S・ギーディオン『機械化の文化史 ものいわぬものの歴史』GK研究所栄久庵祥二訳、鹿島出版会 1977年
メモ
「機械に取って代わられることになる手について述べる。その上で、一つの歴史的プロセスとしての機械化を取り扱う」、
「複雑な技術を機械に置き換えていくことが、高度な機械化の始まりを画する。この複雑な技術から機械化への移行は、十九世紀の後半アメリカで起こる。われわれはその経過を農夫・パン屋・肉屋・家具職人・家庭の主婦などの仕事の領域で見てゆく」、
「全面的な機械化の最初の兆しはアッセンブリーラインであり、そこでは工場全体が一つに噛み合った有機体として統合されている。十九世紀におけるその最初の出現に始まって、両大戦間における決定的な高度化に至るまで、アッセンブリーラインはアメリカ的制度である」、
6頁。
「十九世紀の後半は、アメリカの中西部がイギリスに代わって農業機械化の中心舞台になる。ここで人類史における新しい一章が始まる。すなわち、人間の土に対する関係の変化と伝統的農民の没落である」、
7頁。
「古代人は、世界を永遠に存在するもの、生成し続けるものと考えたが、われわれはそれを創造されたもの、時間的に有限な存在であると考える。すなわち、世界は最初から一度の週末あるいは目的を持ったものと考える。世界には一定の目的があるとするこの信念と密接に結びついているのが、合理主義の見解である」、「十八世紀は科学の進歩を、社会進歩、および人間自身完成していく姿と、ほとんど同一視したのである」、
27-29頁。
「機械化が発達するためには、マンチェスターのような、十九世紀以前には法的な地位も与えられず、従ってギルド的な制約によって縛られることもなかった人里離れた土地と、プロレタリア的な発明家が必要であった」、
35頁
「ヨーロッパの機械化とアメリカのそれとの違いは、十八世紀の初頭にも、それから一世紀半を経た時点でも見出すことができる。ヨーロッパでは機械化は、紡績、機織り、製鉄といった簡単な技術を対象に始まった。一方アメリカがとったコースは、これとは最初から違っていた。つまり複雑な技術を機械化の出発点としていた。
一七八○年頃、リチャード・アークライトが未曾有の力の座を目指して奮闘していたとくい、オリバー・エバンスは、フィラデルフィアからあまり離れていない静かな川べりで、製粉という複雑な技術の機械化に取り組んでいた。この機械化は結局、連続的なライン生産によって達成されたが、そこでは人間の手は、小麦の荷がおろされる段階からこなになるまで、完全に除かれた」、
「一八五○年頃、大草原が農地へと帰られてゆくのとほぼ時期を同じくして必要な機械類が発明され、農作業上の複雑な技術が次第に機械化されていった。その過程は、十九世紀の歴史で最も興味深い、見どころの一つになっている」
36頁
「われわれは両大戦間を全面的機械化の時代と呼ぶ」
38頁
「すなわち機械化が、その時期に一挙に生活の身近な領域に浸透したという事実である。その間に、それ以前の一世紀半の時代に始まったこと、特に十九世紀の半ば以降、発芽し、育ってきたことが突然成熟をとげ、生活に全面的な衝撃をもたらしたということである」、
「アイロン、トースター、洗濯物の絞り機といった小物の類は一九一二年にカタログに現れている。電気掃除機は一九一七年、電子レンジは一九三○年、そして電気冷蔵庫は一九三○年にカタログに登場している」
「台所が機械化されていくにしたがい、加工食品や調理済み食品に対する需要も増大する」、
「全面的機械化の時代に入ると加工食品の生産量は大きく増大し、バラエティーも増す」
39頁。
「食物に大量生産方式を適用するという現象は、チェーン・レストランの発展にも見られる」
40頁。
「アセンブリーラインは」「生産のあらゆる段階、使われる機会のすべてを結びつけ、工場全体を一つの道具へと鋳造することにある。機械の動きは互いに調整される必要があり、そのため、アッセンブリーラインでは時間が大きなファクターとなる」、
72頁
「生産の向上を図る工夫を備えたアセンブリーラインの発展は、大量生産への期待と緊密に結びついている。アッセンブリーラインは一八○○年頃に、イギリス海軍の軍需部糧食課でビスケットのような手の込んだ物の製造にも導入されていた。しかしそこでは機械は用いられず、生産は純粋に手工業的な過程をとって行われていた。」、「一八三○年代にシンシナティの屠殺場でも発達した。この場合でも、組織的なチームワークをとって豚の屠殺と精肉化の作業が行われたが、その過程に機械は介在していなかった。」、
「今も使われているコンベアの三つの型を連続生産に導入したのは、オリバー・エバンスであった」、
「水平走行式クレーンは、高架式レール・システム出現への第一歩である」、
「今日の意味でのアッセンブリーラインを導入したのは食肉加工の分野が最初である。オリバー・エバンスが初めてそれを一七三八年、製粉の過程に使った。一八三三年には、ビスケットの機械生産がイギリスの「軍需部糧食課」で行われている。その場合、ビスケットを焼く盆が絶えず動いているローラー・ベッドに載せられ」
73頁。
「アッセンブリーラインと密接に関連し、一九○○年以降、次第に重要性を増した一つの分野がある。それは、科学的管理法である。科学的管理法は、アッセンブリーラインと同じように、組織化の問題と大きな関係がある。一八○○年代、科学的管理法の生みの親フレデリック・ウィンスロー・テーラーは、その初期の実験で、一台のモーターを中心に置いて、その周りのさまざまな機械のスピードの調節を試みていた。」それ以上に意義の大きいのは、人間の作業過程を対象とした科学的管理法の研究である。その研究の発展は、労働の軽減とともに労働者の無法な搾取をもたらした。
その最も優れた成果として、たとえば、フランク・B・ギルブレスの研究から生まれた作業と動作の性質に関する発見がある。ギルブレスが人間の動作の要素と過程を視覚化していく手順は、具体的な方法においても、応用の大胆さにおいても、実に見事であった。人間的な要素を深く究めようとする彼の研究のこの側面こそ、長期的には、最も重要な意義をもっていると考えられる」
「今日のアメリカの基本的な特徴は、連続生産方式にある。これこそ、アメリカの工業にとって当初からの中心的な関心事だった。」
「オリバー・エバンス(一七五五-一八一九)は、小麦を円滑かつ連続的に移動させ、人の手を借りないで小麦をつくる工場を建設した」
74頁。
「無限ベルト」(ベルトコンベア)、「無限スクリュー」(スクリュー・コンベア)、そして「バケットを連ねたチェーン」(バケット・コンベア)を彼は最初から使っていたが、それは今も、コンベアシステムの三つの型として残っている。
「円バスが付け加えて言っているように、「それは上射式の原理に従って動く」。ある優れた機械技術者は、一世紀後、次のように言っている。「エンバスの直立コンベアは、今では普通水平移動に用いられているベルト・コンベアの原型である」」
75-77頁。
「機械の製作がその例である。この場合に、部品は「組み立てられて」、一つの新しい全体である」、
「アッセンブリーラインはわれわれの時代における製造活動のバックボーンを形成している」
80頁。
「一九世紀以降、アッセンブリーラインは、労働節約のためのメカニズムである以上に、まず、合理的に計画された集団の協力、すなわちチームワークの上に成立している。そこでは、一八世紀にアダム・スミスが全生産の基盤であると考えた分業を踏まえ、次に各作業が時間と作業過程に関して調整されることが必要である」。
81頁。
「食肉産業についてだけは、特に詳しく検討したい。というのは、それに関しては、その後の発展の様子が現在見られるからである。アメリカ・オハイオ州のシンシナティでは大規模な屠殺場が建設され、早くも一八三○年代に、旅行者は屠殺の過程とその組織化の有様を見て、アダム・スミスが言う分業のことを思い浮かべたものである。
一八三七年までには一チーム二○人が、機械を使わないで、八時間に六二○頭の豚を屠殺し、洗滌して解体し、包装するところまできていた」
83頁。
「ここでは、ヘンリー・フォードの著書『わが人生と仕事』(一九ニ二年)で示されている「道具と人を作業過程にそって配置する」という原則が、驚くほど忠実に守られていた」、
「十九世紀前半、特に一八三○年から一八五○年にかけて発明の機運が各地にもりあがり、人々は工業のさまざまな問題に果敢に取り組んだ。機械化の専門分化-すでに高度に発達していた紡績機械は別として-はまだ先のことだった」
84頁。
「一八五○年代、シンシティでは、食肉の生産工場が四○以上も操業していた。シンシナティは南北戦争のときまで工業の中心地であり、食肉生産に関する特許のほとんどがそこで生まれている」
88頁。
「一九○○年頃
時代の方向ははっきりしていた。企業間の競争は厳しさを増す一方、賃金の引下げは生産コストを下げる方法として実際的でないこともわかった。現に手元にある工作機械は今後も機能的に分化し専門分化し続けるだろうが、僅かばかりの改良を加えたところで生産性が上がる見込みはなかった。
そこで問題は、工場の内部でのコストを引き下げ生産性の向上をはかるにはどうすればよいかという点に絞られてきた。世紀の変り目以前にも、企業家の関心は新たに何かを発明することより、すでに発明されているものを新しく組織化する方向に向かっていた」、
「十九世紀の最後の二、三十年間、多くの人が互いに独立に、工場内における作業の合理性をテーマとして研究していた」、
「科学的管理法と自ら名付けた発展的な分野の基礎を築いたのは、フレデリック・ウィンスロー・テーラー(一八五六-一九一五)と彼の仲間である。科学的管理法は彼らの二十五年にわたる不断の努力の産物であった。
テーラーがミッドヴェイル製鋼所(フィラデルフィア)で職工長となったのは、職工となって二年たった一八八○年である」
90頁
「作業を円滑にし疲労をできるだけ少なくするという主張の背後には、その時代が憑かれたように追及してきた不断の目標-是が非でも生産性を引き上げる、ということ-があった。人体が研究されたのも、その目的は、一体どの程度まで人体を機械に変えられるかを知るためであった」
91頁
「少なくとも科学的管理法が導入された当初は、テーラーが「軍事型の組織」と呼ぶ厳格なシステムが発展した」
「位階制や能率本位の軍隊的な規律は、まさに工場における軍隊生活だといって過言ではない」
「テーラー主義と軍事活動は本質的に違う」
「テーラー主義は労働者に、自発性ではなく、自動化することを要求する。つまり、人間の動作は機械を動かす単なる道具になってしまう」
「彼の仕事の意義は機械的な意味での能率を向上させた点にある。彼は、一九○○年型の専門家であり、その研究の対象である工場を、自己完結した有機体として把え、それ自体が目標であるかのように理解した。そこで何をどんな目的で製造するかということは、彼の問題の領域を超えていた」
92頁。
「結局それは空間-時間研究を中心にしていることがわかる。この方法の狙いは、空間的にはある動作の軌跡を決定し、時間的にはその経過時間を決めることにあった」
94頁。
「ヘンリー・フォードの功績は、特権的な製品として取り扱われてきた乗物に、初めて民主主義の可能性を認識した点にある。自動車といった複雑な機械を、贅沢品から誰もが使えるものにし、価格を庶民にも買える範囲に押さえるという考えは、当時のヨーロッパでは思いも及ばぬことであったろう」
「アセンブリーラインはテーラーの動作研究や、彼の後継者による疲労に関する一層混み入った研究にとって代わった。部品の互換性は農業機械の分野で一八六○年代、すでに刈取機に適用されていた」、
「フォードは、できるだけ作業時間を切り詰め賃金を上げるという、当時としては突飛なテーラーの考え方にならった」
106頁
「一九一○年代(その中心人物はフレデリック・テーラーである)に最大の関心をよんだのは化学的管理法であった。それに対しては、企業は関心を向け、労働者は反対を叫び、世論は沸騰し、議会ではそれに関する公聴会が開かれた。科学的管理法が一層精度を増し、実験心理学と結合したのもこの時期である(フランク・B・ギルブレスがその代表的人物)。
ヘンリー・フォードの活躍を中心とした一九ニ○年d内には、アッセンブリーラインがあらゆる産業ぶんやで中心的な地位にのぼり、その影響の輪を広げていった」
110頁
「人間の手による活動を一つ一つ機械の仕事に置き換えてゆくという、機械化の原理を把握するだけで機械化のパターンはおのずから明らかになる。あとはただ、発展の各段階を述べるだけでよい」
141頁
「あらゆる点からみて。刈取機が果たした役割は自動紡績機のそれより決定的だった。」
143頁
「マコーミックは発明家、製作者、財政家、そして販売と広報担当を兼ねていた。一八五○年代、代理店網をアメリカ全土にはりめぐらした最初の実業家である」
148頁
「この自動結束機の出現をもって、一八○○年代、農業の機械化は一応の完成をみる。この時期には、アメリカで収穫された小麦の四分の五が機械を使って刈り取られている」
153頁