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メモ

S.Giedion, Space, Time and Architecture, The Growth of a New Tradition, Herverd University Press, Cambridge, Massathusetts, 1941,( Fifth Edition, Revised and Enlarged)

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 こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/11969-b78b.html)とこちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/1931-193921969-.html)の続き。まずこちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/siegfried-giedi.html)のようなロシア・アヴァンギャルド風のレイアウトやブックデザインデザインとは、本書のデザインはいささか趣を異にしている。

 サブタイトルは「The Growth of a New Tradition」となっており、ヒッチコックのこの書(http://madhut.hatenablog.com/entry/2016/12/02/194041)の続編であるかのような印象を与えるものの、内容はそうなっておらず、同書の読者を意識して出版社がこのサブタイトルを付けた可能性もある。本書成立の経緯を考えて英語版を正版とするなら、やはり米国の読者を念頭において書かれたものであったかもしれない。

 また本書出版およびそのの2年後1943年の、著者も交えてのポール・ズッカー采配によるコロンビア大学での(あたかもル・コルビュジエ/カレル・タイゲ論争、http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20090506 を踏まえたかのような)シンポジウムの開催は、この時代に建築の中心がヨーロッパからアメリカに移りつつあったことを象徴するかのような出来事だったかのようにも、見える。実際、「空間-時間(space-time)」概念を説明するにあたってアルフッド・バー(つまりMoMA/ロックフェラー財団)の言説に依拠したことは、そのことを意識していたかもしれない。

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 さらに目次頁を見るなら、本書のコンセプチュアルな構成が一目で分かるようになっていると言える。つまりまずルネサンスの線遠近法的空間に対して「空間-時間」を対比させるやり方は、前者にパノフスキーの「象徴形式としての遠近法」的な含みがあることを念頭に置けば、後者にはポスト・人文主義的な含みがあること、つまりポストヒューマニズム的な概念の提示を示唆していると言えるということである。後者におけるキュビスムの例示はあくまで「象徴形式」なのであって、K.マイケル・ヘイズが述べるようにたとえばジンメルが『メトロポリスとメンタルライフ』で示唆するような、新たな(分裂症的な)主体/主観の問題の示唆なのだと読めるであろう。

 つまりもっと述べるなら、それぞれの章題に「空間」がついているゆえむしろ分かりずらくなっているものの、ここでの主題は再びK.マイケル・ヘイズにならって述べるなら、主体/主観なのだと述べ得るのではなかろうか。

 ここでK.マイケル・ヘイズによるタフーリの効力批評(operative criticism)の引用を確認するなら、「効力的批評という言葉で普通意味されるのは、建築(あるいは美術一般)の分析において、抽象的な研究の代わりに、まさに詩的傾向をその構造のうちにはらみ、あらかじめ歪められ結論づけられている目論見」(→PH、15頁)であり、さらに「社会や技術の発展論理によって主体/主観は対象から引き裂かれてしまったので、対象はいまやギーディオンにとって、その内部に主体/主観のための場所を用意せねばならないのである。「絵画のまっただなかに入り込んでいる」が、ギーディオンのやり方なのである。ここではまたもタフーリが「効力批評」とした批評とデザインの安易な結合が見てとれよう。鑑賞し解釈する主体は対象のフレーム内部に位置しなければならず「絵画から離れた観察点に立つべきではない。近代美術は、近代科学と同様に、観察するものと観察されるものとが一つの複合状態を形作るという事実、すなわち、あらゆるものを観察するということは、それに働きかけ、それを変えることだということを認識している」のである」(ibid, 19頁)。つまりギーディオンの「空間-時間」概念は、まずそのうちに批評としても対象としても主体/主観を内在させたものでなのである。これは、ル・コルビュジエの「ヴォリューム」概念やヒッチコックの「ヴォリューム」概念とはまったく無関係とは言わないまでも、また異なる次元のものである、と言える。

 K.マイケル・ヘイズによるギーディオンの脱構築は、T.J.クラークによるマイヤ・シャピロの脱構築を彷彿させなくもないか。