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メモ

ロバート・レイシー『フォード上、自動車王国を築いた一族』小菅正夫訳、新潮文庫、1989

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メモ

「彼は自分の生い立ちを恥じるたぐいの成功者ではなく、むしろそれを誇りにしていた。一九三五年七月、七十一歳のヘンリーはインタヴューの相手に、真のアメリカはニューヨークやシカゴのような都会では見つからないと語り、「アメリカは、古い村や、小さな町や、農場のなかにこそあるのだ」と語っている」(70頁)。

 

「数ヵ月後、ヘンリーはふたたびデトロイトへ呼ばれた。今回は機械業界に大反響を巻き起こしているエンジン、“だんまりオットー”を見るためだった。この動力装置は蒸気機関ではなく内燃機関の一つで、ニコラウス・アウグスト・オットーとその協力者の一人のゴットフリート・ダイムラーによって開発されたものだった。ヘンリーがこれまでに見たどんなものと比べても。驚くほど軽量コンパクトで、精確だった。それはガソリンを燃料にした新開発の四工程・エンジンで、最初の工程でピストンが混合気をシリンダー内に吸い込み」(79頁)。

 

「一九○○年から一九○八年にかけて五○ニ社を下らぬアメリカの会社が自動車を製造するために設立され、うち三○ニ社が脱落したり、べつの業種に鞍替えをしたりしたが、それでもニ○○社が残った。アメリカの自動車産業が本格化した一九一○年には、国内のあちこちで三○○種近くの異なったメーカーの車が作られ、一九一七年には、多くの企業が振り落とされたり吸収されたりしたにもかかわらず、デトロイトだけでもニ三社の自動車製造会社があり、一三ニ社の部品会社がそれらに部品を供給していた」(128頁)。

 

「一八八○年代に労働争議が頻発したあと、市の経営者たちは労働組合結成の動きに対抗するべく、EAD、すなわち“デトロイト経営者連合”を結成し、スパイや暗殺団を組合に潜入させてストライキをつぶしたり、市の職安に要注意人物のブラックリストを提供したりして、その徹底ぶりで全米に名を知られた。デトロイトの荒っぽい経営者保護政策に惹かれて、一九○四年、労働争議で悩まされていたバローズ加算機社はセントルイスからこの地に拠点を移した。一九○三年、パッカード・モーター社がオハイオを引き払い、デトロイトに工場を移転した理由の一つもオープン・ショップ制であり、ここなら非組合員でも採用できるからだった」(134頁)。

 

「当時、アメリカじゅうの共同経営者たちが似たような意見の食いちがいを示していた。一九世紀を通じて企業家にとっての大きな努力目標はいかにして生産するかという技術的な問題であり、なかでも重要だったのは製造技術の問題であった。しかし、ニ○世紀初頭のはこれらの実用面での問題の多くは解決され、新たな努力目標はいまや大量に生み出されている製品をいかにしてどこへ売るかに移った。適切な顧客を見きわめた上でその層に売り込む能力、すなわちマーケティングが新たな事業成功の鍵であった。

 伝統的に利潤率の高い消費者マーケットは、金持ちで裕福な中産階級であった。しかし、ヘンリー・フォードは、それよりはるかに大きく、潜在的にもっと豊かなマーケットがほかにあると感じていた人々の一人であった」(155頁)。

 

「私は万人向きの車をつくるつもりだ。それは家族で使うのに十分な大きさをもっているが、一人で走らせたり手入れをしたりするのにちょうどよい小ささになるだろう。最高の材料と、最高の人材を用い、最新の技術でできるだけ単純化された設計のもとに作られるだろう。しかし、値段はたいそう安いので、十分な給料をもらっている者ならだれでも買えるものになるだろう。そうなれば、だれもが家族とともに神の知ろしめす広々とした野外で祝福されたときを楽しむことができるのだ。

 

 ヘンリー・フォードの庶民のための車、やがては彼を有名にし、アメリカの顔を変えることになる車は、一九○七年当時としては耳慣れない考えだった。それはヘンリーの人民主義的な本能、上等な暮らしを独占する脂肪太りの金持ちへの反感から出たものであり、機械のよろこびを世の人々と分かち合いたいという寛大で教訓的とも言うべき衝動から生じたものであった」(166-167頁)。

 

「T型がたちまちにして人気を博したのは、それがヘンリー・フォードの意図したとおり、頑丈で、力があり、コスト・パフォーマンスに優れていたからである。じっさいにはまだそれほど易くなかった。値下げが行われたのは、のちに生産台数が増えてからのことである」

「一九○八年にはもっと安い車も出まわっていたが、T型ほど技術の粋を凝らし、革新性と信頼を結びつけているものはなかった。強力な四気筒エンジン、セミオートマティックの遊星歯車変速装置、重い乾電池を無用のものにしたマグネトー、これはいずれも新機軸であり、変速装置や車軸やその他の大部分の機構が軽量の鋼鈑ですっぽりと覆われ、雨や、ほこりや衝撃から守られている点も目新しかった」(178頁)。

 

「T型の部品はいずれも新鮮な工夫が凝らされており、自動車愛好家を興奮させないようなものはほとんどなかったが、それらすべてに共通するテーマは単純さであり、それこそがヘンリー・フォードの自己最高の創造物に対する最大の貢献であった」

「「ニ○○○ドル以下の車でこれ以上のものを提供している車はない」これはT型フォードのうたい文句だが、自動車広告の長く不名誉な歴史のなかで。言われていることが掛け値なしに正しかったのはこのときだけである」(179-180頁)。

 

「一九ニ○年代初め、T型が人気の絶頂にあったころ、シアーズ・ローバックの通信販売カタログには、ボルトや、ネジや、ストラップでT型にとりるけられるようになった五○○○種を下らぬカー用品が掲載されていた」(181-182頁)。

 

「T型は大陸を満たそうと休むことを知らない人々がまさに必要としていたものだった。農民はこぞってそれに夢中になった。この車は非常に変わった緩衝機構をもっており、前後に一つずつ、大きな剥き出しの板バネが横向きにとり付けられていた。これらの板バネは工学技術的にはどこにもあるような荷車のバネと大差なかったが、当時の轍の跡のついた泥や砂利の道には理想的だった」

「T型フォードはそうした条件に合わせて設計されたのであり、横おきのバネと、関節が二つあるかのようなぐにゃぐにゃした車輪でみごとにそれを克服していた。当時の自動車メーカーの多くは剛性一点張りだったが、T型はきわめて柔軟性に富んでいたので、それで線路を斜めに横切れば、車体がたわむのがじっさいに感じられるほどだった。それは牧歌的アメリカの車であり、ニ○世紀の幌馬車だったが、一九ニ○年代までのアメリカは確かにまだ多分に農村社会だったのである」(182-183頁)。

 

第一次世界大戦が終わるまでには、フォード社は北アメリカの、実質的には世界中の、自動車マーケットを支配していたので、地球上の車のほぼ半数はT型だった。一九ニ八年にヘンリーがついにそのラインを停止するまで、T型は一五○○万台以上生産された。それは地球上のいたるところにあふれ、人々の生き方や、考え方を変え、家族旅行や、ピクニックや、恋人同士の逢い引きなどのあり方を変えようとしていた。自動車のもたらした自由はこれまであった結びつきをゆるめ、新しい結びつきを作り出した。アメリカを孤立した植民地の散らばる大陸から一個の広大な近隣社会へと変貌させたのは、ラジオとともに、この多くの人のための車だった」(184頁)。

 

ヘンリー・フォードの初期の車は、今は今世紀初頭に作られた他の車同様、最初から理にかなったコスト節減につながる手順を踏んで組み立てられた。それは一八八○年代から一八九○年代にかけてヘンリーがデトロイトの機械工場で見た秩序ある手順であり、そうやって経費と時間が節約されていたのだ。それはまた一九世紀末にアメリカ全土で経済の飛躍的発展を促していた大量生産方式と同じものでもあった」、「自動車の場合は数人の機械工チームがある特定の工場の静止した架台の上でエンジンを組み立てた。ついでそれらはべつの工場へ送られ、そこでまたべつのチームの手で車軸や車輪をとりつけられ、その工程が終わるとシャシーはふたたび移動させられ、内装工場に向かうという仕組みになっていた。

 この部分的流れ作業にも計算された発展的動きは組み入れられていたが、一貫した流れはなかった。連続した流れ作業にいちばん近かったのは、シカゴの食肉処理場の肉牛の胴体を吊るしたレールで、そこでは通り過ぎていく胴体から作業員たちがつぎつぎと脚や腰肉を切り離していくようになっていた、いわば組立ラインならぬ“分解”ラインである。

 ハイランドパークへ移ったおかげで、ヘンリー・フォードは最初の原理にとりかかるチャンスに恵まれた」、「T型の仕事と並行して新工場の計画がスタートした」(194-195頁)。

 

「幸い彼は自分に負けず劣らず革新に意欲的な建築家を見つけた。ドイツに生まれ、ドイツで教育を受けたラビの息子、アルバート・カーンは、ニ○世紀初めに実用化されはじめたばかりの新しい建築法、コンクリートだけでは脆いので籠状に編んだ鉄筋を入れて補強する鉄筋コンクリート工法、に興味をもっていた。レンガや鉄屑で作るよりそのほうが建築費が安くつき、柔軟性のある建物を作ることができたのである。また、鉄筋コンクリートを用いることによって、建築家は初めて真に広々と開放的な工場空間を作ることができた。しかも、コンクリートは鉄とちがって熱伝導性が悪いので、実質的に耐火構造になるという利点もあった。

 アルバート・カーンがデトロイトで初めて建てた鉄筋コンクリート工場は、一九○五年にパッカード自動車会社のために建てたものだったが、振動や火災の危険性の減少、機械の移動や配置替えが容易な広々としたフロア・スペースなど、鉄筋コンクリートの利点を実証する一方、その広大な窓ガラスのおどろくべき面積で、これまでの工場のすべてをまるで刑務所の作業場のようにも見せていた。これがハイランドパーク工場を建てるやり方だということは明白であり、しかもフォードとカーンは似た者同志だった」(196頁)。

 

「しかし、T型はせっかちだった。それはその性急さを製造工程にも伝染させ、一九○九-一○年の一年間には一万八六六四台、一九一○-一一年には三万四五ニ八台売れた」、

「連続的な流れ作業の考案者を特定の一人に限定することはできない。カーンの柔軟性に富んだ新しい工場が機械や人員の配置替えを容易にした。フォード自身、ゲーラムやウィルズとともに、ほかの車なら八個かそれ以上の部品からなっていたであろう一体式の四気筒シリンダーのような単純化された部品を開発し、流れ作業向きの製品を用意した」、(197-198頁)。

 

「「フォード氏の強みの一つは部品の互換性にあった」と、N型の部品製造を監督したマックス・ウォラーリングは回想している」(199頁)。

「そのカズンズがまぎれもなく夢中になったのは、当時のデトロイトの流行の一つ、テイラー主義科学だった。ストップウォッチとクリップボードによる工場管理に産みの親、フレドリック・“スピーディ”・テイラーは、一八八○年代初期に機械工場の時間と動作の研究をはじめ、一九一一年にその理論をたちまちのうちに当時の経営理論の流行にした本、『科学的管理の基礎知識』、いくぶんユーモアに欠けるが、『パーキンソンの法則』や『ピーターの法則』のはしり、を出版した」(200-201頁)。

 

「時間と動作の研究がデトロイトじゅうの金科玉条となった。しかし、テイラーの“科学”が一人の人間がある仕事をするのに要する時間に焦点を合わせていたのに対し、それを越えたところにフォード・システムの優れたところがあった。機械でもやれる仕事ならどうして人間を使う必要があるのか、というのがフォードの疑問だった」(201頁)。

 

「教訓は明らかだった。数ヶ月を経ずしてハイランドパークは、コンヴェアベルと組立ライン、ダッシュボードや、フロント・アクスル(前部車軸)や、ボディなどの副組立ラインからなる活気に満ちたネットワークとなった。工場全体が目まぐるしく旋回し、大がかりで複雑に入り組んだ、けっして終わることのない機会のバレエを踊っているいるかのようだった。

「工場にあるものは何もかもが動いている」と、ヘンリー・フォードは得意そうに語っている。「それはフックにかかっているかもしれないし、頭上のチェーンに吊るされているかもしれない、移動式の台にのっているかもしれず、自然の重みで落ちていくかもしれない。が、肝心なのは、そこにはもち上げたり、運んだりという動作がないということだ、だれもが何かを動かしたりもち上げたりする必要はない」歩くのはコンヴェアに任せよう。「一万ニ○○○人の従業員の歩く距離を一日一○歩節約すれば、五○マイル分のむだな動きとエネルギーの浪費が省けるのだ」

 フォードの生産量は飛躍的に増大した。一九一一-一九一ニ年のハイランドパークにおけるT型生産高、七万八四四○台は、六八六七人の労働力によって達成された。翌年の生産台数は倍以上になったが、労働力も倍以上に強化された。しかし、一九一三-一四年に生産台数がふたたび倍近くに伸びたときは、この劇的に増えた台数の車を製造するのに要した労働者の数は増えなかった。これは移送式組立ラインが採用された年であり、その効率のよさのおかげで、ハイランドパークの労働者はじつに一万四三三六人から一万ニ八八○人に減少した」(204頁)。

 

ヘンリー・フォードが自社の従業員に対し、とくに気前がよかったことは一度もない。けっして守銭奴ではなかったが、世間の相場以上に払ったことは一度もなかった。T型の生産に当たった労働者の賃金は、一九○八年には一日一○時間労働で一ドル九○セントほどだった」(216頁)。

 

「新しい最低五ドル賃金制は一日八時間の労働に対して支払われることになっていたが、この八時間労働はそれまでの九時間ニ交替制をニ四時間ノンストップの八時間三交替制に切り替えることによって達成されていた。おかげでフォード・モーター社は生産を増やし、労働者は労働時間を短縮することができたが、それはあまりにも巧妙すぎてほとんど本当とは信じられないほどだった」(217頁)。

 

「魔法の五ドルという数字は“利益配分”ボーナスを加算することによって達成され、その額は基本給よりもっと大きかったが、それを手に入れるには一定条件を満たさねばならなかった」、「自社の従業員すべてに“清潔で、まじめで、勤勉な生活”を送ってもらいたいというフォードの願望から出たその他もろもろの条件を満たす必要があった」(217頁)。

 

ヘンリー・フォード自身はそれぐらいの賃上げに応じることなどいともたやすいことだった。なぜなら、彼が気づいていて批判者たちが気づいていなかったというのは、連続的な移送式組立ラインによって作り出された大幅な労働コストの節減だったからである」(221頁)。

 

「しかし、高収益、大量生産の産業界の労働者は高賃金を支払われてしかるべきだという原則はアメリカに生き残った。なぜなら、労働運動の指導者、ウォルター・ルーサーが述べたように、“大量消費によって大量生産が可能になる”からである。給料取りは同時に給料を使う人々であり、ヘンリー・フォードケインズよりもニ○年も前に、経済成長の促進剤としての消費を実証したのである。

 日給五ドル制は、企業家が大量生産した商品を誰が買うのかという、ニ○世紀初頭の資本主義のジレンマへの回答だった。答は工場のなかで機械を操って働いている彼ら自身のすぐ目の前にあった。こうして利益は賃金として、のちにはそのほかの手当てとして、しだいに多く支払われるようになり、その派生効果は、生産、消費、交換という単純な経済のメカニズムをはるかに越えた。

 一九一七年のロシア革命はニ○世紀の歴史において新たな活動勢力を生み出したが、その三年前にヘンリー・フォードは労働者が大企業の敵になるとはかぎらないことをハイランドパークで証明したのである。高い賃金を出せば彼らを協力者、共犯者にすることができる、利益配分計画というもっともらしい口実をはるかに越えた正真正銘の高度に統合された資本主義体制の株主にすることができるということを証明したのである」(238頁)。

 

「しばらくのあいだアメリカじゅうがマッスルショーズに夢中になり、第二のカリフォルニアのゴールドラッシュの観を呈した」(367-9頁)。

 

「無名時代のヒトラーはフォードの本を読み、フォードの写真を壁に飾ってその言葉をしばしば霊感として引用した。『わが闘争』の数節でもウィリアム・キャメロンの手になるフォードの言葉を下敷きにしていたと思われる」(379頁)。

 

「T型は経済的で比較的故障が少ないが、飽きがきたのだという。「目先のかわったもの、つまりは変化が欲しいのです」と、オブライエンは報告している」(500頁)。