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メモ

ジュディス・バトラー+ガヤトリ・スピヴァク、竹村和子訳『国家を歌うのは誰か?』岩波書店、2008

 

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    いちおう「批判的地域主義」概念の整理のために一瞥しておく。大雑把に述べて、前半ではおもにバトラーが語ってスピヴァクが聞き、後半ではその役割が反転という感じで、「批判的地域主義」が登場するのは後半、57頁以降である。

    書名は本文中に登場する、スペイン語で合衆国国家をストリートで移民が歌う挿話から来ているのだろうと推測する。つまり、「非常にドラマチックだったのはロサンゼルス地域です。そこでは、米国国歌がまるでメキシコ国家であるかのようにスペイン語で歌われました。「ヌエストロ・ヒムノ」(我らの歌)の出現は、国民の複数性つまり「わたしたち」や「わたしたちの」という興味深い問題を提起しました。非ナショナリズム的あるいは対抗ナショナリズム的な帰属形態に寄与するのは何かという問いを立てるときには、グローバル化について語る必要があるでしょう。ガヤトリが答えてくれると思いますが、このデモで主張されているのは、国家を歌う権利、つまり所有の権利だけではなく、多様な帰属形態でもあるのです。というのもここには、「我ら」に含まれるのは誰なのかという問いがあるからです。「我ら」が歌い、スペイン語で自己主張するとき、それはまさに国民についての考え方や平等についての考え方に働きかけます。それは大勢の人たちが一緒に歌っているだけでなく(たしかにそうなのですが)歌うということが複数性の行為となり、複数性の表明となっているのです。このときブッシュが言ったように、米国国歌は英語のみで歌われるべきなら、国民は明らかに言語的多数民を意味することになり、国に帰属しうるのは誰かを定める決定的な統制手段が、言語になるのです。アーレント流に言うなら、それはナショナルな多数民が自分たちが望む条件で国民を規定しようとし、さらには、自由を行使できる人を定める排除規定を打ち立て、それを取り締まりさえする契機ということになります」(43頁)という挿話である。

 ジュディス・バトラーが論を立てる起点は、ハナ・アーレントの『全体主義の起源』のなかの「国民国家の没落と人種の終焉」の章である。

 ずいぶん昔に読んだものゆえうろ覚えだが、同書においてアーレントナチス・ドイツから亡命者/難民として逃れ、国籍を持たない亡命者/難民、あるいは国家の外部に存在せざるを得ないものがいかに惨めであるかを、これでもかこれでもかと論じていたように思う。アーレントは最終的に、陰鬱なヨーロッパから西海岸のスタンフォードへと逃れ、そこでアメリカ国籍を取得し、平穏な市民生活を送るようになる。まずはめでたし、という話になっていたようにも記憶するものの、これはバトラーが述べるように今日では敷衍的な問題を含んでいる。つまり、ジョルジョ・アガンベンの述べる「ホモ・サケル」(や「例外者」)、POW、それに移民や難民、さらには「主権国家の紛争解決手段としての戦争」とは異なる「テロ」の問題も、ここに含まれてくるであろう。

 バトラーの主張は「アーレントに逆らって読むこと」(19頁)であり、「ひとたび追放されれば、その人は剥き出しの生の空間に追いやられ、その生(bios)はもはや政治的身分とは何のつながりもなくします。ここで「政治的」という意味は、市民の地位にいることです」「むしろここでもっと重要なことは、放棄された生-追放と包摂の両方を受けている生-は、市民性を奪われた瞬間に、まさに権力にどっぷりと浸ると理解することです。市民権に関する事柄を包摂しつつ、さらにそれをも超えるのが「権力」だという考えを使って、「国家/状態」の二重の意味を解き明かさねばなりません」(27-28頁)である、と言える。

 これに対してスピヴァクの鍵概念が「批判的地域主義」である。それはまず「重要な点は、規制ナシの資本主義に反対することであり、無審査で資本主義国家の一員となることにユートピア的特質を見出すことではないのです。国家の再創成は国民国家の枠を超えて、批判的地域主義に入っていくことです」(57頁)と言われる。さらに(アーレント/バトラーの論を受けて)「国民国家の衰退を、抽象的な福祉構造への転換とみなすこともできるでしょう。それこそが、グローバル資本と闘う批判的地域主義に向かうものです。ハンナ・アーレントは資本主義を資本の次元ではなく階級の次元で考えていますが、わたしたちに必要なのは、国家的でないもの-国家によって決定されていないもの-が決定力をもつことに気づくことです。まさにこれが資本ですが、アーレントはこれについては思考しませんでした。

 グローバル化する資本は何をおこなうのか。ちょっと考えてみましょう。グローバル化する資本の動き(資本本来の性質ですが、加えて昨今はテクノロジーの進展でさらに加速されています)は、かならずしも国民国家に関係しているのではなく、また悪しき政治に関係しているものでもないことを、念頭におかねばなりません。資本の動きのために、脆弱な国民経済と国際資本のあいだの障壁は取り払われ、その結果、国家は再配分能力を失っていきます。優先事項が国家に関係することではなく、グローバルなことになっていきます。現在存在しているのは、市場モデルに倣った経営的国家です」(58頁)と、アーレントが見落とした点と、グローバリゼーションにおける国民国家の衰退とを整理して見せる。続ける。「アーレントは無国籍を、国民国家の限界を示す兆候と捉えました。このタイプの解釈はマルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』に連なるもので、そこで彼は、ブルジョア革命は行政執行部のさらなる権力強化の下地を作ると解釈しています」「一見してブルジョア革命は議会制民主主義と市民参加の可能性を呼び込んだようですが、実際にそれが行ったのは行政執行部の権力強化であることをマルクスが示しましたが、これはよく知られていることです」「わたしが言いたいのは、パフォーマティヴな矛盾ではなくて宣言的なもの-普遍的な宣言-のなかに存在している権利のことで、それは国家(アーレント)と革命(マルクス)の両方の失敗のうえに成り立っているということです」「この線に沿った典型の一つは、(帝国主義でも共産主義革命でもなく)古いかたちの社会主義運動で、国家の腐敗から市民社会を守ろうとした国家外集団です。過去の推進力の残滓が、今、国家の再考にますます関心を抱いているようです」(59-60頁、和訳は日本語としておかしくないか?)。「そのような協力の最初のプロジェクトは、第三世界の名のもとに1955年にバンドンで開かれた第一回アジア・アフリカ会議です。現在ではブルガリアのグループが、批判的地域主義に必要な構造的変化について構想しています。ペティア・カバクチエヴァの仕事はとくにわたしには興味深いです」(61頁)。

 さらに続ける。「批判的地域主義は、ナショナリズム、さらには民族を母体にした副次的ナショナリズムに陥る可能性をもっており、また他方で、トランスナショナルなエイジェンシーも国民国家によって国民国家になりますので、なかなか扱いにくいのです」(64-65頁)。

 「デリダはここでカントの知識体系に目を向け、カントが世界や自由を考えたときに生み出した「あたかも・・のよう」の概念や、コズモポリタン的普遍主義と戦争との関係では、来るべきグローバルな民主主義を思考したり、それにコミットすることができないと述べています。またわたしがここでまで述べてきたように、ハンナ・アーレントは無国籍を語るときに国家と国民を別物と考えていたので、彼女にもう一度目を向けることも重要でないわけではないのです。デリダはのちに『友愛のポリティクス』のなかで、生まれと市民性の連結を解体しようとするこの試みを、系譜学の脱構築と呼んでいます。批判的地域主義が始まるのは、まさにここなのです」(66-67頁)。

ハーバーマスなどのヨーロッパ知識人はコズモポリタンな民主主義について語りますが、それはデリダが問題視したこととであり、わたしはデリダの影響下にあるということです。コズモポリタン的普遍主義の概念はグローバルな民主主義の未来を生み出さないというデリダの意見に、賛同しています。わたしが語ったのは、民族や階級のことではありません。わたしが語ったのは、あたかも運転免許証を取るようにあらゆる再配分構造を扱えるような、国家の抽象的構造なのです」(71頁)。

  「ここで言っておきたいのは、批判的地域主義は分析ではないということです。まだ毛が生えたばかりのプロジェクトではありますが、それには歴史があり、わたしたちにとってそれは、たとえば女の人身売買や、HIVエイズとともに生きる女の経験から生み出されたものです。ジュディスにとっては、それはパレスティナの経験から生み出されたものでしょう。その粘り強い批判は、永遠の説得者としての知識人という、グラムシの概念を導きいれるかもしれません。だからそれは分析ではないのです」(83頁)。