Stolog

メモ

Robert Bruegmann, The Architects and the City, Holabird and Roache of Chicago, 1880-1918, The University of Chicago Press, 1997

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 ダニエル・バーナムと並ぶホラバード+ローシュについての書。序章、第一章、第二章(~1893年)までを瞥見する。謝辞にデヴィット・ヴァン・ザンテン、グウェンドリン・ライト、それにシカゴ歴史協会の名がみえる。

 

いくつかメモ。

建築史と都市史の乖離について。

 「過去数十年の「都市史」のほとんどは第二次大戦後における中心市街地空洞化という危機に対するものとして成長してきた。都市の歴史家は大都市圏の発展におけるとりわけ「都市(urban)」を同定し、探求するのに汲々としてきた」「彼らはこの領域の周縁で起きていることにはあまり興味がなく、さらに、歴史家教育は主に、社会的、政治的、そして経済的力、それも活字化されたものや統計に焦点を合わせていたため、建造環境の構造体をしばしば軽視してきたのである。(そこにおいては)オスマン・ブールバールに沿ったアパートであれ、19世紀後半シカゴのオフィスビルであれ、建物というものは、より基本的な歴史的諸力の挿絵としてしか通常示されてこなかったのである。」

 「他方で、近代建築史はこれとはまったく異なる関心の一揃いから成長してきた。19世紀美術史学の理論的諸理念に大きく影響され、その美的特質や、ピラミッドからヴェルサイユを経てサヴォワ邸にいたる様式発展の過程にいかに適合するかに、建築史の一分枝は関心してきた。」「その結果は、都市史家の描く都市と、建築史家の描く都市に劇的に分かれてしまった。アメリカの都市によくある大きく、あるいは最も目立つ構造体は建築史にはほとんど登場せず、建築史の主要な記念物の多くは都市史では周縁において語られる」(Xi-Xii頁)

建築家の職能について

 「もう一つの問題が商業建築家の性質から出てくる。商業建築家はあらゆる建築家がそうであるように、部分的には芸術家として機能した。彼らは建物を使い易くかつ美しいものにしようとした。だがビジネスを続けようとすると、彼らはビジネスマンとしても機能せねばならなかった」(xiv)

 

ウィリアム・ホラバードもまた、ジェニーのオフィス出身である。

 「ジェニーの事務所でホラバードはのちにビジネス・パートナーとなる二人の男に遭遇する。オシアン・コール・シモンズとマーティン・ローシュである。」(10頁)

 

投資用オフィスビルについて

 「タコマビルと続くホラバード+ローシュ事務所の話をとりわけ面白くしているのは、短いながらもこの国の不動産市場を先導した変貌の時代に、彼らがそこを駆け上がっていったということである」「1880年代のシカゴにおけるオフィスにまったく入れ込むという考えは、まったく新しいものだった。19世紀初頭、ほとんどの会社のオフィスは商品が生産されるか取引されるかする場所に隣接してあった。ニューヨークやロンドンの銀行オフィスはたとえば、銀行フロアの中二階にあった。19世紀中葉にビジネスの規模に大きな飛躍があり、新しい管理者層が発展してきた。このオフィスワーカーは実際に物を作ったり売ったりするわけではなかった。彼らの仕事はペーパーワークであり、日々複雑になっていくビジネスの仕組みを制御することであった。その数が増えるにつれ、建物も大きくなっていった。銀行や新聞やそれに保険会社といったビジネスはこの発展を先導したが、なぜなら高度に訓練された専門職を数多く雇い入れなければならなかったからである」(65頁)。

 「シカゴにおいてまるまる1ブロックを第一級のオフィス用途に用いるのは1860年代後半までなかったように見える。当時の典型的な大オフィスは4から6階建てで、個人か、よく統御された小集団によって、5万ドルから10万ドルで建てられていた。」(66頁)。

 

さらにブルックス兄弟について少し踏み込んだ記述がある。この兄弟とジェニーはともにボストン出身で、さらに兄弟の祖父は海洋保険で財をなしたとあり、他方でジェニーの実家は捕鯨業であったゆえ、人脈的に両者はもともと近かったと言える。

 「ザ・モントークによってシカゴはニューヨークのあとを追うことになるが、後者では最初のきわめて高いビルが1870年代には建てられていた。ザ・モントークファイナンスはボストンのブルックス兄弟である。1880年代のシカゴのブームにおける最大唯一のデヴェであるあの兄弟である」「ブルックス家の財はその祖父ピーター・チャードン・ブルックス(1767-1849)によって19世紀初頭になされた。海洋保険によって財をなしたボストン最初のミリオネアと言われている。友人たちは彼を落ち着いた保守的な投資家だったと描写し、その中傷者はドケチであったと描写する。相続者も似たような名声を獲得した。

 ブルックスのシカゴでの不動産投資を追跡するのは難しい。絶対に必要以上の情報を残さなかったからである。事実、ピーター・ブルックスはボストンの知人友人から不動産取引の情報を明らかに隠そうとしており、それゆえメドフォードにおいてジェントルマン・ファーマーとしての役を演ずることができたのだった」「大火後、彼らはウィリアム・ル・バロン・ジェニーにエレベータ付の8階建てのポートランドブロック・ビルを発注した。最終的にこの建物は5階建てとなったがエレベータ付高層ビルのアイデアは忘れられず、ザ・モントークにおいて結実することになる」(66-68頁)。

ブルックス兄弟のビジネス手法については、Miles Berger, They built Chicago: entrepreneurs Who Shaped a Great City`s Architecture(1992), 29-38

Earle Schultz and Walter Simmons, Offices in the Sky(1959),20,

 

さらに不動産と投資形態について

 「それまで最も重要なことは有限責任ということだった。この形式の初期のビジネス会社は、株式会社(stock company)と法人(corporation)、組合や大学やその他の公共体で見られるものの特質を組み合わせたもので、19世紀初頭の英国で多くみられたものだった。法人組織や株や債券は、個人やパートナーシップによるより、より大きな資本プールを可能にした」「法人は許可された業務を遂行するための建物を建設することはもちろんできたが、イリノイ州はしかし1872年の一般法人法によってそれ自身が必要とする以上の空間を開発することを禁じ、さらには不動産開発のための法人を厳に禁じた」「立法者はこの禁止によって、小ビジネスの保護と不動産開発の抑制を目ざした。デヴェロッパーが必要とする資本が大きくなるにつれ、ずる賢いビジネスマンはこの法律のまわりに様々な抜け道を見出した。」(71頁)。

 「少しのちのホラバード+ローシュによる二つの建物、ザ・ベネシャンとザ・シャンプランの場合では、兄弟は「マサチューセッツ・トラスト」を用いているが、これは法人による不動産開発の制限を取り除くもう一つの装置であった」→マサチューセッツ・トラストにおいては、イリノイ法人法は障害でなくなる。だがマサチューセッツ・トラストがイリノイで不動産開発するのにまったく障害がなかったかどうかははっきりしない(脚注による)。MBTについてはhttps://en.wikipedia.org/wiki/Massachusetts_business_trust

 「続く数十年、この二つの法的操作は何度も試みられた、イリノイにおいて法人による投機的不動産開発が確実に認められるようになったのは、20世紀に十分入ってからのことである」(72頁)。

 

 上記の記述からすれば、いわゆるシカゴ派の歴史的建造物のいくつかは、当時法律的にはグレーゾーンであったということになろう。メモを続ける。

 「長期におよぶ貸し付けと法人組織や、追加ローン、株や債券の手法を用いることで、デヴェロッパーは自身が持っている比較的小さい自己資金に対して、きわめて大きな建物を準備することができた」「ビジネスが下向きになるともちろん、こうした財務上のすべての装置は、今度は逆向きに働き、債務や地代をカバーし切れなくなる。ブルックス兄弟はそのきわめて保守的ビジネスのおかげで、他の多くが陥ったこの問題を免れていた」(72-73頁)。

 

 続いてオーディトリアムビルにおけるワート・D・ウォーカーの記述、この部分はヒュー・モリソンによるサリヴァン評伝の方が詳しい(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/hugh-morrison-l.html)。メモを続ける。

 「古い建物下部にある重い壁を取り除き、地上商業部の床面積を増すためにそれを大きなガラス窓に入れ替え、そうすることで多くの自然光を内部に取り込み、舗道に対して存在感を増させることは、商業ビルのオーナーにとって一般的になっていた。これはときに多くの費用を要してでもなされたが、立地のよいショップフロントの上昇する家賃がそれを要求したからである。この種のリノヴェーションをなすのに、重い耐力壁が取り除かれ、鉄の柱・梁による比較的薄い壁に置き換えられた。それゆえ柱の前面に大きな窓が挿入され得、その結果、ほぼ連続するようなガラスの表面が形成されたが、この面を遮るのはただ金属性あるいはテラコッタ製のフレームのみであった。」(75頁→Engineering News Record, 17,April, 1924, での H.J.Burtの論文)

 

 上記記述によれば、この構造が普及した原動力の一つは不動産価値の向上であったことになろう。メモを続ける。

 「最終的にこの古い建物をリモデルするには費用がかかりすぎるゆえ、同じ敷地に新しく12階建の建物を計画することを依頼する。これがローリング発案の計画をこの建築家が試す最初の機会であった。結果は既存両側壁を除いて、まったく骨組構造的なものとなった。ただこうしうた高層構造における風圧の効果を設計者も依頼者も明らかに危惧していた」「設計者は図面をワシントン大学の工学教授であるジョン・B.ジョンソンに送ったが、その結果は風圧用ブレース材は適切でないというものであった」「この所見は、背面と側面を石造耐力壁とし、前面のみを骨組構造とするという案に設計者を立ち帰らせた」「言いかえるなら、この建物はザ・ルーカリーのように、耐力壁構造と新しい骨組構造のハイブリッド(hybrid)なのである。ただし反転されていよう。ここでは骨組は外部にある」(77頁)。

 

メモを続ける。

「ウォーカーは彼の建物をザ・タコマと名付けたが、これは先住民の言葉で「最高」を意味し、他方では19世紀後半においてワシントン州にあるレイニア山のことを一般に意味していた」(80頁)。

 

 ウォーカー→つまりジ・オーディトリアムの建主がその財務手法を敷衍させ、ザ・タコマ計画に乗り出してきたことになる。続ける。

 「建設が始まるまでにウォーカーは債権を売却するために法人、タコマ保管会社(safety deposit company)を組織していた」(81頁)。

 「ザ・タコマはおそらく単一総合請負を用いた大規模建設の最初期の例である。これはこののち国中で大規模建設のビジネス実務を刷新(revolutionalize)するものであった。→ジョージ・A.フラー・システム。フラーシステム(ゼネコン・システム)が発展する前までは、契約は通常オーナーか建築家によって各個に、たとえば解体、石工、大工、配管、キャビネットメーカー、等になされていた。つまりあらゆる交渉事が建主か建築家によってなされていたのである。」(81頁)

「このシステムにおいてフラーが提供したものは、一社請負において、財務、技術、発注、それに施工そのもののエキスパートであった」「正しくやれ」「正しく工程表通りにやれ」(82頁)。

 

 ゼネコン・システムが登場したのはこのあたりということになる。続ける。

 ザ・タコマが着工した年にホームインシュアランス・ビルが竣工し、敷地は数ブロックと離れていない。

 「HIBが最初の金属骨組構造であるという主張は常に疑問視されてきたし、実際それは不正確であるにもかかわらず、多くの歴史家はこの建物がほぼ金属骨組構造であると、少なくともテクノロジーにおける重要な一歩であり、のちに大きな提供を残した重要なものであると、確信してきた。ザ・タコマの話はまた別のものを提供する。

 HIBにおける先行を疑いなくH+Rは知っていたが、骨組構造のまったく異なる視点からの使用を彼らは試みたのである。彼らは耐力壁の軽量化には興味を持っていなかった。彼らは背面における耐力壁と内壁によって、建物荷重と風圧荷重を可能な限り持つことを試みた」「結果は、HIBが比較的厚い壁で造られ、また注意をむけられなかったところに、ザ・タコマの被覆は明らかに薄く、一層ずつ施工する必要はなく、事実、被覆工事は2階、6階、10階から同時に始まっている」(83頁)。

 

 「多くのヨーロッパのモダニストが金属骨組構造にかくも興味を持ったのは、彼らが新しい素材に基づいた新しい建築を創造したかったからである」(85頁)。

 

HIBもザ・タコマも1930年に解体。