Stolog

メモ

Terence Riley, Portrait of the Curator as a Young Man, Philip Johnson and The Museum of Modern Art, Studies in Modern Art 6, The Museum of Modern Art, New York, 1998

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 フィリップ・ジョンソンMoMAについてのアンソロジーからテレンス・ライリーのペーパーに一瞥を与えておく。

    フィリップ・ジョンソンのフルネームは、フィリップ・コーテルユー・ジョンソン(Philip Cotelyou Johnson)(35頁)。

 ジョンソンは弱冠24歳で新設MoMAの建築部門のディレクターに指名され、近代建築展の1932年から機械芸術展の1934年までを務め、大恐慌下の極右的政治状況においてこの展覧会後に罷免され、11年のブランクののち、再びMoMAに戻ってきた、という(35頁)。この1932年から34年まではしかし、ジョンソンによってまるで連続打ち上げ花火のように企画が打たれている。 まず有名な『近代建築、インターナショナル・スタイル展』(1932)、『初期近代建築展』(1932)、『中西部の若手建築家展』(1933)、『選ばれなかった建築家展』(1933?)、『住むための住宅展』(1933?、ルイス・マンフォードに参加要請して開催された近代建築展の一環、と佐々木宏氏がその著で述べていたのはこの展覧会のことか?)、そして『機械芸術展』(1934)である。

 『近代建築展』では建築家ミース・ファン・デル・ローエにジョンソンが生活していたニューヨークのアパートのリノヴェーションを依頼しているし、『選ばれなかった建築家展』はいわば建築のアンデパンダン展のようなもので、ジョンソンはこのときサンドイッチマンを雇って建築家連盟でデモをさせたという。後者はフランス絵画における印象派の手法を彷彿させなくもなく、またジョンソンの一連のあり方に著者はエドワード・バーネイズの「プロパガンダ」と同質のものを見ている。

 バーネイズのプロパガンダの手法の一つは「仮想敵」を作りだすことで、近代建築展ではたとえば国内のボザールを含むエスタブリッシュされた建築家とヨーロッパにおける社会主義的建築家がこの仮想敵に充てられたとされ、そして初期近代建築展では「だが、エンパイアステートビルクライスラービル、それにロックフェラーセンターの造形にプライドを持っていたニューヨークでは、スカイスクレーパーの大衆的に人口に膾炙した歴史を見直すこのキュレータの視点に、プレスはいささか唖然とした。匿名の記事、「スカイスクレーパーはニューヨークにおいて誕生したと通常そう考えられているのに対し、この展覧会はシカゴにおいて誕生したと考えるよう強いているようだ」、『ニューヨークサン』のヘンリー・マクブライドは「フィリップ・ジョンソンは早死にするのではないか?ニューヨーカーが彼を殺してしまうのではないかと、私は恐れる。彼が最近しでかしたことをご存知か?スカイスクレーパーはシカゴで誕生したという趣旨の展覧会を彼はMoMAで企画したのだ」(46頁)として、ニューヨークがこれに充てられたとする。

 こうした側面があったことは留意しておく。