Stolog

メモ

アンドリュー・ハートマン『マルクス・イン・アメリカ』桑原公敏訳、新日本出版社、2026

1

メモ

マルクスは、若い頃にテキサスという遠い土地への移住を真剣に考えて以来、北アメリカに変わらぬ関心を抱いていた。マルクスの合衆国に対する印象は、ヨーロッパで流行した旅行記、特にトーマス・ハミルトンの『アメリカの人と習慣』(1833)、ギュスターヴ・ボーモンの『マリー、あるいは合衆国における奴隷制度』(1835)、アレクシス・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』(1835-1840)を読んだことで最初に形成された。 p93

 

マルクスもエンゲルスも、他の多くのドイツ人亡命者たちと共に、最終的にはイギリスにたどり着いた。さらに多くの敗北したドイツ革命家たちは合衆国へ移住し、「四八年組」として知られるようになった。

一八四八年革命後の数十年間に、数十万人のドイツ人がアメリカ合衆国に移住した。バリケードで戦ったかどうかにかかわらず、移民のかなりの割合が革命志向の感情を抱いていた。ニューヨーク州選出のトーマス・ホイットニー下院議員は、こうした移民を「赤き共和党員、農業主義者、不信心者」と呼び、「旧世界の不満分子」であり、「ロベスピエールの側に立った者たち」だと憂慮した。ホイットニーのような排外主義者には恐れをいだく理由があった。ほとんどの「四八年組」は、いずれドイツに戻って彼らが開始したことをやり終えるつもりだったが、むしろアメリカでの地殻変動のような出来事に不可欠の存在となった。 p37

 

ホレス・グリーリーが発行する共和党の非公式機関紙「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」は、一八四八年をめぐる社会主義者の見解に特に強い関心を抱いていた。蜂起が始まると、グリーリーは社会主義的傾向を持つ編集者チャールズ・ダナをパリに派遣し、この魅力的な新たな理論的枠組みを通して出来事を解釈できる新たな特派員を探させた。

友人の勧めで、ダナはケルンに向かい、刺激的な「宣言」を執筆した急進派新聞の編集者と面会した。あらゆる報告によれば、ダナとマルクスは短い面会で意気投合した。マルクスの闘争心と知識に感銘を受けたダナは、トリビューンの応酬特派員としての職をマルクスに申し出た。 p43

 

急進派「四八年組」は、南北戦争の西部戦線で、ジョン・C・フレモント将軍の指揮下にある北軍に合流し、彼らの革命プロジェクトに好都合な場を見つけた。 p50

 

アメリカ内戦ほどマルクスを励ましたテーマはなかった。彼が指摘する「現代史上最初の偉大な戦争」の中で、マルクスは求めてきた近代的社会革命を見出した。それは「今までに実現された人民自治の最高の形態」と「歴史の年代記に記録された人間の奴隷化の最もいやらしく最も恥知らずな形態」との対決であった。これは反動から革命への潮流の転換点だった。このような展望は、一八四八年以来の勢いでマルクスを奮い立たせた。 p51

 

奴隷解放宣言後、マルクスはリンカーンを「歴史の記録において類を見ない人物」と評した。 p55

 

 北軍に所属するドイツ共産主義者たちは、南部部隊への進撃中に自分たちを鼓舞するものとしてこの(マルクスからリンカーンへの)書簡を読んだ。 p57

 

『資本論』第一巻でマルクスは、ヨーロッパ人入植者による先住民からの土地強奪を含む本源的な蓄積が資本主義発展の重要な段階だと論じた。・・・マルクスは、土地に固執する人々の大半が資本家の原型をなす者ではなく、土地剝奪こそがプロレタリア化の強力な原動力であることを認識するに至った。 p157

 

Michael Osman “Managerial Aesthetics of Concrete,”Perspecta45, Yale University Press, 2012

1

レイナー・バナムのランサムについての記述を踏まえての論文。バナムが美学的問題を扱っていたとして、本論も美学的問題を扱うが、ただバナムの場合とはまた異なる「経営美学」という美学的問題を扱うことになる。最終章においてそれは、ジャック・ランシエールの『美学の政治学』から引っ張ってきたものであると言われるゆえ、いささか「文学的」という気がしなくもない。

冒頭はヘーゲルのオベリスク言説から。ヘーゲルのオベリスクは地と天を結ぶ柱であり、自然の無垢石から彫り出されたモノリスであることがまず確認される。他方でコンクリートは実験室から出てきた人工物であり、とりわけランサムの場合は各パーツに分割されたものであることが言われる。ここでギーディオンの『フランスの鉄骨、鉄筋コンクリート』( http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/index.html )、とりわけフランソワ・エヌビックについての150ページあたりも言及される。

著者の論点ではエヌビックのRCが柱・梁・スラブの一体構造₌モノリスであり、他方でランサムでは各パーツ(柱、梁、壁)であるが、スラブ打設において一体化されることが指摘される。スラブ打設による一体化が、エヌビック(やオベリスク)のモノリス性に比肩される。「にもかかわらず、モノリスコンクリートフレームの形而上学と米国建設産業のプラグマティズムのあいだの亀裂を、ランサムは導入する」(p71)

部品と工程という視点からランサムではなく、施工者のフランク・ギルブレスの『コンクリートシステム』(1908)や『フィールドシステム』(1908)へと話が移っていく。この時代は工程管理に関心が置かれていたことが分かる。美学という点では「ワークフォーム」である。

さらにフレデリック・テイラースタンフォード・トンプソンの『コンクリートコスツ』(1912)へ。テイラーの『科学的管理法』(1911)もこの視点で読む必要がある。

 

Reframing S.F.Kimball:Historiography, Politics, Authorialty

1

米国の建築史家、シドニー・フィスク・キンボールについての、

2024年9月21日にETHチューリヒ主催で開催されたオンライン会議レジュメ表紙。

 

議題は、

 

キンボールと入植者植民地主義の想像力

バロック様式と善良な人々。第二次世界大戦後のロココ様式のフランスらしさ

キンボールと時代様式の部屋の美学

 

など。

キンボールは大恐慌から戦争期にかけて苦労。

吉田五十八『饒舌抄』中公文庫2016

1

昭和29(1954)年の座談会「日本建築」(岸田日出刀、吉田五十八、堀口捨巳、谷口吉郎)他の確認。

座談会では岸田はおもに意見を求められて発言という感じで「日本建築の泰斗」という感じである。

対象として挙げられるのは、伊勢神宮、法隆寺、桂離宮となっている。

伊勢について岸田は、近世以降に金物が多く使われだして大陸の影響が強まり、戦後さらに金具が使われ(2万個)、金具を減らすなどして初源の姿に戻すべき(それが日本的という含み)と主張。このあたりは岸田らしい。

堀口は伊勢に檜の香り等を長所として挙げる。

 

他の論考で、吉田自身は京都(上方)の洗練と武蔵の野太さを対比させ、自身は京都的ばものに惹かれると論じている。縄文/弥生・論争・前の話。

大坪健二『アルフレッド・バーとニューヨーク近代美術館の誕生 アメリカ二〇世紀美術の一研究』三元社、2012

1

   1932年近代建築展、翌年シカゴ派建築展、その他建築展、マシンエイジ展、戦時中のプロパンガンダからみの展示についてはとくにない。

 バーはプリンストン大学では教師の傾向からアロイス・リーグルの影響を、ハーヴァード大学ではサークルの傾向からジョン・ラスキンの影響を受けている。近代美術をファインアートに限定せず包括的に考える(また系統図の考えも)ことは、リーグルらの“Kunstwollen”から。

角田泰隆『道元「正法眼蔵」を読む』角川ソフィア文庫、2024

1

道元(1200-1253)『正法眼蔵』は大正時代までは曹洞宗の道標。これを近代哲学の観点から再評価したのは京都学派(本書では田辺元ら)とされる。こののち「日本哲学の最高峰」として世界的に評価されていく。そこで着目されたのは「有時」の巻で、存在論として再解釈されたという。「有時」は「存在と時間」なのである。

 

いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。

 

「ある時」ではなく「有時(うじ)」有=時、存在=時間という解釈。

 

あらゆるものは速やかに移り変わっており、「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり、有時なるによりて吾有時なり」。

 

「つらなりながら時時なり」はベルクソン/ドゥルーズ的時間との、「有時なるによりて吾有時なり」はハイデッガーの存在論との親和性を思わせる。

「つらなりながら時時なり」の「時時」、(禅)仏教では「刹那」が時間の最小単位で75分の1秒という。「刹那生滅」は「絶対矛盾的自己同一」でもあるか。

ガヤトリ・C・スピヴァク『ナショナリズムと想像力』鈴木英明訳、青土社2011

1

メモ

「歴史的基盤のない感情的な集団性において、ナショナリズムへの契機は、究極的には、ナショナリズムも反グローバリゼーションも生み出すことはなく、自立を装った服従を生み出すのです」

「「西ベンガルは私の州、インドは私のネイション。」こんな感じです」p30-31

 

「サイードが『オリエンタリズム』において聖ヴィクトルのフーゴー(1096-1141)の言葉を引用していますね。「故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえたものである。だが、全世界を異教と思う者こそ、完璧な人間である」「比較文学が堀り崩そうとするのは、ナショナリズムにもとづく所有、独占、孤立主義的な拡張政策といった考え方なのです」p34

 

ナショナリズムは、記憶を蘇らせることによって構成された集団的想像力の産物です。独占せよ、というナショナリズムの魔法を解くのは、比較文学者の想像力です」p42-43

 

「国家の抽象的で合理的な民主的構造に、文化ナショナリズムという重荷を背負わせないようにすることです」p53

 

「国家と一体化していない純粋なナショナリズムは、私たちが言語を通じて行うこと、ネイションを脱-超越論化すること等の一部でもあるのです」p71

 

 

ガヤトリ・スピヴァク『スピヴァク みずからを語る 家・サバルタン・知識人』大池真知子訳 岩波書店2008

1

メモ

「家やルーツといった問題については、私はまったく考えませんから」「自分が空中に根を張っているってね」「私にとっては、どこでも家にいるようにくつろげるし、どこでも家のようにはくつろげないのです」p23

 

「英語のホームとベンガル語のゴル、両者は異なると思います」p24

 

「政治が間に合わせのものであるという考えが私の人生に現れたのは、私が影響を受けてきた哲学の流派、すなわち脱構築主義と政治の関係について、きっちりとした説明をつねに求められた時代のことです。その時代は過ぎました」p27

 

「私はディアスポラのインド人ではありません」「ディアスポラという単語は、種をばら撒くという意味です。私が知る限り、この言葉が最初に使われたのは、アレクサンドリアの古写本で、その箇所でエジプトにいるユダヤ人は、悲嘆にくれて言うのです。曰く、自分たちがヘブライ語からもアラム語からもあまりに遠ざかっているために、神の言葉を言われたままの言語で読めないと。そのテキストで、ディアスポラはバツとして見なされています。そして実際その後、ユダヤ人の歴史的ディアスポラ状況が、まさにディアスポラの名で呼ばれるようになりました」p38

 

「キリスト教徒にとって世界中が旅であり、どの国も父の土地ではない。。。それは、友人のエドワード・サイードが引用した言葉」p43-44

 

「コスモポリタンになるのではなく、多くの家を見つけるというものです」p61

 

「まったくのところサバルタン性という問題は、なにも持っていない人々、社会における移動手段を全然持っていない人々という次元で、理解されねばならないのです」p83

 

「ポストナショナリズムの議論がこれほどさかんなさなか、情けないことです。この残忍なナショナリズム、他人の死に快楽を見出すこと、が自分たちの死という衝動で始まるとかね」p99

 

「限定された多文化主義が求められている趨勢に応じて、自分の地域のみに焦点を当てるのはやめましょう。経済的に多様化された汎アジア主義などというもの、「比較アジア主義」などというものを越えて考えましょう」p142

ガヤートリー・スピヴァク「エドワード・サイードについて考える 回想録から」『エドワード・サイード 対話は続く』ホミ・バーバ/W.J.T.ミッチェル編 上村忠男・八木久美子・粟屋利江訳

1

 

「ふしぎなことに、わたしはそのときでさえ、インドの民族主義に心を動かされていなかった。インド民族主義はあまりに尊大すぎるように思われたし、わたしのごく身近な過去の偉大な男女とあまりに結びついていた。それに、市民としてのわたしは、インドの政策に批判的だった」p309

 

「いったんパレスチナ国家が成立したならば、自分は最初の批判者になるだろうと宣言したのだ」p311

 

 

 

G.C.スピヴァク『スピヴァク、日本で語る』鵜飼哲監修、本橋哲也・新田啓子・谷村和子・中井亜佐子訳、みすず書房、2009

1

メモ

「他のアジア」

 

「まず初めに、私の立場を汎「アジア主義から区別しておきたいと思います。私の思考の中には、アジアは一つというような幻想はありません。汎アジア主義の物言いによって偽装された拡張論や政治的競争とも無縁です。むしろ私が考えているのは、複数化されたアジア、私たちがお互いの諸々の差異を尊重するだけでなく、そうした差異をできるかぎり知っている、そうした場所としてのアジアなのです」p125

 

「ホメロスにとってアジアとは、西アナトリアの沼地のことでした。そのちっぽけな土地が私たちの大陸の名前になったと思うとびっくりします。紀元後一世紀には、ローマ帝国の一地方としてのアジアがあります。ペルシャはアジアではありません。インドもアジアではありません。中国もアジアではありません。これらの土地はメルカトル図法が生れた後にアジアの中に入ったのです。しかしそれよりずっと前には、アジアはこのローマの一地方であって、この地域のローマ人居住者たちが、自分たちをアジア人と呼んだ最初の人々でした。それ以前では、西アナトリアではアジアだった可能性のあるヒッタイト語の名詞がいくつかあるようですが、確かではありません。ですが、こうしたものをホメロスはアジアと考えたのです」p132-133

 

「デリダの読解は、ナチズムにおいてもっとも極端な形を取った民族中心主義がヨーロッパの思想の特色であることを明らかにしています。そのような極端な状態は、ハイデガーがそうであったように、ヨーロッパ啓蒙主義のもっとも善き教訓が忘れられたときに可能となる(とデリダは言っている)のです」p133

 

「私がますます実感したのは、ポストコロニアル理論の拡張しつつあるさまざまなヴァージョンは、アジアを「複数化」しなくてはならないということです。単数化して、それが自分のところの地域だけと考えるのではなく、アジアの複数性に対するこの直観が、この本の最後に収めた「私たちのアジア」という論文のなかで示唆されています。皆さんからのご招待によって、日本がある特定のポストコロニアルな歴史の現場であるという私の印象は、確かなものになりました」p137

 

「日本は、もっと早い時点でアジアから離脱している」ように見えます。消失しつつある現在は、こうした仕事の中心的課題であり続けます。

 最後に触れておきたいのは、大陸主義的、地域限定的な思考法がすべてまちがっていることを示してくれる人物、ジェンダー化されたサバルタン、ほとんど、あるいはまったく何も持たない女性のことです。「移動するデヴィ」という章は、ワシントンのスミソニアン博物館で行われたデヴィ女神の展覧会のために依頼された論文ですが、首都的な権力の中心に抗してそこから移動し、この単独でかけがえのない人びと、農村の女性たち、貧窮する未亡人たち、を祝福しています。 

 単独性の問題に焦点を置き続けることは、私にとって重要です。なぜなら単独性は、普遍可能なものだからです。私にとっては、諸々の存在が共有しているのは、反復可能な差異です。私の理解するところでは、このことはスピノザが提案した倫理の普遍性の問題に対する解決法です」p140

 

アントワーヌ・ピコン『建築の物質性』千代章一郎訳、鹿島出版会2025

1

期待して読み始めたら、だんだんあほらしくなった一冊。

学術(理論/歴史)というよりプロパガンダの書。おそらく著者もそのつもりで書いたのだろう。

「物質」と「物質性」は異なる。「視覚」と「視覚性」が異なるように、著者のその仮説はそうだろうと首肯する。したがって物質性は時代や文化によって異なるはずである。このことが歴史的に検証されるというより、近年の「大いなる誤読」を含めた雑多な言説等がひとまとめにされ、いわばラベリングされていく。

だんだんあほらしくなっていく。

また訳について。tectonic(s)を「架構術」と頓珍漢に訳してみせたり、ケネス・フランプトンの『テクトニック・カルチャー』は訳出されているのに無視してみたりと、悪質(陰湿)である。そういえばこの訳者は別の訳書では、第一次世界大戦のドイツ軍を「ナチス」と和訳する迷訳者だった。

それにしても大学の劣化具合は。

United Shoe Machinery Company, HANDBOOK OF SHOE FACTORYE NCINEERING, BOSTON, 1916

1

全体構成は 1、理想的靴工場 建物、2、理想的靴工場 動力と採光、の2章構成

 

メモ

「序文

 

屋内生産操業の素晴らしい経済性や効率性の増大はとりわけ、この産業の要求に合致した設計により得られる。光、熱、動力、設備と室内組織と関連したこれら重要要素の現代的発展に最大限配慮することによってであり、これは靴工場にはごく最近になって注目を集めた。

 過去15年での靴産業急速な成長はしかし、靴製造者にこの重要分野への検討機会をほとんど与えなかった。より大きな空間への要求は、古い工場の増築という常態で満足されていた。しかしながらますます多くの事例においてこの便宜策は論理的な限界に達し、工場関係者は建物の問題に直面することになった。

 この産業の発展傾向を先回りし、関連部門の専門家は当初よりその開発のあらゆる段階に密接に関わっており、最新鋭の工場の多くに関する計画は彼らによって作成されてきた」 p5

 

「理想的靴工場

 

建物

 

(中略)

 

理想的建物は以下の計画に準拠する。

  • 形: 長方形
  • 長さ:40から50フィート内法
  • 階数:地上3階地階、

最上階:裁断と修正

2階:象りと制作

地上階:仕上げ、包装、箱詰

地階: 在庫調整、ソール裁断、裁断と保管

  • 階高:9フィート6インチ(最小)、11フィート6インチ(理想)
  • 床荷重:150パウンズ/1フット×1フット
  • 塔状部分:300から400フィートに1箇所、片側の中心に位置し、40フィート書ける0フィート

その機能は、EV、階段、トイレ、コートルーム他

  • 窓:可能な限り多く、のこぎり型屋根
  • 素材:地域による
  • 予算:コンクリート25ドル/1スクエアフット、煉瓦1ドル(150パウンズ)/スクエアフット、木0.75-0.9ドル(150パウンズ)/スクエアフット
  • 靴一足に必要な面積

ウェルツ 15スクエアフット、ターンズ 15スクエアフット、マッケイ 10-12スクエアフット、

標準的なネジ・ペグ式 10-12スクエアフット、 スティッチダウン式 8-10スクエアフット

  • 事務所: 位置は別棟または建物端部の1階
  • 従業員福祉: 休憩室、食堂、娯楽室、医務室他
  • 材料保管庫:別棟、仕上や原素材の小さな保管庫は工場内
  • 加湿室:ソール革、ワックス、糸、コンター他に重要な条件、室の大きさは条件次第

 

靴工場を検討するにあたり、第一の問題は「その形はどうあるべきか?」である。

形と大きさ

「何が最善か」長い経験から導かれるのは長方形の建物で、40-50フィートの幅、長さは最長1000フィート、これが最善である。」  p6-8

 

p8には

エンディコット・ジョンソン社の「スカウト工場」ジョンソン氏(NY)の写真。

「その長さと幅、設計の簡潔さ、鋼のスーパーストラクチャと煉瓦の充填壁、集塵システムの点から興味深い。

 

「工場を設計する場合、可能な限り窓面積を大きくする。可能な限り採光することに異を唱える者はいない。屋根は鋸型すべきで、北側から建物中央部に端部と同様の採光を与えるためである」

                                           p11

 

「靴工場建設には三つの選択肢がある。コンクリートは耐火性能に優れ、維持費が安く、保険料も抑えられる。ただし初期の建設費はかかる。他の素材より多くの採光窓をとることができる。

小梁と大梁を併用した煉瓦造は、コンクリートに比し、二番目の選択肢。

木造は最後の選択肢。コンクリートの2/3のコストで済む。ただし保険料が高く、たえず修繕せねばならない。

工場の立地は、これら三つのうちどれを採用するのが最も望ましいかの判断に影響する。

この国のどの地方に位置するかによって、素材の値段は大きく異なる。

大きな工場の事務室は可能であれば、騒音を避け、工場に余地を残しておくために、別棟にすべきである」p11-12

 

「従業員の福祉

都市部の工場であれば、最上階の一部がおそらく最善である。そこが最も採光と換気に優れているからである。田舎ではおそらく適切に配置された地下がより好ましい」p13

 

「動力と採光

 

中略

 

採光・照明

 

一般光:適切な電力照明とシェードを9フィート以上の高さに。

個別光:条件による」

p17-18

 

引用できそうな図版多し。

 

 

 

増田泰良+西澤英和+藤岡洋保「日本における鉄筋コンクリート造の導入および算定理論の受容仮定に見られる特徴について」日本建築学会計画系論文集73-634、2008年12月

1

堀のほかに、田村浩一、近藤時夫の著書。『コンクリートの歴史』山海堂1984

「鉄筋コンクリート」の用語に統一されたのは1915年。

中立軸距離、応力、張力、圧力、断面積の記号は、建築では英米系、土木ではドイツ系の記号が使われた。

大正期までに『建築雑誌』上に掲載された鉄筋コンクリート構造に関する洋書の書評9冊は、英米由来。

→佐野利器「鉄筋コンクリートに関する英米著書略表」『建築雑誌』1909年3月

 

「以上のように、鉄筋コンクリート構造の梁算定理論に関しては、日本へと導入される段階では既に後の標準理論も含めた各種の算定式が存在していた。日本の技術者はそのどの仮定が妥当であるかを判定し、採用する算定法を定めることが当時の課題であった。また、導入期の鉄筋コンクリート算定理論が多様であったのは、当時は欧米においてさえ、実験的研究が不十分で、その挙動に不明な点が多く残っていたためと考えられる」p2776

 

「鉄筋コンクリート構造の標準化は、1920年(隊商年)の市街地建築物法施行規則を経て、1933年(昭和8年)の建築学会による鉄筋コンクリート計算標準によってほぼ完成したとされる」p2777

村松貞次郎『鉄筋コンクリート構造の歴史(第2回』RC建築の発達、『コンクリートジャーナル』611、1968

1

「建築空間をキャスト(cast、鋳造)によって形成する伝統のまったく無かった日本の建築と、ヨーロッパのそれとの本質的な空間形成の理念の違いが、このコンクリート構造の伝統の有無に大きく支配されていることは見落とすことのできないものであろう」p38

 

「とにかく1850年代以降は、従来の人工・天然の両セメントを凌いで、圧倒的な普及を誇るようになった。1851年のロンドンにおける第一回万博で、その声価が確立したともいわれる。1872年には焼成用のトンネル窯が、さらに1877年には回転窯(ロータリー・キルン)の英国特許がとられて、セメント工業は近代産業として確立したのである」p39

 

「RC造の本格的当所が始まる。19世紀のちょうど半ばの時点である。一般にはフランス人の園芸家ジョセフ・モニエ(1823-1906)が1867年に獲得した特許をもってRCの発明とすることが多いが、RCは必ずしも特定の個人の発明になるものではない」p39

 

「パリ万博でもっとも華々しく人目をひいて登場したのが、やはりフランス人のフランソア・アンヌビックである。彼は1892年に繁筋、曲上筋を用いたT型ばりで、はりと版とを一体的につくることを考案して特許を得たが、さらにそれを発展させて1898年ころまでには柱・はり・床・壁すべてをRCで造る、ほとんど完全な体系を完成していた。1898年シャンゼリゼーに二つの常設展示場の建設が始められた。プチ・パレとグラン・パレであり、1900年のパリ万国博に備えたものである。アンヌビックはこの二つの建物に、何の支えもない優雅で軽やかなRCの階段を設けて、人々の喝采を浴びた。彼はその他にも二、三の展示館の建築の設計と建設を指導し、今日でもRC構造の主要構法となっている一体構造(アンヌビック法)の利点をはっきりと示して、RCの声価の確立に大きな功績があった」p40

 

「もちろんフランス人の他にもRC開発に大きな貢献をした人々がいる。イギリス人のW.B.ウィルキンソンや、1890年異形鉄筋を考察してRCのT型ばりを作ったアメリカ人のランサム、同じくハイアットなど見落とすことのできない存在である。しかしRCの構造がその理論的な体系を整備するのにもとも力があったのは当時のプロシアであった。そしてその源流はモニエの特許にある」p40

「すなわちフランス人モニエの特許は1884年プロシア人のヴァイス(Gustav A. Wayss)に買収され、その応用と理論的研究の拠点がプロシアに築かれたのである」p40

「メルシュはヴァイス+フライターク社のために理論と実際を総合した『Der Eisenbetonbau』1902

という書を著したが、これは初期のRC構造理論のもっとも基本的な文献となった。メランはいわゆる“メラン式配筋法”の創始者として有名であり、エンベルガーは研究者として、また雑誌『Beton und Eisen』の創刊者、さらにこの構造理論の文献中の最高峰と見られた『Handbuch fur Eisenbetonbau』全14巻の編纂者としても知られている。 

 1906年プロシア政府によってドイツ鉄筋コンクリート委員会(Deutscher Ausschuss fur Eisenbeton)が組織され、RCの理論および実際の面において永く世界をリードするようになった。1916年には同委員会によって鉄筋コンクリートの標準仕様および計算法が公表実施され、世界各国の範とされた」p40

 

「RCは当初、古いタイプの建築家たちからは、その灰色の、ノッペリした表面が、果たして建築の芸術の対象となりうるか、といった疑問が寄せられたりして、必ずしもすなおには受け取られなかった」p41

 

「わが国におけるRC構造に対する初期の評価は、まずその耐火性にあったように思える。それは後に述べるように最初期の建築への応用例が倉庫とか書庫、あるいは従来の土蔵造りに代えた百貨店建築に見られることからも推測することができる。そうしてこの構造にむしろ耐震建築としての最初の決定的な評価を下したのが、日本の耐震建築構造理論の生みの親とされている佐野利器(1880-1956)である。彼がRC構造の耐震性を“発見”したのは1906念(明治39年)のサンフランシスコの大震火災の現地調査に赴いて、そこに遺っていたRC建築を見たときと思われる。彼は当時の『建築雑誌』に寄稿して”鉄筋コンクリートなるものは、余の耐震的理想に全く合致する構造である”と感激を述べている。ヨーロッパにおけるRC造構造の初期の評価は、耐震性はもちろん耐火性も(防火床構造のような部分的なものを除いて)それほど強くは意識されていなかった。むしろ石やレンガの組積構造に代わるプラスチックな造形の可能性や、その施工の合理性に重点がおかれていたように思える。そうして真剣にその芸術性を云々したのである」p43

瀧口修造 『近代芸術』美術出版社1962

1

メモ

「結局、画面は全く別個なリアリテの仮構にすぎないものである。立体派の画家は、カルル・アインシュタインの言葉によれば、「抽斗しをあけるように物体をあけた」のであった。

 タブローの表面は、たんなる現実の視覚的重複物としてでなく、自律的な重要さをもってきた。彼らはヴォリュームを表わすのに、異なった諸部分の同時的対比をもってし、「面の透明性」といわれる面の重複や分割の方法によったのである。また瞬間的な運動についても、運動の第一諸要素を対比的に圧縮することによって、静的な同時性に変形された、つまり彼らは運動をも、いろいろな形態の面に分割したのである」p27

「機械形態の正確さと純粋さを絵画に具現すべきであり、しかもそのモチーフはヨーロッパのいかなる階級の人間にも理解される具体物から取るべきであると主張し、機械の持つ線の清潔さ、スーラをもっと純粋にした色彩の組織的単純性、また立体派の方法を思わせる面の透明性などがその絵画の特徴である。」p57