Stolog

メモ

Roula Mouroundellis Geraniotis, German Architectural Theory and Practice in Chicago,1850-1900, Winterthur Portfolio, winter 1986 University of Chicago Press

ジェラニオティスの論文その2

 

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メモ

「ドイツ1848/49年の民主化革命失敗後、ドイツ系移民建築家がシカゴに到着し始める。彼らは故国の独裁的政治的風土を嫌った民主主義者か、あるいはこの政治的条件から帰結する機会の欠落に怒っていた若い専門家たちであった。この両者にとって中西部の急成長する都市は約束の地であるように見えた。これに続くシカゴへのドイツ系移民の理由に1870年代のビスマクルの「文化闘争(Kulturkampf)」があり、これはカトリックの排除も含まれ、多くを国外に追い出したのだった。1871年のシカゴ大火はこの都市の大部分を灰燼に帰し、熟練労働力の緊急需要を生み出した。さらに1893年の世界博がある」(p293)。

 

フレデリック・ボウマンはこの第一世代であり、政治亡命者であることが明言され、さらに哲学にも造詣が深く、カント主義者であったことも言われている。引用を続ける。

 

「二年半(王立工業学校で、ベルリン工科大学というサリヴァン自伝での表記は誤りか)勉強し、科学、建築設計、構法の厳格かく完全な教育を受けた。教授陣の多くは大学教授であった。その教育はしかし、1849年の革命への彼の参加によって突如中断される。革命の失敗によりボウマンはドイツを去り、シカゴに直行し、18508月に到着し、すぐにジョン・M.ヴァン・オズデルの事務所で最初の専門建築家として勤務している」「彼はそれからドイツ系の石工職人組合に加入し、またオーギュスト・ウォルバウムの施工会社に入り、1865年まで施工の仕事を続ける」(p294

 

ボウマンの生涯についてはConstruction News41No3January15,1916

ボウマン以外のドイツ系建築家についての記述が続く。

 

「ここまで述べてきたシカゴの建物はすべて18711089日の大火で破壊された」「ドイツ系建築家とその会社はシカゴ再建にあたって、かつてこの街を建設した時と同じほど重要な役割を演じた」(p298)。

「国中に拡がった1873年恐慌はこの年代中続き、大火後のシカゴの再建を著しく遅らせた」(p300)。

「これらドイツ系建築家、この職能では最大の単一民族集団は、この街に高度に熟練し教育のある設計力を提供した」「ここで強調すべきはこれらドイツ人は故国と絶え間なく途絶えることのない知的交流を続けたということであり、これがシカゴの建築の発展に大きな影響を与え、この街の主要な建物の重要な特質の導入を容易にもした。

建築実践は設計や教育だけでなく理論をも伴う。ドイツの影響が頂点に達したのはここであり、その最も大きなチャンネルはボウマンで、その明晰な精神は深い哲学的思考と驚くべき幅広い知識を結び付けていた。

1887年のシカゴでのイリノイ州建築家協会でのシンポジウムで「建物の本質的構造要素をどの程度まで強調する必要があるか」という問いを扱い、ここでボウマンはウィルヘルム・リュプケ、ジョン・ラスキン、それにゴットフリート・ゼンパーという権威を引用しながら詳しく述べている」「私はただ様式、ある様式ではなく、を知るのみである。これはゼンパーが「その生来にいたる主要条件と建物の調和」と述べたものである。(→インランド、1887559-61

実際、シカゴの建築家たちは純粋なアメリカ様式を生み出すことをしばしば議論していた。こうした議論の一つで現代(近代)における建築芸術の本当の基礎となるものと彼が見なしたものを強調し、ゼンパーの様式定義を引用しながらそれを、まずドイツ語で、それから英語で結論した。「様式とは構造とその出自の一致である」」。(→インランド、18873月)

「「建築について」と題した1889年ワシントンD.C.でのAIA大会でのレクチャーでゼンパーの書物に全面的に依拠した詳細な歴史的分析を提供している。彼はゼンパー理論の主要点を強調する。つまり建築の空間的特質は織物芸術に起源があること、建築形態的語彙の様式的起源は、建築創造に先行する装飾芸術や応用芸術に見いだされ得ること、建築構法はつねに四つの要素からなること、つまり中心としての炉、保護する屋根、囲む壁、それに基礎である。それからボウマンは同時代の有機的建築の考えをゼンパーの古代ギリシア神殿の挿絵を用いながら支持する」(p305

「様式論」と名づけられ、1892年のシカゴでのAIA年会で読まれた長いペーパーで、ボウマンは絵画、彫刻、それに建築の様式を時代を通して論じる。彼はまず・・まさにカント的手つきで・・機械芸術の様式と純芸術のものとを区別する」(p305)。

「ゼンパーは重ねて説明する、ゼンパーは様式を絶対のものではなく、結果のものであるとして与えたという定義をである」(p306)。

「おそらく彼の信条と1848/49年の民主革命への積極的な参加は、似たような境遇を共有していたシカゴの多くのドイツ人たち、故国を追い出された彼ら、に共感を与えたことだろう。最も重要な理由は疑いなく、ゼンパーの考えが、19世紀シカゴ建築の傾向に対応していたということであり、型、様式、それに芸術と建築における有機性や機能性という主要問題を与えたということである。ゼンパーの様式定義は与件に出自し与件と調和することを強調しており、これは様式を決まりきった形態装置に代わって技術的・社会的な範疇として様式を定義するものだった。そしてデザインの機能的側面を強調した。これは、かつてない機能的・技術的問題に直面していたシカゴの建築家たちに驚くほど合致したのであった」(p306

「シカゴのドイツ系移民建築家たちはチャンネルとして働き、そこを通して重要なドイツの考えが中西部に到達し得、その文化と建築に影響を与えたのだった」(p306