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マーク・ラムスター『評伝フィリップ・ジョンソン、20世紀建築の黒幕』松井健太訳、横手義洋監修、左右社2020

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メモ

スタンフォード・ホワイトからフィリップ・ジョンソンへ (21頁)。

「具体的には、保守的と悪名高いケンブリッジにモダン・アートのための空間を生み出すこと。このアイデアがもともとはウェルズリー大学の新進気鋭の美術史研究者アルフレッド・H/・バーから来ているということもある。大臣の息子だったバーは新しい芸術史への容赦なき改宗指導者として、すでに名声を得ていた」(70頁)。

「ジョンソンは全く無邪気に、そろそろ近代美術館なるものを発足させてもよい頃ではないかと進言した。「秋にはスタートさせるつもりだよ」とバーは答えた。「建築を入れるなんてどうでしょう?」、ジョンソンはそう尋ねた。そんなわけで感銘を受けたバーが、建築部門責任者という地位をジョンソンに提案したという。

 これはエピソードとして聞こえはいいが、実際にはジョンソンの想像力の産物、ドラマ仕立てのフィクションだ」(74頁)。

「最初の啓示が訪れたのはシュトゥットガルト、バーからの指示で二人はヴァイゼンホーフ・ジードルングのモデル住宅群を訪れ、偉大なヨーロッパ人モダニストの作品を見比べた。アウト、ル・コルビュジエヴァルター・グロピウス、そしてミース・ファン・デル・ローエ」(78頁)。

「実際、これぞジョンソンが目にしたいと願っていたものであり、すでに読んでいた近代哲学の三次元版マニフェストだった。個々の作品の評価について、アウトは「同じ精神の人」、ル・コルビュジエは「全き機能性」、グロピウスは「彼らのなかでも最上級」としている」(78頁)。

「メンデルゾーンは「インターナショナル」な存在になった-新しい近代様式を説明するこの語をジョンソンが最初に使用したのはこのときである」(81頁)。

「この空白をどう埋めるか?ニューヨーク近代美術館のアイデアが生まれたのは一九ニ八年の秋、こともあろうに場所はカイロだった。ジョンソンは数ヶ月前からそこにいて、「アラビアのロレンス」姿でこの都市を観光していた。アビー・アルドリッチ・ロックフェラーとリリー・P・ブリスの到着前に立ち去ったのは幸運だったといえるだろう」、「彼女たちの最優先事項は美術館運営のトップを見つけ出すことであり、すぐさまA・コンガー・グッドイヤーに白羽の矢が立った」(91頁)。

「加えて、この本のためにさらなる旅行が必要だった。短い休暇で彼はヒッチコックともう一度旅に出るために、十分に心を整えた。今回はライン川を南にチューリッヒまで下る旅程で、チューリッヒでは、建築史家でヨーロッパにおける新しい建築の卓越した主唱宣伝者だったジークフリート・ギーディオンとの会合をアウトがとりつけてくれていた。これは三つの知性の素晴らしい出会い、そして建築哲学のちょっとした対決となるはずだった。というのもギーディオンは機械論の実践としての建築である機能主義陣営を広く代表していた一方、ヒッチコックとジョンソンはスタイルとしてのモダニズムという美学の方により関心を寄せていたからだ」(103頁)。

「この頃までにすでにミースは、ジョンソンの人生の大きな空間を占めるまでに至っていた。ヨーロッパで夏を過ごすためにニューヨークを出発する前、ジョンソンはサウスゲートに一人用アパートの賃貸契約を結んでいた」、「ジョンソンがベルリンにあるミースのいくつかのインテリアを目にする機会を得た後で、この計画は変更された。ニューヨークの彼のアパートをこのドイツ人に引き継がせれば大成功するだろうとジョンソンは思いついたのだ」(105頁)。

「「インターナショナル・スタイル」と題されることになる書物の執筆はヒッチコックの手に委ねられていた一方、ジョンソンは大衆紙に専念し、発表するレビュー群はどんどん挑発的になっていった。主要国内紙への最初の登場は『ザ・ニュー・リパブリック』一九三一年三月号、優れた芝居・芸術批評家シェルドン・チェイニーによる概説書『新世界の建築』に対する、どうみても度量の狭い論評である。ジョンソンはチェイニーの分析を「陳腐」と繰り返している」(116頁)。

「とはいえ、展覧会の企画こそがジョンソンの第一の責務だった。住宅セクションが特に骨の折れる仕事となったのは、まずもって彼があまり興味をもっていなかったからである。ジョンソンの心を揺さぶるのは美学であって、労働者の苦悩などという経験したことのない事柄ではない-それがカトリックユダヤ人の問題なればなおさらだ」(128頁)。

「こうした甲高い呼びかけへの聴衆の反応は物珍しさ程度のものだった・展示会期の六週間の全入場者数はざっと三万三千人くらい、目を見張るほどのものではないにしてもそこそこの入りだ」(132頁)。

「自尊心にもましてライトは、ジョンソンの建築に対する考え方を単純に拒絶したのだった。ライトにとって、一組の美的原理に従うことで達成される様式という思考など嫌悪すべきものであり、建築とは、それとは全く異なるもの、すなわち個々人の芸術的天性が現代の必要とは自然の現象に合わせて表現されたものであった」(134頁)。

「『ニューヨーク・タイムズ』曰く「輝かしい若き権威」となったジョンソンは、数年ごとに大きな展示を企画していくことになる。展示の設営場所として建築部門にあてがわれたのは、五三丁目にロックフェラー家が所有する五階建てタウンハウスを改築した美術館内のギャラリーである。関係者は皆品がよかったから、ジョンソンへの支払いがまだ済んでいないなどというちっぽけな事実には気にも留めなかった。細かくいえば、彼は建築部門に関する全費用を負担していたのである」(137頁)。

「革新的な「近代建築」展の終了からちょうど三ヶ月経った六月、ジョンソンとヒッチコックはシカゴに赴いて次の展示の準備にとりかかった。シカゴ派建築の歴史がテーマで、開場は翌一九三三年ニ月の予定、前回の論争的な展示の続編としてはまさしく興味深いテーマだ。現在や未来についてのまたしても独善的な議論というのではなく、むしろ学術的な回顧展である。彼らが選んだタイトル「初期近代建築:シカゴ一八九○-一九一○」とは裏腹に、展示内容はアカデミックなもので、H・H・リチャードソン、ルイス・サリヴァンフランク・ロイド・ライトの仕事を重点的に取り上げている。前回の協働のときと同じように、ヒッチコックが頭を使う骨折り仕事をこなし、彼がつくったものを聴衆受けするように仕立て上げるというのがジョンの担当だった-アカデミックな部分を取り上げて、論争を巻き起こすようなものに変えるというわけだ。「我々の望みは人びとにただこの展示を見てもらうということだけではない」とジョンソンは書いている。「我々は人びとに展示をじっくりと見てもらい、そして我らがアメリカ建築の偉大なる時代がどのようにはじまったのかについて一緒に考えたいのである」」。「つまりこれらシカゴ派の建築家たちが超高層ビルを発明したのであり、彼らのスチールフレーム建築はリヴァイヴァリズムを差し押さえてアメリカ合衆国産のスタイルを促した最初のものだったというのである。しかもこのスタイルの純粋さ、実直さ、率直さは、今日の「超高層スタイル」と対照的でさえある。今日のスタイルを端的に示すクライスラー・ビルエンパイア・ステート・ビルのけばけばしさを、ジョンソンはたいそう忌まわしいものとみなしていた」(146頁)。

「「ファシスト革命」展の背筋も凍るような建築形態に魅了されてしまうジョンソンの知的傾向だった。革命展は十月の終わりにムッソリーニによって開催されたもので、血のように赤い巨大なデートには三つの同じような巨大な鉄塔が立ちはだかり、展示会場への入場口にも斧が刃を向けて立っている。そんな芝居がかったデザインに加えて、なかにはイタリアの先導的な近代建築家たちの創り出したプロパガンダの展示があった」(152頁)。

「ジョンソンがその意向を汲んで企画したのが「オブジェクト:一九○○年と今日」である」、「その一大展示というのが「機械芸術」展であり、一九三四年三月七日の開場以来センセーションを巻き起こすことになる」(162-163頁)。

「関心が向けられているのは台頭しつつあるカリフォルニア・モダニズム学派とロバート・モーゼス、テネシー川流域開発会社、WPAによるインフラ事業である。とりわけ深い洞察というべきは、急速に戦争準備が進むなかで建築という職能全体が自らを刷新しなければならなくなるだろうという認識である。さもなくばこの職能の責務は「巨大建造物プロジェクトを迅速に練り上げる能力を持った土木技師や軍事技師に吸収さえれてしまうだろうというのだ」(244頁)。

「一九四九年三月一日、ジョンソンは建築・デザインの統合部門のディレクターとして美術館に復帰したのである」(281頁)。

「一九五三年一月、ジョンソンがアビー・アルドリッチ・ロックフェラーを讃えてデザインした彫刻庭園の落成のほんの数ヶ月前、「アメリカの建物」展の開場のときである。この展示は彼が不在だった一九四四年に催されて大衆建築を特集した展示の戦後版だった」、「三十ニ人の建築家による四十三の建物が取り上げられ」(297頁)。

「ただし展示は、戦後アメリカの爆発的な成長に伴う建築という職能の質的変化も示している。このダイナミクスは政府、産業、人口増加といった大規模な要請に応じるような新しい種類の実践を求めていたのである。こうした需要に応える仕事をした典型例がスキッドモア・オーウィングス・アンド・メリルである。この事務所は一九三○年代に誕生したが、成長を遂げたのは、マンハッタン計画受け入れのために急造されたテネシー州オークリッジのアパート群と、パーク・アヴェニューの企業資本主義の典型となる近々竣工予定のリーバー・ハウスという二つの新プロジェクトが取り上げられた」(299頁)。