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メモ

戸坂潤『日本イデオロギー論』、岩波書店、1977

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 寄道をして一瞥する。初出は1935年である。

 舶来新思想から昔の思想まで「ありとあらゆる思想が行われる」日本の状況を瞥見しながら(板垣鷹穂も似たような皮肉を述べていた)、まず

 

「思想とはあれこれの思想家の頭脳の内にだけ横たわるようなただの観念のことではない。それが一つの社会的勢力として社会的な客観的存在をもち、そして社会の実際問題の解決に参加しようと欲する時、初めて思想というものが成り立つのである」(17頁)。

 

として、近代(明治以降)日本における主要な思想を著者は二つに分類する。「自由主義」と「日本主義」がそれらである。

 近代化とは都市化なのであるとすれば、その進行によって都市的な思想が主要なものとして大きくなってくるのは容易に想像できる。「自由主義」とは都市のイデオロギーである。

 これに対する反力(反動)として反・都市的な思想、あるいはバランサーとしての思想も同様に大きな思想となってくるであろう。著者のいう「日本主義」とは大雑把にいってこのことであると述べていい。日本の近代化が西洋化でも同時にあったとすれば、明治中期に過度の欧化に対するものとして登場した国粋主義からその後のアジア主義までを、著者はこの範疇で捉えている。そしてこの見取図は今日にいたっても大きく変わっておらず、あらためて著者の整理の射程の大きさに目が行く。さらに述べればスラヴォイ・ジジェクの遥か以前に、リベラリズム批判も著者は行っている。

 さて日本における唯物論は著者がその基を築いたとも言えるが、その唯物論はしかし、イデオロギーというより方法論というべきであるように思える。ついでに述べれば、思想史的にはヘーゲルの精神史を転倒して(しかし三項性はそのままに)マルクス史的唯物論が成立したとすると、たとえば橘孝三郎の日本農本主義を批判するにあたって、ドイツ系社会学ゲゼルシャフト/ゲマインシャフトというお馴染みの図式を橘に従って追いつつ、しかし最終的には精神主義として批判するあたりは、これで完全な批判になるのかという気もしなくもない。また地域主義と、ローカルな思想やローカル思想家というのも、同じにはできないではあろう。しかしながらつまり、

 

「どういう精神主義の体系が出来ようと、どういう農本主義が組織化されようと、それは、ファッショ政治団体の殆ど無意味なヴァラエティーと同じく、吾々にとっては大局から見てどうでもいいことである。ただ一切の本当の思想や文化は、最も広範な意味に於いて世界的に翻訳され得るものでなくてはならぬ。というのは、どこの国のどこの民族とも、範疇の上での移行の可能性を有っている思想や文化でなければ、本物ではない。丁度本物の文学が「世界文学」でなければならぬと同じに、或る民族や或る国民にしか理解できないようにできている哲学や理論は、例外なくニセ物である」(153頁)

 

なのである。これはその通りであろう。

 

 またはじめの方で日本語では「文献学」とされているphilologyを追いつつ、いわばプロテスタント的な文献学とカトリック的な現象学を結び付けたハイデッガーの「解釈学的現象学」という超技も部分的に批判的に瞥見される。

 

「表面化するいうことが現象するということに他ならない。そうだとすれば、例えば事物の背後や内奥に生活の表現を探り、事物の裏からの事物の匿された意味を取り出すといったような解釈学や文献学は、現象なるものに対して初めからソリの合わない方法だと云わざるを得ない。表面というものの厚さを量ることはできない相談だからである。

 にもかかわらずハイデッガーは解釈学的な現象学を企てようとする」「文献学乃至は解釈学は歴史的には使えないから何か現象的にでも之を使う他はない。ドイツ・イデアリズムの世界観としての(人々はそれを好意的に形而上学と呼んだ)歴史的行き詰まりを打開するには、こうした非歴史的な哲学体系が何より時宜に適したものであったに違いない。ナチスの綱領がドイツの小市民を魅了したと同様に、ドイツの所謂教養ある(?)インテリゲンチャを魅了したのがこの哲学「体系」であった」「今やハイデッガーに於いては、文献学乃至解釈学は、そのプロパーな言語学的又歴史的桎梏から脱して、正に哲学そのものの方法に羽化登仙するのである。文献学にとってこれ以上の名誉は又とあるまい。と同時に、これ程文献学にとって迷惑な事もないのである」「例えばハイデッガーによれば、距離(Entfernung)とは遠く離れてある(fern)処へ、手を伸ばすなり足を運ぶなりして、その遠さを取り除く(Ent)事によって、成り立つというのだ。こうした説明は一応甚だ尤ものように見えて案外他愛のないものであり、殆ど一切の言葉が同じ仕方で説明できない限り、語源学的な意義さえそこにはないのであって、之は何等言語学的な説明でさえあり得ないのだ。言葉(ロゴス)が現象への通路だというが、こういう調子では、この通路もただ割合に工夫を凝らした思いつきの示唆に過ぎない」(48頁)。

 

 さて日本主義に関連して和辻哲郎も批判的に検討される。

 

「一体和辻氏の哲学上の方法は、一見極めて天才的に警抜に見えるが、他方また甚だ思いつきが多くてご都合主義に充ちたものであることを容易に気づくだろう。だから氏独自の哲学的分析法と見えるものも、多分に雑多な夾雑物から醸造されているので、それは必ずしもまだ本当に独自なユニックな純粋性を持っていない。現にその倫理学も、多分に西田哲学の援用と利用とがあり、而もそれが必ずしも西田哲学そのものの本質を深め又は具体化する底(ママ、引用者)には見えないので、西田哲学からの便宜的な借りものをしか人々はここに見ないだろう」「氏は明らかにハイデッガーの解釈学的現象学に負う処が最も多いことを告げている」(164-165頁)。

 

このうえで

 

「だが和辻氏の解釈学が、果たして解釈学的現象学に比べて、どこかに根本的な優越性があるだろうか」(168頁)

 

と疑問を呈し、さらに

 

「和辻倫理学がこうした倫理至上主義を取るのは、決して問題が倫理であるからではない。寧ろ、歴史的社会の現実的物質的機構の分析から出発することを意識的に避けようとする解釈学の唯一の必然的な結果なのであって、そういうものが「人間の学」の、即ち広義に於て今日の日本の自由主義者や転向理論家が愛用する「人間学」の、根本特色なのだ」「つまり和辻式倫理学は、自由主義哲学が如何にして必然的に日本主義哲学になるかということの証明の努力に他ならぬ」(170-171頁)」

 

と述べる。

 また自由主義について見ていくなかでは、西田哲学のいわば「存在と無」のなかにロマンティークの残滓を嗅ぎ取っている。

 

 

Ozanfant, Foundations of Modern Art, Dover Publications, inc. New York, 1931(English edition), 1952

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メモ

「絵画」の章より

「いつの日か将来、こう認識されるであろう。1914年後のあらゆる芸術活動は二つの集団活動に分類されると。ダダイズムピュリスムがその二つである。この二つの運動は明らかに相互に対照的であったものの、芸術の腐敗した生産品によって等しく病み、そしてそれを健全化しようとしていた点では同じであった。ただし前者は時代遅れの公式で嘲ることで、後者はディシプリンの必要性を強調することで」(116頁)。

「それから1918年に、健全な芸術を再興する私の作戦にシャルル・エドゥアール・ジャンヌレを誘い、この協働は1925年まで続いた」「ピュリスムの礎を置き、それは芸術的混乱に秩序をもたらし、多く誤解されていた新しい時代の精神を芸術家たちに植え付けたのである」(117頁)。

「『キュビスム以降』のアイデアを進めるために、総合文芸誌『レスプリ・ヌーヴォー』が1920年に創刊され、「オザンファンとジャンヌレ」の編集で1925年まで続いた。われわれの書『近代絵画』は『レスプリ・ヌーヴォー』キャンペーンのレジュメでもある」(120頁)。

「機械は健康的であり、われわれにとって抗いがたい何かがある。カノン砲、爆弾、いろいろな武器といった近代戦争の恐ろしいメカニズムと精密さにフェルナン・レジエは感動した。幾千という歯車が一斉に動く厳密さに彼は気づいたのである」(120頁)。

 

「建築」の章より

「二流芸術家よりは一流の技師の方がよい。技師はつまるところ重要な人物である。エットーレ・ブガッティは、時代遅れの彫刻家でその弟であるレンブラント・ブガッティより偉大である」(137頁)。

Le Corbusier, Toward An Architecture, Introduction by Jean-Louis Cohen, Translation by John Goodman, The Getty Research Institute, 2007

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 20世紀の最重要建築書と言えば、やはり本書であろう。英語版新版である。

これまで英語版はフレデリック・エチェルス訳版があったが、同書においては書名が「新しい建築へ」ともうそこから意訳されているうえに、訳者によれば、文体も仏語原文の生き生きしたものがなくなり、ブックデザインも印象異なるものとなっているという。たとえばル・コルビュジエステファヌ・マラルメに傾倒しており、原文はマラルメ散文詩のように書かれているのであるという。さらに英語版ではmassと訳されたvolumeも元のvolumeに戻されている。

 またギーディオンの『空間・時間・建築』のブックデザインをハーバート・バイヤーが担当してクオリティを高めたように、本書においても、ブックデザインと文体と文の内容は不可分であるように思われ、新版ではそのニュアンスがよく伝わるものとなっている。

 解説者のジャン=ルイ・コーエンによれば、本書で用いられているような対立的イメージを並置的に用いる手法はフランツ・マルクやワシーリイ・カンディンスキーがミュンヘンで発行していた『青騎士』で用いており、これは他にもドイツ語圏の雑誌でよく用いられていたもので、ル・コルビュジエは間違いなくその影響を受けているのだとする。こうしたヴィジュアル・アプローチは『レスプリ・ヌーヴォー』にも影響しており、同誌の初期の記事にはロシア・アヴァンギャルドに関するものが多かったともいわれる。

 さて冒頭の「三つの覚書」である。「ヴォリューム」で使用されているイメージは米国の穀物サイロであり、「表面」で使用されているのは反例としてのキャス・ギルバートのオフィスビルを除けばすべて工場建築であり、そのうち1枚はグロピウスのファグスヴェルケ、他は全てアルバート・カーンのフォード・ハイランド工場のイメージである。ファグスヴェルケがドイツにおけるいわばアメリカニズムの表象(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/rayner-banham-a.html)だとすると、この部分も実質アメリカの建物のイメージで占められていることになろう。

 「工業的アメリカへの彼の関心はこの世代では普通にあったもので、その知識が二次情報に限られていたとしてもそうである。ジャンヌレのアメリカへの欲望は強いものであった。ペレ兄弟に宛てた1910年の書簡で「オーギュスト氏が眼を開けかせてくれたシカゴ滞在への見解」をまだ失っていないと述べている」(8頁)。

 最後の「プラン」についての考えはボザールのジュリアン・ガデから来ているという(10頁)。

 さてアメリカの工業的イメージがここで使用されているとして、「ヴォリューム」では穀物サイロ、「表面」では工場建築という使い分けがなされているのは、意識してのことなのだろう。このイメージで見ると、英語圏でこれまで「マス」と訳されてきたのも分からなくはない。しかしながらル・コルビュジエのヴォリューム概念(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/2001-f4af.html)は、形態も質料も持たない量概念のことなのであるという。裏を返して述べれば、ヴォリュームの大小は資本の大小にほぼ比例している。覚書のそれぞれの冒頭で「建築は様式とは関係ない」を繰り返しているにもかかわらず「国際様式」という言葉を用いたのはなぜか。

 この二つの異同から始めてもいいのかもしれない。

 

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メモ

https://www.sophia.org/tutorials/elements-of-art-volume-mass-and-three-dimensionali

Henry-Russel Hitchcock Jr., Modern Architecture Romanticism and Reintegration, Da Capo Press, New York, 1993(1929)

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      こちら(http://madhut.hatenablog.com/entry/2016/11/22/002833)で言われている書は、こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/norman-shaw-and.html)のペリカン本ではなく、本書である。

 フィリップ・ジョンソンが熱狂し、コーリン・ロウが高く評価した「近代建築史・外典」である。

 マンフレッド・タフーリが効力的批評(operative criticism)として批判する歴史書に本書が登場しないということは、タフーリはこれを読んでいなかった可能性がある。また「効力的批評」という視点で述べるなら、本書記述中にその名も「未来の建築」という章を持った『ゴシック建築論』がG.G.スコットによって1857年に出版されたといい、この書が「効力的・・」の最初期の書と言えるだろうか。同書は英国におけるジョン・ラスキンの中世キリスト教社会主義の理念やそれに続くウィリアム・モリスのアーツアンドクラフツ運動、さらにアールヌーヴォー(本書の記述では「新・伝統」)という文脈にも位置付けられ得、またペリカン本でもそうだが、このあたりの英国の中世主義からクイーン・アン様式へ、さらにはフリークラシックへ、またバーナード・ショーやネスフィールド、ウェッブ、ヴォイジーといった建築家の記述は他ではあまり見られないものではなかろうか。

 他方では、ハーヴァードでの講義を基に1941年に出版された『空間・時間・建築』の執筆および講義準備において、ギーディオンは本書を読んでいた可能性がある。ギーディオンはバロックの空間性から話を始めていたような記憶があるが、本書もまた後期バロックから始まる。

 またロマン主義についてはニコラウス・ペヴスナーの1943年の書(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/nikolaus-pevsne.html)での考えともある程度重複する。それは本書では過去への視線、考古学的態度におけるものであり、18世紀半ば、1760年のヴィンケルマンによる『古代・芸術史』の出版あたりから話が始まる。

 あえて大雑把に全体のストーリーを述べるなら、ヴィンケルマン以降の考古学的知見から古典主義をはじめとした過去の建物のリヴァイヴァルが始まったが、これはペヴスナーが述べるものと同じ考古学的・学術的厳密性に基づいた19世紀歴史主義の始まりでもあり、異なる時代の諸リヴァイヴァルが再現されていくにつれ、これらを折衷しようとする動きも現れるが、この動きは諸リヴァイヴァルの「趣味」の折衷主義となり、とりわけ18世紀末から19世紀初頭の趣味概念である「崇高」や「ピクチャレスク」を始めとしたものとなっていくこととなる。新・伝統ではこの折衷が「様式」の折衷主義へと再度変化していき、そして新しい時代を準備していった、と言えるだろうか。この過程が「ロマン主義と再統合」と言われる所以であろう。「第8章、新・伝統の本質」から。

「建築の新・伝統は趣味の折衷主義から、合理的・統合的方法を意図して様式の折衷主義へ向かうや、現れた」(90頁)。

ルネサンスバロックの関心はただ古典古代のみであったが、ロマン主義の時代に変化が現れた。次から次へとそして一度にいくつもの異なる時代の過去のリヴァイヴァルがあったが、しかし理論一般においてはまだロマン主義者はある時代のみのリヴァイヴァルについてそれぞれ信じており、あるいは少なくともそうした異なる時代は趣味においてのみ緊密に関連していた。それゆえ二つの主要な陣営のあいだで先鋭な闘争があった。古典主義者と中世主義者の二つの陣営である。象徴的機能的線に沿ってその違いを解消することは、趣味の折衷主義の理論においてなされたのである。ロマン主義の古典主義リヴァイヴァリストと中世主義リヴァイヴァリストの建築が少なくとも1850年まで持っていた様式の感覚をそれはまったく破壊してしまった」「ロマン主義の結論として19世紀は、過去への関係を規則化したのであり、建築に関してそうすることで多かれ少なかれ現在から完全にそれ自身を隔離したのである」(91頁)。

「建築に関しては、新・伝統は趣味の折衷主義を様式の折衷主義に置き換えた。90年代以降、これは重要な建物においてますます明らかとなった。ひとたび過去がそれぞれにおいて閉鎖的で相互に対立的なものの一揃いから全体的なものへと見做され得るや、たとえば極端な例を示すならロマネスクからはマスの効果を、そしてそれを支持するディテールはバロックからと、それぞれ模倣することが可能となった」「当初からしかしながら、各国の新・伝統の創始者達は、その借物を微妙にかつ刮目すべく統合し、また最良の職人術とある程度は同時代の技術とを統合し、それゆえ見た目は過去の残滓はないのだと説得されるほどであった。この事実から「モダニスト」の名が、新・伝統の建築家にしばしば与えられるのである」(92頁)。

 言い換えるなら、ロマン主義とともに始まった諸様式の考古学的リヴァイヴァルがやがて諸様式間の折衷を生み出し、これが最終的に過去の残滓を見えないようにまで効果的に用いられ、そこからやがて過去とは袂を分かった「現在主義者(モダニスト)」の登場を用意した、ということになる。何とも見事な説明である。

 本書はMoMAの「近代建築展」の底本になったものであるが、そこでいわれているもののほとんどは本書において既に述べられていると言っても過言ではない。まず、マス、ヴォリューム、関係、という諸概念が初めて述べられるのは18世紀建築についてである。

「18世紀後半の建築に支配的となる直接的なヴィジョンはたとえ絵画的規範であるにせよ、マス、ヴォリューム、それに関係性という説明をとる」(97頁)。

ヒッチコックはここで既に、マス、ヴォリューム、関係性(ル・コルビュジエの指標線)の規範を導入している。おそらくマンフォードの戦後の論考はヒッチコックのこの概念装置を踏襲しているのであろう。続ける。

「折衷的な線に沿ってマスとプロポーションのスタディへの増していく関心は同時に、幸運にも、ロマン主義に内在していた抽象的絵画的および心理的視点を支持する傾向があった」(99頁)。

「その一般原理を変えることなくそれゆえ最後の時代において新・伝統はどんどん装飾を捨てていった。それ自身のための単純化され還元された折衷的なマスの効果を探求し、それにくり型によることのない表面の肌理のバランスという二次的なものも与えた」(100頁)

 米国においてはリチャードソンがまずこの建築家の筆頭に挙げられる。リチャードソン、サリヴァン、ライトという線はここでも踏襲されている。

 ところでそのライトの線に関し、まずニューヨークのスカイスクレーパーの建築家達が批判され(104頁)、シカゴの建築家達が高く評価される。

「アメリカの創造的新・伝統への現在のスカイスクレーパーの関係は、ライトのシカゴの先行者に最良のものを見ることができる」(104頁)。

「20世紀アメリカの新・伝統の歴史はライトの仕事において顕著である。だがライトは意識的であれ無意識的であれ、彼が多くを負っている建築家の線の末尾にいるのである。彼の師・サリヴァンだけでなく、まずリチャードソンがその道を準備した。これはヨーロッパにおいてまだ新・伝統がなかった時代のことである」(104頁)。

 ちなみにジェニーは「大佐」になっている(この程度の認識であったか)。

「リチャードソンの死の前年、ジェニー大佐はHIBにおいて初めて金属のスケルトン構造を導入したが、これがスカイスクレーパーを可能にした」(108頁)。

これに続いてホラバード+ローシェのタコマビルが言及されている。

 余談ながらライトに関し日本建築の影響はまったく言及されず、「極東」のライトへの「影響」は本書では否定されている。東部の美術史家の当時の認識はそんなものだったのか、とも思わせる(117頁)。

 さてこの新・伝統に続いて「新パイオニア」が登場する。この部分はMoMAの展覧会のまさに底本となった部分であり、主要な主張は既にここに現れている。

「だがこの新しい手法は新・伝統のこのヴァージョンとは根本的に袂を分かっており、というのも、新・伝統は過去の芸術遺産にそのデザイン原理を置いていたからである。マスの三次元コンポジションにおいての代わりに新パイオニアはヴォリュームにおいて構成し、面白みの手段として複雑さを用いる代わりに、彼らはぎりぎりの統一性を探求し、表面の肌理の豊饒さや多様性の代わりに、彼らは単調さや貧しさをさえ希求する。ヴォリューム境界の幾何学としての表面という考えは、そうすることで最も明確に強調されるからである。装飾の排除はただ単に、今日では機械複製によってそれが無価値になっているということのみだけではなく、ヴォリュームと平面の探求が実行されるなら、過去においてそれを美しく装飾していたものは今日ではそれを破壊してしまうゆえ、完全な統一が実現されないからでもである」(160頁)。

これに続いて次頁では「技師の美学」が言及されている。

 MoMAの展覧会の基本骨子は既にここにおいて現れている。とともにル・コルビュジエの諸概念を精密化し、米国建築史ともある程度連結させているとも言える。検証点の一つであるかもしれない。

 ”space, time(time-space)”という概念はギーディオンの前にクヌッド・ロンバーグホルムが既に用いている(162頁)。

 

メモ

www.ubugallery.com

First Look: Knud Lonberg-Holm, Modernism's Long-Lost Architect

上田閑照編『西田幾多郎哲学論集I』「場所」、『西田幾多郎哲学論集III』「絶対矛盾的自己同一」、「歴史的形成作用としての芸術的創作」、岩波書店、1987、1989

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寄道する。

 西田の「場所」概念はあらためてカントの読替えとしてあると思われ、実際カントの名は参照点としてしばしば登場する。他方では同時代の現象学には批判的にも見え、これに対しライプニッツの「モナド」やベルグソンの「純粋持続」、そして近年のドゥルーズの「生成論」などに近いようにも、これはまた見える。「場所」のなかのカントについて論じたところでは 

「カントの意識一般もすべての認識の構成的主観としては、真の無の場所でなければならぬ」「この場所においては、すべて存在的有は変じて繋事的有とならねばならぬ。しかし意識一般もなお真の無の立場ではない。対立的無の立場から絶対的無の立場への入口に過ぎない。更にこの立場を越えて叡智的世界がある。理相即実在の世界がある。これ故にカントの批評哲学を越えてなお形而上学が成立するのである。有るものは何かに於いてなければならぬ、論理的には一般的なるものが、その場所となる。カントが感覚によって知識の内容を受取ると考えた意識は、対立的無の場所でなければなぬ、単に映す鏡でなければならぬ、かかる場所に於て感覚の世界があるのである」(I、90-91頁)。

  カントの「物自体」については

「映す鏡の底になお質料が残っている。無論それはいわゆる潜在、いわゆる質料ではないとしても、カントの物自体、現今のカント学派の体験の如く、除去することのできない質料である」(I、99頁) 

とも言われる。またこのあとの方で、

「知覚、思惟、意志、直観という如きものは、厳密に区別すべきものたるとともに、相互に関係を有し、その根底にこれらを統一する何物かがなければならぬ」(I、133頁)

とも述べられるが、これらはカントの諸主題でもあるだろう。この一文は、

「記憶、想像、感情など多く論ずべきものがあるであろうが」(I、134頁) 

と続けられるが、これはまたベルグソンの諸主題でもあるだろう。

 他方では現象学に対し批判的な言説が登場する。

現象学者は知覚の上に基礎付けられたる作用の底にも直覚があり、知識はこれに向かって充実せられて行くというが、知識の基礎となる直覚とはなお意識せられた意識であって、意識する意識ではない。真に意識する意識、即ち真の直覚は作用を基礎付け行くことによって変じ行くのではなく、かえって作用はこれにおいて基礎付けられねばならぬ」(I、109頁)、

現象学派においては作用の上に作用を基礎附けるというが、作用と作用とを結合するものはいわゆる基礎附ける作用ではなくして、私のいわゆる「作用の作用」という如きものでなかればならない。この場所においては作用は既に意志の性質を含んでいるのである。作用と作用との結合は裏面においては意志であるといってよい。しかし意志が直に作用と作用とを結合するのではない、意志もこの場所に於いて見られたものである、この場所に映されたる影像に過ぎない」(I、119頁)。

「前にいった如く、フッサールの知覚的直覚というのは一般概念によって限定せられた場所に過ぎない。真の直覚はベルグソンの純粋持続の如く生命に充ちたものでなければならぬ。私はかかる直覚を真の無の場所に於いてあると考えるのである」(I、127頁)。

などである。

 西田の述べる「場所」は意識の「野」のようなものとしてまず考えられている。 

「我々が物事を考える時、これを映す如き場所という如きものがなければならぬ。先ず意識の野というものをそれと考えることができる。何物かを意識するには、意識の野に映さねばならぬ。而して映された意識現象と映す意識の野とは区別されねばならぬ」「しかし時々刻々に移り行く意識現象に対して、移らざる意識の野というものがなければならぬ。これによって意識現象が互いに相関係し相連結するのである」(I、69頁)。 

さらに 

「しかし意識と対象と関係するには、両者を内に包むものがなければならぬ。両者の関係する場所という如きものがなければならぬ、両者を関係せしめるものは何であろうか。対象は意識作用を超越するというも、対象が全然意識の外にあるものならば、意識の内にある我々よりして、我々の意識内容が対象を指示するという如きことを考える」(I、70頁)、 

と述べ、この「場所」が襞構造をもっていることが示唆される。

そしてさらに

「直接には一般と特殊とは無限に重なり合っている、斯く重なり合う場所が意識である。右の如く考えるならば、判断において真に主語となるものではなく、かえって一般的なるものである」(I、135頁)

と述べ、

「我々は無限に特殊の下に特殊を考え、一般の上に一般を考えることができる。かかる関係において、一般と特殊との間に間隙のある間は、かかる一般によって包含せられたる特殊は互に相異なれるものたるに過ぎない。しかし一般の面と特殊の面とが合一する時、即ち一般と特殊の間隙がなくなる時、特殊は互に矛盾的対立に立つ、即ち矛盾的統一が成立する。是において一般は単に特殊を包み込むのみならず、構成的意義を有ってくる。一般が自己自身に同一なるものとなる。一般と特殊とが合一し自己同一となるということは、単に両者が一となるのではない。両面は何処までも相異なったものであって、唯無限に相接近していくのである。斯くしてその極限に達するのである。是において包摂的関係はいわゆる純粋作用の形を取る。かかる場合、述語面が主語面を離れて見られないから、私はこれを無の場所というのである。主客合一の直観というのは、かくの如きものであなければならぬ」(I、136-137頁)。

 と述べ、いわば生成論的な「絶対矛盾的自己同一」を、ここにおいて示唆している。

 さて、まさに「絶対矛盾的自己同一」と題された論考がある。この論考の冒頭は何とも結構的な記述から始まるが、まずはそのまま引用する。 

「現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによってできた結果であると考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物が相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くといういうことは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなるということであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない。個物と個物の相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである」(III、7-8頁)。

そしてこの絶対矛盾的自己同一の「時間」は先述したように襞構造をなしており、ベルグソン/ドゥルーズ的時間ともたいへん近いようにも思われる。たとえば、

「時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でばければならない」(III、9頁)、 

であり、 

「しかも現在は多即一一即多の矛盾的自己同一として、時間的空間として、そこに一つの形が決定せられ、時が止揚せられると考えられねばならない。そこに時の現在が永遠の今の自己限定として、我々は時を越えた永遠なるものに触れると考える。しかしそれは矛盾的自己同一として否定せられるべく決定せられたものである。時は現在から現在へと動き行くのである」(III、10頁)。

といった具合である。

 この絶対矛盾的自己同一の時間や世界はそれだけであれば動物も人間も同じではあるのだが、続く「歴史的形成作用としての芸術創作」への伏線にもなることだが、しかしながら歴史的主体としてあり得るのは人間だけであり、そしてそうなり得るのは人間が制作し得るからである、と述べられる。このあたりはラカンのRSI図式を彷彿させなくもない。

「絶対矛盾的自己同一の世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界は一つの現在として自己自身を形成し行く、作られたものより作るものへとして無限に生産的であり、創造的である。かかる世界は、先ず作られたものから作るものへとして、過去から未来へとして生物的に生産的である」「しかし生物的生命においては、なお真に作られたものが作るものに対立せない、作られたものが作るものから独立せない、従って作られたものが作るものを作るということはない。そこではなお世界が真に一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するとはいわれない。現在がなお形を有たない、世界が真に形成的でない、生物的生命は創造的ではない。個物はなお表現作用的ではない、即ち自由ではない。歴史的世界においては主体が環境を、環境が主体を形成するといったが、生物的生命においてはそれはなお環境的である。歴史的主体ではない。なお真に作られたものから作るものではなくて、作られたものから作られたものへである」(III、37-8頁)。 

「行為的直観」という言葉が登場するのもこの文脈においてである。

「物を創造するというのは、自己が物に奪われることではない。自己が物となること、自己がなくなることではない。さらばといって、単に自己が意識的に作用することでもない。作ることによって、真に能動的に、物の真実が把握せられることでなければならない。行為的直観ということが単に自己が物に奪われるということなら、論理を否定すると考えられるでもあろう。しかしそこには自己が何処までも能動的となることである。物をそのままに受取ることはできない。物を能動的に把握することである。我々は矛盾的自己同一的世界の形成要素として、そこに何処までも論理的でなければならない。論理を否定することは、自己を暗ますことである。行為的直観的に、ポイエシス的に、我々の自己は益々明となるのである。芸術は非論理的と考えられる。芸術的直観とは、行為の直観において、物が自己を奪うという方向において成立するものなるを以て、非論理的とも考えられるが、具体的論理の立場からは、芸術的直観もその一方向として含まなければならない(芸術も理性的でなければならない)」(III、65-66頁)。

 「歴史的形成作用としての芸術的創作」ではドイツ系美学・美術史にも一瞥が与えられているが、ウィーン学派への評価は高い。ゴットフリート・ゼンパーは「ゼンペル」という表記になっている。

 

 

コーリン・ロウ『コーリン・ロウは語る、回顧録と著作選』、「第一部テキサス、テキサス以前、ケンブリッジ」「ヘンリー=ラッセル・ヒッチコック」松永安光+大西伸一郎+漆原弘訳。鹿島出版会、2001

 

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  ヒッチコックの『近代建築』とギーディオンの『空間・時間・建築』についてコーリン・ロウが語っていた部分をメモ。

 「しかし、時のハーヴァード学長のジェイムズ・ブライアント・コナントがレストランを出て左に曲がり、次にチャーチ・ストリートの方へ右折して、右側の二軒目の現代的な家、グロピウス・アンド・フライ事務所、に、ハーヴァードからの知らせをもって入っていく姿は手に取るように見えるのだが、このことの意味をどう解釈してよいかまだ分からないのである。無論、限られた人々の間で密かに議論が交わされていたであろうが、ヒッチコックはこのメンバーに入っていなかったにせよ、この話題についてよく知っていたことは確実である。だがこの政治学の意味するものは何だったのだろう。私はこのことに関して何も知らないと言わねばならないのだが、それでもヒッチコックは瞬時にして自分がグロピウスを推薦したことを後悔することになったことはよく知っている。グロピウスがハーヴァードにやってきて、彼が一種のスポンサーということになれば、誰でも、彼の望みを想像するだろうが、私が想像する彼の希望の地位はジークフリート・ギーディオンに取られることになったのだ。

悲しい皮肉というか、おかしい皮肉というべきか。

 ともかく、その結果ギーディオンは一九三八年から三九年にかけて行われたチャールズ・エリオット・ノートン記念講演を増補して『空間・時間・建築』を出版することになり、これは一二年前のヒッチコックの『近代建築:ロマン主義と再統合』と匹敵するものとなった。

 両書とも同じ建築的土壌、一八世紀以降、を扱っているが、『空間・時間・建築』のギーディオン は、多分より先駆者といえるヒッチコックが手にできなかった一般的な成功を収めたので、これが建築の聖書になったとすると、一方は総じて外典の地位に留まることになった。その理由は、一つには時代が味方した、英語圏でもついに近代建築への興味が高まった、ということと、もう一つにはギーディオンが話題をより広範にわたり知的に見える土俵、究極的にはヘーゲル流の世界観をごく圧縮したもの、の中に位置づけたことである。そして多分、最も重要なことは、タイポグラフィーとレイアウトを見るとハーバート・バイヤー、彼自身バウハウスの出身であった、の仕事が好感を持って受け入れられたことである。そして多分、このタイポグラフィーとレイアウトを見るとハーバート・バイヤーの天分を認めざるを得ない。というのも、この二冊の本の見かけほどかけ離れたものはないからだ。一九二九年にヒッチコックの出版社は本文を前に置き、図版を後においたが、それもずっと後の方、つまり注釈や索引よりも後に持っていった。一方、一九四一年の時点でのハーバート・バイヤーは本文と図版ができるだけ近くに来るようにしたのだ。図版は本文の中に交じり合い、そのキャプションが本文の字面に変化を与える域にまで達しているのである。大変な偉業だ!流麗なプレゼンテーションで、これに比較されると一九二九年のヒッチコックの出来栄えはいささか生気のないものと感じられることになる。にもかかわらず、昔も今も私はヒッチコックの方が優れた判断を示していると感じている。だからこそ、私はイェールへ行き、決まり文句で言えば彼の門下生となったのである」「当然ながら、イェールでのヒッチコックの講義の多くは抜群であった(彼の話はニューヨークからいとも軽々とパリ/ロンドンに飛び、シカゴからブラッセル/グラスゴー/アムステルダムへ飛び、クライアントの生涯については微に入り細に入った説明があった)。しかし、これらの講義が誰を対象としたものであるかは私にはよく分からなかった。それと同様、彼がフランク・ロイド・ライトに熱狂していたにもかかわらず、私は彼がなぜ、そう興奮するのか全く理解できなかった。そして、その代わり、私は彼が一九二九年にライトについて書いたコメントを今に至るまで支持し続けている」(42-43頁)。

A.オザンファン+E.ジャンヌレ、『近代絵画』、吉川逸治訳、鹿島研究所出版会、1968年

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原著は1924年出版で『建築をめざして』(1923)の1年後である。『レスプリ・ヌーヴォー』は1920-1925年の刊行。主張するとことは『建築をめざして』とほぼ重なる。

以下、メモ。

まずマシンエイジが冒頭で言われる。

「機械主義の段階に達したわれわれの合理的な文明は、はたして絵画を必要とするものだろうか。もちろん必要とする。」「近代人にとっては、このような感動、感激は、模倣芸術という手段によっては、換言すれば自然の対象を多かれ少なかれ忠実に文字通り模写するという手段によってはとうてい付与されるべきものではない。この本の目的はわれわれの時代を真に満足させることのできるような芸術はどんな芸術であるかを探求しようというのである」(7-8頁)。

 

機械主義と鋼鉄、マスメディアについて。

「鋼鉄は社会に一大革命をもたらした。これによって機械文明が実現可能となった」「模倣芸術は写真と映画とによって遠ざけられた。新聞、書籍は芸術よりも有効に宗教的目的、道徳的あるいは政治上の目的に働きかける」(8頁)。

 

絵画の「使命」について

「それは、われわれの高級な段階の欲求を満足させること、これである」(10頁)。

 

続いて「近代的視覚の形成」

「絵画は、もっぱら、われわれの眼という経路を通じて、われわれの精神に達し得るところのものである。われわれの眼は近代生活の強烈な、集中的な光景によって特に洗練されている。機械文明の発達によって幾何学がいたるところに確立されている。われわれの精神自体、いたるところにこの幾何学、精神の創造物であるところの、を再発見して満足し、「既存」の絵画のややもすれば、堅固でない、非幾何学的な姿に対して反発する。ことに印象派芸術の統一なき流動性に対し反発する。今日の世界の示すありさまは本質的に幾何学的である」(10-11頁)。

「芸術はわれわれの詩的感情「リリスム(詩的精神)」の欲求に満足を与えることが唯一の目的であって、それ以外の目的は有しないのだということ」(12頁)。

 

キュビスムについて

「立体主義は、絵画は自然から独立している物象であるとみなす概念をもたらした。ただ単に感受性の法則と精神の法則とにのみ服従するという絵画の概念をもたらしたのである。このようなすぐれた見解こそ、明日の絵画を決定するものである」(14頁)。

最後の一文において、著者はキュビスムをいったん高く評価している。ここが始発の地点というべきか。とともに印象派にはまずは批判をくわえる。

 

そしてここから「個人的意見」として、美、直角、ピュリスムが言われる。美は「快」ではなく感動でありこれがいわば先述した「高級な段階の欲求を満足すること」に照応するかもしれない。直角についての謂いは「近代人」と同じくアドルフ・ロースを彷彿させる。eg.垂直線と水平線→「基本的感覚は重量の感覚であって、それは造形的言語においては、垂直線的なものによって翻訳される。これに対して、支持のしるしは水平的なものである」(17頁)。そしてこれがピュリスムの導入に言われる。

53頁にいわゆるプラトン立体の表が載っているが、これは『建築をめざして』のものとも重複するのではないか、ただし著者らは、そしてル・コルビュジエも「プラトン立体」という言葉は用いない。その前後からメモ。

「人間は、人工的なことをすることしか知らないのだ。人工的というこの言葉を軽蔑したものと考えるのは断じて止めよう。それどころか、この言葉を、人間の全活動の終局の目的と見なそうではないか」(52頁)。

また視覚に関して「幾何学的概念」の範囲として、形態、線、色彩、光線、等が挙げられる、メモ。

「視覚に関する物事においては、われわれの表現手段はみな幾何学的な概念の範囲に属している(形態、線、色彩、光線等)。自然が美しく映ずるのは、人間によって、言い換えれば、芸術に則って、美しいものにほかならない」(54頁)。

 

「近代的視覚の形成」の章では、この視覚が都市化の結果によるものであることが明言されている。

「現在の文明は、ほとんど徹底的に都市的なものである。そして、ものごとを考え、ものを創造する人びとは、この新しい都市的環境の影響を蒙らざるをえないのである。新しい都市的環境は、われわれの眼に、全然新しい外的秩序を構成している無数の要素をわれわれの眼におしつけるのである。このようにして、個々の人間は、この新しい環境に順応しつつ、自分のうちに、さまざまの必然的な習慣を産んでいく、そして、この習慣がさまざまの要求をまた産むのである。街上の光景はすべて、われわれを深く変化させずにはおかなかった」(74頁)。

「今日の文化は都市の文化である」(79頁)。

幾何学を集中的にさかんに実行することによって、人間の深奥に、一段と特に人間的なるものを発見したのである。つぎのような自覚をもったのである。人間は幾何学的動物である。人間の精神は幾何学的である。人間の諸感覚機能は、その眼は、以前に比を見ないほどいちじるしく、幾何学的明瞭性というものに鍛えられた。いまや、われわれは、先鋭な、鍛錬された敏捷な眼を所有している」(80-81頁)。

 

ピュリスムについての記述中、『建築をめざして』における「住宅は住むための機械である」と相同的な謂いが登場している。「形態的、色彩的諸要素から出発し、かつそれらをある定まった特定効力を有する刺激剤と見なしつつ、絵画作品を一個の機械として創作することができる。画は感動させるために仕組まれた一個の装置である。これが純粋主義の基本的な概念である」(170頁)。「絵画とは感動のための装置である」と言い直せるだろうか。

 

ピュリスムについてはアルフレッド・バーの

http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20080322

も。

ピュリスムについては、色彩、形態、主題、規格物、構図、の観点から述べられる。以下メモ。

「純粋主義は、立体主義から生まれて、その一般的概念を受け入れているが、立体主義が画家に与えた権利は制限する」(166-167頁)。

「純粋主義は、まず出発点として、現実に存在する物からある種のものを選んで、それら特有の形態を紬だして、芸術制作の基本的要素とする。これら要素は、優先的に、人間がもっと直接的に使っている物のなかから採用する。いわば人間の四肢にの延長と見なすことができるような、きわめてわれわれに親しい、平凡なもので、そういう性質上、それ自体として特に興味を起こす主題とか、逸話となるおそれのないものである」(171頁)。

 

 

 

Robert Bruegmann, The Architects and the City, Holabird and Roache of Chicago, 1880-1918, The University of Chicago Press, 1997

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 ダニエル・バーナムと並ぶホラバード+ローシュについての書。序章、第一章、第二章(~1893年)までを瞥見する。謝辞にデヴィット・ヴァン・ザンテン、グウェンドリン・ライト、それにシカゴ歴史協会の名がみえる。

 

いくつかメモ。

建築史と都市史の乖離について。

 「過去数十年の「都市史」のほとんどは第二次大戦後における中心市街地空洞化という危機に対するものとして成長してきた。都市の歴史家は大都市圏の発展におけるとりわけ「都市(urban)」を同定し、探求するのに汲々としてきた」「彼らはこの領域の周縁で起きていることにはあまり興味がなく、さらに、歴史家教育は主に、社会的、政治的、そして経済的力、それも活字化されたものや統計に焦点を合わせていたため、建造環境の構造体をしばしば軽視してきたのである。(そこにおいては)オスマン・ブールバールに沿ったアパートであれ、19世紀後半シカゴのオフィスビルであれ、建物というものは、より基本的な歴史的諸力の挿絵としてしか通常示されてこなかったのである。」

 「他方で、近代建築史はこれとはまったく異なる関心の一揃いから成長してきた。19世紀美術史学の理論的諸理念に大きく影響され、その美的特質や、ピラミッドからヴェルサイユを経てサヴォワ邸にいたる様式発展の過程にいかに適合するかに、建築史の一分枝は関心してきた。」「その結果は、都市史家の描く都市と、建築史家の描く都市に劇的に分かれてしまった。アメリカの都市によくある大きく、あるいは最も目立つ構造体は建築史にはほとんど登場せず、建築史の主要な記念物の多くは都市史では周縁において語られる」(Xi-Xii頁)

建築家の職能について

 「もう一つの問題が商業建築家の性質から出てくる。商業建築家はあらゆる建築家がそうであるように、部分的には芸術家として機能した。彼らは建物を使い易くかつ美しいものにしようとした。だがビジネスを続けようとすると、彼らはビジネスマンとしても機能せねばならなかった」(xiv)

 

ウィリアム・ホラバードもまた、ジェニーのオフィス出身である。

 「ジェニーの事務所でホラバードはのちにビジネス・パートナーとなる二人の男に遭遇する。オシアン・コール・シモンズとマーティン・ローシュである。」(10頁)

 

投資用オフィスビルについて

 「タコマビルと続くホラバード+ローシュ事務所の話をとりわけ面白くしているのは、短いながらもこの国の不動産市場を先導した変貌の時代に、彼らがそこを駆け上がっていったということである」「1880年代のシカゴにおけるオフィスにまったく入れ込むという考えは、まったく新しいものだった。19世紀初頭、ほとんどの会社のオフィスは商品が生産されるか取引されるかする場所に隣接してあった。ニューヨークやロンドンの銀行オフィスはたとえば、銀行フロアの中二階にあった。19世紀中葉にビジネスの規模に大きな飛躍があり、新しい管理者層が発展してきた。このオフィスワーカーは実際に物を作ったり売ったりするわけではなかった。彼らの仕事はペーパーワークであり、日々複雑になっていくビジネスの仕組みを制御することであった。その数が増えるにつれ、建物も大きくなっていった。銀行や新聞やそれに保険会社といったビジネスはこの発展を先導したが、なぜなら高度に訓練された専門職を数多く雇い入れなければならなかったからである」(65頁)。

 「シカゴにおいてまるまる1ブロックを第一級のオフィス用途に用いるのは1860年代後半までなかったように見える。当時の典型的な大オフィスは4から6階建てで、個人か、よく統御された小集団によって、5万ドルから10万ドルで建てられていた。」(66頁)。

 

さらにブルックス兄弟について少し踏み込んだ記述がある。この兄弟とジェニーはともにボストン出身で、さらに兄弟の祖父は海洋保険で財をなしたとあり、他方でジェニーの実家は捕鯨業であったゆえ、人脈的に両者はもともと近かったと言える。

 「ザ・モントークによってシカゴはニューヨークのあとを追うことになるが、後者では最初のきわめて高いビルが1870年代には建てられていた。ザ・モントークファイナンスはボストンのブルックス兄弟である。1880年代のシカゴのブームにおける最大唯一のデヴェであるあの兄弟である」「ブルックス家の財はその祖父ピーター・チャードン・ブルックス(1767-1849)によって19世紀初頭になされた。海洋保険によって財をなしたボストン最初のミリオネアと言われている。友人たちは彼を落ち着いた保守的な投資家だったと描写し、その中傷者はドケチであったと描写する。相続者も似たような名声を獲得した。

 ブルックスのシカゴでの不動産投資を追跡するのは難しい。絶対に必要以上の情報を残さなかったからである。事実、ピーター・ブルックスはボストンの知人友人から不動産取引の情報を明らかに隠そうとしており、それゆえメドフォードにおいてジェントルマン・ファーマーとしての役を演ずることができたのだった」「大火後、彼らはウィリアム・ル・バロン・ジェニーにエレベータ付の8階建てのポートランドブロック・ビルを発注した。最終的にこの建物は5階建てとなったがエレベータ付高層ビルのアイデアは忘れられず、ザ・モントークにおいて結実することになる」(66-68頁)。

ブルックス兄弟のビジネス手法については、Miles Berger, They built Chicago: entrepreneurs Who Shaped a Great City`s Architecture(1992), 29-38

Earle Schultz and Walter Simmons, Offices in the Sky(1959),20,

 

さらに不動産と投資形態について

 「それまで最も重要なことは有限責任ということだった。この形式の初期のビジネス会社は、株式会社(stock company)と法人(corporation)、組合や大学やその他の公共体で見られるものの特質を組み合わせたもので、19世紀初頭の英国で多くみられたものだった。法人組織や株や債券は、個人やパートナーシップによるより、より大きな資本プールを可能にした」「法人は許可された業務を遂行するための建物を建設することはもちろんできたが、イリノイ州はしかし1872年の一般法人法によってそれ自身が必要とする以上の空間を開発することを禁じ、さらには不動産開発のための法人を厳に禁じた」「立法者はこの禁止によって、小ビジネスの保護と不動産開発の抑制を目ざした。デヴェロッパーが必要とする資本が大きくなるにつれ、ずる賢いビジネスマンはこの法律のまわりに様々な抜け道を見出した。」(71頁)。

 「少しのちのホラバード+ローシュによる二つの建物、ザ・ベネシャンとザ・シャンプランの場合では、兄弟は「マサチューセッツ・トラスト」を用いているが、これは法人による不動産開発の制限を取り除くもう一つの装置であった」→マサチューセッツ・トラストにおいては、イリノイ法人法は障害でなくなる。だがマサチューセッツ・トラストがイリノイで不動産開発するのにまったく障害がなかったかどうかははっきりしない(脚注による)。MBTについてはhttps://en.wikipedia.org/wiki/Massachusetts_business_trust

 「続く数十年、この二つの法的操作は何度も試みられた、イリノイにおいて法人による投機的不動産開発が確実に認められるようになったのは、20世紀に十分入ってからのことである」(72頁)。

 

 上記の記述からすれば、いわゆるシカゴ派の歴史的建造物のいくつかは、当時法律的にはグレーゾーンであったということになろう。メモを続ける。

 「長期におよぶ貸し付けと法人組織や、追加ローン、株や債券の手法を用いることで、デヴェロッパーは自身が持っている比較的小さい自己資金に対して、きわめて大きな建物を準備することができた」「ビジネスが下向きになるともちろん、こうした財務上のすべての装置は、今度は逆向きに働き、債務や地代をカバーし切れなくなる。ブルックス兄弟はそのきわめて保守的ビジネスのおかげで、他の多くが陥ったこの問題を免れていた」(72-73頁)。

 

 続いてオーディトリアムビルにおけるワート・D・ウォーカーの記述、この部分はヒュー・モリソンによるサリヴァン評伝の方が詳しい(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/hugh-morrison-l.html)。メモを続ける。

 「古い建物下部にある重い壁を取り除き、地上商業部の床面積を増すためにそれを大きなガラス窓に入れ替え、そうすることで多くの自然光を内部に取り込み、舗道に対して存在感を増させることは、商業ビルのオーナーにとって一般的になっていた。これはときに多くの費用を要してでもなされたが、立地のよいショップフロントの上昇する家賃がそれを要求したからである。この種のリノヴェーションをなすのに、重い耐力壁が取り除かれ、鉄の柱・梁による比較的薄い壁に置き換えられた。それゆえ柱の前面に大きな窓が挿入され得、その結果、ほぼ連続するようなガラスの表面が形成されたが、この面を遮るのはただ金属性あるいはテラコッタ製のフレームのみであった。」(75頁→Engineering News Record, 17,April, 1924, での H.J.Burtの論文)

 

 上記記述によれば、この構造が普及した原動力の一つは不動産価値の向上であったことになろう。メモを続ける。

 「最終的にこの古い建物をリモデルするには費用がかかりすぎるゆえ、同じ敷地に新しく12階建の建物を計画することを依頼する。これがローリング発案の計画をこの建築家が試す最初の機会であった。結果は既存両側壁を除いて、まったく骨組構造的なものとなった。ただこうしうた高層構造における風圧の効果を設計者も依頼者も明らかに危惧していた」「設計者は図面をワシントン大学の工学教授であるジョン・B.ジョンソンに送ったが、その結果は風圧用ブレース材は適切でないというものであった」「この所見は、背面と側面を石造耐力壁とし、前面のみを骨組構造とするという案に設計者を立ち帰らせた」「言いかえるなら、この建物はザ・ルーカリーのように、耐力壁構造と新しい骨組構造のハイブリッド(hybrid)なのである。ただし反転されていよう。ここでは骨組は外部にある」(77頁)。

 

メモを続ける。

「ウォーカーは彼の建物をザ・タコマと名付けたが、これは先住民の言葉で「最高」を意味し、他方では19世紀後半においてワシントン州にあるレイニア山のことを一般に意味していた」(80頁)。

 

 ウォーカー→つまりジ・オーディトリアムの建主がその財務手法を敷衍させ、ザ・タコマ計画に乗り出してきたことになる。続ける。

 「建設が始まるまでにウォーカーは債権を売却するために法人、タコマ保管会社(safety deposit company)を組織していた」(81頁)。

 「ザ・タコマはおそらく単一総合請負を用いた大規模建設の最初期の例である。これはこののち国中で大規模建設のビジネス実務を刷新(revolutionalize)するものであった。→ジョージ・A.フラー・システム。フラーシステム(ゼネコン・システム)が発展する前までは、契約は通常オーナーか建築家によって各個に、たとえば解体、石工、大工、配管、キャビネットメーカー、等になされていた。つまりあらゆる交渉事が建主か建築家によってなされていたのである。」(81頁)

「このシステムにおいてフラーが提供したものは、一社請負において、財務、技術、発注、それに施工そのもののエキスパートであった」「正しくやれ」「正しく工程表通りにやれ」(82頁)。

 

 ゼネコン・システムが登場したのはこのあたりということになる。続ける。

 ザ・タコマが着工した年にホームインシュアランス・ビルが竣工し、敷地は数ブロックと離れていない。

 「HIBが最初の金属骨組構造であるという主張は常に疑問視されてきたし、実際それは不正確であるにもかかわらず、多くの歴史家はこの建物がほぼ金属骨組構造であると、少なくともテクノロジーにおける重要な一歩であり、のちに大きな提供を残した重要なものであると、確信してきた。ザ・タコマの話はまた別のものを提供する。

 HIBにおける先行を疑いなくH+Rは知っていたが、骨組構造のまったく異なる視点からの使用を彼らは試みたのである。彼らは耐力壁の軽量化には興味を持っていなかった。彼らは背面における耐力壁と内壁によって、建物荷重と風圧荷重を可能な限り持つことを試みた」「結果は、HIBが比較的厚い壁で造られ、また注意をむけられなかったところに、ザ・タコマの被覆は明らかに薄く、一層ずつ施工する必要はなく、事実、被覆工事は2階、6階、10階から同時に始まっている」(83頁)。

 

 「多くのヨーロッパのモダニストが金属骨組構造にかくも興味を持ったのは、彼らが新しい素材に基づいた新しい建築を創造したかったからである」(85頁)。

 

HIBもザ・タコマも1930年に解体。

 

 

 

ジークフリート・ギーディオン「記念性について」、『現代建築の発展』生田勉・樋口清訳、みすず書房、1961

 

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 一瞥する。

 記念性の諸要素のうち、「色彩」についてはフェルナン・レジエから出てきている。レジエはピュリスム=反キュビズムにおけるル・コルビュジエの協働者であり、ということは、これはピュリスムにおける色彩の扱いから発展してきたと述べても過言ではなく、ギーディオン、レジエときて、ますますこの主題がタイゲらとの論争の延長上にあるのかと思えてくる。

 序論ではマンフォードについても触れられている。

 メモ

 「アメリカ合衆国においては、近代建築が多少とも単一家族のための住宅、住宅群建設、工場、事務所建築に限られていたため今日(1944)までは限られた影響力しかもっていない。そこでこの記念性の問題について論ずるのは時期尚早のように思われる。しかし情勢は急速に変わりつつある。近代建築が、ついさきごろまで美術館、劇場、大学、教会、もしくは音楽堂といった建築の解決のためにしか必要とされなかった国々においては、いまや機能の充足を超えたところの記念的表現の追求が要望されてきている。近代建築がこの要求を満たさない場合には、その発展全体がふたたびアカデミズムに逃避するという致命的危機におちいるだろう」(35頁)

 「すべての時代は、モニュメントの形で象徴をつくりだそうという衝動をもっている。モニュメントはラテン語の意味によれば「思いおこさせるもの」、後の世代に受け継がれるものということである」(36頁)

 

Lewis Mumford, “Monumentalism, Symbolism and Style,” April, 1949, Architectural Review

 

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 重要な論文と思われる。

 東京中の図書館をあたってもどこにもなく、地方の大学の図書館にあることが分かり、コピーを取り寄せた。

 向井正也の『モダニズムの建築』(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/1983-12fa.html)で詳述されるヴォリューム/マス概念のヒントになったと思われるものは、後ろの方にわずかながら出てる。とともにテクスチャー、色彩といった向井の他のキーワードも、それに続いて一度だけだが出てくる。

 この論文の主題はモニュメンタリズム「記念性」であり、マスやヴォリュームはその材料に留まる。

 「記念性」はこの時代の主要なアジェンダであったと思われ、CIAMにおける議論やカレル・タイゲ/ル・コルビュジエの論争、言いかえるなら「モニュメントではなく、インストゥルメントを」というおもに1920年代の議論がその前段にあり(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20090506)、その延長上で一連のこれらの議連が展開しているように、これはまた思える。ここでも導入はジークフリート・ギーディオンであり、彼が1946年9月26日にRIBAで行った「新しい記念性」がそれである。ギーディオンのこの議論はCIAMにおけるかつてのタイゲらとの議論と無関係ではなかろう。

 さらにまたこの少し前、1943年には同じくギーディオン、ホセ・ルイ・セルト、フェルナン・レジエによる米国における「記念性の九原則」(→『現代建築の発展』)が書かれ、さらにはまたこの一年後、つまり1944年にポ-ル・ズッカーによってコロンビア大学で関連したシンポジウムが開催されているが、このあたりが戦後のルイ・カーンの初発の地点であったことは比較的知られている。(ついでに述べれば、これに前後してカーンがサリヴァンやその背後にあるであろうリチャードソンにシンパシーを寄せていたらしいことは再確認、→TC274頁)。

 いずれにしてもギーディオンの文脈自体は、タイゲをはじめとしたノイエ・ザハリヒカイトとの論争から出てきており、初期モダニズムの「工学技士の美学」はヴォリューム概念およびK.マイケル・ヘイズの述べる「ポストヒューマニズム」で論じられなくもなく、またこの「美学」は「記念性」はなくとも、というよりは記念性を排除したうえでのアイコン性の獲得によってあらためて史的に論じられ得るとは思われるものの、ここにきてより重層的にむしろ論じた方がいいのか、とも思えてきた。

 ちなみに本論で述べられているもう一つの主題である「シンボル」は、ここにおいては「機械」、モダニズムの象徴としての「マシン」である。また冒頭においてジョン・ラスキンの「思想」とヒッチコクの「史書」が批判されているが、後者のものは言わずもがな『近代建築』であり、これについてはいずれ一瞥する。

 向井が参照したマス/ヴォリューム対概念の前段には、この対概念導入にあたって内向的/外向的という対概念が述べられ、そのさらに導入として著者はなぜかリチャードソンを持ってきている。

 「その作品においてリチャードソンは内部の調度品や仕上げを幾分軽視したが、それは全て外部において記念的な効果を与える必要のためであり、建物の前を通行する市民を印象付けることは、内部にいる人を直接的に喜ばせるよりは重要であると彼は考えていたからである。」(178-189頁)

 この謂いではリチャードソンは外向的/ヴォリューム的、の例としてと読めてしまう。いずれにせよ、外向的/内向的、ヴォリューム的/マス的、について述べた部分。

 「だが開放性と柔軟性を成就しようとするまさにこの試みにおいて、暗さや引き籠り、休息やぬくぬくとすることへの要求が生活にはあるのだということを忘れてはならない。こうした要求は防空壕にのみ求められているわけではない。それゆえ目下の開放性の発明を喜んで受け入れるとともに、未来に向かってはこれを修正するものを導入することを期待したい。つまり、もっと光を、もちろん、ただしいくばくかの暗さを。もっと開放性を、しかしいくばくかの閉鎖性を。もっとヴォリュームを、しかしいくばくかのマスを」(179頁)。

 ヴォリューム/マスが対概念として登場するのはこの一文においてのみである。本論の主題である記念性について。

 「記念性の別名は印象深さ(impressiveness)である。鑑賞者や使用者に与える効果である。それは尺度や建物の配置、高さや巾、壮麗さ、機能や目的の劇的強調であり、これはマス、ヴォリューム、テクスチャー、色彩、絵画、彫刻、庭園、水路、背景を形成する建物の配置方法といった可能な諸手段によって、なされる」(179頁)。

Terence Riley, Portrait of the Curator as a Young Man, Philip Johnson and The Museum of Modern Art, Studies in Modern Art 6, The Museum of Modern Art, New York, 1998

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 フィリップ・ジョンソンMoMAについてのアンソロジーからテレンス・ライリーのペーパーに一瞥を与えておく。

    フィリップ・ジョンソンのフルネームは、フィリップ・コーテルユー・ジョンソン(Philip Cotelyou Johnson)(35頁)。

 ジョンソンは弱冠24歳で新設MoMAの建築部門のディレクターに指名され、近代建築展の1932年から機械芸術展の1934年までを務め、大恐慌下の極右的政治状況においてこの展覧会後に罷免され、11年のブランクののち、再びMoMAに戻ってきた、という(35頁)。この1932年から34年まではしかし、ジョンソンによってまるで連続打ち上げ花火のように企画が打たれている。 まず有名な『近代建築、インターナショナル・スタイル展』(1932)、『初期近代建築展』(1932)、『中西部の若手建築家展』(1933)、『選ばれなかった建築家展』(1933?)、『住むための住宅展』(1933?、ルイス・マンフォードに参加要請して開催された近代建築展の一環、と佐々木宏氏がその著で述べていたのはこの展覧会のことか?)、そして『機械芸術展』(1934)である。

 『近代建築展』では建築家ミース・ファン・デル・ローエにジョンソンが生活していたニューヨークのアパートのリノヴェーションを依頼しているし、『選ばれなかった建築家展』はいわば建築のアンデパンダン展のようなもので、ジョンソンはこのときサンドイッチマンを雇って建築家連盟でデモをさせたという。後者はフランス絵画における印象派の手法を彷彿させなくもなく、またジョンソンの一連のあり方に著者はエドワード・バーネイズの「プロパガンダ」と同質のものを見ている。

 バーネイズのプロパガンダの手法の一つは「仮想敵」を作りだすことで、近代建築展ではたとえば国内のボザールを含むエスタブリッシュされた建築家とヨーロッパにおける社会主義的建築家がこの仮想敵に充てられたとされ、そして初期近代建築展では「だが、エンパイアステートビルクライスラービル、それにロックフェラーセンターの造形にプライドを持っていたニューヨークでは、スカイスクレーパーの大衆的に人口に膾炙した歴史を見直すこのキュレータの視点に、プレスはいささか唖然とした。匿名の記事、「スカイスクレーパーはニューヨークにおいて誕生したと通常そう考えられているのに対し、この展覧会はシカゴにおいて誕生したと考えるよう強いているようだ」、『ニューヨークサン』のヘンリー・マクブライドは「フィリップ・ジョンソンは早死にするのではないか?ニューヨーカーが彼を殺してしまうのではないかと、私は恐れる。彼が最近しでかしたことをご存知か?スカイスクレーパーはシカゴで誕生したという趣旨の展覧会を彼はMoMAで企画したのだ」(46頁)として、ニューヨークがこれに充てられたとする。

 こうした側面があったことは留意しておく。

ジュディス・バトラー+ガヤトリ・スピヴァク、竹村和子訳『国家を歌うのは誰か?』岩波書店、2008

 

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    いちおう「批判的地域主義」概念の整理のために一瞥しておく。大雑把に述べて、前半ではおもにバトラーが語ってスピヴァクが聞き、後半ではその役割が反転という感じで、「批判的地域主義」が登場するのは後半、57頁以降である。

    書名は本文中に登場する、スペイン語で合衆国国家をストリートで移民が歌う挿話から来ているのだろうと推測する。つまり、「非常にドラマチックだったのはロサンゼルス地域です。そこでは、米国国歌がまるでメキシコ国家であるかのようにスペイン語で歌われました。「ヌエストロ・ヒムノ」(我らの歌)の出現は、国民の複数性つまり「わたしたち」や「わたしたちの」という興味深い問題を提起しました。非ナショナリズム的あるいは対抗ナショナリズム的な帰属形態に寄与するのは何かという問いを立てるときには、グローバル化について語る必要があるでしょう。ガヤトリが答えてくれると思いますが、このデモで主張されているのは、国家を歌う権利、つまり所有の権利だけではなく、多様な帰属形態でもあるのです。というのもここには、「我ら」に含まれるのは誰なのかという問いがあるからです。「我ら」が歌い、スペイン語で自己主張するとき、それはまさに国民についての考え方や平等についての考え方に働きかけます。それは大勢の人たちが一緒に歌っているだけでなく(たしかにそうなのですが)歌うということが複数性の行為となり、複数性の表明となっているのです。このときブッシュが言ったように、米国国歌は英語のみで歌われるべきなら、国民は明らかに言語的多数民を意味することになり、国に帰属しうるのは誰かを定める決定的な統制手段が、言語になるのです。アーレント流に言うなら、それはナショナルな多数民が自分たちが望む条件で国民を規定しようとし、さらには、自由を行使できる人を定める排除規定を打ち立て、それを取り締まりさえする契機ということになります」(43頁)という挿話である。

 ジュディス・バトラーが論を立てる起点は、ハナ・アーレントの『全体主義の起源』のなかの「国民国家の没落と人種の終焉」の章である。

 ずいぶん昔に読んだものゆえうろ覚えだが、同書においてアーレントナチス・ドイツから亡命者/難民として逃れ、国籍を持たない亡命者/難民、あるいは国家の外部に存在せざるを得ないものがいかに惨めであるかを、これでもかこれでもかと論じていたように思う。アーレントは最終的に、陰鬱なヨーロッパから西海岸のスタンフォードへと逃れ、そこでアメリカ国籍を取得し、平穏な市民生活を送るようになる。まずはめでたし、という話になっていたようにも記憶するものの、これはバトラーが述べるように今日では敷衍的な問題を含んでいる。つまり、ジョルジョ・アガンベンの述べる「ホモ・サケル」(や「例外者」)、POW、それに移民や難民、さらには「主権国家の紛争解決手段としての戦争」とは異なる「テロ」の問題も、ここに含まれてくるであろう。

 バトラーの主張は「アーレントに逆らって読むこと」(19頁)であり、「ひとたび追放されれば、その人は剥き出しの生の空間に追いやられ、その生(bios)はもはや政治的身分とは何のつながりもなくします。ここで「政治的」という意味は、市民の地位にいることです」「むしろここでもっと重要なことは、放棄された生-追放と包摂の両方を受けている生-は、市民性を奪われた瞬間に、まさに権力にどっぷりと浸ると理解することです。市民権に関する事柄を包摂しつつ、さらにそれをも超えるのが「権力」だという考えを使って、「国家/状態」の二重の意味を解き明かさねばなりません」(27-28頁)である、と言える。

 これに対してスピヴァクの鍵概念が「批判的地域主義」である。それはまず「重要な点は、規制ナシの資本主義に反対することであり、無審査で資本主義国家の一員となることにユートピア的特質を見出すことではないのです。国家の再創成は国民国家の枠を超えて、批判的地域主義に入っていくことです」(57頁)と言われる。さらに(アーレント/バトラーの論を受けて)「国民国家の衰退を、抽象的な福祉構造への転換とみなすこともできるでしょう。それこそが、グローバル資本と闘う批判的地域主義に向かうものです。ハンナ・アーレントは資本主義を資本の次元ではなく階級の次元で考えていますが、わたしたちに必要なのは、国家的でないもの-国家によって決定されていないもの-が決定力をもつことに気づくことです。まさにこれが資本ですが、アーレントはこれについては思考しませんでした。

 グローバル化する資本は何をおこなうのか。ちょっと考えてみましょう。グローバル化する資本の動き(資本本来の性質ですが、加えて昨今はテクノロジーの進展でさらに加速されています)は、かならずしも国民国家に関係しているのではなく、また悪しき政治に関係しているものでもないことを、念頭におかねばなりません。資本の動きのために、脆弱な国民経済と国際資本のあいだの障壁は取り払われ、その結果、国家は再配分能力を失っていきます。優先事項が国家に関係することではなく、グローバルなことになっていきます。現在存在しているのは、市場モデルに倣った経営的国家です」(58頁)と、アーレントが見落とした点と、グローバリゼーションにおける国民国家の衰退とを整理して見せる。続ける。「アーレントは無国籍を、国民国家の限界を示す兆候と捉えました。このタイプの解釈はマルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』に連なるもので、そこで彼は、ブルジョア革命は行政執行部のさらなる権力強化の下地を作ると解釈しています」「一見してブルジョア革命は議会制民主主義と市民参加の可能性を呼び込んだようですが、実際にそれが行ったのは行政執行部の権力強化であることをマルクスが示しましたが、これはよく知られていることです」「わたしが言いたいのは、パフォーマティヴな矛盾ではなくて宣言的なもの-普遍的な宣言-のなかに存在している権利のことで、それは国家(アーレント)と革命(マルクス)の両方の失敗のうえに成り立っているということです」「この線に沿った典型の一つは、(帝国主義でも共産主義革命でもなく)古いかたちの社会主義運動で、国家の腐敗から市民社会を守ろうとした国家外集団です。過去の推進力の残滓が、今、国家の再考にますます関心を抱いているようです」(59-60頁、和訳は日本語としておかしくないか?)。「そのような協力の最初のプロジェクトは、第三世界の名のもとに1955年にバンドンで開かれた第一回アジア・アフリカ会議です。現在ではブルガリアのグループが、批判的地域主義に必要な構造的変化について構想しています。ペティア・カバクチエヴァの仕事はとくにわたしには興味深いです」(61頁)。

 さらに続ける。「批判的地域主義は、ナショナリズム、さらには民族を母体にした副次的ナショナリズムに陥る可能性をもっており、また他方で、トランスナショナルなエイジェンシーも国民国家によって国民国家になりますので、なかなか扱いにくいのです」(64-65頁)。

 「デリダはここでカントの知識体系に目を向け、カントが世界や自由を考えたときに生み出した「あたかも・・のよう」の概念や、コズモポリタン的普遍主義と戦争との関係では、来るべきグローバルな民主主義を思考したり、それにコミットすることができないと述べています。またわたしがここでまで述べてきたように、ハンナ・アーレントは無国籍を語るときに国家と国民を別物と考えていたので、彼女にもう一度目を向けることも重要でないわけではないのです。デリダはのちに『友愛のポリティクス』のなかで、生まれと市民性の連結を解体しようとするこの試みを、系譜学の脱構築と呼んでいます。批判的地域主義が始まるのは、まさにここなのです」(66-67頁)。

ハーバーマスなどのヨーロッパ知識人はコズモポリタンな民主主義について語りますが、それはデリダが問題視したこととであり、わたしはデリダの影響下にあるということです。コズモポリタン的普遍主義の概念はグローバルな民主主義の未来を生み出さないというデリダの意見に、賛同しています。わたしが語ったのは、民族や階級のことではありません。わたしが語ったのは、あたかも運転免許証を取るようにあらゆる再配分構造を扱えるような、国家の抽象的構造なのです」(71頁)。

  「ここで言っておきたいのは、批判的地域主義は分析ではないということです。まだ毛が生えたばかりのプロジェクトではありますが、それには歴史があり、わたしたちにとってそれは、たとえば女の人身売買や、HIVエイズとともに生きる女の経験から生み出されたものです。ジュディスにとっては、それはパレスティナの経験から生み出されたものでしょう。その粘り強い批判は、永遠の説得者としての知識人という、グラムシの概念を導きいれるかもしれません。だからそれは分析ではないのです」(83頁)。

ジークフリート・ギーディオン、『空間 時間 建築2』太田實訳、丸善、1969

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 この書の表題になっている「空間 時間」についての部分を再読。K.マイケル・ヘイズの「ポストヒューマニズム」では「主体/主観」の問題として捉え直されていたものを、一応「空間」の問題としても見ておく。第四章「新しい空間概念:時-空間」では、しかしながらその解説はきわめて短い。→http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/1931-193921969-.html

 著者が美術史家であることを勘案するなら、「立体派によるルネサンス以降の線遠近法の解体」から話を起こすのは自然として、ただし立体派を説明するのにアルフレッド・バーに依拠している点は留意しておく。原書は1941年でアメリカを意識していたとはいえ、ヨーロッパの芸術運動について記すのにMoMAの言説に依拠して書いたということには、留意しておく。

 以下、「空間 時間」についての記述、メモ。

 「時-空間

立体派は、対象の外観を有利な一点から再現しようとしたのではなくて、対象の周りをめぐり、その内的構成を把握しようとしたのである。彼らはちょうど、現代科学が物質現象の新しい水準をも包括するような記述方式を拡張してきたように、感情を表す尺度を拡張しようとしてきたのである。

立体派はルネサンスの遠近法と絶縁している。立体派は対象を相対的に眺める。すなわり数多の観点から見るのであって、そのどの観点も絶対的な権威を持っていない。こういうふうに対象を解析しながら、あらゆる面から、上からも下からも、内からも外からも、同時に対象を見るのである。立体派はその対象の廻りをめぐり、対象の中に入り込んでいく。こうして、幾世期かにわたる構成的事実として優位を占めていたルネサンスの三次元に、つまり時間が加わったのである」「いろいろな観点から対象を表示するということは、近代生活に密実な関係のある一つの原理、同時性、を導き出す」510-511頁。

 運動性を言いながらギーディオンはヴォリュームという言葉はまったく用いていない。他方ではMoMAにおけるヴォリューム概念では運動性/時間性についてはほとんど触れられない。もう一点、ヴォリューム概念はメイヤ・シャピロによる印象派とその環境の関係からも分析を加えてみてもいいのではないか。→http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/index.html。シャピロとクラークの論は補強材料として使える可能性は十分あろう。

 ついでに。K.マイケル・ヘイズがポストヒューマニズムアルチュセールを引用しながら主体/主観の問題として記述しているものは、上野千鶴子にあっては「構築主義」と述べられているものである。

 これもメモしておく。

 「二〇世紀の思想的な発見のひとつは、言語の発見であった」「ソシュールからラカンに至る構造主義系譜をたどれば、言語は他者に属する。そしてその他者に属する言語に従属することを通してのみ、主体は成立する。したがって主体の集合が社会を成立させるわけもなければ、主体は社会に外在するわけでもない」「構築主義が対抗しているのは、本質主義である」「ポスト構造主義は、構造主義が「差異の体系」とみなした空疎な構造を、やがて実体現するに至ったことに強く反発し、その決定論的性格から逃れようとした」上野千鶴子編、「はじめに」『構築主義とは何か』、勁草書房、2001、i-iii頁。

 さてもう一度ギーディオンに戻る。http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/11969-b78b.htmlでは方法論について述べた。しかしながらあらためてギーディオンと、マンフォードやヒッチコックの記述を比較すると、後者には前者にはあるものがすっぽり抜けている。言いかえるならこの抜け落ち、もっと述べればこの削除は意図的なものではないかと思えてくる。ギーディオン(唯物論的に)ともどもしつこく構法について述べながら、近代的な空間概念について述べるのにある部分を意図的に削除し、さらには同時に米国建築史を効力批評的にさえ描いていると言えるが、ここから反照されるものがあるはずである(→バンハム「シカゴ・フレーム」論もこれは同じである)。

 

Henry-Russel Hitchcock and Philip Johnson with a new foreword by Philip Johnson, The International Style, W.W.Norton and Company. Inc., 1932

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念のため英語版で「歴史」、「第一原理」、およびフィリップ・ジョンソンによる1996年の新たな序文を確認する。

 

まずジョンソンによる1996年版への序文からメモ。

「1930年5月のパリで、バーは私をヒッチコックに紹介した。すぐさま我々全員にとって目下の新しい様式が関心の的であることを感じ取り、それを見て回るのにヨーロッパ中を車で旅行することを決めた。1930年と31年のこの三人での旅行は私にとってよい教育となった」「3人のなかではラッセルが素晴らしい目を持っていた。彼は卓越した歴史家であり、我々の本のテキストは彼のものだった。バーはきっぱりしたイデオローグで「インターナショナル・スタイル」を大文字で始めることを主張していた」「マルクス主義者と建築の社会的側面に興味を持つ一方の側からは、デザインとスタイルを強調することに反対された。彼らは人間活動の源泉としての大文字の芸術を信用しておらず、テクノロジーと利便性にしか興味がなかった。他方では老建築家たち(20代だった我々からすれば)は、現代建築の薄っぺらで過剰に単純化されたハコ、短絡的で白く、キャラクターがなく、誰でもできる構造、に激怒した」(14-15頁)。

「今日でも1920年代の主要な出来事と認識されているヴァイゼンホフジートルンクを考えてみよう。ミースは参加者に「スタイル」を強制しなかったか? 全て白のスタッコ、陸屋根、大きな水平窓。「様式」という言葉は十分興味深いことにアカデミズムによってではなく、実務的建築家によって課せられた制限だったのである」(16頁)。

 

続いて第二章「歴史」からメモ。

「フランスにおけるペレによる鉄筋コンクリートを用いた構法は支持体のスケルトンの分節を目に見えるものとし、壁は柱間の単なるスクリーンとなった。第一次大戦前のそれぞれのヨーロッパ諸国ではそれゆえ、インターナショナルスタイルというコンセプトは別個のものとして出てきたのである」「しかし、未来を約束された様式が最初に登場し、戦争までに最も急速にそれが発達したのは、アメリカにおいてである」「(リチャードソンに続いて)ルートとサリヴァンが鋼鉄スカイスクレーパー構法から演繹し、変更を加えそして後続世代は本質的に変えた。彼らの1880年代と90年代の仕事はまだほとん知られていない」(41頁)。

この頁(41頁)に「シカゴ派(the Chicago school)」という言葉が本書において一度だけ登場する。

 

続いて第四章「第一原理、ヴォリュームとしての建築」からメモ

冒頭は実質シカゴ構法についての解説。

「支持体が金属であれコンクリートであれ、距離を置いて見れば水平線と垂直線の格子に見える」「今や壁は単なる二次材であり、支持体のあいだに張られたスクリーンかそれらの外側に下げられたシェルなのである」(55頁)。

「これまで建築の主要な特質であると考えられてきたマスの効果、静的な密実性は全て消えていった。それに代わったのがヴォリュームの効果であり、より正確にはヴォリュームを境界付ける平面表面の効果である。建築の主要な象徴はもはや密実な煉瓦にではなく、開放的なハコにある」(56頁)。

「保護膜のみで覆われたスケルトン構法では、マスという伝統構法への敬意から道をそれようとしない限り、ヴォリューム表面の効果が達成される」(56頁)。

「われわれの工場ではクライアントが飾り立てようとしない限り、ヨーロッパの機能主義者の構法のようになる。たとえ建築家が(ヴォリューム原理という)受容すべき原理を決して受容しない場合でもヴォリューム表面のように明快かつ効果的に存在する」(58頁)。

ヨーロッパの機能主義者とアメリカの工場建築が同列に並べられていることには留意しておく。

「ヴォリュームは非・物質的で無重力として、幾何学的に境界付けされた空間として感じられる」(59頁)

「それゆえヴォリュームの表面原理の公理として、支持体であるスケルトンにぴんと張ったスケルトンのように、表面は効果として連続されるべきであるというさらなる要求がある」(59頁)。

「標準化されたユニットで耐蝕性と耐久性のある金属の軽快で単純な窓枠は美学的にも実務的にも望ましい」(61頁)。

バルセロナ・パヴィリオンでは壁はスクリーンだが、固定したヴォリュームを定義していない。柱に支持された屋根の下のヴォリュームはある意味で想像上の境界によって境界付けられている。壁はこの統合的なヴォリュームのなかに独立したスクリーンとしてあり、それぞれ分離した存在として、また下位のヴォリュームを創出するものとしてある」(62頁)。

「ある特定の構法に起源があることも、将来における可能性も、どちらも忘れることなく、インターナショナル・スタイルが発展するほどに、ヴォリューム表面という原理に確かでたゆまぬ指針を、建築家は見出すべきなのである」(63頁)。

 

 

William Mundie

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シカゴ美術館マイクロフィルム・アーカイヴ所蔵、ウィリアム・マンディーによる原稿。すべてタイプ打ちで、「ウィリアム・ル・バロン・ジェニー、マサチューセッツ州フェアヘヴン1832年9月25日生」というジェニーの生涯についての短い伝記と「スケルトン・コンストラクション」というビル構造についての同時代史のようなものからなる。後者は出版予定だったのかもしれないが、出版はされていない。全体的にいささか幼稚な作文という印象がなくもなく、ただジェニーのパートナーとして同時代のオーラル・オーラルヒストリーを辿る感じになるかもしれない。

 

メモ、以下すべてSkeleton Construction, Its Origin and Development Applied to Architecture(1887,1893,1907,1932)

 

「シカゴ最初の建築家ジョン・M.ヴァン・オスデルによる1844年の『初期シカゴ回想』にならって40年遡行しよう。」(12頁)「建築的にはこの時期のシカゴはプリミティヴであり、ループ内の街路沿いの建物は3-4階建てに抑えられていた」(15頁の表記があるが14頁?)。

「(大火までに)ビジネス地区の建物は5-6階建てとなった」(14頁)、「高い1階を持つ9階建てのモントーク・ビルは1888年に竣工した。これはデザインにおける画期的な進歩だった。重い耐力壁の外壁と、内部の鉄の柱と小梁、中空タイル床と間仕切壁からなっていた。この建物において鉄製レールがフーチングの成を低くするのに用いられた」「(1883年の貿易ビル、1884年のロイヤル・インシュアランス・ビルは)同じ耐火構造を用い、傑出したものだった。シカゴの建築はデザインと構法において再生したように見えた。さらに水力式昇降機によって階高や床に関わらず床を貸すことが実務的に可能になった。

1883年の後半、ニューヨークのホームファイア・インシュアランス社がシカゴに新しいオフィスを出すことを検討した」「社長のマーティン氏のジェニーへの要望。2階以上の小割にされたオフィスに十分な光を供給するものを最大限、これが窓間の付柱をして荷重を負担するには小さすぎるものになることは認識している。ジェニーの返答。自分が考えていた主要な特質もそうであり、」(16頁)。「マーティン氏は証券マンになる前はエンジニアでジェニーのデザインを精査した、(この頁はHIBのデザインの合意過程について)(17頁)。

「ここがビル構造の転回点だった・・以下交通システムについての記述」(18頁)。

HIBにおいては橋梁エンジニアのジョージ・B・ホイットニーが雇用されたこと(18頁)。

カーネギー鉄鋼社とベッセマー鋼の記述は22ページ。フェニックス社の錬鉄に代わってベッセマーの梁が使用された可能性(22頁)。→ただし6階より上、柱は鋳鉄製(23頁)。

1890年前後のHIBの影響について(23頁)

以下、各建物についての記述が続く。このなかにはジェニー+マンディー以外のものも含まれるが、最も明快なスキーム/立面を持つものの一つである1892年のLudington Building(https://en.wikipedia.org/wiki/Ludington_Building)についての記述はない。

第一ライター、第二ライター、HIB、フェアビルについての記述は再考。ルディントン・ビルについての当事者の記述はどこかにないのか?