金属骨組構造にかくも興味を持ったのは、彼らが新しい素材に基づいた新しい建築を創造したかったからである」(85頁)。

 

HIBもザ・タコマも1930年に解体。

 

 

 

ジークフリート・ギーディオン「記念性について」、『現代建築の発展』生田勉・樋口清訳、みすず書房、1961

 

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 一瞥する。

 記念性の諸要素のうち、「色彩」についてはフェルナン・レジエから出てきている。レジエはピュリスム=反キュビズムにおけるル・コルビュジエの協働者であり、ということは、これはピュリスムにおける色彩の扱いから発展してきたと述べても過言ではなく、ギーディオン、レジエときて、ますますこの主題がタイゲらとの論争の延長上にあるのかと思えてくる。

 序論ではマンフォードについても触れられている。

 メモ

 「アメリカ合衆国においては、近代建築が多少とも単一家族のための住宅、住宅群建設、工場、事務所建築に限られていたため今日(1944)までは限られた影響力しかもっていない。そこでこの記念性の問題について論ずるのは時期尚早のように思われる。しかし情勢は急速に変わりつつある。近代建築が、ついさきごろまで美術館、劇場、大学、教会、もしくは音楽堂といった建築の解決のためにしか必要とされなかった国々においては、いまや機能の充足を超えたところの記念的表現の追求が要望されてきている。近代建築がこの要求を満たさない場合には、その発展全体がふたたびアカデミズムに逃避するという致命的危機におちいるだろう」(35頁)

 「すべての時代は、モニュメントの形で象徴をつくりだそうという衝動をもっている。モニュメントはラテン語の意味によれば「思いおこさせるもの」、後の世代に受け継がれるものということである」(36頁)

 

Lewis Mumford, “Monumentalism, Symbolism and Style,” April, 1949, Architectural Review

 

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 重要な論文と思われる。

 東京中の図書館をあたってもどこにもなく、地方の大学の図書館にあることが分かり、コピーを取り寄せた。

 向井正也の『モダニズムの建築』(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/1983-12fa.html)で詳述されるヴォリューム/マス概念のヒントになったと思われるものは、後ろの方にわずかながら出てる。とともにテクスチャー、色彩といった向井の他のキーワードも、それに続いて一度だけだが出てくる。

 この論文の主題はモニュメンタリズム「記念性」であり、マスやヴォリュームはその材料に留まる。

 「記念性」はこの時代の主要なアジェンダであったと思われ、CIAMにおける議論やカレル・タイゲ/ル・コルビュジエの論争、言いかえるなら「モニュメントではなく、インストゥルメントを」というおもに1920年代の議論がその前段にあり(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20090506)、その延長上で一連のこれらの議連が展開しているように、これはまた思える。ここでも導入はジークフリート・ギーディオンであり、彼が1946年9月26日にRIBAで行った「新しい記念性」がそれである。ギーディオンのこの議論はCIAMにおけるかつてのタイゲらとの議論と無関係ではなかろう。

 さらにまたこの少し前、1943年には同じくギーディオン、ホセ・ルイ・セルト、フェルナン・レジエによる米国における「記念性の九原則」(→『現代建築の発展』)が書かれ、さらにはまたこの一年後、つまり1944年にポ-ル・ズッカーによってコロンビア大学で関連したシンポジウムが開催されているが、このあたりが戦後のルイ・カーンの初発の地点であったことは比較的知られている。(ついでに述べれば、これに前後してカーンがサリヴァンやその背後にあるであろうリチャードソンにシンパシーを寄せていたらしいことは再確認、→TC274頁)。

 いずれにしてもギーディオンの文脈自体は、タイゲをはじめとしたノイエ・ザハリヒカイトとの論争から出てきており、初期モダニズムの「工学技士の美学」はヴォリューム概念およびK.マイケル・ヘイズの述べる「ポストヒューマニズム」で論じられなくもなく、またこの「美学」は「記念性」はなくとも、というよりは記念性を排除したうえでのアイコン性の獲得によってあらためて史的に論じられ得るとは思われるものの、ここにきてより重層的にむしろ論じた方がいいのか、とも思えてきた。

 ちなみに本論で述べられているもう一つの主題である「シンボル」は、ここにおいては「機械」、モダニズムの象徴としての「マシン」である。また冒頭においてジョン・ラスキンの「思想」とヒッチコクの「史書」が批判されているが、後者のものは言わずもがな『近代建築』であり、これについてはいずれ一瞥する。

 向井が参照したマス/ヴォリューム対概念の前段には、この対概念導入にあたって内向的/外向的という対概念が述べられ、そのさらに導入として著者はなぜかリチャードソンを持ってきている。

 「その作品においてリチャードソンは内部の調度品や仕上げを幾分軽視したが、それは全て外部において記念的な効果を与える必要のためであり、建物の前を通行する市民を印象付けることは、内部にいる人を直接的に喜ばせるよりは重要であると彼は考えていたからである。」(178-189頁)

 この謂いではリチャードソンは外向的/ヴォリューム的、の例としてと読めてしまう。いずれにせよ、外向的/内向的、ヴォリューム的/マス的、について述べた部分。

 「だが開放性と柔軟性を成就しようとするまさにこの試みにおいて、暗さや引き籠り、休息やぬくぬくとすることへの要求が生活にはあるのだということを忘れてはならない。こうした要求は防空壕にのみ求められているわけではない。それゆえ目下の開放性の発明を喜んで受け入れるとともに、未来に向かってはこれを修正するものを導入することを期待したい。つまり、もっと光を、もちろん、ただしいくばくかの暗さを。もっと開放性を、しかしいくばくかの閉鎖性を。もっとヴォリュームを、しかしいくばくかのマスを」(179頁)。

 ヴォリューム/マスが対概念として登場するのはこの一文においてのみである。本論の主題である記念性について。

 「記念性の別名は印象深さ(impressiveness)である。鑑賞者や使用者に与える効果である。それは尺度や建物の配置、高さや巾、壮麗さ、機能や目的の劇的強調であり、これはマス、ヴォリューム、テクスチャー、色彩、絵画、彫刻、庭園、水路、背景を形成する建物の配置方法といった可能な諸手段によって、なされる」(179頁)。

Terence Riley, Portrait of the Curator as a Young Man, Philip Johnson and The Museum of Modern Art, Studies in Modern Art 6, The Museum of Modern Art, New York, 1998

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 フィリップ・ジョンソンMoMAについてのアンソロジーからテレンス・ライリーのペーパーに一瞥を与えておく。

    フィリップ・ジョンソンのフルネームは、フィリップ・コーテルユー・ジョンソン(Philip Cotelyou Johnson)(35頁)。

 ジョンソンは弱冠24歳で新設MoMAの建築部門のディレクターに指名され、近代建築展の1932年から機械芸術展の1934年までを務め、大恐慌下の極右的政治状況においてこの展覧会後に罷免され、11年のブランクののち、再びMoMAに戻ってきた、という(35頁)。この1932年から34年まではしかし、ジョンソンによってまるで連続打ち上げ花火のように企画が打たれている。 まず有名な『近代建築、インターナショナル・スタイル展』(1932)、『初期近代建築展』(1932)、『中西部の若手建築家展』(1933)、『選ばれなかった建築家展』(1933?)、『住むための住宅展』(1933?、ルイス・マンフォードに参加要請して開催された近代建築展の一環、と佐々木宏氏がその著で述べていたのはこの展覧会のことか?)、そして『機械芸術展』(1934)である。

 『近代建築展』では建築家ミース・ファン・デル・ローエにジョンソンが生活していたニューヨークのアパートのリノヴェーションを依頼しているし、『選ばれなかった建築家展』はいわば建築のアンデパンダン展のようなもので、ジョンソンはこのときサンドイッチマンを雇って建築家連盟でデモをさせたという。後者はフランス絵画における印象派の手法を彷彿させなくもなく、またジョンソンの一連のあり方に著者はエドワード・バーネイズの「プロパガンダ」と同質のものを見ている。

 バーネイズのプロパガンダの手法の一つは「仮想敵」を作りだすことで、近代建築展ではたとえば国内のボザールを含むエスタブリッシュされた建築家とヨーロッパにおける社会主義的建築家がこの仮想敵に充てられたとされ、そして初期近代建築展では「だが、エンパイアステートビルクライスラービル、それにロックフェラーセンターの造形にプライドを持っていたニューヨークでは、スカイスクレーパーの大衆的に人口に膾炙した歴史を見直すこのキュレータの視点に、プレスはいささか唖然とした。匿名の記事、「スカイスクレーパーはニューヨークにおいて誕生したと通常そう考えられているのに対し、この展覧会はシカゴにおいて誕生したと考えるよう強いているようだ」、『ニューヨークサン』のヘンリー・マクブライドは「フィリップ・ジョンソンは早死にするのではないか?ニューヨーカーが彼を殺してしまうのではないかと、私は恐れる。彼が最近しでかしたことをご存知か?スカイスクレーパーはシカゴで誕生したという趣旨の展覧会を彼はMoMAで企画したのだ」(46頁)として、ニューヨークがこれに充てられたとする。

 こうした側面があったことは留意しておく。

ジュディス・バトラー+ガヤトリ・スピヴァク、竹村和子訳『国家を歌うのは誰か?』岩波書店、2008

 

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    いちおう「批判的地域主義」概念の整理のために一瞥しておく。大雑把に述べて、前半ではおもにバトラーが語ってスピヴァクが聞き、後半ではその役割が反転という感じで、「批判的地域主義」が登場するのは後半、57頁以降である。

    書名は本文中に登場する、スペイン語で合衆国国家をストリートで移民が歌う挿話から来ているのだろうと推測する。つまり、「非常にドラマチックだったのはロサンゼルス地域です。そこでは、米国国歌がまるでメキシコ国家であるかのようにスペイン語で歌われました。「ヌエストロ・ヒムノ」(我らの歌)の出現は、国民の複数性つまり「わたしたち」や「わたしたちの」という興味深い問題を提起しました。非ナショナリズム的あるいは対抗ナショナリズム的な帰属形態に寄与するのは何かという問いを立てるときには、グローバル化について語る必要があるでしょう。ガヤトリが答えてくれると思いますが、このデモで主張されているのは、国家を歌う権利、つまり所有の権利だけではなく、多様な帰属形態でもあるのです。というのもここには、「我ら」に含まれるのは誰なのかという問いがあるからです。「我ら」が歌い、スペイン語で自己主張するとき、それはまさに国民についての考え方や平等についての考え方に働きかけます。それは大勢の人たちが一緒に歌っているだけでなく(たしかにそうなのですが)歌うということが複数性の行為となり、複数性の表明となっているのです。このときブッシュが言ったように、米国国歌は英語のみで歌われるべきなら、国民は明らかに言語的多数民を意味することになり、国に帰属しうるのは誰かを定める決定的な統制手段が、言語になるのです。アーレント流に言うなら、それはナショナルな多数民が自分たちが望む条件で国民を規定しようとし、さらには、自由を行使できる人を定める排除規定を打ち立て、それを取り締まりさえする契機ということになります」(43頁)という挿話である。

 ジュディス・バトラーが論を立てる起点は、ハナ・アーレントの『全体主義の起源』のなかの「国民国家の没落と人種の終焉」の章である。

 ずいぶん昔に読んだものゆえうろ覚えだが、同書においてアーレントナチス・ドイツから亡命者/難民として逃れ、国籍を持たない亡命者/難民、あるいは国家の外部に存在せざるを得ないものがいかに惨めであるかを、これでもかこれでもかと論じていたように思う。アーレントは最終的に、陰鬱なヨーロッパから西海岸のスタンフォードへと逃れ、そこでアメリカ国籍を取得し、平穏な市民生活を送るようになる。まずはめでたし、という話になっていたようにも記憶するものの、これはバトラーが述べるように今日では敷衍的な問題を含んでいる。つまり、ジョルジョ・アガンベンの述べる「ホモ・サケル」(や「例外者」)、POW、それに移民や難民、さらには「主権国家の紛争解決手段としての戦争」とは異なる「テロ」の問題も、ここに含まれてくるであろう。

 バトラーの主張は「アーレントに逆らって読むこと」(19頁)であり、「ひとたび追放されれば、その人は剥き出しの生の空間に追いやられ、その生(bios)はもはや政治的身分とは何のつながりもなくします。ここで「政治的」という意味は、市民の地位にいることです」「むしろここでもっと重要なことは、放棄された生-追放と包摂の両方を受けている生-は、市民性を奪われた瞬間に、まさに権力にどっぷりと浸ると理解することです。市民権に関する事柄を包摂しつつ、さらにそれをも超えるのが「権力」だという考えを使って、「国家/状態」の二重の意味を解き明かさねばなりません」(27-28頁)である、と言える。

 これに対してスピヴァクの鍵概念が「批判的地域主義」である。それはまず「重要な点は、規制ナシの資本主義に反対することであり、無審査で資本主義国家の一員となることにユートピア的特質を見出すことではないのです。国家の再創成は国民国家の枠を超えて、批判的地域主義に入っていくことです」(57頁)と言われる。さらに(アーレント/バトラーの論を受けて)「国民国家の衰退を、抽象的な福祉構造への転換とみなすこともできるでしょう。それこそが、グローバル資本と闘う批判的地域主義に向かうものです。ハンナ・アーレントは資本主義を資本の次元ではなく階級の次元で考えていますが、わたしたちに必要なのは、国家的でないもの-国家によって決定されていないもの-が決定力をもつことに気づくことです。まさにこれが資本ですが、アーレントはこれについては思考しませんでした。

 グローバル化する資本は何をおこなうのか。ちょっと考えてみましょう。グローバル化する資本の動き(資本本来の性質ですが、加えて昨今はテクノロジーの進展でさらに加速されています)は、かならずしも国民国家に関係しているのではなく、また悪しき政治に関係しているものでもないことを、念頭におかねばなりません。資本の動きのために、脆弱な国民経済と国際資本のあいだの障壁は取り払われ、その結果、国家は再配分能力を失っていきます。優先事項が国家に関係することではなく、グローバルなことになっていきます。現在存在しているのは、市場モデルに倣った経営的国家です」(58頁)と、アーレントが見落とした点と、グローバリゼーションにおける国民国家の衰退とを整理して見せる。続ける。「アーレントは無国籍を、国民国家の限界を示す兆候と捉えました。このタイプの解釈はマルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』に連なるもので、そこで彼は、ブルジョア革命は行政執行部のさらなる権力強化の下地を作ると解釈しています」「一見してブルジョア革命は議会制民主主義と市民参加の可能性を呼び込んだようですが、実際にそれが行ったのは行政執行部の権力強化であることをマルクスが示しましたが、これはよく知られていることです」「わたしが言いたいのは、パフォーマティヴな矛盾ではなくて宣言的なもの-普遍的な宣言-のなかに存在している権利のことで、それは国家(アーレント)と革命(マルクス)の両方の失敗のうえに成り立っているということです」「この線に沿った典型の一つは、(帝国主義でも共産主義革命でもなく)古いかたちの社会主義運動で、国家の腐敗から市民社会を守ろうとした国家外集団です。過去の推進力の残滓が、今、国家の再考にますます関心を抱いているようです」(59-60頁、和訳は日本語としておかしくないか?)。「そのような協力の最初のプロジェクトは、第三世界の名のもとに1955年にバンドンで開かれた第一回アジア・アフリカ会議です。現在ではブルガリアのグループが、批判的地域主義に必要な構造的変化について構想しています。ペティア・カバクチエヴァの仕事はとくにわたしには興味深いです」(61頁)。

 さらに続ける。「批判的地域主義は、ナショナリズム、さらには民族を母体にした副次的ナショナリズムに陥る可能性をもっており、また他方で、トランスナショナルなエイジェンシーも国民国家によって国民国家になりますので、なかなか扱いにくいのです」(64-65頁)。

 「デリダはここでカントの知識体系に目を向け、カントが世界や自由を考えたときに生み出した「あたかも・・のよう」の概念や、コズモポリタン的普遍主義と戦争との関係では、来るべきグローバルな民主主義を思考したり、それにコミットすることができないと述べています。またわたしがここでまで述べてきたように、ハンナ・アーレントは無国籍を語るときに国家と国民を別物と考えていたので、彼女にもう一度目を向けることも重要でないわけではないのです。デリダはのちに『友愛のポリティクス』のなかで、生まれと市民性の連結を解体しようとするこの試みを、系譜学の脱構築と呼んでいます。批判的地域主義が始まるのは、まさにここなのです」(66-67頁)。

ハーバーマスなどのヨーロッパ知識人はコズモポリタンな民主主義について語りますが、それはデリダが問題視したこととであり、わたしはデリダの影響下にあるということです。コズモポリタン的普遍主義の概念はグローバルな民主主義の未来を生み出さないというデリダの意見に、賛同しています。わたしが語ったのは、民族や階級のことではありません。わたしが語ったのは、あたかも運転免許証を取るようにあらゆる再配分構造を扱えるような、国家の抽象的構造なのです」(71頁)。

  「ここで言っておきたいのは、批判的地域主義は分析ではないということです。まだ毛が生えたばかりのプロジェクトではありますが、それには歴史があり、わたしたちにとってそれは、たとえば女の人身売買や、HIVエイズとともに生きる女の経験から生み出されたものです。ジュディスにとっては、それはパレスティナの経験から生み出されたものでしょう。その粘り強い批判は、永遠の説得者としての知識人という、グラムシの概念を導きいれるかもしれません。だからそれは分析ではないのです」(83頁)。

ジークフリート・ギーディオン、『空間 時間 建築2』太田實訳、丸善、1969

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 この書の表題になっている「空間 時間」についての部分を再読。K.マイケル・ヘイズの「ポストヒューマニズム」では「主体/主観」の問題として捉え直されていたものを、一応「空間」の問題としても見ておく。第四章「新しい空間概念:時-空間」では、しかしながらその解説はきわめて短い。→http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/1931-193921969-.html

 著者が美術史家であることを勘案するなら、「立体派によるルネサンス以降の線遠近法の解体」から話を起こすのは自然として、ただし立体派を説明するのにアルフレッド・バーに依拠している点は留意しておく。原書は1941年でアメリカを意識していたとはいえ、ヨーロッパの芸術運動について記すのにMoMAの言説に依拠して書いたということには、留意しておく。

 以下、「空間 時間」についての記述、メモ。

 「時-空間

立体派は、対象の外観を有利な一点から再現しようとしたのではなくて、対象の周りをめぐり、その内的構成を把握しようとしたのである。彼らはちょうど、現代科学が物質現象の新しい水準をも包括するような記述方式を拡張してきたように、感情を表す尺度を拡張しようとしてきたのである。

立体派はルネサンスの遠近法と絶縁している。立体派は対象を相対的に眺める。すなわり数多の観点から見るのであって、そのどの観点も絶対的な権威を持っていない。こういうふうに対象を解析しながら、あらゆる面から、上からも下からも、内からも外からも、同時に対象を見るのである。立体派はその対象の廻りをめぐり、対象の中に入り込んでいく。こうして、幾世期かにわたる構成的事実として優位を占めていたルネサンスの三次元に、つまり時間が加わったのである」「いろいろな観点から対象を表示するということは、近代生活に密実な関係のある一つの原理、同時性、を導き出す」510-511頁。

 運動性を言いながらギーディオンはヴォリュームという言葉はまったく用いていない。他方ではMoMAにおけるヴォリューム概念では運動性/時間性についてはほとんど触れられない。もう一点、ヴォリューム概念はメイヤ・シャピロによる印象派とその環境の関係からも分析を加えてみてもいいのではないか。→http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/index.html。シャピロとクラークの論は補強材料として使える可能性は十分あろう。

 ついでに。K.マイケル・ヘイズがポストヒューマニズムアルチュセールを引用しながら主体/主観の問題として記述しているものは、上野千鶴子にあっては「構築主義」と述べられているものである。

 これもメモしておく。

 「二〇世紀の思想的な発見のひとつは、言語の発見であった」「ソシュールからラカンに至る構造主義系譜をたどれば、言語は他者に属する。そしてその他者に属する言語に従属することを通してのみ、主体は成立する。したがって主体の集合が社会を成立させるわけもなければ、主体は社会に外在するわけでもない」「構築主義が対抗しているのは、本質主義である」「ポスト構造主義は、構造主義が「差異の体系」とみなした空疎な構造を、やがて実体現するに至ったことに強く反発し、その決定論的性格から逃れようとした」上野千鶴子編、「はじめに」『構築主義とは何か』、勁草書房、2001、i-iii頁。

 さてもう一度ギーディオンに戻る。http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/11969-b78b.htmlでは方法論について述べた。しかしながらあらためてギーディオンと、マンフォードやヒッチコックの記述を比較すると、後者には前者にはあるものがすっぽり抜けている。言いかえるならこの抜け落ち、もっと述べればこの削除は意図的なものではないかと思えてくる。ギーディオン(唯物論的に)ともどもしつこく構法について述べながら、近代的な空間概念について述べるのにある部分を意図的に削除し、さらには同時に米国建築史を効力批評的にさえ描いていると言えるが、ここから反照されるものがあるはずである(→バンハム「シカゴ・フレーム」論もこれは同じである)。

 

Henry-Russel Hitchcock and Philip Johnson with a new foreword by Philip Johnson, The International Style, W.W.Norton and Company. Inc., 1932

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念のため英語版で「歴史」、「第一原理」、およびフィリップ・ジョンソンによる1996年の新たな序文を確認する。

 

まずジョンソンによる1996年版への序文からメモ。

「1930年5月のパリで、バーは私をヒッチコックに紹介した。すぐさま我々全員にとって目下の新しい様式が関心の的であることを感じ取り、それを見て回るのにヨーロッパ中を車で旅行することを決めた。1930年と31年のこの三人での旅行は私にとってよい教育となった」「3人のなかではラッセルが素晴らしい目を持っていた。彼は卓越した歴史家であり、我々の本のテキストは彼のものだった。バーはきっぱりしたイデオローグで「インターナショナル・スタイル」を大文字で始めることを主張していた」「マルクス主義者と建築の社会的側面に興味を持つ一方の側からは、デザインとスタイルを強調することに反対された。彼らは人間活動の源泉としての大文字の芸術を信用しておらず、テクノロジーと利便性にしか興味がなかった。他方では老建築家たち(20代だった我々からすれば)は、現代建築の薄っぺらで過剰に単純化されたハコ、短絡的で白く、キャラクターがなく、誰でもできる構造、に激怒した」(14-15頁)。

「今日でも1920年代の主要な出来事と認識されているヴァイゼンホフジートルンクを考えてみよう。ミースは参加者に「スタイル」を強制しなかったか? 全て白のスタッコ、陸屋根、大きな水平窓。「様式」という言葉は十分興味深いことにアカデミズムによってではなく、実務的建築家によって課せられた制限だったのである」(16頁)。

 

続いて第二章「歴史」からメモ。

「フランスにおけるペレによる鉄筋コンクリートを用いた構法は支持体のスケルトンの分節を目に見えるものとし、壁は柱間の単なるスクリーンとなった。第一次大戦前のそれぞれのヨーロッパ諸国ではそれゆえ、インターナショナルスタイルというコンセプトは別個のものとして出てきたのである」「しかし、未来を約束された様式が最初に登場し、戦争までに最も急速にそれが発達したのは、アメリカにおいてである」「(リチャードソンに続いて)ルートとサリヴァンが鋼鉄スカイスクレーパー構法から演繹し、変更を加えそして後続世代は本質的に変えた。彼らの1880年代と90年代の仕事はまだほとん知られていない」(41頁)。

この頁(41頁)に「シカゴ派(the Chicago school)」という言葉が本書において一度だけ登場する。

 

続いて第四章「第一原理、ヴォリュームとしての建築」からメモ

冒頭は実質シカゴ構法についての解説。

「支持体が金属であれコンクリートであれ、距離を置いて見れば水平線と垂直線の格子に見える」「今や壁は単なる二次材であり、支持体のあいだに張られたスクリーンかそれらの外側に下げられたシェルなのである」(55頁)。

「これまで建築の主要な特質であると考えられてきたマスの効果、静的な密実性は全て消えていった。それに代わったのがヴォリュームの効果であり、より正確にはヴォリュームを境界付ける平面表面の効果である。建築の主要な象徴はもはや密実な煉瓦にではなく、開放的なハコにある」(56頁)。

「保護膜のみで覆われたスケルトン構法では、マスという伝統構法への敬意から道をそれようとしない限り、ヴォリューム表面の効果が達成される」(56頁)。

「われわれの工場ではクライアントが飾り立てようとしない限り、ヨーロッパの機能主義者の構法のようになる。たとえ建築家が(ヴォリューム原理という)受容すべき原理を決して受容しない場合でもヴォリューム表面のように明快かつ効果的に存在する」(58頁)。

ヨーロッパの機能主義者とアメリカの工場建築が同列に並べられていることには留意しておく。

「ヴォリュームは非・物質的で無重力として、幾何学的に境界付けされた空間として感じられる」(59頁)

「それゆえヴォリュームの表面原理の公理として、支持体であるスケルトンにぴんと張ったスケルトンのように、表面は効果として連続されるべきであるというさらなる要求がある」(59頁)。

「標準化されたユニットで耐蝕性と耐久性のある金属の軽快で単純な窓枠は美学的にも実務的にも望ましい」(61頁)。

バルセロナ・パヴィリオンでは壁はスクリーンだが、固定したヴォリュームを定義していない。柱に支持された屋根の下のヴォリュームはある意味で想像上の境界によって境界付けられている。壁はこの統合的なヴォリュームのなかに独立したスクリーンとしてあり、それぞれ分離した存在として、また下位のヴォリュームを創出するものとしてある」(62頁)。

「ある特定の構法に起源があることも、将来における可能性も、どちらも忘れることなく、インターナショナル・スタイルが発展するほどに、ヴォリューム表面という原理に確かでたゆまぬ指針を、建築家は見出すべきなのである」(63頁)。

 

 

William Mundie

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シカゴ美術館マイクロフィルム・アーカイヴ所蔵、ウィリアム・マンディーによる原稿。すべてタイプ打ちで、「ウィリアム・ル・バロン・ジェニー、マサチューセッツ州フェアヘヴン1832年9月25日生」というジェニーの生涯についての短い伝記と「スケルトン・コンストラクション」というビル構造についての同時代史のようなものからなる。後者は出版予定だったのかもしれないが、出版はされていない。全体的にいささか幼稚な作文という印象がなくもなく、ただジェニーのパートナーとして同時代のオーラル・オーラルヒストリーを辿る感じになるかもしれない。

 

メモ、以下すべてSkeleton Construction, Its Origin and Development Applied to Architecture(1887,1893,1907,1932)

 

「シカゴ最初の建築家ジョン・M.ヴァン・オスデルによる1844年の『初期シカゴ回想』にならって40年遡行しよう。」(12頁)「建築的にはこの時期のシカゴはプリミティヴであり、ループ内の街路沿いの建物は3-4階建てに抑えられていた」(15頁の表記があるが14頁?)。

「(大火までに)ビジネス地区の建物は5-6階建てとなった」(14頁)、「高い1階を持つ9階建てのモントーク・ビルは1888年に竣工した。これはデザインにおける画期的な進歩だった。重い耐力壁の外壁と、内部の鉄の柱と小梁、中空タイル床と間仕切壁からなっていた。この建物において鉄製レールがフーチングの成を低くするのに用いられた」「(1883年の貿易ビル、1884年のロイヤル・インシュアランス・ビルは)同じ耐火構造を用い、傑出したものだった。シカゴの建築はデザインと構法において再生したように見えた。さらに水力式昇降機によって階高や床に関わらず床を貸すことが実務的に可能になった。

1883年の後半、ニューヨークのホームファイア・インシュアランス社がシカゴに新しいオフィスを出すことを検討した」「社長のマーティン氏のジェニーへの要望。2階以上の小割にされたオフィスに十分な光を供給するものを最大限、これが窓間の付柱をして荷重を負担するには小さすぎるものになることは認識している。ジェニーの返答。自分が考えていた主要な特質もそうであり、」(16頁)。「マーティン氏は証券マンになる前はエンジニアでジェニーのデザインを精査した、(この頁はHIBのデザインの合意過程について)(17頁)。

「ここがビル構造の転回点だった・・以下交通システムについての記述」(18頁)。

HIBにおいては橋梁エンジニアのジョージ・B・ホイットニーが雇用されたこと(18頁)。

カーネギー鉄鋼社とベッセマー鋼の記述は22ページ。フェニックス社の錬鉄に代わってベッセマーの梁が使用された可能性(22頁)。→ただし6階より上、柱は鋳鉄製(23頁)。

1890年前後のHIBの影響について(23頁)

以下、各建物についての記述が続く。このなかにはジェニー+マンディー以外のものも含まれるが、最も明快なスキーム/立面を持つものの一つである1892年のLudington Building(https://en.wikipedia.org/wiki/Ludington_Building)についての記述はない。

第一ライター、第二ライター、HIB、フェアビルについての記述は再考。ルディントン・ビルについての当事者の記述はどこかにないのか?

Frederic Baumann, Improvement in the Construction of Tall Buildings, 1884

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しばしば言及されるフレデリック・ボウマンのパンフレット。

3頁のペラで文字通りパンフレットである。シカゴ美術館のマイクロフィルム・アーカイヴのものにはバウマン直筆の1914年のメモが冒頭と末尾についている。

またシカゴ美術館のマイクロフィルムには他も “Regarding method of strengthening party walls and existing foundations to accommodate tall buildings,” “Shielding Goods in Tall Buildings”(いずれも書かれた年は不明記)があり、そして3つとも表題に高層建築(tall buildings)が付いていることから、ボウマンの主要な関心は建物の外皮より高さにあったのかなとも思わされる。二つ目のものは既存基礎のフーティング下に薄い耐圧版を挿入することで耐力を増そうというもの。

さて内容である。

建物の使用者は利便性、安全、光そしてエレガンスを求めるという前提のもと、これらをうまく統合することが高い家賃をもたらすのだと主張している。この点から鉄の構造体は耐火性能を持ったエレガントな被覆で覆われるべきと述べる。これが鉄・内蔵構法のアイデアと言う。

以下、その詳細が21項目にわたって述べられる。1、鉄の強靭な胴体(hull)または骨組(skelton)に築かれるべきであること。2、まず外側から建設されるべきこと。3、しかし室内工事は外皮より速く進む。屋根は2か月以内に架けられる一方、外皮は4層以上に進むことはない。4、屋上に起重機を設置すればその後の外皮工事は楽になる。5、そのあいだも室内工事はどんどん進む。6、それゆえ室内工事は一旦終わりプラスターの仕上工事に入る、そのかん外皮工事はすすむ。7、よってこの構法は天気に影響されにくく、速く進む。8、シカゴでは実務上12層以上の建物が建てられる。9、光は最も欲されるものである(ここでボウマンはdesideratumという言葉を既に用いている)。10、付柱は光を内部に多く取り込むために見付・見込とも薄くされるべきである。11、外皮を支える直立柱は突起した一連のブラケットとしてなされること。12、外皮ライニングは火災その他のダメージを受ける可能性があるのでブラケットは独立させるべきであること。13、大梁は両端で柱に剛接合されるべきであること。これは構造体を堅固なものとし、大梁の剪断耐力を1.5倍にする。14、小梁の両端は大梁に剛接合されるべきであること。これは小梁の耐力を20%増加させる。15、よってヴォールト、間仕切り、火を用いる場所は小梁を小さくするため大梁上に配置すべきであること。16、このことは鉄材の節約になること。17、ヴォールトは4×5フィートで9インチの多孔煉瓦からできるが、床と天井に軽量鉄製プレートを挟ませると4トン未満となる。18、ファイアプレースは1トン未満となる。19、それゆえヴォールトとファイアプレースは大梁上であればどの階でもどの位置でも設置できる。20、8階建ての場合、外皮の鉄柱にかかる費用はそれによって減じられる石材の費用とほぼ相殺されること。21、8階以上の建物であれば、この構法を用いた方が工費は安く上がる。

以上の21要点を記したのち、建物の建設にあって最も重要なアイテムは、光、利便性、空間、時間であると述べている。

最も重要なアイテムの筆頭に「光」が挙げられていること、また「空間、時間」が並んで挙げられていることには注目しておく。

 

 

Carl W. Condit

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こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/jenney-and-the-.html)で読んだカール・コンディットの著作のジェニーについての部分の再読。

 

メモ

「初期の鉄フレーム構造についての英国の主導的歴史家であるA.W.スケンプトンは聖オーウェン倉庫をホームインシュアランスに類比する位置に置いている・・・だが鉄フレーム構造のもう一つの外国のソースはヴィオレ=ル=デュクの『建築講話』でありこれは1881年に米国に訳出されている。この書においてフランスの歴史家・理論家は鉄製部材のスケルトン構造でヴォールトを囲むアイデアを述べているが、この計画はしかしながら多層構造には適さない」

「ジェニーにより身近なものだったのはシカゴの技師・フレデリック・ボウマンによる1884年に印刷されたパンフレット『高層建造物の構法改善』で提起されたものである。ボウマンはここで彼が呼ぶ「高層建物の鉄骨隠蔽型構法」が、高層建物の堅牢性、採光、それに建設の施工性と経済性に有益であると主張している。ホームインシュアランス・ビルのプランの準備期にこの論文は書かれているが、しかしジェニーはバウマンを知っていたのでもっと早くに意見交換がなされていたかもしれない。

ソースが何であれ、建物をして石を着込んだ甲殻類からただ薄皮一枚に覆われた脊椎類へと進化させる大きな一歩を、ホームインシュアランス社のシカゴオフィスのコミッションを得たその次の2年で彼はなした。この建物は1931年に解体されるまでラサール通りとアダム通りの北西角に建っていた。スカイスクレーパーの大元祖であり、大規模都市構造物への最初の適切な解答だった。この業績一つだけでもジェニーの名声を不朽にするに十分だが、彼はさらにその技術的発明に適切な建築的表現を与えるところまで進んだ。彼がなしたことは構造的であるとともに審美的なものでもあったのであり、たとえその潜在性が完全なものになるのは1890年の第二ライタービルを待たねばならぬとしても、そうなのである。ホームインシュアランスの構造システムはディテールを部分的にジェニーの技術助手であったジョージ・B.ホイットニーに負っている。

この建物の構法と機能の配列は既に確実であった技術から直接的に単純に出自して来ている。フレームは柱・梁の連続からなるもので、柱鉄円柱と錬鉄角柱と錬鉄と鋼鉄のI型梁を結合することで床荷重を支えている。リンテルとマリオンは鋳鉄、6階より上のスパンドレルの小梁と大梁はベッセマー鋼によるもので、それゆえこの素材の建物への最初の使用を記すものとなった。これは合衆国において三つの橋梁においてのみ使用されていたに過ぎない。セントルイスのイアーズ橋(1868-74)はシカゴのビルダーにとって最も影響が大きいものであった。ホームインシュアランスのフレーム部材はアングルとウェブとガセットプレートによってボルト固定されていた。」(82-3頁)

 

 

 

 

 

 

 

ヤーコプ・フォン・ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』日高敏隆・羽田節子訳、岩波書店、2005年

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 前半の生得的な環世界から後半に登場する経験によって獲得される環世界、さらに作用像が知覚象を発生させる、幻覚的な環世界までが論じられる。環世界の原語はUmweltで、これは各主体にとっての知覚世界(Merkwelt)と作用世界(Wirkwelt)から形成されるとされる(7頁)。有名なマダニの例を冒頭に持ってきたのはこれが最も理解し易いからであると思われる。

 とともに、環世界は空間的なものだけでなく、時間もまた、「時間は主体が生み出したものだとはっきり述べたことは、カール・エルンスト・フォン・ベーアの功績である。瞬間の連続である時間は、同じタイム・スパン内に主体が体験する瞬間の数に応じて、それぞれの環世界ごとに異なっている。瞬間は分割できない最小の時間の器である」(53頁)であると述べられている。人間にとっての「瞬間」、最小の時間単位は1/18秒であるとされ、なぜなら触覚的にも視覚的にも聴覚的にもこれ以上小さな時間単位を人間は知覚することができないからであるという。知覚主体としての人間にとっての時間はこの1/18秒の時間が連続して形成されるものだということになろうが、たとえばベルクソンのいう「時間」なども実はこうした環世界的に構成された時間であると見ることも可能なはずである。

 同じようにして「環世界」的な空間とは、たとえば戸坂潤がその『空間論』で述べた「直観空間」つまり「空間表象」のあり方であると措定することは可能なはずである。戸坂は空間を「直観空間」、「幾何学的空間」、「物理的空間」に分類しているが、一般に「均質空間」と呼ばれるものは「測定」を解して認識される幾何学的空間以降のものと、さしあたり述べ得る。

 

アリストテレス『形而上学(上)、(下)』出隆訳、岩波書店、1959、1961年、『詩学』岩波書店、1997年

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前者は今日「自然科学」と呼ばれるものについての考察と大雑把に言える。本論はさておき、はじめの方で「棟梁術」となっているのはおそらくアルキテクトニケ・テクネのことではないかと思われ、アルケーとかテロスとかそれほど深い意味で考察しなくともこれは「棟梁」や「棟梁術」との関係で考えていておいてもよいのであろう。ところがなかほどまで読み進めてくると今度は「建築家」という言葉が登場してくる。この「建築家」という言葉ははじめの方で出てきた「棟梁」と同じ言葉なのか異なる言葉なのか、個人的にはおそらく同じ言葉をうっかり異なる訳語で訳出したのではないかと推測する。

いずれにせよ「建築家」は「教養人」として出てくる。

そしていずれにせよ、西洋における「建築家」の意味合いが異なってくるのはルネサンス以降のことであり、とりわけアルベルティの“creative thinker”(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20080819)以降のことと見てよいと思われる。

さて『詩学』について。

詩、詩作はポイエンインつまり創作であると一般的に理解されているふしがあるかもしれないが、詩学において最も重要なものは実は構成であると読める。この点でもあらためてセルゲイ・エイゼンシュタインの『モンタージュ論』が本書を参照し、そのエイゼンシュタインモンタージュの理論通りに制作した映画が『戦艦ポチョムキン』であり、つまりはアリストテレスの本書『詩学』を基本に据えたものであったということが思い出される。エイゼンシュテインが同作において踏襲したものは五幕の悲劇形式であったが、その悲劇形式は本書においては教養ある観客を対象とした叙事詩に対し、低俗な観客を対象としたものであったと述べられている。裏を返して述べるなら、エイゼンシュテインは映画という当時の新しいメディアを、それが対象とする観客をも含めて古典のセオリー通りに用いて制作したということである。

 

 

 

 

 

 

 

 

板谷敏彦 『金融の世界史 バブルと戦争と株式市場』新潮社2013

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メモ

「こうした状況を変えたのが、大規模な資金調達を必要とする鉄道という事業でした。そしてイギリスよりも州単位で立法するアメリカの方が、企業誘致の競争上の観点から、この問題に早く対応することになったのです。

1837年にコネチカット州で、株式会社設立に、特許会社のようにいちいち法律を造る必要がなくなり登記だけですむようになると、各州が競争して障壁を下げる方向にすすみました。現在の我々に馴染みの深い「登記だけで会社が設立できる制度」は、この頃から始まったものです。

イギリスは少し遅れて1844年に共同出資法が制定され、自由に株式会社を設立できるようになり、1856年の株式会社法によって有限責任法の諸条件が撤廃され、株主の有限責任が一般化しました。登記だけで株式会社が設立でき、株主に出資分以上に損をすることがなくなったと同時に、無限責任の支払い能力を求める必要もなくなり、相手を気にせず株式を自由に売買できるようになったのです。株価はゼロより下へはいかなくなったのです。そして「1862年会社法」と、それに追随したイギリス以外の各国の新しい法律によって、規制から解放された会社が、19世紀末の最初のグローバル化黄金時代を形成することになります。『株式会社』(クロノス選書)を著したジョン・ミクルスウェイトとエイドリアン・ウールドリッジは、この法律を「株式会社の発明」と呼んでいます。」(144-145頁)

連邦政府は、軍資金調達のための国債消化に苦慮していました。戦争と国債は、切っても切れない関係にあります。北軍のペンシルベニア州は300万ドルの州債を発行しようとしましたが、1841年に一度デフォルトしていたので信用がなく、全く買い手がつきませんでした。

そこに、その当時フィラデルフィアの駆け出しのプライベート・バンカーだったジェイ・クックがこれを引き受けて、州民の「愛国心に訴える」ことでなんとか乗り切ったのです。

クックは一口の販売単位を個人でも買える50ドルにまで落として、投資家の裾野を広げ、地方新聞の広告欄をフルに活用し州債の認知度を上げたのでした。」「この国債販売は、アメリカの証券投資家人口の裾野を広げ、その後の米国における証券投資販売の基礎となりました」(150-151頁)