Stolog

メモ

P.F.ドラッカー『エッセンシャル版マネジメント・基本と原則』上田惇生編訳、ダイヤモンド社2001

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メモ

「第二次大戦前、マネジメントの本は、すべて集めても普通の本棚に収まっていた。ところが、六○年代の後半にはアメリカだけでも年間数百点が出版された。大戦前のものを全部集めた数の四倍から五倍が一年間に出版された」、「マネジメント・ブームの基礎となっていた第二次大戦前の薄明の時代に得られた知識が、いずれも現実に合わなくなったことが明らかになったからだった」(3頁)。

「企業の目的の定義は一つしかない。それは顧客を創造することである」、「市場をつくるのは」「企業である」、「有効需要に変えられて、初めて顧客と市場が誕生する」(15-16頁)。

「顧客が価値を認め購入するものは、財やサービスそのものではない。財やサービスが提供するもの、すなわち効用である」(16頁)。

南北戦争後のヘンリー・アダムスから今日のラルフ・ネーダーにいたるまで、アメリカの改革者たちが要求してきたものは、人材だった」(44頁)。

「先進国の生活水準を引き上げたのは、テイラーの科学的管理法である」(37頁)。

「日本での成功事例の特徴は、一九ニ○年代から三○年代にかけ大組織向けに開発されたものである」、「これら日本の慣行は古来のものではない。第二次大戦以降とまではいかないが、一九ニ○年代以降のものである」(68頁)。

「フォードの労働移動は激しく、一九一ニ年当時、一万人を確保するためには六万人を雇わなければならないほどだった。ところが新しい賃金によって、辞めていく者がほとんどいなくなった。コストの節減は大きく、その後数年にわたって続いた原材料価格の上昇にもかかわらず、T型車の価格を下げ、かつ1台あたりの利益を増大させることができた。同社が市場を支配できることになったのは、この思い切った賃金の引き上げが生んだ総労働コストの節減だった」(98頁)。

「組織の目的は、凡人をして非凡なことを行わせることにある」(145頁)。

「ニ○世紀の初め、マネジメントが初めて関心の的になったときには、突如誕生した大規模な人間組織をいかに組織し管理するかを知ることが、最大のニーズだった」、「しかもマネジメントが進歩した一九ニ○年から五○年という時代は、大きなイノベーションの余地のない時代だった。この時代は、技術的にも社会的にも変化の時代ではなかった。むしろ第一次大戦の土台の上に確立された時代だった。政治的には激変の時代だったが、社会的な組織も経済的な組織もまったく停滞していた。社会思潮や経済思潮までもが停滞していた」(264-265頁)。

「一九三○年代にマネジメントの研究が始まって以来」(278頁)。

「マネジメントの研究は、一九世紀、政府、常備軍、企業などの大組織が現れたときに始まった」(280頁)。

「組織構造の重要性を認識させたのは第一次大戦だった。フェヨールやカーネギーの説く職能組織が唯一絶対の組織構造ではないことを明らかにしたのも第一次大戦だった」(280頁)。

ロバート・レイシー『フォード上、自動車王国を築いた一族』小菅正夫訳、新潮文庫、1989

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メモ

「彼は自分の生い立ちを恥じるたぐいの成功者ではなく、むしろそれを誇りにしていた。一九三五年七月、七十一歳のヘンリーはインタヴューの相手に、真のアメリカはニューヨークやシカゴのような都会では見つからないと語り、「アメリカは、古い村や、小さな町や、農場のなかにこそあるのだ」と語っている」(70頁)。

 

「数ヵ月後、ヘンリーはふたたびデトロイトへ呼ばれた。今回は機械業界に大反響を巻き起こしているエンジン、“だんまりオットー”を見るためだった。この動力装置は蒸気機関ではなく内燃機関の一つで、ニコラウス・アウグスト・オットーとその協力者の一人のゴットフリート・ダイムラーによって開発されたものだった。ヘンリーがこれまでに見たどんなものと比べても。驚くほど軽量コンパクトで、精確だった。それはガソリンを燃料にした新開発の四工程・エンジンで、最初の工程でピストンが混合気をシリンダー内に吸い込み」(79頁)。

 

「一九○○年から一九○八年にかけて五○ニ社を下らぬアメリカの会社が自動車を製造するために設立され、うち三○ニ社が脱落したり、べつの業種に鞍替えをしたりしたが、それでもニ○○社が残った。アメリカの自動車産業が本格化した一九一○年には、国内のあちこちで三○○種近くの異なったメーカーの車が作られ、一九一七年には、多くの企業が振り落とされたり吸収されたりしたにもかかわらず、デトロイトだけでもニ三社の自動車製造会社があり、一三ニ社の部品会社がそれらに部品を供給していた」(128頁)。

 

「一八八○年代に労働争議が頻発したあと、市の経営者たちは労働組合結成の動きに対抗するべく、EAD、すなわち“デトロイト経営者連合”を結成し、スパイや暗殺団を組合に潜入させてストライキをつぶしたり、市の職安に要注意人物のブラックリストを提供したりして、その徹底ぶりで全米に名を知られた。デトロイトの荒っぽい経営者保護政策に惹かれて、一九○四年、労働争議で悩まされていたバローズ加算機社はセントルイスからこの地に拠点を移した。一九○三年、パッカード・モーター社がオハイオを引き払い、デトロイトに工場を移転した理由の一つもオープン・ショップ制であり、ここなら非組合員でも採用できるからだった」(134頁)。

 

「当時、アメリカじゅうの共同経営者たちが似たような意見の食いちがいを示していた。一九世紀を通じて企業家にとっての大きな努力目標はいかにして生産するかという技術的な問題であり、なかでも重要だったのは製造技術の問題であった。しかし、ニ○世紀初頭のはこれらの実用面での問題の多くは解決され、新たな努力目標はいまや大量に生み出されている製品をいかにしてどこへ売るかに移った。適切な顧客を見きわめた上でその層に売り込む能力、すなわちマーケティングが新たな事業成功の鍵であった。

 伝統的に利潤率の高い消費者マーケットは、金持ちで裕福な中産階級であった。しかし、ヘンリー・フォードは、それよりはるかに大きく、潜在的にもっと豊かなマーケットがほかにあると感じていた人々の一人であった」(155頁)。

 

「私は万人向きの車をつくるつもりだ。それは家族で使うのに十分な大きさをもっているが、一人で走らせたり手入れをしたりするのにちょうどよい小ささになるだろう。最高の材料と、最高の人材を用い、最新の技術でできるだけ単純化された設計のもとに作られるだろう。しかし、値段はたいそう安いので、十分な給料をもらっている者ならだれでも買えるものになるだろう。そうなれば、だれもが家族とともに神の知ろしめす広々とした野外で祝福されたときを楽しむことができるのだ。

 

 ヘンリー・フォードの庶民のための車、やがては彼を有名にし、アメリカの顔を変えることになる車は、一九○七年当時としては耳慣れない考えだった。それはヘンリーの人民主義的な本能、上等な暮らしを独占する脂肪太りの金持ちへの反感から出たものであり、機械のよろこびを世の人々と分かち合いたいという寛大で教訓的とも言うべき衝動から生じたものであった」(166-167頁)。

 

「T型がたちまちにして人気を博したのは、それがヘンリー・フォードの意図したとおり、頑丈で、力があり、コスト・パフォーマンスに優れていたからである。じっさいにはまだそれほど易くなかった。値下げが行われたのは、のちに生産台数が増えてからのことである」

「一九○八年にはもっと安い車も出まわっていたが、T型ほど技術の粋を凝らし、革新性と信頼を結びつけているものはなかった。強力な四気筒エンジン、セミオートマティックの遊星歯車変速装置、重い乾電池を無用のものにしたマグネトー、これはいずれも新機軸であり、変速装置や車軸やその他の大部分の機構が軽量の鋼鈑ですっぽりと覆われ、雨や、ほこりや衝撃から守られている点も目新しかった」(178頁)。

 

「T型の部品はいずれも新鮮な工夫が凝らされており、自動車愛好家を興奮させないようなものはほとんどなかったが、それらすべてに共通するテーマは単純さであり、それこそがヘンリー・フォードの自己最高の創造物に対する最大の貢献であった」

「「ニ○○○ドル以下の車でこれ以上のものを提供している車はない」これはT型フォードのうたい文句だが、自動車広告の長く不名誉な歴史のなかで。言われていることが掛け値なしに正しかったのはこのときだけである」(179-180頁)。

 

「一九ニ○年代初め、T型が人気の絶頂にあったころ、シアーズ・ローバックの通信販売カタログには、ボルトや、ネジや、ストラップでT型にとりるけられるようになった五○○○種を下らぬカー用品が掲載されていた」(181-182頁)。

 

「T型は大陸を満たそうと休むことを知らない人々がまさに必要としていたものだった。農民はこぞってそれに夢中になった。この車は非常に変わった緩衝機構をもっており、前後に一つずつ、大きな剥き出しの板バネが横向きにとり付けられていた。これらの板バネは工学技術的にはどこにもあるような荷車のバネと大差なかったが、当時の轍の跡のついた泥や砂利の道には理想的だった」

「T型フォードはそうした条件に合わせて設計されたのであり、横おきのバネと、関節が二つあるかのようなぐにゃぐにゃした車輪でみごとにそれを克服していた。当時の自動車メーカーの多くは剛性一点張りだったが、T型はきわめて柔軟性に富んでいたので、それで線路を斜めに横切れば、車体がたわむのがじっさいに感じられるほどだった。それは牧歌的アメリカの車であり、ニ○世紀の幌馬車だったが、一九ニ○年代までのアメリカは確かにまだ多分に農村社会だったのである」(182-183頁)。

 

第一次世界大戦が終わるまでには、フォード社は北アメリカの、実質的には世界中の、自動車マーケットを支配していたので、地球上の車のほぼ半数はT型だった。一九ニ八年にヘンリーがついにそのラインを停止するまで、T型は一五○○万台以上生産された。それは地球上のいたるところにあふれ、人々の生き方や、考え方を変え、家族旅行や、ピクニックや、恋人同士の逢い引きなどのあり方を変えようとしていた。自動車のもたらした自由はこれまであった結びつきをゆるめ、新しい結びつきを作り出した。アメリカを孤立した植民地の散らばる大陸から一個の広大な近隣社会へと変貌させたのは、ラジオとともに、この多くの人のための車だった」(184頁)。

 

ヘンリー・フォードの初期の車は、今は今世紀初頭に作られた他の車同様、最初から理にかなったコスト節減につながる手順を踏んで組み立てられた。それは一八八○年代から一八九○年代にかけてヘンリーがデトロイトの機械工場で見た秩序ある手順であり、そうやって経費と時間が節約されていたのだ。それはまた一九世紀末にアメリカ全土で経済の飛躍的発展を促していた大量生産方式と同じものでもあった」、「自動車の場合は数人の機械工チームがある特定の工場の静止した架台の上でエンジンを組み立てた。ついでそれらはべつの工場へ送られ、そこでまたべつのチームの手で車軸や車輪をとりつけられ、その工程が終わるとシャシーはふたたび移動させられ、内装工場に向かうという仕組みになっていた。

 この部分的流れ作業にも計算された発展的動きは組み入れられていたが、一貫した流れはなかった。連続した流れ作業にいちばん近かったのは、シカゴの食肉処理場の肉牛の胴体を吊るしたレールで、そこでは通り過ぎていく胴体から作業員たちがつぎつぎと脚や腰肉を切り離していくようになっていた、いわば組立ラインならぬ“分解”ラインである。

 ハイランドパークへ移ったおかげで、ヘンリー・フォードは最初の原理にとりかかるチャンスに恵まれた」、「T型の仕事と並行して新工場の計画がスタートした」(194-195頁)。

 

「幸い彼は自分に負けず劣らず革新に意欲的な建築家を見つけた。ドイツに生まれ、ドイツで教育を受けたラビの息子、アルバート・カーンは、ニ○世紀初めに実用化されはじめたばかりの新しい建築法、コンクリートだけでは脆いので籠状に編んだ鉄筋を入れて補強する鉄筋コンクリート工法、に興味をもっていた。レンガや鉄屑で作るよりそのほうが建築費が安くつき、柔軟性のある建物を作ることができたのである。また、鉄筋コンクリートを用いることによって、建築家は初めて真に広々と開放的な工場空間を作ることができた。しかも、コンクリートは鉄とちがって熱伝導性が悪いので、実質的に耐火構造になるという利点もあった。

 アルバート・カーンがデトロイトで初めて建てた鉄筋コンクリート工場は、一九○五年にパッカード自動車会社のために建てたものだったが、振動や火災の危険性の減少、機械の移動や配置替えが容易な広々としたフロア・スペースなど、鉄筋コンクリートの利点を実証する一方、その広大な窓ガラスのおどろくべき面積で、これまでの工場のすべてをまるで刑務所の作業場のようにも見せていた。これがハイランドパーク工場を建てるやり方だということは明白であり、しかもフォードとカーンは似た者同志だった」(196頁)。

 

「しかし、T型はせっかちだった。それはその性急さを製造工程にも伝染させ、一九○九-一○年の一年間には一万八六六四台、一九一○-一一年には三万四五ニ八台売れた」、

「連続的な流れ作業の考案者を特定の一人に限定することはできない。カーンの柔軟性に富んだ新しい工場が機械や人員の配置替えを容易にした。フォード自身、ゲーラムやウィルズとともに、ほかの車なら八個かそれ以上の部品からなっていたであろう一体式の四気筒シリンダーのような単純化された部品を開発し、流れ作業向きの製品を用意した」、(197-198頁)。

 

「「フォード氏の強みの一つは部品の互換性にあった」と、N型の部品製造を監督したマックス・ウォラーリングは回想している」(199頁)。

「そのカズンズがまぎれもなく夢中になったのは、当時のデトロイトの流行の一つ、テイラー主義科学だった。ストップウォッチとクリップボードによる工場管理に産みの親、フレドリック・“スピーディ”・テイラーは、一八八○年代初期に機械工場の時間と動作の研究をはじめ、一九一一年にその理論をたちまちのうちに当時の経営理論の流行にした本、『科学的管理の基礎知識』、いくぶんユーモアに欠けるが、『パーキンソンの法則』や『ピーターの法則』のはしり、を出版した」(200-201頁)。

 

「時間と動作の研究がデトロイトじゅうの金科玉条となった。しかし、テイラーの“科学”が一人の人間がある仕事をするのに要する時間に焦点を合わせていたのに対し、それを越えたところにフォード・システムの優れたところがあった。機械でもやれる仕事ならどうして人間を使う必要があるのか、というのがフォードの疑問だった」(201頁)。

 

「教訓は明らかだった。数ヶ月を経ずしてハイランドパークは、コンヴェアベルと組立ライン、ダッシュボードや、フロント・アクスル(前部車軸)や、ボディなどの副組立ラインからなる活気に満ちたネットワークとなった。工場全体が目まぐるしく旋回し、大がかりで複雑に入り組んだ、けっして終わることのない機会のバレエを踊っているいるかのようだった。

「工場にあるものは何もかもが動いている」と、ヘンリー・フォードは得意そうに語っている。「それはフックにかかっているかもしれないし、頭上のチェーンに吊るされているかもしれない、移動式の台にのっているかもしれず、自然の重みで落ちていくかもしれない。が、肝心なのは、そこにはもち上げたり、運んだりという動作がないということだ、だれもが何かを動かしたりもち上げたりする必要はない」歩くのはコンヴェアに任せよう。「一万ニ○○○人の従業員の歩く距離を一日一○歩節約すれば、五○マイル分のむだな動きとエネルギーの浪費が省けるのだ」

 フォードの生産量は飛躍的に増大した。一九一一-一九一ニ年のハイランドパークにおけるT型生産高、七万八四四○台は、六八六七人の労働力によって達成された。翌年の生産台数は倍以上になったが、労働力も倍以上に強化された。しかし、一九一三-一四年に生産台数がふたたび倍近くに伸びたときは、この劇的に増えた台数の車を製造するのに要した労働者の数は増えなかった。これは移送式組立ラインが採用された年であり、その効率のよさのおかげで、ハイランドパークの労働者はじつに一万四三三六人から一万ニ八八○人に減少した」(204頁)。

 

ヘンリー・フォードが自社の従業員に対し、とくに気前がよかったことは一度もない。けっして守銭奴ではなかったが、世間の相場以上に払ったことは一度もなかった。T型の生産に当たった労働者の賃金は、一九○八年には一日一○時間労働で一ドル九○セントほどだった」(216頁)。

 

「新しい最低五ドル賃金制は一日八時間の労働に対して支払われることになっていたが、この八時間労働はそれまでの九時間ニ交替制をニ四時間ノンストップの八時間三交替制に切り替えることによって達成されていた。おかげでフォード・モーター社は生産を増やし、労働者は労働時間を短縮することができたが、それはあまりにも巧妙すぎてほとんど本当とは信じられないほどだった」(217頁)。

 

「魔法の五ドルという数字は“利益配分”ボーナスを加算することによって達成され、その額は基本給よりもっと大きかったが、それを手に入れるには一定条件を満たさねばならなかった」、「自社の従業員すべてに“清潔で、まじめで、勤勉な生活”を送ってもらいたいというフォードの願望から出たその他もろもろの条件を満たす必要があった」(217頁)。

 

ヘンリー・フォード自身はそれぐらいの賃上げに応じることなどいともたやすいことだった。なぜなら、彼が気づいていて批判者たちが気づいていなかったというのは、連続的な移送式組立ラインによって作り出された大幅な労働コストの節減だったからである」(221頁)。

 

「しかし、高収益、大量生産の産業界の労働者は高賃金を支払われてしかるべきだという原則はアメリカに生き残った。なぜなら、労働運動の指導者、ウォルター・ルーサーが述べたように、“大量消費によって大量生産が可能になる”からである。給料取りは同時に給料を使う人々であり、ヘンリー・フォードケインズよりもニ○年も前に、経済成長の促進剤としての消費を実証したのである。

 日給五ドル制は、企業家が大量生産した商品を誰が買うのかという、ニ○世紀初頭の資本主義のジレンマへの回答だった。答は工場のなかで機械を操って働いている彼ら自身のすぐ目の前にあった。こうして利益は賃金として、のちにはそのほかの手当てとして、しだいに多く支払われるようになり、その派生効果は、生産、消費、交換という単純な経済のメカニズムをはるかに越えた。

 一九一七年のロシア革命はニ○世紀の歴史において新たな活動勢力を生み出したが、その三年前にヘンリー・フォードは労働者が大企業の敵になるとはかぎらないことをハイランドパークで証明したのである。高い賃金を出せば彼らを協力者、共犯者にすることができる、利益配分計画というもっともらしい口実をはるかに越えた正真正銘の高度に統合された資本主義体制の株主にすることができるということを証明したのである」(238頁)。

 

「しばらくのあいだアメリカじゅうがマッスルショーズに夢中になり、第二のカリフォルニアのゴールドラッシュの観を呈した」(367-9頁)。

 

「無名時代のヒトラーはフォードの本を読み、フォードの写真を壁に飾ってその言葉をしばしば霊感として引用した。『わが闘争』の数節でもウィリアム・キャメロンの手になるフォードの言葉を下敷きにしていたと思われる」(379頁)。

 

「T型は経済的で比較的故障が少ないが、飽きがきたのだという。「目先のかわったもの、つまりは変化が欲しいのです」と、オブライエンは報告している」(500頁)。

 

 

 

 

 

 

C.シュミット『政治的なものの概念』田中浩/原田武雄訳、未来社、1970

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有名な友敵理論が述べられる書。

政治的なるものの基本的概念は、友/敵であり、これは道徳における善/悪、美学における美/醜のようなもので、なおかつ政治的なものとして独立しているとする。友が「善」で「美」である必要はなく、敵が「悪」で「醜」である必要もない。また「敵」は「公敵」であって「私仇」ではないとする。ラテン語では私仇はinimici、公敵はhoste。ここで少し整理。

 

Hospitem は hospes の単数対格。

Hospes  は、主人、客、よそ者

Host はhospes から派生。

Host はhospesと同じく、主人、客、よそ者

Hospes からはhospitality

Host  からはhostility

 

後ろの方では日本の憲法九条のモデルになったのであろうケロッグ条約とその評価が書かれている。その評価は、米国側からの「安保ただ乗り論」を先取りしているようでもある。

ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子および貨幣の一般理論・上』間宮陽介訳、岩波書店、2008

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メモ

「以上見てきたように、消費性向の分析、資本の限界効率の定義、利子率の理論は、われわれの現在の知識にぽっかり空いた三つの主要な空隙であり、その空隙を埋めてやる必要がある。それが成し遂げられたとき、物価の理論はわれわれの一般理論にとっては補助的問題であるというそれ本来の場所に落ち着くことになろう。しかし貨幣はわれわれの利子率理論においては本質的な役割を演じる。貨幣を他のものから分かつ特性は何か」(p45)

「それゆえ雇用理論を論じるさいには、たった二つの基本的な数量単位、すなわち貨幣価値量と雇用量だけを利用するよう、提案したい。このうち第一のものは厳密に同質的であるが、第二のものもそうすることが可能である」、「雇用量を測る単位を労働単位と呼び、一労働単位の貨幣賃金を賃金単位と呼ぶことにしよう」「Eを賃金(および給与)総額、Wを賃金単位、Nを雇用量とすれば、E=N・Wとなる」(p57)

「あらゆる生産の目的は究極的には消費者の欲望を満たすことにある。けれども生産者が(消費者に代わって)費用を負担し、そして最終消費者がその生産物を購入するまでのあいだには、ふつうは時間を、時には長い時間を要する。この間、企業者(この場合、生産者と投資者の双方を含む)は、やがて時間が経ち、消費者に(直接・間接)供給する手はずが整ったとき、彼らがいったいどれくらい支払ってくれるものなのか、能うかぎり最善の期待を形成しなければならない」「第一の対応を短期期待、第二のタイプを長期期待と呼ぶことにする」(p64-65)

有効需要とは、企業者が彼らの決めた当期雇用量から受け取ると期待する総所得(すなわち売上収入)にほかならず、これには他の生産要素に手渡される所得も含まれている」、「有効需要はその総需要関数上の特定の一点で、供給条件と込みにすると企業者の期待利潤を最大化する雇用水準に対応しているがゆえに有効となる点である」(p77)

「所得=生産物価値=消費+投資

貯蓄=所得-消費

したがって

貯蓄=投資」(p88)

「上述したことは、人は誰でも保有する貨幣量を好きなときに変更する自由をもつが、個人残高を総計すると、その総額は必然的に銀行体系が創造した通貨量とぴたり一致するという命題-自由と必然を調和させる命題とうり二つである」、「個々人が保有したいと思う貨幣量の総額が銀行体系が創造した貨幣量に必然的に等しくなるのである。これこそまさに貨幣理論の根本命題にほかならない。これら二つの命題は売り手なくして買い手なし、買い手なくして売り手なし、という単純な事実から導出されたものである」(p120-121)

短期期待と長期期待について

「彼らのたいていの者は、実際には、投資対象のその耐用期間全体にわたる期待収益に関して、すぐれた長期期待を形成することに意を用いるのではなく、たいていの場合は、評価の慣習的基礎の変化を、一般大衆にわずかばかり先んじて予測しようとするにすぎない」(p213)

「こうしたことは、資本市場がいわゆる「流動性」(を促進すること)を目的として組織化されていることの不可避の結果である。正統的金融の格率の中でも、流動性信仰、すなわち投資機関においてはその資力を「流動的な」証券の保有に集中するのが絶対善であるとする教義ほど反社会的なものは断じて他にない」(p214)

「これからは、長期的視野に立ち社会の一般的利益を基礎にして資本財の限界効率を計算することのできる国家こそが、投資を直接組織化するのに、ますます大きな責任を負う、と私は見ている」(p227)

「利子率は流動性をある一定期間手放すことに対する報酬である」(p231)

「古典派の利子率理論は、資本の需要曲線もしくは利子率を所与の所得からの貯蓄額に関係づける曲線のいずれかが移動するか、あるいはこれら双方の曲線が移動する場合には、新しい利子率は二つの曲線の新位置の交点で与えられる、と想定しているように思われる。しかしこれはおかしな理論である。というのは、所得一定という仮定はこれら二つの曲線が互いに独立して移動しうるという仮定とは両立しないからである。二つのうちどちらか一方が移動したとすると、一般には、所得が変化するであろう。その結果、所得一定という仮定に依拠する全図式が崩壊することになる」(p249)

「伝統的分析は貯蓄が所得に依存していることには気付いていたが、所得が投資に依存している事実には目が向かなかった。投資が変化したとき、所得は必然的に、投資の変化と同額の貯蓄の変化を生むよう変化しなければならない。このようなふうにして、所得は投資に依存するのである」(p255)

リカード批判

「大富豪が、この世の住処として豪壮な邸宅を構え、死後の安息所としてピラミッドを建設するといったことに満足を見出したり、あるいはまた生前の罪滅ぼしのために大聖堂を造営したり修道院や海外布教団に寄進したりするならば、そのかぎりで、豊富な資本が豊富な生産物と齟齬を来たす日が来るのを先延ばしできるかもしれない。貯蓄を用いて「地中に穴を掘ること」にお金を費やすなら、雇用を増加させるばかりか、有用な財・サーヴィスからなる実質国民分配分をも増加させるであろう。だが、ひとたび有効需要を左右する要因をわがものとした日には、分別ある社会が場当たり的でしばしば浪費的でさえあるこのような緩和策に甘んじて依存し続ける理由はない」(p309)

William Mundie, William Le Baron Jenney +Skelton Construction: Its Origin and Development

こちらの再読。一応一次資料。

 

http://madhut.hatenablog.com/entry/2016/04/30/143005

http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-a308.html

 

まずジェラニオティスのこちらの論文で触れられるボウマンのパンフレットとHIBの関係について。 

http://madhut.hatenablog.com/entry/2018/01/16/172044

この問題はこの建物の竣工前後から言われているようである(→ P92 からThe Claim

of Mr.Frederick Baumann)

バッフィントンの件については第一ライタービルとの写真とバッフィントン設計の建物の写真がきわめて示唆的(p27,28grilled building という言葉は当時すでにあった)。

 

メモ

ジェニーのマニラ建築関係はまず本人の回想を含めた軸組構法の「進化」として、続いて本人の回想として述べられる。本人の回想と、その回想を引き出したことも含め、

 

http://madhut.hatenablog.com/entry/2017/12/04/181657

 

の記述との相同性。および

 

http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/index.html

 

メモ

 

「今日「スカイスクレーパー」「スケルトン・コンストラクション」として言われるものの起源と発展について過去10年、執筆するよう乞われてきた。」(p2

この10年、つまり1922年頃以降 『建築をめざして』(1923)、『インターナショナル・スタイル』(1933)、この原稿はほぼ後者発行と同時期、外伝的。とともに中西部の・・と並行的

 

第一部のテーブルから

1、第一ライター 1879

2HIB →インランド18849月号

3、ザ・ルーカリー →18866月号

4、ランド・マクナリービル 最初の鋼製スケルトン構造 1889-90

5、マンハッタンビル、ジェニー作、シカゴ初の全スケルトン構造 →インランド18897月号(→記述なし、間違いか?)

6、ザ・ライター・ストア 1889-90 ほぼクリアフロアこの建物に関する記述はなし。これは現存作

 

第二部、スケルトン構法について、冒頭でマニラが上述の出てくる。全体としてはevolution という記述。

10-

HIB設計における橋梁技師の雇用 →p17

HIB打合せの始まり →P18

party wall の件 →p19

基礎、ケーソン工法について →p23

 

第一ライタービルについては p24-

第一ライタービルはセンセーションを起こした p27

バッフィントンとの比較 

masonry skelton の対比 p37

再びHIBについて →p32

 

「ジェニー=リーダーシップ」の記述、p86

 

フランチェスコ・ムジカに関する記述 1929・・・The History of Skyscraper

シカゴ・トリビューン1907623日 日曜版、要チェック

 

 

 

 

 

Roula Mouroundellis Geraniotis, German Architectural Theory and Practice in Chicago,1850-1900, Winterthur Portfolio, winter 1986 University of Chicago Press

ジェラニオティスの論文その2

 

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メモ

「ドイツ1848/49年の民主化革命失敗後、ドイツ系移民建築家がシカゴに到着し始める。彼らは故国の独裁的政治的風土を嫌った民主主義者か、あるいはこの政治的条件から帰結する機会の欠落に怒っていた若い専門家たちであった。この両者にとって中西部の急成長する都市は約束の地であるように見えた。これに続くシカゴへのドイツ系移民の理由に1870年代のビスマクルの「文化闘争(Kulturkampf)」があり、これはカトリックの排除も含まれ、多くを国外に追い出したのだった。1871年のシカゴ大火はこの都市の大部分を灰燼に帰し、熟練労働力の緊急需要を生み出した。さらに1893年の世界博がある」(p293)。

 

フレデリック・ボウマンはこの第一世代であり、政治亡命者であることが明言され、さらに哲学にも造詣が深く、カント主義者であったことも言われている。引用を続ける。

 

「二年半(王立工業学校で、ベルリン工科大学というサリヴァン自伝での表記は誤りか)勉強し、科学、建築設計、構法の厳格かく完全な教育を受けた。教授陣の多くは大学教授であった。その教育はしかし、1849年の革命への彼の参加によって突如中断される。革命の失敗によりボウマンはドイツを去り、シカゴに直行し、18508月に到着し、すぐにジョン・M.ヴァン・オズデルの事務所で最初の専門建築家として勤務している」「彼はそれからドイツ系の石工職人組合に加入し、またオーギュスト・ウォルバウムの施工会社に入り、1865年まで施工の仕事を続ける」(p294

 

ボウマンの生涯についてはConstruction News41No3January15,1916

ボウマン以外のドイツ系建築家についての記述が続く。

 

「ここまで述べてきたシカゴの建物はすべて18711089日の大火で破壊された」「ドイツ系建築家とその会社はシカゴ再建にあたって、かつてこの街を建設した時と同じほど重要な役割を演じた」(p298)。

「国中に拡がった1873年恐慌はこの年代中続き、大火後のシカゴの再建を著しく遅らせた」(p300)。

「これらドイツ系建築家、この職能では最大の単一民族集団は、この街に高度に熟練し教育のある設計力を提供した」「ここで強調すべきはこれらドイツ人は故国と絶え間なく途絶えることのない知的交流を続けたということであり、これがシカゴの建築の発展に大きな影響を与え、この街の主要な建物の重要な特質の導入を容易にもした。

建築実践は設計や教育だけでなく理論をも伴う。ドイツの影響が頂点に達したのはここであり、その最も大きなチャンネルはボウマンで、その明晰な精神は深い哲学的思考と驚くべき幅広い知識を結び付けていた。

1887年のシカゴでのイリノイ州建築家協会でのシンポジウムで「建物の本質的構造要素をどの程度まで強調する必要があるか」という問いを扱い、ここでボウマンはウィルヘルム・リュプケ、ジョン・ラスキン、それにゴットフリート・ゼンパーという権威を引用しながら詳しく述べている」「私はただ様式、ある様式ではなく、を知るのみである。これはゼンパーが「その生来にいたる主要条件と建物の調和」と述べたものである。(→インランド、1887559-61

実際、シカゴの建築家たちは純粋なアメリカ様式を生み出すことをしばしば議論していた。こうした議論の一つで現代(近代)における建築芸術の本当の基礎となるものと彼が見なしたものを強調し、ゼンパーの様式定義を引用しながらそれを、まずドイツ語で、それから英語で結論した。「様式とは構造とその出自の一致である」」。(→インランド、18873月)

「「建築について」と題した1889年ワシントンD.C.でのAIA大会でのレクチャーでゼンパーの書物に全面的に依拠した詳細な歴史的分析を提供している。彼はゼンパー理論の主要点を強調する。つまり建築の空間的特質は織物芸術に起源があること、建築形態的語彙の様式的起源は、建築創造に先行する装飾芸術や応用芸術に見いだされ得ること、建築構法はつねに四つの要素からなること、つまり中心としての炉、保護する屋根、囲む壁、それに基礎である。それからボウマンは同時代の有機的建築の考えをゼンパーの古代ギリシア神殿の挿絵を用いながら支持する」(p305

「様式論」と名づけられ、1892年のシカゴでのAIA年会で読まれた長いペーパーで、ボウマンは絵画、彫刻、それに建築の様式を時代を通して論じる。彼はまず・・まさにカント的手つきで・・機械芸術の様式と純芸術のものとを区別する」(p305)。

「ゼンパーは重ねて説明する、ゼンパーは様式を絶対のものではなく、結果のものであるとして与えたという定義をである」(p306)。

「おそらく彼の信条と1848/49年の民主革命への積極的な参加は、似たような境遇を共有していたシカゴの多くのドイツ人たち、故国を追い出された彼ら、に共感を与えたことだろう。最も重要な理由は疑いなく、ゼンパーの考えが、19世紀シカゴ建築の傾向に対応していたということであり、型、様式、それに芸術と建築における有機性や機能性という主要問題を与えたということである。ゼンパーの様式定義は与件に出自し与件と調和することを強調しており、これは様式を決まりきった形態装置に代わって技術的・社会的な範疇として様式を定義するものだった。そしてデザインの機能的側面を強調した。これは、かつてない機能的・技術的問題に直面していたシカゴの建築家たちに驚くほど合致したのであった」(p306

「シカゴのドイツ系移民建築家たちはチャンネルとして働き、そこを通して重要なドイツの考えが中西部に到達し得、その文化と建築に影響を与えたのだった」(p306

 

 

 

 

 

 

 

 

Richard A.Etlin, Frank Lloyd Wright and Le Corbusier, The romantic legacy, Manchester University Press, 1994

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リチャード・A.エトリンのフランク・ロイド・ライトル・コルビュジエ論にも目を通しておく。エトリンの書は以前、ジュゼッペ・テラーニ論を書く際にそのイタリア近代建築史を引用させてもらった。序文によればプリンストン大学でのフランス啓蒙主義建築についての学位論文執筆後、イタリア近代建築の同書と本書をほぼ同時期に行きつ戻りつ執筆した、とある。

大雑把に述べて1820年頃から第二次世界大戦(1940年頃)までを一つの時代(それがいわばロマン主義モダニズム期)と捉えて見ていくものと述べてよく、1820年頃に一つの時代の嚆矢を見るという点では同時代あたりのソーマトロープに近代的視覚性の嚆矢を見たジョナサン・クレーリー(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20090927)を思い出させなくもない。これも大雑把に述べて、この時代の始まりに位置しているのがキャトルメール・ド=クワンシーとウジェーヌ・ヴィオレ­=ル=デュクであり、そしてこの時代の終わりに位置しているのがフランク・ロイド・ライトル・コルビュジエであった、とこれもそう述べうるだろうか。

少なくともニコラウス・ペヴスナー以降、19世紀は様式建築の時代、それも考古学的科学的様式主義の時代(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/nikolaus-pevsne.html)であると見做され、あるいはエクレクティシズムの時代と見做されてきたが、これら諸様式のなかにあって二つの大様式となっていくもの、あるいは二つの主義となっていくものがあり、つまりそれがゴシック主義と古典主義であり、そしてその大きな要因としてあったものが「建築的体系」なのであったと言う。言い換えるならゴシック主義と古典主義は単なる様式ではなくそれぞれ別個の内在的体系をもった「建築的体系」なのであり、こうした考えは1820年頃にド=クワンシーとヴィオレらによってじょじょに始まり、ライトやル・コルビュジエによってその完成を見たのである、とこれもそう述べうるであろうか。

全体は1・建築的体系、2・ピクチャレスク、3・エクレクティシズムと近代建築、4・時代精神の四章からなり、大きな頁が割かれているのは1章と2章である。

論点を大雑把に述べると、ピクチャレスクはその非・対称性、不規則性から、プログラムの非・対称的配置、配置計画に影響を与え(distributionやマスの配置であるponderation他)、またロマン主義的ヘレニズムという古代ギリシア建築の評価へとこれはさらに続き、つまりゴシック/ロマン主義的であったものが、古典主義のなかへも浸透してその評価のあり方さえ変えていったとされる。

とりわけアクロポリスの地形に沿った配置のあり方、垂直でも直角でもなく微妙な歪みが発見されるにつれ、こうしたあり方は強まっていくという。19世紀初頭ボザールで古典建築といえば古代ローマ建築であり、1829年にアンリ・ラブルーストが古代ギリシアの復元図を提出した時これは猛然と反発され、1845年にいたってロマン主義的ヘレニズムへと変わっていったという。

エクレクティシズムについて。

19世紀初頭のフランスにおいて、エクレクティシズムは建築だけでなく様々な分野で言われたことであり、たとえば哲学の分野では「哲学史を真偽を区別するものとしてではなく、それぞれの哲学体系をそれ自身において肯定し、ただし他の哲学体系の視点から見ると不完全なものと見做す」ものとして唱えられていたという(151頁)。

ここから逆に「普遍的なもの」が反照される。とともに建築においてはそれはまた当時の世界化の過程とも不可分のものであったはずである。「『建築講話』のヴィオレ・ル=デュクは近代的な世界旅行の利点を歓迎し、それによって建築の第一原理を説明するための普遍的建築を組織する事を主題とする書を書いたのである。これはまたヴィオレが「エクレクティックな手つき」と名づけた方法に従って束ねられ得る異なる原理を説明できるかもしれないものであった。講話(1862)の第一巻で、19世紀の世界に関する文化的知見の拡張によって惹起された挑戦を、彼がいかに受容したかを述べる」(153頁)。

言い換えるなら、エクレクティシズムは当時世界へと拡張していった西洋の知見のなかで取り得た方法であるとともに、そこから世界的に普遍的な原理を見出そうとする根底を提供したものであった、とも言えるであろうか。

時代精神について。

これはウィーン学派の考えともある程度共通するもののように見える。「1820年から1940年にいたる新しい建築の探求はある確信に支配されていた。文化とは、ナショナル・アイデンティティと時代の大意に関係したそれぞれの性格をもっている、という確信である」(165頁)。

さて建築的体系である。この体系は、構法体系、形態(形式)体系、装飾体系からなり、後二者の基本をなしているのが、構法体系であるという。

以下、ル・コルビュジエ関連。

「当時ル・コルビュジエは「純粋で完全な構法システム」を描いていた。これは一つの構造スケルトンに組み立てられる、量産品、標準品、に倣ったものであった。六本の薄い鉄筋コンクリート柱が床を支え、その床はキャンティレヴァー形式で柱部分からわずかにはみ出、という基本構造である」「耐力壁が抹消されて外壁ファサードはまったく開放され、「ドミノ」フレームは使用者にその内部の自由な配置と、自然光と換気をももたらした」「のちの1926年の新建築の五要点で」「ル・コルビュジエフランク・ロイド・ライトのように暗くじめじめしたものは不便であると見ていた」(15頁)。

シカゴ派関連

「ライトのプレーリーハウスはしかし、慣習的建築的体系理解を、ドイツの建築家・理論家ゴットフリート・ゼンパーが説明した象徴的建築的体系に結び付けている。

ヴィオレ=ル=デュクとオーギュスト・ショワジーは建物芸術に根差した建築的体系がいかに豊穣なものになり得るかを示した一方、ゴットフリート・ゼンパーは『建築的体系』において歴史的な様々な文化においてそれが神話的に示唆的であるかを解説した。歴史的建築の背後にある主要な衝動は炉という中心的な焦点のまわりにシェルターを造ることであるとゼンパーは信じていた」「炉とは、ゼンパーは強調する、「最初にして最も重要なものであり、建築の道徳的要素である」、「そのまわりに他の三つの要素が集められる。屋根、囲い、そして基壇である。これらは炉の火を自然界の他の三要素から守り防ぐものである」。ゼンパーは囲いが歴史的に織物から発展してきたことを強調する」

「ライトがシカゴに初めてやって来たとき、ゼンパーの諸理念はこの街の知的関心事の一つであった。ドイツ生まれの建築家フレデリック・ボウマンは機会を捉えてそれらを紹介し、その一部は『インランド・アーキテクツ』に記録されている。この進歩的雑誌は同時にゼンパーの『様式論』を、ジョン・ウェルボーン・ルートとフリッツ・ワーグナーの翻訳で掲載している。シカゴの建築家たちはここで読めたはずである」。

「『インランド・アーキテクツ』でゼンパーの四要素の考えが掲載されて数年後、「シカゴの進歩的な若い建築家の一群(そして多く)は、ゼンパーの象徴的建築的体系の構成要素が「鳳凰殿」という形で目の前に現れたことに心奪われたのだった。これは1893年シカゴ・コロンビア万博において日本の神殿を非宗教的に改変して建設したものであった。この日本建築の基本要素は聖廟であり、これはゼンパーの炉に相当し、さらに基壇があり、非・構造的な襖・障子はゼンパーの網代的な壁に類比的であり、そして拡がり行く屋根が載っていたのである」。「プレーリーハウスの構成要素は、住宅の祭殿のように扱われる暖炉とその煙突、拡がり行く屋根、低い基壇」「そしてこれらの窓はしばしば連続的しており、屋根が壁の上に視覚的に浮いているかのように見せるものであった。そのことによって壁と屋根を分節もしていたのである。

日本建築の例はゼンパーの象徴的建築的体系の教義を単に補強しただけでなく、住宅建築の護られているという心理的感覚をも示していた。これはのちにAIA会長となるアーヴィング・K.パウンドが示したものであり、ジョン・ラスキンの「家」を反映したものでもあった」(27-29頁)。

「最終的にライトは彼が「内臓暖炉(integral fireplace)」と呼ぶものを生み出す。これは大きな煙突を外部に持ち、石造壁にくり貫かれた印象的な開口のことである」(30頁)。

「ラーキン管理棟からユニティ・テンプルからジョンソン管理棟へ、さらにグッゲンハイム美術館へと、大きな内部空間にバルコニーを設ける理由をライトはつねに帰結させる。このバルコニーは外部からは切り離されている。ある意味で彼の公共的な建築を訪れることは、外部世界を遮断し、内部を精神的なもので満たすようまさに強制することである。(全てではないにしても)多くにおいて、陽と水の詩がそこを支配している。住宅建築では詩的想像力は土と火と風に根ざしている一方、公共的な建築は水の領域にある」(61-62頁)。

カウフマン邸は地火風水の結節点にあるというべきか。

とともにゼンパーのシカゴへの到達時期と日本建築の到達時期についても要考察。

北川フラム『ひらく美術―地域と人間のつながりをお取り戻す』ちくま新書2015、北川フラム「瀬戸内国際芸術祭」、福武聰一郎 安藤忠雄ほか『直島瀬戸内アートの楽園』新潮社2011、金晴姫第6章、鎌田裕美第7章、古川一郎編『地域活性化のマーケティング』有斐閣2011

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メモ

「当初の数年、地元の方々から彼らは鼻もひっかけられず、無視されたそうです。集落でうまくうまくいかないことが起こると「日芸のせいではないか」と疑われたこともあったそうで、とにかく認められるまではと、歯を食いしばり何年も耐えたということです。想像はつきます。彼はその間、どんなグチも私にもらしませんでした。“彫る”という身体的な労働が、それらの人間的な、都会的なアレコレを超えさせる力だったのではないか、と私は想像します」(北川2015、54-55頁)、「地域に影響力があった市の文化協会のリーダー達は、具象と平面構成以外の抽象的な美術は嫌いなのです。彼らの一部が大騒ぎして、あらゆる工作をして北川追い落としが図られました。確かに「芸術は爆発だ」と叫んでいたアーティストがいたぐらいなのですから、現代美術は非常識、反体制、少数の変わり者の遊びだと思われていたのです」(ibid.p91)。「こういう土地で作品製作するというのは、まさに互いの理解のうえに成り立っていく未知のものに向かっての協働であり、土地という私有、知識という専有を離れた喜びのなかで進んでいくのです。そしてそこにできていくのは赤ん坊のような、不思議で楽しい、しかし手のかかるもので、美術は天からの贈り物のような媒介物になっていくのです。人の土地にものを作ろうとすることが私有制を超えていくのです」(ibid.p97)。「当初地域づくりの起爆剤を考えた時、それはディズニーランドやシーガイアなどのテーマパークではありませんでした。お金もない、長く続けることができるその土地にしかない固有のもの。参考になったのは四国八十八箇所巡りや、金毘羅さんの千段の階段、わざわざ山の上まで登る醍醐寺上醍醐など、おもてなしと身体全体を使った旅のことでした。そのままの土地の生活、そこを巡る身体いっぱい五感全開の旅と、すべてを受け入れたどんづまりのホスピタリティ。これをかたちにするしかない」(ibid.,p108-109)   

「芸術祭は、田舎で行われる、現代アートが中心の、お祭りでありたい。これが当初からの主軸です。しかし国際社会のなかでの、日本の政治的、経済的な迷走、凋落のなかで、どうやって田舎の人口減をストップし、農業を中心としたものづくりをし、生産力の低下という課題に対応するか?という根本的な問題があります。それらを解決するための旗、3年に1回の里程標として芸術祭を考えてきました」(ibid.,p119)。

「ほとんどのアーティストは日本(国家)が決めている模範や流行を消化するのにせいいっぱいなだけです。また凡百のアーティストは創造的なわけではありません。よく言ってみても修行中なのです」(ibid.,p151)。「しかし志ある人はどんな組織にもいるはずで、私たちは正攻法で、将来のヴィジョンを示し続け、理解できる活動をし続けなければならないと思います。それら政治の問題はともかく、知識人と呼ばれる人たちが、権力とマスコミの刹那的なこと、つながれば何でもよいこと、効率のよいこと、異質者の排除に向かっていることが問題なのです。それを戒めながらチームをつくっていかねばなりません」(ibid.,p162)。

「瀬戸内国際芸術祭は、2010年7月19日の海の日から10月31日までの105日間、直島・豊島・女木島・男木島・小豆島・犬島・大島の七つの島と高松を舞台に繰り広げられた。来場者は97万人にのぼった。世界中(18カ国・地域)から75のアーティスト・プロジェクトが集い、島に入り、作品をつくった。また16のイベントを行い、来場者を楽しませた。ボランティアサポーターの「こえび隊」には約2600名の登録があった」(北川2011、p110-111)。

「当時こへび隊のメンバーは100人強、初めての越後妻有に期待を膨らませていた都会の若者たちは、門前払いをされたり、胸ぐらをつかまれたりと、現地住民の冷たい反応に大変なショックを受け、泣きながら帰ってくる人もいたという」「「異質なものをぶつける。北川や渡辺がやってもダメ。最初は住民は全然動かない。だが、、若者、しかも都会の何も知らない若者を前面に出すとものが動き出した。結局は、人間の好奇心だと思う」(金晴姫2011,p201-205)。

「雇用面に関してはどうだろうか。越後妻有では現在、さまざまな形で通年100人ほどを採用している。芸術祭開催の年には400人ほどの雇用が生まれる。地元の住民は、作品の管理や説明など。自分たちの生活を表現してそれが収入になる。一方、瀬戸内では、緊急雇用創出基金実行委員会の直接雇用で県が272人、高松市、土庄町、直島町があわせて33人を雇用したほか、開催期間中に実行委員会の直接雇用で5人、BASNなどの関係団体で51人を雇用し、全体で400人弱となった」(金ibid.,p212)。

「1992年、現代アートのためのベネッセハウスによるミュージアムが開館する。安藤忠雄氏の設計による美術館で、ホテルを併設した「宿泊できる美術館」である。これ以降。現代アート作家の作品が屋外に展示されるなど、自然とアートを融合させる計画が進んでいく」(鎌田2011、p241-242)。「「現代アートによる地域づくり」が及ぼした直島の変化として、民宿などの宿泊施設やカフェをはじめとする飲食店が増えていることもある(直島町インタビュー調査)。筆者も約1年の間に数回訪問したが、そのたびに、カフェなどの飲食店が増えたことを実感した」(鎌田ibid.,p249-250)

 

G.R.Larson and R.M.Geraniotis, Toward a better undestanding of the evolution of the iron skelton frame in Chicago, Structural Iron and Steel, 1850-1900, edited by Robert Thorne, Studies in the History of Civil Engineering, Volume 10, Ashgate Publishing Li

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R.M.ジェラニオティス(Geraniotis)の論文がようやく入手できた。全体は鉄鋼構造史、各論文初出をそのまま合本したもので論文ごとに文字の大きさもフォントも異なり、また全体構成は第一章が水晶宮とその後、第二章が橋梁と展覧会建物、第三章が鋼フレーム構法の到来、という構成。本論文は第三章に含まれる。

前半はほぼHIB批判である。とはいえHIBが「初のスカイスクレーパー」ではないことはこの直前のカール・W.コンディットの論文でも述べられていることであり、「HIBは初のスカイスクレーパーではない」、「ジェニーはスカイスクレーパーの父ではない」という謂い自体が、それほど重要とは思えない。「スカイスクレーパー」「鉄鋼フレーム構造(シカゴ構法)」の問題はまた別に考えた方がいいようにも思える。

むしろ自然光採光のためにこの「構法」を用いたこと、desideratumとしてのdaylight(それは不動産価値に直接的に関係している)をジェニーが意識していたこと(304頁)は、ボウマンやブルックス・ブラザースとの共通の認識(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/franklloydwrigh.html)であったことを窺わせる。

さてボウマンの小論(Frederic Baumann, Improvement in the Construction of Tall Buildings, 1884 - Stolog)の位置づけである。この論文を今日の時点で読み返すと「ふむふむそうか」で終わりそうであるが、この論文はHIBより前に発表されており、なおかつこの論文で述べられていることは、まだ実現されていないフレーム構造のtall buildingなのであると、著者は述べる。

つまりボウマンはこの論文において概念として、そしてそれが概念上のものであるがゆえにより一層、純粋な構法を初めてここで前提とし、かつ論じている、ということになるのである。ボウマンはヨーロピアンだなとも言えるか。

とはいえ他方では、HIB背面の耐力壁がなければ通りに面したフレーム構造はまったく機能しないこと、EVバンクの向こうには(定型ではあるが)光井戸があること、背面耐力壁、前面フレーム構造(ただしジェラニオティスによれば構造的には完全なものではない)という見ようによっては明快な使い分けには留意しておく。

 

Sullivan, Louis H. The tall office building artistically considered. Lippincott`s Magazine, March 1896, MIT OpenCourseWare

 

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ルイス・ヘンリー・サリヴァンの重要論文であり、そのエッセンスが詰まった論文である。

まずサリヴァンの関心事はformにあり、本論もモダンオフィスビルディングの形(form)はどうあるべきかという点から論が起こされ、最終的な「法則(the law)」である有名な「形はつねに機能に従う(Form ever follows function)」が導き出されていく。ただしサリヴァンの述べる「機能」は有機主義的なものであり、このことがホレーショ・グリーノウとの関連性を参照させてきたものである一方、グリーノウとの関連は単なるこじつけのようにも見え、実際、グリーノウはここにあってはほとんど関係ないように見える。こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/function-and-fo.html)とこちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/adler-and-sulli.html)も。

前半部分はまさにマンフォードが『褐色の30年』で引用した通りで(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/towards-modern-.html)、しかしながらこの論文の主旨は『キンダーガーテン・チャット』の記述ともある程度は重複するが、それより後ろの部分にあるように見える。

まず「建築家」を「投資家・技師・施工者」と対比的に捉える視点、それもいわば詩人/芸術家としての建築家として捉える視点である。そのまま引用する。「投資家-技師-施工者たちによる忌まわしい想像される建物を超える段階、というのも建築家の手がいまや確かに確たる位置に感じられるなら徹底的に確固とし、論理的で、与条件の一貫した表現の示唆がはっきりしたものとなってくる」、「彼にディテールにいたるまで形の才能があるなら、それへのいくばくかの愛があるなら、その結果はさらに、その表現における簡明でまっすぐなナチュラルネスで完全なものにくわえ、魅惑的な情感をも持ち得るであろう」(3頁)。

サリヴァンがここから高層オフィスビルに見るそれゆえナチュラルな形の性質は上昇感(lofty)である(And at once we answer, it is lofty)。「高さの諸力(force and power)は栄光に包まれるに違いなく、そこには上昇のプライドがある」(3頁)。

有名な「形はつねに機能に従う」の前後の文章はこうである

「空を飛ぶ鷲がその翼をのばすときであれ、林檎の花が咲くときであれ、働き馬が歩むときであれ、あるいは明るい白鳥、枝分かれするブナの木、底流の渦巻き、流れゆく雲、何にもまして太陽の運行、これらにおいて形はつねに機能に従う。そしてこれは法である。機能が変わらなければ、形も変わらない」(3頁)。

ここから二つのことが窺える。一つはこの有機主義はいわゆる「技師の美学」とは異なるものであること、そしてもう一つはサリヴァンの最大の関心事は「形(form)」であること。

 

 

Eugene Viollet-le-Duc, The Habitations of Man in All Ages, translated by Benjamin Bucknall, Sampton Low, Marston, Searle, & Rivingston, London, 1876

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こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/theodore-turuk.html)に関連して。序文冒頭でヘーゲルの『哲学史』英語版の訳者(ジョン・シルビー)への謝辞が述べられている。ヘーゲルの言説のように大きな道筋を必ずしも描いていくというわけではないが(ところどころ地理的歴史的に飛躍する)、20世紀の風土論とされるものは19世紀のこうした諸言説の延長上に成立したのだろうとは思わせる。全体は「進歩主義者」のエパーゴスと保守主義者の「ドキシアデス」という二人の語り部の語りを交えて進んでいく。

まず最も原始的な小屋として登場するのはほぼオーストロネシアの転び破風/原始入母屋住居(http://madhut.hatenablog.com/entry/2017/07/06/234618)である。描写を引用する。

「エパーゴス:二本の木の先端をまず緊結し、円形(平面)状の木をそれに立てかけてゆくことを、それで誰が示したのか。それらのあいだをイグサや小枝やそれに編み上げられた長い草で塞ぎ、根を粘土で覆い、構造全体が連続的となることを、彼は示した。風雨が吹き込む側と反対側は開口のままとした。床には枝や葦を敷き詰め、泥は足で踏み均された。

その日の終わりごろには、この小屋は完成した。そしてナイリッティのそれぞれの家族は、それぞれの小屋を持ちたがった」(6-7頁)。

この小屋の制作者は「生物」と呼ばれていて完全な人類とはみなされていなようでもある。

ちなみに「アーリア人」に関する記述はこんな感じである。

「体格がよくハンサムで勇敢であるアーリア人は、これら有色人種のなかにあって優越な存在として自らを示し、命令するものとして生れ、(有色人種の)数にも関わらず抵抗の試みはすぐに放棄された」「抵抗の試みが抑えられると、アーリア人は征服した土地に永住することを考え出した。しかし征服された人種の住居はレンガや植物の茎でできており軽量で薄弱なものだったので、新たな征服者には向いていなかった。彼らは頑丈で抵抗者の攻撃や風雨をしのげる住宅を欲したのである」(45頁)。

これより少し前、人間の住居らしいものは「黄色人種(The Yellow Race)」によるもので、その住居は竹でできている。

「この建物はすべて竹でできている。茎によるトレリスは味わい深く構成されており、あらゆる開口を塞ぎつつ空気は通した」「厚い竹でできた大屋根は曲げられ葦で巧みに覆われていた。これが雨と熱から内部を守っていた。この覆いは厚かった」「建物は大きな石の基壇上に載り、この基壇は上部と完璧に一致しており、しかし不規則な形をしていた。内部も外部も彩度の高い色で彩色されており、とりわけ黄色と緑色が際立っていた」(30-32頁)。

「見ろよ、と相棒は言った。この見た目は弱い素材を用いながら、軽くて強い大きな屋根を造ることに彼らは成功している。これらブラケットがいかに器用に扱われていることか! 気候熱による不快を排除しつつ、室内を空気がいかに自由に流れていることか!」(35-36頁)。

続ける。

「しばし考えたのちエパーゴスはしかしながら、こう考えた。様々な長さや厚みのこれらの茎をフレームするというこのアイデアは、この素材をまず所有するところから始まる。しかしアーリア人が暮らす山にはこの種の植生はなく、たとえば仮に彼らがそれを持ちえたとしても、その高度の気候は、こうした構造体がシェルターとして機能するには厳しいものである。広く湿気のあるこの平野では反対に、これら「オープン・ワーク」の住居は最も適合したものである」(37頁)。

この「黄色人種」の住宅(ふとっちょフーの家)が具体的にどこのものかは定かではないが、アジア・モンスーン地帯のどこかを想定しているのではないか。

また幾何学の誕生は古代エジプトにおいてと見做され(ヴィルヘルム・ヴォーリンガーの言説もこうした19世紀の言説の延長上に成立したのだと思わせる)、のちのピタゴラス三角形(完全三角形)の辺のそれぞれに「オシリス」、「イシス」、「ルスス」の名前が当てられ、こうした幾何学の誕生が地震という外部与条件の観点から説き起こされている。

最終章はルネサンスについてである。こうしたところもヘーゲルとは異なる。

John Szarkovsky, The Idea of Louis Sullivan, A Bulfinch Press Book, 1956, reprinted 2000

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閑話休題的に。

こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/hugh-morrison-l.html)と、こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/h2012-7851.html)にも関連して。ちなみに著者のジョン・ザルコウスキー(1925-2007、MoMAディレクター1962-1991)は石元泰博(1921-2012)と大雑把にみて世代的に同じと言える。復刻版ではテレンス・ライリーの序文があり、そこで写真家アンドレアス・グルスキーによるグンナー・アスプルンド、ノーマン・フォスターらの写真と、トーマス・ルフによるヘルツォーク・アンド・ドムーロンの写真などについても言及されている。

基本的な構成はほぼ見開き頁にザルコウスキーによるサリヴァン建築の写真と、サリヴァンの著作からとられた箴言めいた言説等が並んでいくもので、サリヴァンの短いバイオグラフィーが途中に挿入されている。ここで年代記的に少し整理。

1856年9月生まれ

1873年不況でフランク・ファーネス事務所→シカゴ、同地でポートランド・ブロックを見てジェニー事務所入所(17歳頃)、ジェニー事務所には約半年、約1年のボザール留学。

留学後、ジェニー事務所であったエーデルマンの事務所等、いくつか(several)の事務所に5年勤務。

1879年、アドラー事務所入所

1880年-、アドラー+サリヴァン事務所

1889年、オーディトリアムビル

1890年、ウェインライト

1894年、ギャランティ

1894年、サリヴァン事務所

1896年、The tall office building artistically considered. Lippincott's Magazine, March 1896

1899年-1904年、シュレジンジャー+メイヤー

 

Joanna Merwood-Salisbury, The Gothic Revival and the Chicago School: From Naturalistic Ornament to Constructive Expression, Skyscraper Gothic, Medieval Style and Modernist Buildings, ed by Kevin D.Murphy, Lisa Reilly, University of Virginia Press, 2017

 

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 ジョアナ・マーウッド=ソルスベリー(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/joanna-merwood.htmlhttp://madhut.hatenablog.com/entry/2015/09/18/171408 )のペーパー。大雑把に述べて「思想/様式」から引き剥がされたとでも言うべきあり方で近代建築が成立したといった諸言説に対して、シカゴ派建築のなかにゴシック・リヴァイヴァル→ロマネスク・リヴァイヴァル→ゴシック・リヴァイヴァルといった思想/様式を読み取っていくものといえる。カール・コンディット(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/adler-and-sulli.html)ともどもマンフレッド・タフーリの論文( http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/manfredo-tafuri.html )も終わりの方で批判的に瞥見されている。

 ロマネスク・リヴァイヴァルは言わずもがなヘンリー・ホブソン・リチャードソンのリチャードソニアン・ロマネスクを嚆矢とし、これがマーシャル・フィールズを通してシカゴ等に広まったことはこれまでも述べられてきた。初期のゴシック・リヴァイヴァルと後期のゴシック・リヴァイヴァル(それぞれが意味するものは異なっている)については、これまであまり触れてこられなかったものである。

 

メモ

1920年代以降数十年にわたり、批評家たちはシカゴ派は様式の欠如によって定義されると固く信じてきた、たとえばスカイスクレーパーを可能にした新しい構法は、先行する歴史様式の参照をも無効にしたといった具合である。「シャルトルのゴシック聖堂に対するものと同じ関係が、モントークの高度な商業ビルに対する関係である」と建築家トーマス・トルマッジは1941年に書いた」(88頁)。

「米国の建築家がジョン・ラスキンやウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクから学んだものは固定した様式としてのゴシックではなく、柔軟で時代の利便に容易に適用できるものなのであった。このようにしてこれはスカイスクレーパーの理想的な先行者となったのであり、1880年代に広くその変形が用いられたのである」(89頁)。

このゴシックの例として、P.B.ライトのレノックスビル(1872)とジェニーのポートランドブロック(1872)、メイソンブロック(1880)が挙げられる。「尖頭アーチを持った狭い窓、自然主義的装飾、それに複数の色を持つ石とレンガの組み合わせ」という特徴によってである(90頁)。

「ゴシック・リヴァイヴァルの道徳的連想はシカゴにおいてとりわけ重要であった。ニューヨーク以上にシカゴは町全体が金儲けのためのアメリカン・ゴッサムと見做され、1833年の開闢以降、この中西部のメトロポリスはその市民の側の文化的感覚や精神的感性のなさ、そして建築の質の低さにおいて19世紀を通じてつねに軽蔑されてきたからである」(93頁)。

「ライト(1871年にシカゴにやってきた)やジェニーといった建築家の心中においてはゴシックを商業ビルに採用することは美的進化にぴったりだったのである」(93頁)。

 

後期のゴシック・リヴァイヴァルについての記述もメモ

「ゴシック・リヴァイヴァルは近代性や産業化の批判から、ビジネスそれ自体を道徳的冒険とする表現へと変容していったのである。地平線高く聳えるゴシック・スカイスクレーパーは産業化社会における調和という新しい時代の象徴を意図したのである」(105頁)。

 

この分野における研究者達の展開もだんだん見えてきた。