コーリン・ロウ『コーリン・ロウは語る、回顧録と著作選』、「第一部テキサス、テキサス以前、ケンブリッジ」「ヘンリー=ラッセル・ヒッチコック」松永安光+大西伸一郎+漆原弘訳。鹿島出版会、2001

 

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  ヒッチコックの『近代建築』とギーディオンの『空間・時間・建築』についてコーリン・ロウが語っていた部分をメモ。

 「しかし、時のハーヴァード学長のジェイムズ・ブライアント・コナントがレストランを出て左に曲がり、次にチャーチ・ストリートの方へ右折して、右側の二軒目の現代的な家、グロピウス・アンド・フライ事務所、に、ハーヴァードからの知らせをもって入っていく姿は手に取るように見えるのだが、このことの意味をどう解釈してよいかまだ分からないのである。無論、限られた人々の間で密かに議論が交わされていたであろうが、ヒッチコックはこのメンバーに入っていなかったにせよ、この話題についてよく知っていたことは確実である。だがこの政治学の意味するものは何だったのだろう。私はこのことに関して何も知らないと言わねばならないのだが、それでもヒッチコックは瞬時にして自分がグロピウスを推薦したことを後悔することになったことはよく知っている。グロピウスがハーヴァードにやってきて、彼が一種のスポンサーということになれば、誰でも、彼の望みを想像するだろうが、私が想像する彼の希望の地位はジークフリート・ギーディオンに取られることになったのだ。

悲しい皮肉というか、おかしい皮肉というべきか。

 ともかく、その結果ギーディオンは一九三八年から三九年にかけて行われたチャールズ・エリオット・ノートン記念講演を増補して『空間・時間・建築』を出版することになり、これは一二年前のヒッチコックの『近代建築:ロマン主義と再統合』と匹敵するものとなった。

 両書とも同じ建築的土壌、一八世紀以降、を扱っているが、『空間・時間・建築』のギーディオン は、多分より先駆者といえるヒッチコックが手にできなかった一般的な成功を収めたので、これが建築の聖書になったとすると、一方は総じて外典の地位に留まることになった。その理由は、一つには時代が味方した、英語圏でもついに近代建築への興味が高まった、ということと、もう一つにはギーディオンが話題をより広範にわたり知的に見える土俵、究極的にはヘーゲル流の世界観をごく圧縮したもの、の中に位置づけたことである。そして多分、最も重要なことは、タイポグラフィーとレイアウトを見るとハーバート・バイヤー、彼自身バウハウスの出身であった、の仕事が好感を持って受け入れられたことである。そして多分、このタイポグラフィーとレイアウトを見るとハーバート・バイヤーの天分を認めざるを得ない。というのも、この二冊の本の見かけほどかけ離れたものはないからだ。一九二九年にヒッチコックの出版社は本文を前に置き、図版を後においたが、それもずっと後の方、つまり注釈や索引よりも後に持っていった。一方、一九四一年の時点でのハーバート・バイヤーは本文と図版ができるだけ近くに来るようにしたのだ。図版は本文の中に交じり合い、そのキャプションが本文の字面に変化を与える域にまで達しているのである。大変な偉業だ!流麗なプレゼンテーションで、これに比較されると一九二九年のヒッチコックの出来栄えはいささか生気のないものと感じられることになる。にもかかわらず、昔も今も私はヒッチコックの方が優れた判断を示していると感じている。だからこそ、私はイェールへ行き、決まり文句で言えば彼の門下生となったのである」「当然ながら、イェールでのヒッチコックの講義の多くは抜群であった(彼の話はニューヨークからいとも軽々とパリ/ロンドンに飛び、シカゴからブラッセル/グラスゴー/アムステルダムへ飛び、クライアントの生涯については微に入り細に入った説明があった)。しかし、これらの講義が誰を対象としたものであるかは私にはよく分からなかった。それと同様、彼がフランク・ロイド・ライトに熱狂していたにもかかわらず、私は彼がなぜ、そう興奮するのか全く理解できなかった。そして、その代わり、私は彼が一九二九年にライトについて書いたコメントを今に至るまで支持し続けている」(42-43頁)。