Michael H.Hodges, Building the Modern World, Albert Kahn in Detroit, A painted Turtle Book, Detroit, Michigan, 2018
全体は11章構成。
メモ
最初の評伝、グラント・ヒルデブラント、『産業デザイン、アルバート・カーンの建築』(1974)
ヒルデブラントはカーン事務所勤務経験あり。
フェデリコ・ブッチの2002年の書。
テリー・スミス『現代を造る、アメリカの産業、芸術、デザイン』(1993)
事務所設立は1896年、カーンにとってもデトロイトにとっても転機、ジンジャーエール工場。
ネトルトン・カーン・トロブリッジ事務所。
1897年にトロブリッジがコーネル建築学科設立のため抜ける。
トロブリッジ+リビングストンのあのトロブリッジか?
その三年後にネトルトンは結核で死亡。p25.
『デトロイト・ニュース・トリビューン』p27
「デトロイト周辺ではカーン兄弟が鉄筋コンクリートを発明したよく聞くが、それは違う。 それは1848年に遡り、1855年パリ万博で展示した漕船の実験をフランス人ジョセフ-ルイス・ランボは始める。フランスは実際この分野で主要な役割を果たす。1924年のアメリカ・コンクリート協会について言えば、19世紀フランス人技師達、モニエ、コイニョ、コンシデレ、エヌビクのパレードにカーンは挨拶したにすぎない」p29
「ジュリウス・カーンが加わるのは1902年、ミシガン大学から土木学学位を授位されチーフエンジニアとして採用される。この野心的青年は既存コンクリート技術に批判的だった。というのもそれらは最悪の場合、壊滅的結果をもたらすからである」
「彼が作った最初のバーは、フレデリック通りの住宅地下においてである」 p31.
1909年『コンクリート鋼構法』
p36、バンハム『コンクリート・アトランティス』でのパッカード10への言及について、+ル・コルビュジエの言及について。
p39、バンハム批判、バンハムがパッカード10について見落としているのは、ネイティヴ・ソイルにおける最初のサインである。
p39、カーンがパッカードの仕事を始めたのは1903年。この年にライトはシカゴにE-Zポリッシュ工場を造る。
p40、フォードもカーンも未来の工場について理想的ヴィジョンを持っていた。光に満ちた空間。フォードの原理は生産性の最大化、そこで人間と機械が近く近接する明るいオープンフロア、カーンは、構造体がその使用者に及ぼす影響の人間的な配慮、という相違。
p40、1922年の『My Life and work』でフォードは、清潔で明るく、換気のよい工場。→要チェック。
p50、ハイランドパーク工場開場(1910)についての記述。
p51、グロピウス、ヴェルクブント関連、1913年
p51、デトロイト・フリープレス
p51、フォード社技師エドワード・グレイの苦情
p64、カーン→サリヴァンへのオマージュについて
p82、ミシガン・アーキテクト+エンジニア
p82、 Jonathan Glancey, Twentieth-Century: The Structure Shaped the Century
p83、スチールフレーム+ガラスの工場は1920年代を通してフォードの工場のテンプレとなる。
p113、Sonia Melnikova-Raich, Industrial Archeology,
p114、ソ連との契約は1929年5月、スターリングラード、ハリコフ、チェリャビンスクの3つのトラクター工場。1930年代後半には三つも戦時生産体制に移行。
p116、カーンとフォード以外にも、GEやインターナショナル・ハーヴェスターがクレムリンと協働。
p118-119、スターリングラードとチェリャビンスクの工場についての記述。
p129、リヴェラによる壁画。
p157、グロピウス、ル・コルビュジエとの関連
p162、デイヴィッド・ガートマンのミースについての記述の引用。鋼フレームを露出しながら、接合部分は隠した。
p163、カーンとボザール。シカゴのバーナムやNYのMMWのボザール・リヴァイヴァルにを評価していた。
P177,カーンはポール・フィリップ・クレをデトロイト芸術大学に推薦。
P178、カーンの死にソ連からの電報、ヴィクトール・ヴェスニンによる。*