Stolog

メモ

Richard A.Etlin, Frank Lloyd Wright and Le Corbusier, The romantic legacy, Manchester University Press, 1994

f:id:madhut:20180220210050j:plain

 

リチャード・A.エトリンのフランク・ロイド・ライトル・コルビュジエ論にも目を通しておく。エトリンの書は以前、ジュゼッペ・テラーニ論を書く際にそのイタリア近代建築史を引用させてもらった。序文によればプリンストン大学でのフランス啓蒙主義建築についての学位論文執筆後、イタリア近代建築の同書と本書をほぼ同時期に行きつ戻りつ執筆した、とある。

大雑把に述べて1820年頃から第二次世界大戦(1940年頃)までを一つの時代(それがいわばロマン主義モダニズム期)と捉えて見ていくものと述べてよく、1820年頃に一つの時代の嚆矢を見るという点では同時代あたりのソーマトロープに近代的視覚性の嚆矢を見たジョナサン・クレーリー(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20090927)を思い出させなくもない。これも大雑把に述べて、この時代の始まりに位置しているのがキャトルメール・ド=クワンシーとウジェーヌ・ヴィオレ­=ル=デュクであり、そしてこの時代の終わりに位置しているのがフランク・ロイド・ライトル・コルビュジエであった、とこれもそう述べうるだろうか。

少なくともニコラウス・ペヴスナー以降、19世紀は様式建築の時代、それも考古学的科学的様式主義の時代(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/nikolaus-pevsne.html)であると見做され、あるいはエクレクティシズムの時代と見做されてきたが、これら諸様式のなかにあって二つの大様式となっていくもの、あるいは二つの主義となっていくものがあり、つまりそれがゴシック主義と古典主義であり、そしてその大きな要因としてあったものが「建築的体系」なのであったと言う。言い換えるならゴシック主義と古典主義は単なる様式ではなくそれぞれ別個の内在的体系をもった「建築的体系」なのであり、こうした考えは1820年頃にド=クワンシーとヴィオレらによってじょじょに始まり、ライトやル・コルビュジエによってその完成を見たのである、とこれもそう述べうるであろうか。

全体は1・建築的体系、2・ピクチャレスク、3・エクレクティシズムと近代建築、4・時代精神の四章からなり、大きな頁が割かれているのは1章と2章である。

論点を大雑把に述べると、ピクチャレスクはその非・対称性、不規則性から、プログラムの非・対称的配置、配置計画に影響を与え(distributionやマスの配置であるponderation他)、またロマン主義的ヘレニズムという古代ギリシア建築の評価へとこれはさらに続き、つまりゴシック/ロマン主義的であったものが、古典主義のなかへも浸透してその評価のあり方さえ変えていったとされる。

とりわけアクロポリスの地形に沿った配置のあり方、垂直でも直角でもなく微妙な歪みが発見されるにつれ、こうしたあり方は強まっていくという。19世紀初頭ボザールで古典建築といえば古代ローマ建築であり、1829年にアンリ・ラブルーストが古代ギリシアの復元図を提出した時これは猛然と反発され、1845年にいたってロマン主義的ヘレニズムへと変わっていったという。

エクレクティシズムについて。

19世紀初頭のフランスにおいて、エクレクティシズムは建築だけでなく様々な分野で言われたことであり、たとえば哲学の分野では「哲学史を真偽を区別するものとしてではなく、それぞれの哲学体系をそれ自身において肯定し、ただし他の哲学体系の視点から見ると不完全なものと見做す」ものとして唱えられていたという(151頁)。

ここから逆に「普遍的なもの」が反照される。とともに建築においてはそれはまた当時の世界化の過程とも不可分のものであったはずである。「『建築講話』のヴィオレ・ル=デュクは近代的な世界旅行の利点を歓迎し、それによって建築の第一原理を説明するための普遍的建築を組織する事を主題とする書を書いたのである。これはまたヴィオレが「エクレクティックな手つき」と名づけた方法に従って束ねられ得る異なる原理を説明できるかもしれないものであった。講話(1862)の第一巻で、19世紀の世界に関する文化的知見の拡張によって惹起された挑戦を、彼がいかに受容したかを述べる」(153頁)。

言い換えるなら、エクレクティシズムは当時世界へと拡張していった西洋の知見のなかで取り得た方法であるとともに、そこから世界的に普遍的な原理を見出そうとする根底を提供したものであった、とも言えるであろうか。

時代精神について。

これはウィーン学派の考えともある程度共通するもののように見える。「1820年から1940年にいたる新しい建築の探求はある確信に支配されていた。文化とは、ナショナル・アイデンティティと時代の大意に関係したそれぞれの性格をもっている、という確信である」(165頁)。

さて建築的体系である。この体系は、構法体系、形態(形式)体系、装飾体系からなり、後二者の基本をなしているのが、構法体系であるという。

以下、ル・コルビュジエ関連。

「当時ル・コルビュジエは「純粋で完全な構法システム」を描いていた。これは一つの構造スケルトンに組み立てられる、量産品、標準品、に倣ったものであった。六本の薄い鉄筋コンクリート柱が床を支え、その床はキャンティレヴァー形式で柱部分からわずかにはみ出、という基本構造である」「耐力壁が抹消されて外壁ファサードはまったく開放され、「ドミノ」フレームは使用者にその内部の自由な配置と、自然光と換気をももたらした」「のちの1926年の新建築の五要点で」「ル・コルビュジエフランク・ロイド・ライトのように暗くじめじめしたものは不便であると見ていた」(15頁)。

シカゴ派関連

「ライトのプレーリーハウスはしかし、慣習的建築的体系理解を、ドイツの建築家・理論家ゴットフリート・ゼンパーが説明した象徴的建築的体系に結び付けている。

ヴィオレ=ル=デュクとオーギュスト・ショワジーは建物芸術に根差した建築的体系がいかに豊穣なものになり得るかを示した一方、ゴットフリート・ゼンパーは『建築的体系』において歴史的な様々な文化においてそれが神話的に示唆的であるかを解説した。歴史的建築の背後にある主要な衝動は炉という中心的な焦点のまわりにシェルターを造ることであるとゼンパーは信じていた」「炉とは、ゼンパーは強調する、「最初にして最も重要なものであり、建築の道徳的要素である」、「そのまわりに他の三つの要素が集められる。屋根、囲い、そして基壇である。これらは炉の火を自然界の他の三要素から守り防ぐものである」。ゼンパーは囲いが歴史的に織物から発展してきたことを強調する」

「ライトがシカゴに初めてやって来たとき、ゼンパーの諸理念はこの街の知的関心事の一つであった。ドイツ生まれの建築家フレデリック・ボウマンは機会を捉えてそれらを紹介し、その一部は『インランド・アーキテクツ』に記録されている。この進歩的雑誌は同時にゼンパーの『様式論』を、ジョン・ウェルボーン・ルートとフリッツ・ワーグナーの翻訳で掲載している。シカゴの建築家たちはここで読めたはずである」。

「『インランド・アーキテクツ』でゼンパーの四要素の考えが掲載されて数年後、「シカゴの進歩的な若い建築家の一群(そして多く)は、ゼンパーの象徴的建築的体系の構成要素が「鳳凰殿」という形で目の前に現れたことに心奪われたのだった。これは1893年シカゴ・コロンビア万博において日本の神殿を非宗教的に改変して建設したものであった。この日本建築の基本要素は聖廟であり、これはゼンパーの炉に相当し、さらに基壇があり、非・構造的な襖・障子はゼンパーの網代的な壁に類比的であり、そして拡がり行く屋根が載っていたのである」。「プレーリーハウスの構成要素は、住宅の祭殿のように扱われる暖炉とその煙突、拡がり行く屋根、低い基壇」「そしてこれらの窓はしばしば連続的しており、屋根が壁の上に視覚的に浮いているかのように見せるものであった。そのことによって壁と屋根を分節もしていたのである。

日本建築の例はゼンパーの象徴的建築的体系の教義を単に補強しただけでなく、住宅建築の護られているという心理的感覚をも示していた。これはのちにAIA会長となるアーヴィング・K.パウンドが示したものであり、ジョン・ラスキンの「家」を反映したものでもあった」(27-29頁)。

「最終的にライトは彼が「内臓暖炉(integral fireplace)」と呼ぶものを生み出す。これは大きな煙突を外部に持ち、石造壁にくり貫かれた印象的な開口のことである」(30頁)。

「ラーキン管理棟からユニティ・テンプルからジョンソン管理棟へ、さらにグッゲンハイム美術館へと、大きな内部空間にバルコニーを設ける理由をライトはつねに帰結させる。このバルコニーは外部からは切り離されている。ある意味で彼の公共的な建築を訪れることは、外部世界を遮断し、内部を精神的なもので満たすようまさに強制することである。(全てではないにしても)多くにおいて、陽と水の詩がそこを支配している。住宅建築では詩的想像力は土と火と風に根ざしている一方、公共的な建築は水の領域にある」(61-62頁)。

カウフマン邸は地火風水の結節点にあるというべきか。

とともにゼンパーのシカゴへの到達時期と日本建築の到達時期についても要考察。