Stolog

メモ

Michael G. Smith, Designing Detroit, Wirt Roland and the Rise of Modern American Architecture, Wayne University Press, Detroit MI, 2017

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アルバート・カーンのチーフデザイナーだったワート・ローランドについての評伝。序章と第一章「ディーンに働く」。

 

メモ

自動車産業の劇的発展により、デトロイトの人口は1900年の約30万人から1930年には160万人へと爆発した」p3

「1900年から1930年までのあいだのミシガンの眼を見張る経済成長は州の銀行資源を逼迫させたが、これら産業の成長はローランドに僥倖を与えた」p4

「ローランドは1901年にデトロイトにやってきた」p11

「ホテル・ポンチャトレインとタラ・ホテルは革命的建築技術、鉄筋コンクリートの見本である。19世紀後半エレベータの発明は高層建物の実現を可能にしたが、当時の建設法は高層構造物に適していなかった」p12

p14、工事中のヴィントンビルの写真1917. Cyclopedia of Architecture, Carpentry, and Building, American Technical Society, volume4)

1880年代に耐力壁に勝る鋼と鉄の剛接合内臓フレームが可能になったが、すぐさま鉄は熱に弱く、崩壊にいたることが明らかになった。耐火被覆のテラコッタで全てを覆うことはコストのかかるプロセスである。

1890年頃回転炉の導入がポルトランドセメントのコストを劇的に下げ、コストのかかる鋼の代わりにコンクリートの大量使用を刺激した」p15

「これらシステムは概して成功したが少し外れた設計を行うと劇的な失敗を招いた。ジャクソンの4階建オツエゴ・ホテルは1902年建設中に崩壊、一人が死亡、二人が重傷を負った。1904年にはバトルクリークで竣工間近のブースバッソビルで五階床が崩落し下部の床ともども崩壊させる事故が起きた。

メーソンとカーンはこの技術が持つ莫大な潜在力を認識しており、1902年に竣工したパームズアパートメントの床にこれを使用し、1903年ミシガン大学工学部棟にも用いた。カーンはしかし、「あまり分からないシステム」を用いるリスクに気付いており、コンクリートの建物を扱う会社は米国に数社しかなく、パームズアパートの床を施工したのはコンクリートの舗道を施工する会社だった。

木や鉄の小梁は最大耐力を超えて荷重がかかるとその中心が曲がったりひび割れたりするが、コンクリートは予期しない形で粉砕される。内部に鋼の補強材を入れれば強くなり得るが、その体系的方法はまだ発見されておらず、この素材の最大耐力を正確さをもって計算することは困難だった」p16

木や鋼の梁とコンクリートの崩壊モードは異なっており、これを木や鋼の梁の崩壊モードに近づけ、計算可能な方法がカーンシステムにおいて模索されたと見るべきか。

アルバート・カーンの兄弟モリツは説明する。「梁の耐力を計算するにあたり」「均一な荷重では曲げモーメントは中央で最大となり、ここを梁が崩壊する点であると仮定する。実際の崩壊試験では他の点で崩壊することを見出した。当初の仮定は誤りであり、その後の計算はすべて無駄に帰した」p16、ここでの引用はMoritz Kahn, “A Reinforced Concrete System with Rigid Shears,” Concrete and Constructional Engineering 1, no.1(March 1906):69

「この問題はもう一人の兄弟ジュリウスによって解決される」「カーンシステムは」「コンクリート部材に45度に設置された鋼部材により、その結果、鋼が引張材として、コンクリートが圧縮材として、一体的にトラスとして機能するものである」p16.

コンクリート部材の崩壊過程は、木材や鋼の崩壊過程と異なっており、それゆえコンクリート部材をトラスとして計算可能なものとするため、45度の鋼材バーをコンクリートに仕込むシステムがカーンシステムと言える。ここでもジェニーと同じく、橋梁工学への還元が隠然とある。

「鉄筋コンクリート構造の好ましい方法としてカーンシステムはますます採用されていった。その結果、鉄筋コンクリートは伝統的耐力壁や耐火被覆が必要な鋼構造にとって代わっていった。このことが最もはっきりしてたのはデトロイトにおいてだった。1906年の『セメント時代(Cement Age)』はこう記す。「鉄筋コンクリート構造はデトロイトに莫大なセメント需要をもたらし、ミシガンの多くの工場はこの能力を最大限に発揮し、それでも注文を捌き切れないほどだった」→Cement Age

Moritz Kahn, Concrete and Constructional Engineering 1906

 

RC造普及は火災時の死亡率の低さで、それはホテルから始まっていること。

「ホテル広告の主要な点は「耐火」を謳ったこと。ホテル火災はよく起こり、旅行者にとって重要な点であった。都市のホテルの大火災は死傷者が多く、小さなホテルの火災も犠牲者を加えた。ミシガン州では1903年メノミエのトラヴェラーズ・ホームの火災では、一人が死亡、三人が火傷を追った。翌年のランシングのブライアン・ホテルは「火口のように燃え」、少なくとも四人が死亡し、さらに四人が火傷または重傷を追った。さらに翌年、ビッグラピッズのパシフィックホテルは「更地になるまで燃え」、その結果死者一名を出した。鉄筋コンクリート構造は真に「耐火」でなくとも、石やレンガや木や鉄より耐火性がある。この理由だけでも鉄筋コンクリート造は一般的となり、ホテルや学校や劇場や工場や公共建築の選択の方法となった」p19

デトロイト火災については、Detroit Free Press, December29,1905  Detroit Free Pressは要チェック。

火災死亡率については1905年には10万人につき8.3人が2005年には1.1人となるという統計上の資料を用いて説得。p423