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メモ

A.オザンファン+E.ジャンヌレ、『近代絵画』、吉川逸治訳、鹿島研究所出版会、1968年

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原著は1924年出版で『建築をめざして』(1923)の1年後である。『レスプリ・ヌーヴォー』は1920-1925年の刊行。主張するとことは『建築をめざして』とほぼ重なる。

以下、メモ。

まずマシンエイジが冒頭で言われる。

「機械主義の段階に達したわれわれの合理的な文明は、はたして絵画を必要とするものだろうか。もちろん必要とする。」「近代人にとっては、このような感動、感激は、模倣芸術という手段によっては、換言すれば自然の対象を多かれ少なかれ忠実に文字通り模写するという手段によってはとうてい付与されるべきものではない。この本の目的はわれわれの時代を真に満足させることのできるような芸術はどんな芸術であるかを探求しようというのである」(7-8頁)。

 

機械主義と鋼鉄、マスメディアについて。

「鋼鉄は社会に一大革命をもたらした。これによって機械文明が実現可能となった」「模倣芸術は写真と映画とによって遠ざけられた。新聞、書籍は芸術よりも有効に宗教的目的、道徳的あるいは政治上の目的に働きかける」(8頁)。

 

絵画の「使命」について

「それは、われわれの高級な段階の欲求を満足させること、これである」(10頁)。

 

続いて「近代的視覚の形成」

「絵画は、もっぱら、われわれの眼という経路を通じて、われわれの精神に達し得るところのものである。われわれの眼は近代生活の強烈な、集中的な光景によって特に洗練されている。機械文明の発達によって幾何学がいたるところに確立されている。われわれの精神自体、いたるところにこの幾何学、精神の創造物であるところの、を再発見して満足し、「既存」の絵画のややもすれば、堅固でない、非幾何学的な姿に対して反発する。ことに印象派芸術の統一なき流動性に対し反発する。今日の世界の示すありさまは本質的に幾何学的である」(10-11頁)。

「芸術はわれわれの詩的感情「リリスム(詩的精神)」の欲求に満足を与えることが唯一の目的であって、それ以外の目的は有しないのだということ」(12頁)。

 

キュビスムについて

「立体主義は、絵画は自然から独立している物象であるとみなす概念をもたらした。ただ単に感受性の法則と精神の法則とにのみ服従するという絵画の概念をもたらしたのである。このようなすぐれた見解こそ、明日の絵画を決定するものである」(14頁)。

最後の一文において、著者はキュビスムをいったん高く評価している。ここが始発の地点というべきか。とともに印象派にはまずは批判をくわえる。

 

そしてここから「個人的意見」として、美、直角、ピュリスムが言われる。美は「快」ではなく感動でありこれがいわば先述した「高級な段階の欲求を満足すること」に照応するかもしれない。直角についての謂いは「近代人」と同じくアドルフ・ロースを彷彿させる。eg.垂直線と水平線→「基本的感覚は重量の感覚であって、それは造形的言語においては、垂直線的なものによって翻訳される。これに対して、支持のしるしは水平的なものである」(17頁)。そしてこれがピュリスムの導入に言われる。

53頁にいわゆるプラトン立体の表が載っているが、これは『建築をめざして』のものとも重複するのではないか、ただし著者らは、そしてル・コルビュジエも「プラトン立体」という言葉は用いない。その前後からメモ。

「人間は、人工的なことをすることしか知らないのだ。人工的というこの言葉を軽蔑したものと考えるのは断じて止めよう。それどころか、この言葉を、人間の全活動の終局の目的と見なそうではないか」(52頁)。

また視覚に関して「幾何学的概念」の範囲として、形態、線、色彩、光線、等が挙げられる、メモ。

「視覚に関する物事においては、われわれの表現手段はみな幾何学的な概念の範囲に属している(形態、線、色彩、光線等)。自然が美しく映ずるのは、人間によって、言い換えれば、芸術に則って、美しいものにほかならない」(54頁)。

 

「近代的視覚の形成」の章では、この視覚が都市化の結果によるものであることが明言されている。

「現在の文明は、ほとんど徹底的に都市的なものである。そして、ものごとを考え、ものを創造する人びとは、この新しい都市的環境の影響を蒙らざるをえないのである。新しい都市的環境は、われわれの眼に、全然新しい外的秩序を構成している無数の要素をわれわれの眼におしつけるのである。このようにして、個々の人間は、この新しい環境に順応しつつ、自分のうちに、さまざまの必然的な習慣を産んでいく、そして、この習慣がさまざまの要求をまた産むのである。街上の光景はすべて、われわれを深く変化させずにはおかなかった」(74頁)。

「今日の文化は都市の文化である」(79頁)。

幾何学を集中的にさかんに実行することによって、人間の深奥に、一段と特に人間的なるものを発見したのである。つぎのような自覚をもったのである。人間は幾何学的動物である。人間の精神は幾何学的である。人間の諸感覚機能は、その眼は、以前に比を見ないほどいちじるしく、幾何学的明瞭性というものに鍛えられた。いまや、われわれは、先鋭な、鍛錬された敏捷な眼を所有している」(80-81頁)。

 

ピュリスムについての記述中、『建築をめざして』における「住宅は住むための機械である」と相同的な謂いが登場している。「形態的、色彩的諸要素から出発し、かつそれらをある定まった特定効力を有する刺激剤と見なしつつ、絵画作品を一個の機械として創作することができる。画は感動させるために仕組まれた一個の装置である。これが純粋主義の基本的な概念である」(170頁)。「絵画とは感動のための装置である」と言い直せるだろうか。

 

ピュリスムについてはアルフレッド・バーの

http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20080322

も。

ピュリスムについては、色彩、形態、主題、規格物、構図、の観点から述べられる。以下メモ。

「純粋主義は、立体主義から生まれて、その一般的概念を受け入れているが、立体主義が画家に与えた権利は制限する」(166-167頁)。

「純粋主義は、まず出発点として、現実に存在する物からある種のものを選んで、それら特有の形態を紬だして、芸術制作の基本的要素とする。これら要素は、優先的に、人間がもっと直接的に使っている物のなかから採用する。いわば人間の四肢にの延長と見なすことができるような、きわめてわれわれに親しい、平凡なもので、そういう性質上、それ自体として特に興味を起こす主題とか、逸話となるおそれのないものである」(171頁)。