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David van Zanten, Photographs by Cervin Robinson, Sullivan`s City, The Meaning of Ornament For Louis Sullivan, W.W.Norton and Company, New York and London, 2000

 

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 デイヴィッド・ヴァン・ザンテンのルイス・ヘンリー・サリヴァン論にも目を通しておく。謝辞の冒頭にはジョルジュ・ディディ=ユベルマンの名前が見える。

 大雑把に述べて全体の構成はサリヴァンが活動した時代のシカゴを三つの時代に分け、それぞれにおけるサリヴァンの建築でのマス、技術、建築的構成、プラン、そして装飾の関係の変化を見ていくものと述べ得る。

 サリヴァンの建築で刮目すべきものの一つは装飾であり、そしてサリヴァンの装飾とヴィクトール=マリー=シャルル・ルプリチ­=ロベールが『花装飾』において示す装飾の親近性は、一瞥してうすうす感ぜられるものではあろう。本書冒頭ではサリヴァンのパリ留学時代の下宿がルプリチ=ロベールが授業を行っていた校舎と同じ通りにあったことが述べられているが、サリヴァンがルプリチ=ロベールの授業を聴講した可能性が実際にあったかどうかはともかく、おそらくルプリチ=ロベールの装飾論については認識していた可能性は高いのであろう。冒頭ではまたマッキム・ミード・アンド・ホワイトの装飾とサリヴァンの装飾の相違について述べられ、本書後ろの方では今度は、サリヴァンアラベスク状装飾とオーウェンジョーンズが『装飾の文法』において示す装飾との相違が述べられているが、これらは明快であるとともに実は込み入っているようにも見える。

 マッキム・・の装飾は歴史実証主義的あるいはエクレクティシズムの装飾であるのに対し、サリヴァンの装飾は芸術家としてのvirtueを表現するものであるという整理。面白いのはマッキムもサリヴァンもボザール留学組であることであり、前者は単純に歴史主義あるいはエクレクティシズムであるのに対し、後者はこれとはまた異なるものとしてあるということである。ルプリチ=ロベールもそうだが、彼の師であったヴィオレ=ル=デュクも一時期ボザールで講義しており、19世紀建築史における相違は単純にポリテクニークとボザールあったというだけでなく、ボザール内部にもあったと言うべきであろうか。面白いのはジェニーもヴィオレ・・に言及しており、米語版のヴィオレの翻訳者はヘーゲルの米語版翻訳者に近かったということである。さらにサリヴァン1893年博の交通館の設計に際して述べたこと、つまり「サリヴァン1893年11月11日のダニエル・バーナムへの書簡で彼の意図を直接的に自身で表明している。「交通館でわれわれが表現したい考えはこうである。「建築的展示」」。これに続いて十の純粋に形態上の特質を述べていく。1、歴史的ではなく、ナチュラルな展示であること。2、精妙な装飾を持った基本的なマスによって表現されること。3、全ての建築的マスとそれに従属するマスは、直線または半円によって、あるいはこの両者の結合体によって連携されること。これは効果的に装飾されたとき、きわめてシンプルな要素としての可能性を描き出す。。。」(54頁)、はいろいろと示唆的である。

 まず歴史主義を否定するにあたって「ナチュラル」に(建築を)展示すること、という考え。サリヴァンが「ナチュラル」とか「オーガニック」という言葉を用いるとき、これはハーバート・スペンサーから来ている可能性が高い、とこれはソールベリーが示唆したことである。19世紀プロト・モダニズムの成立において、ヘーゲルやスペンサーが思想的契機として機能したと言えるかもしれなかろう。岡倉覚三は、フェノロサヘーゲル主義者でスペンサー主義者であったと述べていたが、当時の米国の知識層ではこれは一般的であったのかもしれない。

 2と3は、実はボザールの手法でもある。「建物を特徴的なヴォリュームの列として表現する方法を、彼はまずMITでそして次にエコール・デ・ボザールのヴォードレメールのアトリエで習得したのかもしれない」(97頁)であり、「アーネスト・フラッグが1892年のニューヨーク・タイルデン図書館計画において最も印象的に示したラディカル・ボザールの「構成主義(compositionism)」に、ドラムンドのデザインは比肩できるかもしれない」(85頁)といった記述で述べられるマスの配列法、これは同じくボザール留学組であったリチャードソンの建築の重要な特質であること、などである。そもそもマッキムらはリチャードソン事務所出身でもあった。著者はここでこの手法を「ラディカル・ボザール」と呼んでいるのである(あるいはこれは一般的な語用なのか)。

 晩年のサリヴァンの装飾とプランの関係についての記述。「プランと装飾のこの並行関係を理解するにあたって重要なことは、サリヴァンのものはたとえばオーウェンジョーンズが1856年の『装飾の文法』(1910年まで版を重ねた)で述べるような通常の装飾の考えではないということである。ジョーンズにとって装飾は本質的に連続的パターンであり、そのモティーフは目が建築の表面を滑っていくためのものである」「サリヴァンの装飾はこのモデルに従わず、むしろアラベスクのもの、動き、捻じれる線であり、これは変容し、闘争し、それが伸びていくにつれ渦巻くものであり、音楽理論家のエドワード・ハンスリックが音楽経験の本質的トポスとして選んだモデルのものと同じいうことである」(119頁)。

 サリヴァンにとっての大きな転機は、1894年のライトとの別離、続く95年のアドラーとの別離であったとも述べられる。「ライトとアドラーとの別離後、1890年代後半、二つのことがサリヴァンの作品には起こる。まず、ウェインライト=ギャランティ・モデルをより美しく装飾していくという反復であり、これはニューヨークのベイヤール・ビル、シカゴのゲージ・ビル、カーソンピリースコット百貨店に見られる。第二に、カーソンピリースコットを例外とすれば、これらの計画は空間と技術とそれに装飾の複合問題から徐々に遠ざかっていることである」「サリヴァンの装飾が美学的に固まっていくにつれ、広い意味での複合問題は、衰えていくのである」(67-68頁)。

 サリヴァンがライトと協働したのは1888-1893年の5年間、しかしこのあいだにはジ・オーディトリアムというシカゴ建築の金字塔の設計と竣工があろう。

 この問題はサリヴァン個人の問題だけでなく、サリヴァンがファーネスの事務所を追われた1873年恐慌と時代の大きな節目となった1893年恐慌のあいだの好景気、とりわけバブル景気、ちょうど100年後の東京が経験したような当時の世界で最も頂点を極めたであろう不動産バブル経済を、シカゴは経験していたのであろうということにも関連していると思われる。レーニンは「資本主義の再編」にあたって「恐慌」に着目したが、文化現象を見るには「バブル」に(も)着目すべきではないか。