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ジークフリート・ギーディオン、『空間 時間 建築2』太田實訳、丸善、1969

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 この書の表題になっている「空間 時間」についての部分を再読。K.マイケル・ヘイズの「ポストヒューマニズム」では「主体/主観」の問題として捉え直されていたものを、一応「空間」の問題としても見ておく。第四章「新しい空間概念:時-空間」では、しかしながらその解説はきわめて短い。→http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/1931-193921969-.html

 著者が美術史家であることを勘案するなら、「立体派によるルネサンス以降の線遠近法の解体」から話を起こすのは自然として、ただし立体派を説明するのにアルフレッド・バーに依拠している点は留意しておく。原書は1941年でアメリカを意識していたとはいえ、ヨーロッパの芸術運動について記すのにMoMAの言説に依拠して書いたということには、留意しておく。

 以下、「空間 時間」についての記述、メモ。

 「時-空間

立体派は、対象の外観を有利な一点から再現しようとしたのではなくて、対象の周りをめぐり、その内的構成を把握しようとしたのである。彼らはちょうど、現代科学が物質現象の新しい水準をも包括するような記述方式を拡張してきたように、感情を表す尺度を拡張しようとしてきたのである。

立体派はルネサンスの遠近法と絶縁している。立体派は対象を相対的に眺める。すなわり数多の観点から見るのであって、そのどの観点も絶対的な権威を持っていない。こういうふうに対象を解析しながら、あらゆる面から、上からも下からも、内からも外からも、同時に対象を見るのである。立体派はその対象の廻りをめぐり、対象の中に入り込んでいく。こうして、幾世期かにわたる構成的事実として優位を占めていたルネサンスの三次元に、つまり時間が加わったのである」「いろいろな観点から対象を表示するということは、近代生活に密実な関係のある一つの原理、同時性、を導き出す」510-511頁。

 運動性を言いながらギーディオンはヴォリュームという言葉はまったく用いていない。他方ではMoMAにおけるヴォリューム概念では運動性/時間性についてはほとんど触れられない。もう一点、ヴォリューム概念はメイヤ・シャピロによる印象派とその環境の関係からも分析を加えてみてもいいのではないか。→http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/index.html。シャピロとクラークの論は補強材料として使える可能性は十分あろう。

 ついでに。K.マイケル・ヘイズがポストヒューマニズムアルチュセールを引用しながら主体/主観の問題として記述しているものは、上野千鶴子にあっては「構築主義」と述べられているものである。

 これもメモしておく。

 「二〇世紀の思想的な発見のひとつは、言語の発見であった」「ソシュールからラカンに至る構造主義系譜をたどれば、言語は他者に属する。そしてその他者に属する言語に従属することを通してのみ、主体は成立する。したがって主体の集合が社会を成立させるわけもなければ、主体は社会に外在するわけでもない」「構築主義が対抗しているのは、本質主義である」「ポスト構造主義は、構造主義が「差異の体系」とみなした空疎な構造を、やがて実体現するに至ったことに強く反発し、その決定論的性格から逃れようとした」上野千鶴子編、「はじめに」『構築主義とは何か』、勁草書房、2001、i-iii頁。

 さてもう一度ギーディオンに戻る。http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/11969-b78b.htmlでは方法論について述べた。しかしながらあらためてギーディオンと、マンフォードやヒッチコックの記述を比較すると、後者には前者にはあるものがすっぽり抜けている。言いかえるならこの抜け落ち、もっと述べればこの削除は意図的なものではないかと思えてくる。ギーディオン(唯物論的に)ともどもしつこく構法について述べながら、近代的な空間概念について述べるのにある部分を意図的に削除し、さらには同時に米国建築史を効力批評的にさえ描いていると言えるが、ここから反照されるものがあるはずである(→バンハム「シカゴ・フレーム」論もこれは同じである)。