Stolog

メモ

9 Noncommercial Work, 10 The Home Insurance Building, 11 Commercial Work,1886-92, 12 The World`s Columbian Exposition and Last Works

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「フランス・ラディカル理論の論者にして構造の改革者として、建築の革命を彼はなした。あらゆる革命がそうであるように、それはいくつかの段階を経ている。1885年に最初の段階が始まり、1885年から1892年が英雄的段階、そして1893年がテルミドールとなる」(302頁)

 

「デュランやヴィオレ=ル=デュクの哲学に体現される建築左派に彼は固執した一方、1869年の最初の論文からボザールに対しても多くの積極的な特質を見出していた」(304頁)

 

ジェニー評伝の最終四章。非・商業施設はリチャードソニアン・ロマネスクのものをはじめ、ジェニーのなかでは派生的な仕事と言っていい。

ホームインシュアランス・ビルにはまるまる一章が割かれている。その外見上の後退にもかかわらず、構造においては耐力壁との混構造であった第一ライタービルよりも鉄の柱・梁によるフレーム構造へとより純度をあげていることが指摘され、このあたりの記述はカール・コンディットの外観をもとにした評価とは対照的である。つまりコンディットは構法に評価の力点を置きながら構法そのものを見ておらず、外観で判断していたということになるだろう。

またルイス・マンフォードが述べていた「ミネソタの建築家バッフィントン」の特許問題はこのホームインシュアランスにバッフィントンが霊感を受けたものであり、ジェニーは当然それに抵抗したことも記述される。

構造のこの純化はさらに第二ライタービル、そしてシカゴ・フレームの象徴としてコーリン・ロウらによって取り上げられるフェア・ビルにおいてはほぼ完全なスチール・フレーム構造が完成されることとなる、とされる。

最終章はコロンビア博について。「1950年代に建築史の勉強を始めたものにとって世界コロンビア博は米国建築に否定的影響を与えたと教えられてきた。サリヴァンによる、これはその後50年にわたって米国建築を破壊するだろうという謂いは彼の死の直前での自伝において述べられたもので、博覧会当時において述べられたものではない」(303頁)。

ジェニーはむしろこの博覧会に好意的に関わったことが述べられる。そもそもサリヴァンもバーナムもともにジェニーの弟子であり、著者の考えではジェニー晩年においては反ボザールという立場よりも親・フランス的心境が勝ったのであろうと推測している。

コロンビア博が提起した問題は、のちのルナパークやコニーアイランドなどの問題提起に連なっていくものであり、これはこの時期に登場し始めた大衆消費社会の問題(マンフォードならそれを帝国と関連付けて論じるかもしれない)や、都市の問題としてもっぱら論じられるものであり、建築単体の構法、美学、社会的問題とはまた別の次元において主に論じた方がより生産的であると思われる。