上田閑照編『西田幾多郎哲学論集I』「場所」、『西田幾多郎哲学論集III』「絶対矛盾的自己同一」、「歴史的形成作用としての芸術的創作」、岩波書店、1987、1989

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寄道する。

 西田の「場所」概念はあらためてカントの読替えとしてあると思われ、実際カントの名は参照点としてしばしば登場する。他方では同時代の現象学には批判的にも見え、これに対しライプニッツの「モナド」やベルグソンの「純粋持続」、そして近年のドゥルーズの「生成論」などに近いようにも、これはまた見える。「場所」のなかのカントについて論じたところでは 

「カントの意識一般もすべての認識の構成的主観としては、真の無の場所でなければならぬ」「この場所においては、すべて存在的有は変じて繋事的有とならねばならぬ。しかし意識一般もなお真の無の立場ではない。対立的無の立場から絶対的無の立場への入口に過ぎない。更にこの立場を越えて叡智的世界がある。理相即実在の世界がある。これ故にカントの批評哲学を越えてなお形而上学が成立するのである。有るものは何かに於いてなければならぬ、論理的には一般的なるものが、その場所となる。カントが感覚によって知識の内容を受取ると考えた意識は、対立的無の場所でなければなぬ、単に映す鏡でなければならぬ、かかる場所に於て感覚の世界があるのである」(I、90-91頁)。

  カントの「物自体」については

「映す鏡の底になお質料が残っている。無論それはいわゆる潜在、いわゆる質料ではないとしても、カントの物自体、現今のカント学派の体験の如く、除去することのできない質料である」(I、99頁) 

とも言われる。またこのあとの方で、

「知覚、思惟、意志、直観という如きものは、厳密に区別すべきものたるとともに、相互に関係を有し、その根底にこれらを統一する何物かがなければならぬ」(I、133頁)

とも述べられるが、これらはカントの諸主題でもあるだろう。この一文は、

「記憶、想像、感情など多く論ずべきものがあるであろうが」(I、134頁) 

と続けられるが、これはまたベルグソンの諸主題でもあるだろう。

 他方では現象学に対し批判的な言説が登場する。

現象学者は知覚の上に基礎付けられたる作用の底にも直覚があり、知識はこれに向かって充実せられて行くというが、知識の基礎となる直覚とはなお意識せられた意識であって、意識する意識ではない。真に意識する意識、即ち真の直覚は作用を基礎付け行くことによって変じ行くのではなく、かえって作用はこれにおいて基礎付けられねばならぬ」(I、109頁)、

現象学派においては作用の上に作用を基礎附けるというが、作用と作用とを結合するものはいわゆる基礎附ける作用ではなくして、私のいわゆる「作用の作用」という如きものでなかればならない。この場所においては作用は既に意志の性質を含んでいるのである。作用と作用との結合は裏面においては意志であるといってよい。しかし意志が直に作用と作用とを結合するのではない、意志もこの場所に於いて見られたものである、この場所に映されたる影像に過ぎない」(I、119頁)。

「前にいった如く、フッサールの知覚的直覚というのは一般概念によって限定せられた場所に過ぎない。真の直覚はベルグソンの純粋持続の如く生命に充ちたものでなければならぬ。私はかかる直覚を真の無の場所に於いてあると考えるのである」(I、127頁)。

などである。

 西田の述べる「場所」は意識の「野」のようなものとしてまず考えられている。 

「我々が物事を考える時、これを映す如き場所という如きものがなければならぬ。先ず意識の野というものをそれと考えることができる。何物かを意識するには、意識の野に映さねばならぬ。而して映された意識現象と映す意識の野とは区別されねばならぬ」「しかし時々刻々に移り行く意識現象に対して、移らざる意識の野というものがなければならぬ。これによって意識現象が互いに相関係し相連結するのである」(I、69頁)。 

さらに 

「しかし意識と対象と関係するには、両者を内に包むものがなければならぬ。両者の関係する場所という如きものがなければならぬ、両者を関係せしめるものは何であろうか。対象は意識作用を超越するというも、対象が全然意識の外にあるものならば、意識の内にある我々よりして、我々の意識内容が対象を指示するという如きことを考える」(I、70頁)、 

と述べ、この「場所」が襞構造をもっていることが示唆される。

そしてさらに

「直接には一般と特殊とは無限に重なり合っている、斯く重なり合う場所が意識である。右の如く考えるならば、判断において真に主語となるものではなく、かえって一般的なるものである」(I、135頁)

と述べ、

「我々は無限に特殊の下に特殊を考え、一般の上に一般を考えることができる。かかる関係において、一般と特殊との間に間隙のある間は、かかる一般によって包含せられたる特殊は互に相異なれるものたるに過ぎない。しかし一般の面と特殊の面とが合一する時、即ち一般と特殊の間隙がなくなる時、特殊は互に矛盾的対立に立つ、即ち矛盾的統一が成立する。是において一般は単に特殊を包み込むのみならず、構成的意義を有ってくる。一般が自己自身に同一なるものとなる。一般と特殊とが合一し自己同一となるということは、単に両者が一となるのではない。両面は何処までも相異なったものであって、唯無限に相接近していくのである。斯くしてその極限に達するのである。是において包摂的関係はいわゆる純粋作用の形を取る。かかる場合、述語面が主語面を離れて見られないから、私はこれを無の場所というのである。主客合一の直観というのは、かくの如きものであなければならぬ」(I、136-137頁)。

 と述べ、いわば生成論的な「絶対矛盾的自己同一」を、ここにおいて示唆している。

 さて、まさに「絶対矛盾的自己同一」と題された論考がある。この論考の冒頭は何とも結構的な記述から始まるが、まずはそのまま引用する。 

「現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによってできた結果であると考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物が相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くといういうことは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなるということであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない。個物と個物の相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである」(III、7-8頁)。

そしてこの絶対矛盾的自己同一の「時間」は先述したように襞構造をなしており、ベルグソン/ドゥルーズ的時間ともたいへん近いようにも思われる。たとえば、

「時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でばければならない」(III、9頁)、 

であり、 

「しかも現在は多即一一即多の矛盾的自己同一として、時間的空間として、そこに一つの形が決定せられ、時が止揚せられると考えられねばならない。そこに時の現在が永遠の今の自己限定として、我々は時を越えた永遠なるものに触れると考える。しかしそれは矛盾的自己同一として否定せられるべく決定せられたものである。時は現在から現在へと動き行くのである」(III、10頁)。

といった具合である。

 この絶対矛盾的自己同一の時間や世界はそれだけであれば動物も人間も同じではあるのだが、続く「歴史的形成作用としての芸術創作」への伏線にもなることだが、しかしながら歴史的主体としてあり得るのは人間だけであり、そしてそうなり得るのは人間が制作し得るからである、と述べられる。このあたりはラカンのRSI図式を彷彿させなくもない。

「絶対矛盾的自己同一の世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界は一つの現在として自己自身を形成し行く、作られたものより作るものへとして無限に生産的であり、創造的である。かかる世界は、先ず作られたものから作るものへとして、過去から未来へとして生物的に生産的である」「しかし生物的生命においては、なお真に作られたものが作るものに対立せない、作られたものが作るものから独立せない、従って作られたものが作るものを作るということはない。そこではなお世界が真に一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するとはいわれない。現在がなお形を有たない、世界が真に形成的でない、生物的生命は創造的ではない。個物はなお表現作用的ではない、即ち自由ではない。歴史的世界においては主体が環境を、環境が主体を形成するといったが、生物的生命においてはそれはなお環境的である。歴史的主体ではない。なお真に作られたものから作るものではなくて、作られたものから作られたものへである」(III、37-8頁)。 

「行為的直観」という言葉が登場するのもこの文脈においてである。

「物を創造するというのは、自己が物に奪われることではない。自己が物となること、自己がなくなることではない。さらばといって、単に自己が意識的に作用することでもない。作ることによって、真に能動的に、物の真実が把握せられることでなければならない。行為的直観ということが単に自己が物に奪われるということなら、論理を否定すると考えられるでもあろう。しかしそこには自己が何処までも能動的となることである。物をそのままに受取ることはできない。物を能動的に把握することである。我々は矛盾的自己同一的世界の形成要素として、そこに何処までも論理的でなければならない。論理を否定することは、自己を暗ますことである。行為的直観的に、ポイエシス的に、我々の自己は益々明となるのである。芸術は非論理的と考えられる。芸術的直観とは、行為の直観において、物が自己を奪うという方向において成立するものなるを以て、非論理的とも考えられるが、具体的論理の立場からは、芸術的直観もその一方向として含まなければならない(芸術も理性的でなければならない)」(III、65-66頁)。

 「歴史的形成作用としての芸術的創作」ではドイツ系美学・美術史にも一瞥が与えられているが、ウィーン学派への評価は高い。ゴットフリート・ゼンパーは「ゼンペル」という表記になっている。