Stolog

メモ

Eugene Viollet-le-Duc, The Habitations of Man in All Ages, translated by Benjamin Bucknall, Sampton Low, Marston, Searle, & Rivingston, London, 1876

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こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/theodore-turuk.html)に関連して。序文冒頭でヘーゲルの『哲学史』英語版の訳者(ジョン・シルビー)への謝辞が述べられている。ヘーゲルの言説のように大きな道筋を必ずしも描いていくというわけではないが(ところどころ地理的歴史的に飛躍する)、20世紀の風土論とされるものは19世紀のこうした諸言説の延長上に成立したのだろうとは思わせる。全体は「進歩主義者」のエパーゴスと保守主義者の「ドキシアデス」という二人の語り部の語りを交えて進んでいく。

まず最も原始的な小屋として登場するのはほぼオーストロネシアの転び破風/原始入母屋住居(http://madhut.hatenablog.com/entry/2017/07/06/234618)である。描写を引用する。

「エパーゴス:二本の木の先端をまず緊結し、円形(平面)状の木をそれに立てかけてゆくことを、それで誰が示したのか。それらのあいだをイグサや小枝やそれに編み上げられた長い草で塞ぎ、根を粘土で覆い、構造全体が連続的となることを、彼は示した。風雨が吹き込む側と反対側は開口のままとした。床には枝や葦を敷き詰め、泥は足で踏み均された。

その日の終わりごろには、この小屋は完成した。そしてナイリッティのそれぞれの家族は、それぞれの小屋を持ちたがった」(6-7頁)。

この小屋の制作者は「生物」と呼ばれていて完全な人類とはみなされていなようでもある。

ちなみに「アーリア人」に関する記述はこんな感じである。

「体格がよくハンサムで勇敢であるアーリア人は、これら有色人種のなかにあって優越な存在として自らを示し、命令するものとして生れ、(有色人種の)数にも関わらず抵抗の試みはすぐに放棄された」「抵抗の試みが抑えられると、アーリア人は征服した土地に永住することを考え出した。しかし征服された人種の住居はレンガや植物の茎でできており軽量で薄弱なものだったので、新たな征服者には向いていなかった。彼らは頑丈で抵抗者の攻撃や風雨をしのげる住宅を欲したのである」(45頁)。

これより少し前、人間の住居らしいものは「黄色人種(The Yellow Race)」によるもので、その住居は竹でできている。

「この建物はすべて竹でできている。茎によるトレリスは味わい深く構成されており、あらゆる開口を塞ぎつつ空気は通した」「厚い竹でできた大屋根は曲げられ葦で巧みに覆われていた。これが雨と熱から内部を守っていた。この覆いは厚かった」「建物は大きな石の基壇上に載り、この基壇は上部と完璧に一致しており、しかし不規則な形をしていた。内部も外部も彩度の高い色で彩色されており、とりわけ黄色と緑色が際立っていた」(30-32頁)。

「見ろよ、と相棒は言った。この見た目は弱い素材を用いながら、軽くて強い大きな屋根を造ることに彼らは成功している。これらブラケットがいかに器用に扱われていることか! 気候熱による不快を排除しつつ、室内を空気がいかに自由に流れていることか!」(35-36頁)。

続ける。

「しばし考えたのちエパーゴスはしかしながら、こう考えた。様々な長さや厚みのこれらの茎をフレームするというこのアイデアは、この素材をまず所有するところから始まる。しかしアーリア人が暮らす山にはこの種の植生はなく、たとえば仮に彼らがそれを持ちえたとしても、その高度の気候は、こうした構造体がシェルターとして機能するには厳しいものである。広く湿気のあるこの平野では反対に、これら「オープン・ワーク」の住居は最も適合したものである」(37頁)。

この「黄色人種」の住宅(ふとっちょフーの家)が具体的にどこのものかは定かではないが、アジア・モンスーン地帯のどこかを想定しているのではないか。

また幾何学の誕生は古代エジプトにおいてと見做され(ヴィルヘルム・ヴォーリンガーの言説もこうした19世紀の言説の延長上に成立したのだと思わせる)、のちのピタゴラス三角形(完全三角形)の辺のそれぞれに「オシリス」、「イシス」、「ルスス」の名前が当てられ、こうした幾何学の誕生が地震という外部与条件の観点から説き起こされている。

最終章はルネサンスについてである。こうしたところもヘーゲルとは異なる。