Stolog

メモ

William Mundie

f:id:madhut:20160430142957j:plain

 

 

シカゴ美術館マイクロフィルム・アーカイヴ所蔵、ウィリアム・マンディーによる原稿。すべてタイプ打ちで、「ウィリアム・ル・バロン・ジェニー、マサチューセッツ州フェアヘヴン1832年9月25日生」というジェニーの生涯についての短い伝記と「スケルトン・コンストラクション」というビル構造についての同時代史のようなものからなる。後者は出版予定だったのかもしれないが、出版はされていない。全体的にいささか幼稚な作文という印象がなくもなく、ただジェニーのパートナーとして同時代のオーラル・オーラルヒストリーを辿る感じになるかもしれない。

 

メモ、以下すべてSkeleton Construction, Its Origin and Development Applied to Architecture(1887,1893,1907,1932)

 

「シカゴ最初の建築家ジョン・M.ヴァン・オスデルによる1844年の『初期シカゴ回想』にならって40年遡行しよう。」(12頁)「建築的にはこの時期のシカゴはプリミティヴであり、ループ内の街路沿いの建物は3-4階建てに抑えられていた」(15頁の表記があるが14頁?)。

「(大火までに)ビジネス地区の建物は5-6階建てとなった」(14頁)、「高い1階を持つ9階建てのモントーク・ビルは1888年に竣工した。これはデザインにおける画期的な進歩だった。重い耐力壁の外壁と、内部の鉄の柱と小梁、中空タイル床と間仕切壁からなっていた。この建物において鉄製レールがフーチングの成を低くするのに用いられた」「(1883年の貿易ビル、1884年のロイヤル・インシュアランス・ビルは)同じ耐火構造を用い、傑出したものだった。シカゴの建築はデザインと構法において再生したように見えた。さらに水力式昇降機によって階高や床に関わらず床を貸すことが実務的に可能になった。

1883年の後半、ニューヨークのホームファイア・インシュアランス社がシカゴに新しいオフィスを出すことを検討した」「社長のマーティン氏のジェニーへの要望。2階以上の小割にされたオフィスに十分な光を供給するものを最大限、これが窓間の付柱をして荷重を負担するには小さすぎるものになることは認識している。ジェニーの返答。自分が考えていた主要な特質もそうであり、」(16頁)。「マーティン氏は証券マンになる前はエンジニアでジェニーのデザインを精査した、(この頁はHIBのデザインの合意過程について)(17頁)。

「ここがビル構造の転回点だった・・以下交通システムについての記述」(18頁)。

HIBにおいては橋梁エンジニアのジョージ・B・ホイットニーが雇用されたこと(18頁)。

カーネギー鉄鋼社とベッセマー鋼の記述は22ページ。フェニックス社の錬鉄に代わってベッセマーの梁が使用された可能性(22頁)。→ただし6階より上、柱は鋳鉄製(23頁)。

1890年前後のHIBの影響について(23頁)

以下、各建物についての記述が続く。このなかにはジェニー+マンディー以外のものも含まれるが、最も明快なスキーム/立面を持つものの一つである1892年のLudington Building(https://en.wikipedia.org/wiki/Ludington_Building)についての記述はない。

第一ライター、第二ライター、HIB、フェアビルについての記述は再考。ルディントン・ビルについての当事者の記述はどこかにないのか?