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メモ

ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子および貨幣の一般理論・上』間宮陽介訳、岩波書店、2008

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メモ

「以上見てきたように、消費性向の分析、資本の限界効率の定義、利子率の理論は、われわれの現在の知識にぽっかり空いた三つの主要な空隙であり、その空隙を埋めてやる必要がある。それが成し遂げられたとき、物価の理論はわれわれの一般理論にとっては補助的問題であるというそれ本来の場所に落ち着くことになろう。しかし貨幣はわれわれの利子率理論においては本質的な役割を演じる。貨幣を他のものから分かつ特性は何か」(p45)

「それゆえ雇用理論を論じるさいには、たった二つの基本的な数量単位、すなわち貨幣価値量と雇用量だけを利用するよう、提案したい。このうち第一のものは厳密に同質的であるが、第二のものもそうすることが可能である」、「雇用量を測る単位を労働単位と呼び、一労働単位の貨幣賃金を賃金単位と呼ぶことにしよう」「Eを賃金(および給与)総額、Wを賃金単位、Nを雇用量とすれば、E=N・Wとなる」(p57)

「あらゆる生産の目的は究極的には消費者の欲望を満たすことにある。けれども生産者が(消費者に代わって)費用を負担し、そして最終消費者がその生産物を購入するまでのあいだには、ふつうは時間を、時には長い時間を要する。この間、企業者(この場合、生産者と投資者の双方を含む)は、やがて時間が経ち、消費者に(直接・間接)供給する手はずが整ったとき、彼らがいったいどれくらい支払ってくれるものなのか、能うかぎり最善の期待を形成しなければならない」「第一の対応を短期期待、第二のタイプを長期期待と呼ぶことにする」(p64-65)

有効需要とは、企業者が彼らの決めた当期雇用量から受け取ると期待する総所得(すなわち売上収入)にほかならず、これには他の生産要素に手渡される所得も含まれている」、「有効需要はその総需要関数上の特定の一点で、供給条件と込みにすると企業者の期待利潤を最大化する雇用水準に対応しているがゆえに有効となる点である」(p77)

「所得=生産物価値=消費+投資

貯蓄=所得-消費

したがって

貯蓄=投資」(p88)

「上述したことは、人は誰でも保有する貨幣量を好きなときに変更する自由をもつが、個人残高を総計すると、その総額は必然的に銀行体系が創造した通貨量とぴたり一致するという命題-自由と必然を調和させる命題とうり二つである」、「個々人が保有したいと思う貨幣量の総額が銀行体系が創造した貨幣量に必然的に等しくなるのである。これこそまさに貨幣理論の根本命題にほかならない。これら二つの命題は売り手なくして買い手なし、買い手なくして売り手なし、という単純な事実から導出されたものである」(p120-121)

短期期待と長期期待について

「彼らのたいていの者は、実際には、投資対象のその耐用期間全体にわたる期待収益に関して、すぐれた長期期待を形成することに意を用いるのではなく、たいていの場合は、評価の慣習的基礎の変化を、一般大衆にわずかばかり先んじて予測しようとするにすぎない」(p213)

「こうしたことは、資本市場がいわゆる「流動性」(を促進すること)を目的として組織化されていることの不可避の結果である。正統的金融の格率の中でも、流動性信仰、すなわち投資機関においてはその資力を「流動的な」証券の保有に集中するのが絶対善であるとする教義ほど反社会的なものは断じて他にない」(p214)

「これからは、長期的視野に立ち社会の一般的利益を基礎にして資本財の限界効率を計算することのできる国家こそが、投資を直接組織化するのに、ますます大きな責任を負う、と私は見ている」(p227)

「利子率は流動性をある一定期間手放すことに対する報酬である」(p231)

「古典派の利子率理論は、資本の需要曲線もしくは利子率を所与の所得からの貯蓄額に関係づける曲線のいずれかが移動するか、あるいはこれら双方の曲線が移動する場合には、新しい利子率は二つの曲線の新位置の交点で与えられる、と想定しているように思われる。しかしこれはおかしな理論である。というのは、所得一定という仮定はこれら二つの曲線が互いに独立して移動しうるという仮定とは両立しないからである。二つのうちどちらか一方が移動したとすると、一般には、所得が変化するであろう。その結果、所得一定という仮定に依拠する全図式が崩壊することになる」(p249)

「伝統的分析は貯蓄が所得に依存していることには気付いていたが、所得が投資に依存している事実には目が向かなかった。投資が変化したとき、所得は必然的に、投資の変化と同額の貯蓄の変化を生むよう変化しなければならない。このようなふうにして、所得は投資に依存するのである」(p255)

リカード批判

「大富豪が、この世の住処として豪壮な邸宅を構え、死後の安息所としてピラミッドを建設するといったことに満足を見出したり、あるいはまた生前の罪滅ぼしのために大聖堂を造営したり修道院や海外布教団に寄進したりするならば、そのかぎりで、豊富な資本が豊富な生産物と齟齬を来たす日が来るのを先延ばしできるかもしれない。貯蓄を用いて「地中に穴を掘ること」にお金を費やすなら、雇用を増加させるばかりか、有用な財・サーヴィスからなる実質国民分配分をも増加させるであろう。だが、ひとたび有効需要を左右する要因をわがものとした日には、分別ある社会が場当たり的でしばしば浪費的でさえあるこのような緩和策に甘んじて依存し続ける理由はない」(p309)