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メモ

デイビッド・J.スタインバーグ『フィリピンの歴史・文化・社会、単一にして多様な国家』堀芳枝、石井正子、辰巳頼子訳、明石書店、2000年、萩野芳夫『フィリピンの社会・歴史・政治制度』明石書店、2002年、鈴木静夫『物語フィリピンの歴史、「盗まれた楽園」と抵抗の500年』中公新書、1997年、石井米雄他『東南アジアの歴史四』弘文堂、1991年、帝国書院編集部『世界の国々1、アジア州1』帝国書院、2014年、小松義男『地球生活記、世界ぐるりと家めぐり』福音館書店、1999年、歴史教育者協議会編『フィリピンと太平

 

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 ざっと目を通す。

 ラテン・アメリカで至る処に記されているスペイン人の残虐非道ぶりはフィリピンでも同じ。ただしフィリピンではスパニヤードだけでなくさらにメキシコ人の傭兵が支配側に加わる。マニラとアカプルコのあいだの「海のシルクロード」ことガレオン貿易を支えたのは中国からの移民で、これもまたラテン・アメリカとは異なる。

 とはいえここではフィリピン史を見るわけではない、ものの、シカゴ派とマニラの因縁のようなものもまた見えなくもない。米西戦争後、米国はフィリピンにおいてウィリアム・タフトによる友愛的融和策とアーサー・マッカーサーによる過酷な軍政をいわばアメと鞭のように使い分けた植民地政策を実行する(これはのちの日本の「内鮮一体」や「三光作戦」のモデルとなったものかもしれない)。そのタフトの融和策の一つが社会資本の充実、言い換えるなら都市計画である。

 タフトはマニラ他の都市計画のためにダニエル・バーナムをマニラに召還している。「マニラ」についてはこちらも(https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/77/681/77_2545/_pdf)。ついでに述べればマリオ・マニエリ=エリアによれば(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/giorgio-ciucci.html)、バーナムはマニラに向かう途中に合衆国大統領特使として日本に立ち寄り、日本の天皇外務大臣海軍大臣陸軍大臣らに面会し、また当時日本は日露戦争前という状況もあって軍事パレードを観ている。さらに述べれば、日本は米西戦争に際して米国側についてスペインと戦争している(日西戦争)。米国太平洋艦隊がマニラに向かう途中に日本の寄港地を提供し、さらにマニラ湾封鎖に海軍を派遣もしている。米西戦争自体が1885年のキューバ革命と翌年のフィリピン革命に便乗したものであり、スペインが植民地でいかに現地住民を苦しめているかをプロパガンダし、現地住民を解放すると称しての戦争だったとすると、米国のこうしたやり方はこの時代あたりに原型が出来たのかとも思われ、同じく軍事的に強そうな国と同盟を結んで火事場泥棒的に参戦する日本のやり方も、だいたいこの時代あたりから始まっているのかとも思えてくる。J.A.ホブソンが述べた「帝国主義」時代の始まりでもある(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/imperialism-a-s.html)。

 バーナムはマニラ以外にも「夏の首都」バギオの計画を手掛け、バーナムパークは彼の名前に因んだものという。「シティービューティフル」は植民地においてこそ部分的に実現したことになるのだろうか、いつものことながら。

 米国の捕鯨業の衰退が始まる契機は1859年のペンシルヴェニアにおける石油の採掘(歴史教育者協議会、6頁)。

 またフィリピンの住居群でまず目が行くのはその屋根形態である(小松、242-247頁)。果たして初めてそれらを見た素人がその構造体をもよく理解したかどうかは吟味してみる必要がある。