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メモ

北川フラム『ひらく美術―地域と人間のつながりをお取り戻す』ちくま新書2015、北川フラム「瀬戸内国際芸術祭」、福武聰一郎 安藤忠雄ほか『直島瀬戸内アートの楽園』新潮社2011、金晴姫第6章、鎌田裕美第7章、古川一郎編『地域活性化のマーケティング』有斐閣2011

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メモ

「当初の数年、地元の方々から彼らは鼻もひっかけられず、無視されたそうです。集落でうまくうまくいかないことが起こると「日芸のせいではないか」と疑われたこともあったそうで、とにかく認められるまではと、歯を食いしばり何年も耐えたということです。想像はつきます。彼はその間、どんなグチも私にもらしませんでした。“彫る”という身体的な労働が、それらの人間的な、都会的なアレコレを超えさせる力だったのではないか、と私は想像します」(北川2015、54-55頁)、「地域に影響力があった市の文化協会のリーダー達は、具象と平面構成以外の抽象的な美術は嫌いなのです。彼らの一部が大騒ぎして、あらゆる工作をして北川追い落としが図られました。確かに「芸術は爆発だ」と叫んでいたアーティストがいたぐらいなのですから、現代美術は非常識、反体制、少数の変わり者の遊びだと思われていたのです」(ibid.p91)。「こういう土地で作品製作するというのは、まさに互いの理解のうえに成り立っていく未知のものに向かっての協働であり、土地という私有、知識という専有を離れた喜びのなかで進んでいくのです。そしてそこにできていくのは赤ん坊のような、不思議で楽しい、しかし手のかかるもので、美術は天からの贈り物のような媒介物になっていくのです。人の土地にものを作ろうとすることが私有制を超えていくのです」(ibid.p97)。「当初地域づくりの起爆剤を考えた時、それはディズニーランドやシーガイアなどのテーマパークではありませんでした。お金もない、長く続けることができるその土地にしかない固有のもの。参考になったのは四国八十八箇所巡りや、金毘羅さんの千段の階段、わざわざ山の上まで登る醍醐寺上醍醐など、おもてなしと身体全体を使った旅のことでした。そのままの土地の生活、そこを巡る身体いっぱい五感全開の旅と、すべてを受け入れたどんづまりのホスピタリティ。これをかたちにするしかない」(ibid.,p108-109)   

「芸術祭は、田舎で行われる、現代アートが中心の、お祭りでありたい。これが当初からの主軸です。しかし国際社会のなかでの、日本の政治的、経済的な迷走、凋落のなかで、どうやって田舎の人口減をストップし、農業を中心としたものづくりをし、生産力の低下という課題に対応するか?という根本的な問題があります。それらを解決するための旗、3年に1回の里程標として芸術祭を考えてきました」(ibid.,p119)。

「ほとんどのアーティストは日本(国家)が決めている模範や流行を消化するのにせいいっぱいなだけです。また凡百のアーティストは創造的なわけではありません。よく言ってみても修行中なのです」(ibid.,p151)。「しかし志ある人はどんな組織にもいるはずで、私たちは正攻法で、将来のヴィジョンを示し続け、理解できる活動をし続けなければならないと思います。それら政治の問題はともかく、知識人と呼ばれる人たちが、権力とマスコミの刹那的なこと、つながれば何でもよいこと、効率のよいこと、異質者の排除に向かっていることが問題なのです。それを戒めながらチームをつくっていかねばなりません」(ibid.,p162)。

「瀬戸内国際芸術祭は、2010年7月19日の海の日から10月31日までの105日間、直島・豊島・女木島・男木島・小豆島・犬島・大島の七つの島と高松を舞台に繰り広げられた。来場者は97万人にのぼった。世界中(18カ国・地域)から75のアーティスト・プロジェクトが集い、島に入り、作品をつくった。また16のイベントを行い、来場者を楽しませた。ボランティアサポーターの「こえび隊」には約2600名の登録があった」(北川2011、p110-111)。

「当時こへび隊のメンバーは100人強、初めての越後妻有に期待を膨らませていた都会の若者たちは、門前払いをされたり、胸ぐらをつかまれたりと、現地住民の冷たい反応に大変なショックを受け、泣きながら帰ってくる人もいたという」「「異質なものをぶつける。北川や渡辺がやってもダメ。最初は住民は全然動かない。だが、、若者、しかも都会の何も知らない若者を前面に出すとものが動き出した。結局は、人間の好奇心だと思う」(金晴姫2011,p201-205)。

「雇用面に関してはどうだろうか。越後妻有では現在、さまざまな形で通年100人ほどを採用している。芸術祭開催の年には400人ほどの雇用が生まれる。地元の住民は、作品の管理や説明など。自分たちの生活を表現してそれが収入になる。一方、瀬戸内では、緊急雇用創出基金実行委員会の直接雇用で県が272人、高松市、土庄町、直島町があわせて33人を雇用したほか、開催期間中に実行委員会の直接雇用で5人、BASNなどの関係団体で51人を雇用し、全体で400人弱となった」(金ibid.,p212)。

「1992年、現代アートのためのベネッセハウスによるミュージアムが開館する。安藤忠雄氏の設計による美術館で、ホテルを併設した「宿泊できる美術館」である。これ以降。現代アート作家の作品が屋外に展示されるなど、自然とアートを融合させる計画が進んでいく」(鎌田2011、p241-242)。「「現代アートによる地域づくり」が及ぼした直島の変化として、民宿などの宿泊施設やカフェをはじめとする飲食店が増えていることもある(直島町インタビュー調査)。筆者も約1年の間に数回訪問したが、そのたびに、カフェなどの飲食店が増えたことを実感した」(鎌田ibid.,p249-250)