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アリストテレス『形而上学(上)、(下)』出隆訳、岩波書店、1959、1961年、『詩学』岩波書店、1997年

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前者は今日「自然科学」と呼ばれるものについての考察と大雑把に言える。本論はさておき、はじめの方で「棟梁術」となっているのはおそらくアルキテクトニケ・テクネのことではないかと思われ、アルケーとかテロスとかそれほど深い意味で考察しなくともこれは「棟梁」や「棟梁術」との関係で考えていておいてもよいのであろう。ところがなかほどまで読み進めてくると今度は「建築家」という言葉が登場してくる。この「建築家」という言葉ははじめの方で出てきた「棟梁」と同じ言葉なのか異なる言葉なのか、個人的にはおそらく同じ言葉をうっかり異なる訳語で訳出したのではないかと推測する。

いずれにせよ「建築家」は「教養人」として出てくる。

そしていずれにせよ、西洋における「建築家」の意味合いが異なってくるのはルネサンス以降のことであり、とりわけアルベルティの“creative thinker”(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20080819)以降のことと見てよいと思われる。

さて『詩学』について。

詩、詩作はポイエンインつまり創作であると一般的に理解されているふしがあるかもしれないが、詩学において最も重要なものは実は構成であると読める。この点でもあらためてセルゲイ・エイゼンシュタインの『モンタージュ論』が本書を参照し、そのエイゼンシュタインモンタージュの理論通りに制作した映画が『戦艦ポチョムキン』であり、つまりはアリストテレスの本書『詩学』を基本に据えたものであったということが思い出される。エイゼンシュテインが同作において踏襲したものは五幕の悲劇形式であったが、その悲劇形式は本書においては教養ある観客を対象とした叙事詩に対し、低俗な観客を対象としたものであったと述べられている。裏を返して述べるなら、エイゼンシュテインは映画という当時の新しいメディアを、それが対象とする観客をも含めて古典のセオリー通りに用いて制作したということである。