Stolog

メモ

ジェイン・ジェイコブス『発展する地域 衰退する地域 地域が自立するための経済学』中村達也訳、2012


前半は既存経済学の諸説を吟味しながら、どれも都市国家から帝国まで国家規模を無視してごっちゃにしているとし、経済単位としての都市地域分析に向かう。

都市地域の核をなすのは「輸入置換都市」である。これはそれまで輸入していたものをイノヴェーションとインプロヴィゼーションによって自家薬篭中のものとして置換し、今度は自らの輸出品として稼得する能力をもった自前の都市とその後背地のことである。遠隔地の単なる供給地となるかあるいは自前の経済を形成できるかはこの「輸入置換都市」を形成できるかどうかにある。

書のなかばでヴェネチアの生成が輸入置換都市の例として詳述されるが、これは世界システム論の記述とも重なる。輸入置換都市にあるのは、1市場、2仕事、3移植工場、4技術、5資本、である。

帝国には、ローマ帝国/フランス型/大陸型と、英国型/海洋型があるとする。

米国サンベルトの経済構造は、軍需依存とイランなどの後進地域相手の衰退取引であるとする。日本の場合は1977年が衰退への転換点であり、補助金の増大、米国と同じく後進地域との交易増大、そして米国と同じく軍需経済の増大を見るだろうと予測。中国や旧ソ連の統治形態は古いものの再現にすぎないと見る。

末尾で梅棹忠夫の「漂流」概念が引かれる。この概念は著者のいうインプロヴィゼーションやイノヴェーション概念とも近いように見える。

国家と地域の違いについて途中引用。

「現代の国家は、ほとんど例外なく、まず血なまぐさい軍事力によって成立した。そして大部分の国家は、往々にして流血によって統一された」、「国家は、ローマ神話の鍛冶の神バルカンの申し子でもなく、使者であり治療術の保護者でもあるマーキュリーの申し子でもなく、ましてや肥沃と豊穣の母ケレスの申し子でもない。それらのごとくふるまうこともしない。実際には、国家は、軍神マルスの申し子のようにふるまい、多くの国民は、そのことのゆえに国家を崇めるのである。

 国家の神秘性は、人間の犠牲の上に成り立った強力で陰惨な魅力によるものである」336頁

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西谷啓治著作集10、創文社、1987

サルトル批判

実存主義の被投的・企投(geworfener entwurf)概念は、「被投」から「企投」への過程で実存主義の有名な「選択」という鍵概念が入る。これがサルトルニヒリズムをして自我を強くしているという批判。

古代ギリシアではデミウルゴスは素材に形態を与えるフォーム・ギヴァー。キリスト教では神が無から有を創造したとしたために説明が難しくなったという説明。近代はこの神を除外したゆえ「無」が残ったという説明。

Subjectはもともと個人の主観でも主体でもない。キリスト教においてはsubjectにおける個人と世界は未分化。西田・西谷においては意志的なものは主体、意識的なものは主観と訳し分けられる。

西谷は仏教から「空」の概念を引っ張ってくるという説明。

 

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ギヨーム・アポリネール「キュービズムの画家たち」渡邉一民訳、『アポリネール全集10』紀伊国屋書店1964

瀧口修造が述べる「面的透明性」という概念はここには出てこない。

「物体はすべて光のまえでは平等である。その変化は、事物を思いのままに構成する光の力によって生じる」(140頁)→1912

ル・コルビュジエの『建築をめざして』中の有名な箴言の元なのか。

 

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コンドルセ他『フランス革命期の公教育論』坂上孝編訳、岩波書店、2002年

理工科大学設立について確認。

278頁の解説文

テルミドールの政変は公教育の構想にも大きな変化をもたらした。初等教育に充填を置き、知育中心か徳育中心かという教育理念にかんする議論に終始したそれまでの議論に代わって、エリートの養成を目的とする高等教育が公教育制度の中心的課題になるのである。こうして一七九四年九月から、のちに理工科学校として知られることになる公共事業中央学校、国立工芸院、医学校(パリ、モンペリエストラスブール)、中央学校などが次々と設立される。

公共事業中央学校は、一七九四年三月にバレールの提案にもとづいて、軍隊が緊急に必要としている技術将校の速成と科学・技術の総合的教育を目的として、設立が決定された(ヴァントーズ二一日の法令)。」

「翌年八月、公共事業中央学校は理工科学校と改称され、その後、フランスの科学技術教育の中心的位置を占め続けることになる」。

 

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瀧口修三 『コレクション・瀧口修三・12、戦前・戦中編II、1937-1938』、みすず書房 1993

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メモ

「あらゆる記憶像は排除せられ、したがってモチーフというものは、われわれの視覚的な客観物としてのみならず、主観的な活動を通して初めて把握されるものとして理解された。アポリネールが「諒解されたレアリテ」あるいは「創造されたレアリテ」といっているものである。たとえば、一個のテーブルそれ自体は、われわれに固有な感覚を与えるにすぎない。画面の技術的な条件に従属せしめられた時にのみ感覚をもつものであって、結局、画面はまったく別個なレアリテの仮構にすぎないものである。立体派の画家は、カルル・アインシュタインの言葉によれば、「抽斗をあけるように物体をあけた」のであった。注7

 タブローの表面は、たんなる現実の視覚的重複物としてでなく、自律的な重要さをもってきた。彼らはヴォリュームを表わすのに、異なった諸部分の同時的な対比をもってし、「面の透明性」transparence des plansといわれる面の重複や分割の方法によったのである。また瞬間的な運動についても、運動の第一諸要素を対比的に圧縮することによって、静的な同時性に変形された。つまり彼らは運動をも、いろいろな形の面に分割したのである。したがって光と影も、印象派などの場合とはまったく異なった機能に変質せしめられ、構成を与える構造的な意味でのみ利用された。初期立体派の絵画の一つは、色彩の変化が著しく制限されたことであって、ほとんどモノクロームに近いものさえあるのはこの理由による。

 立体派の作家たちは、物体の外観よりも、その構造に注意を向けた結果、画面の諸要素の再現は著しく幾何学的な形態に支配された。立体派画家の力強い擁護者であったアポリネールは次のように書いている。」(391-392頁)。

注7は、Notes sur le cubisme.(Documents,No.3,1929)

「立体派は最初、面におけるマッスやヴォリュームの分析から出発して、抽象的な様式に到達したが」(400頁)。

アポリネールにとって、オルフィスムとは文学上の「同時主義」Simultaneismeを、造形芸術に応用したものにほかならなかった」(402頁)。

ジャン・ジャンジェ『ル・コルビュジエ書簡撰集』千代章一郎訳、中央公論美術出版、2016

1910年3月にペレ兄弟に宛てたアメリカ行きの書簡は収録されていない。以下メモ。

 

ペレに就職願いの書簡は1908年4月15日

「先だっての水曜日の面接の通り、他の研究を中止し、貴殿のところで働くことにします。事務所で働けることはなによりの幸せです」(p63)

 

クリプシュタインあて1912年8月20日アメリカ行き希望。

「スペイン、アメリカ、ロシア、インド。夢物語ばかりみています!」(p107)。

 

ジャンヌレにロースのことを教えたのはペレ、1913年11月27日書簡

「ロースの記事はたいへんすばらしく、とても気に入りました」、「まったくもって新しい時代の感情です。3.5フランの本、見返しが黄色の頁のなかにも埋もれているのを掘り起こしてみたいのです」、「これからは、ことあるごとにロースの背後に隠れていることにします。私などはよい考えを伝える布教師にすぎないのですから」(p113)

 

「ヴォリューム」という言葉の登場。

1914年ジッターあて。

「どんなものにもヴォリューム、ディテールそして全体があり、パルテノンのごときもの、少なくとも完璧に美しいものをつくることは可能です」(p118-119)。

 

ドミノへの言及。

1915年5月3日、ペレへの書簡

「もちろんベルギーやノール県が最良の方法によって再建されるのが一番です」、(p127)「鉄筋コンクリートの建設システムをお見せしますので容赦なく批判してください。しかるべきときに重要な助言をいただきたいと思っています」、「スイス人の技術者(マックス・デュボア)がやっている鉄筋コンクリートの開発の件はパリで協働することにしました」(p127-8)。

 

2016年7月21日ペレあて

「コンクリートの骨組を数週間で組み上げ、見栄えのよい煉瓦で充填します。コーニスは花壇のようになります。大きな居間には大開口があります。小さな寝室が各階にあります。屋上はぐるりと廻れるようになっていて、日光浴室と療養室の回廊になっています」、「ペーター・ベーレンスよりもオーギュスト・ペレの痕跡がお分かりいただけるはずです」、「私の特許がベルギーかどこかで役に立つことを待ち望んでいます」、(139)。

「私はもうこれまでのジャンヌレではありません」(p142)。

 

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David Gartman From Autos to Architecture, Fordism and Architectural Aesthetics in the Twentieth Century, Princeton Architectural Press, 2009

フォーディズムを「テクノクラシー」と捉え、1920年代のテクノクラシー台頭、30年代の批判、そして戦後の復権という歴史と読める。

また美的には、米国の実利的なものが、欧州では「美的」なものとして模倣されたという視点で捉えられる。

メモ

ル・コルビュジエはすぐに近代運動の先導者となったが、住宅は住むための機械であると宣言して住宅の量産を着想し、これはフォードのT型モデルのようにデザインされ、制作されるべきだとした」、

ル・コルビュジエや他の欧州の建築家はそれゆえ米国での量産品の道具のような外見を、近代建築の新しい美学として発展させるのに用いた。機械美とか、インターナショナル・スタイルとか、ノイエ・ザハリヒカイトとか色々にラベルを貼られたが、最終的にはほとんど近代建築と同義となった」(p13)。

一方で

ル・コルビュジエや欧州の建築家達が量産されたT型モデルを美的なものとして理想化していた同じ時代、米国人達はそれを醜悪なものの体現として嘲っていた。米国人が量産されたT型モデルを祝福していたのは確かだが、それはその低価格と利便性に対してであって、その美学に対してではなかった」、「米国の建築家たちは量産ビルの技術を先導はしたが、しかしそれらを歴史様式や有機的な装飾でほとんどの場合覆い隠した。欧州のアヴァンギャルドの建築家たちが量産を喧伝するために機械を模倣した形態を露出していた一方、米国の施工者は消費者の増えていく要求に応えるために実際の量産品の外見を隠したのである」、「欧州では経済よりも美学が重視された一方、米国では美学は数十年も遅れ、第二次世界大戦後にようやく影響力を持つようになったに過ぎない」(p15)。

「彼らはたとえば工場の陸屋根を模倣したが、模倣であるにもかかわらず、米国の元々のものとは違い、実際の工法に無頓着であったためにしばしば漏水事故を起こした。事実、多くの初期のモダニストの建物はヴィラ・スタインのように、機械で制作したかのような外観を面倒な手作業で建設した」(p84)。

 

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Peter Eisenman, The Formal Basis of Modern Architecture, Lars Muller Publishings, 1963/2018

建築における「形」の重要性を説くという点で、ロッシとの同時代性を感じさせるとともに、ル・コルビュジエの『建築』の「覚書」の延長上にあるようにも見える。

ル・コルビュジエの場合は、

ヴォリューム

表面

プラン

指標線

であり、

アイゼンマンの場合は

建築の一般形態特性として

ヴォリューム

マス

表面

運動

三次元(空間)グリッド

 

ここでアイゼンマンはル・コルビュジエの分析を繰り返しているようにも見え(裏を返して述べれば、ル・コルビュジエの覚書は「形態分析」であったと言える。そしてル・コルビィジエの「指標線」にとって代わったものがアイゼンマンでは「グリッド」となる。

  • 「1、 一般形態特性(マス、表面、運動)。

その他のものとして、暗示的あるいは実際的なカルテジアン・グリッド。ヴォリュームのいかなる実体にもマトリックスを提供するのは、この後者のコンセプトである。このグリッドは一般形態を統御するのにかくも適切なので、別の文脈で考察される必要がある。

空間、三次元、あるいは「デカルト的」グリッドというコンセプトは、一般建築形態であれ、特定建築形態であれ、絶対的な参照線を提供する連続体として考えられる。

いかなる形態に対しても、このグリッドは抽象的実体として考えられねばならない。これはすべての知覚への参照フレームであり、これら知覚はまず重力への物理的感覚に由来している」。(63頁)。

「狭い意味では空間グリッドは近代建築にとってきわめて重要である。点・支持と非・耐力壁の発展は、ある種の特質をグリッドに付与した。

グリッドには三つの座標があるといえる。水平、垂直、そして状況に応じてこれらは異なる価値を与えられる。重力の連想から水平線はしばしば支配的となる」(65頁)。

 

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デイヴィッド・リカードウ『経済学および課税の原理上・下巻』羽鳥琢也・吉澤芳樹訳、岩波書店、1987

冒頭で地主、資本家、労働者の三階級が整理され、それぞれの利益は地代、利潤、賃金であると整理される。スミスの労働価値説を基本的には継いでいる。

地代が発生するのは土地の肥沃度などに質的な差があるからであり、人口が増えるに従い、質的に劣る土地で農業が始まると、それまでの質的に高い土地に地代が発生する。そうでなければ、土地の生産力というなどというものは水や空気と同じである。地代は利潤や賃金とは無関係である。

利潤と賃金は相反関係にある。のちのマルクスの場合は、ここに剰余価値を見出し、剰余価値剰余価値を生んでいく致富運動を資本主義と呼んだ。

外国貿易について述べた部分は、スミスの「見えざる手」の逆説とその論理はよく似ている。ただしそれがもたらすものは、「利潤」であるとあくまでも述べられている。

課税は政府の収入である。

アダム・スミス、デイヴィッド・リカードウ、カール・マルクスジョン・メイナード・ケインズ、経済学四天王は、これで一通り目を通した。マルクスケインズのあいだにはウィーン学派/限界効用価値説がある。

 

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RE

 

Portland

第二次世界大戦時に集中してつくられた艦船などで、造船や鉄鋼の街としても発展してきた。戦時中、急造した軍需船舶の建造ラッシュで多くの労働者がポートランドで働いたが、戦後は失業することになる。その労働力の受け皿として、大規模な都市開発への公共投資が計画されていく。

 造船・鉄鋼という重工業が、やがて日本から韓国、中国へと移転していくにつれて、産業空洞化が進行し、ポートランドは「負の遺産」である大気汚染や河川の汚濁に悩むことになる。一九六○年代には、工業排水による汚染が深刻になり、ウィラメット川は「全米で最も汚染された川」と呼ばれた時期すらあった。公共事業によって道路を整備し、駐車場も拡大したことで、ポートランド市内の自動車交通は激増して、慢性的な渋滞を招いたものの商業的な繁栄には結びつかなかった。

 それから六○年、今やポートランドは、汚名を返上するだけでなく、「環境都市」という正反対のポジティブな評価を得るところまで生まれ変わった。

 そこに人々の意思があり、都市計画があり、長期を見通すビジョンがあったのは言うまでもない」。

ポートランドの都市の魅力をつくりだしているのは、豊かな緑と近隣で生産される新鮮な食材だ」。

「丘の上の公園を少し下がった学校の横で週末に開催されている、ヒルスデール・ファーマーズ・マーケットにも出かけてみた。UGBの外側には、豊かな農地が広がる。農家の人たちが収穫したばかりのもぎたての野菜や果物、新鮮な肉や魚、パンやジャム、色鮮やかな花等を自慢げに並べている。年代物のバンやピックアップの横に、販売所のテントを張っている」。

ポートランドブームのシンボルとなったホテルがある。一九九九年、ワシントン州のシアトルで開店したエースホテルは、ポートランドが二軒目の展開となる。ここも以前は老朽化したホテルで、誰も見向きもしないような、古いくすんだラブホテルというイメージだった。ところが古いホテルの刻んできた歴史に光をあてたリノベーションと巧みなデザインによって、ポートランド屈指の有名ホテルとなった。このホテルの魅力は、タイムスリップして忘れていた昔の家に帰ってきたかのような雰囲気にある。一階ロビーには、大家族が集うような、ゆっくりとしたソファがコの字に置いてある。街の人がくつろぎ、ツーリストがパソコンを広げる。街のリビングルームのような温かい空気が胸をジーンとさせる。

 近代的なホテルのように磨き上げられたピカピカの床や、シャンデリア等の装飾は何もない。静かでアットホームなフロントの横には、木製の階段が上階に続いている。一階には開業当時から、宿泊者が宿帳に名前を書き入れた木の机がある」。

「エースホテルは、二○○七年にリノベーションで生まれ変わり、今やポートランドを象徴する場として、「ポートランドカルチャーのハブ拠点」などと言われている」。

「このエースホテルの近くには、私たちを「知の殿堂」に誘い込んでくれる素晴らしい文化拠点がある。パウエル書店は、圧倒的な蔵書量で六三○○平方メートルの売り場に書籍四○○万冊の在庫を誇る。その規模は、アメリカで最大だという」、「ここでは「新刊」と「古本」が同じ書棚に並んでいる」。

「ライブハウスや小劇場をつなぐにぎわいを創りたいと計画する時に、最初に越えなければならないハードルは「用途地域」だ」、「全国の市町村長にはあるが、特別だけは、東京都が権限を握り、区は持っていない」。

「Farm to Table」

「ファームもレストランもお互いにアプローチする方法がわからなかった」、「生産、流通、販売の関係」、「食材によって仕入れるファームを分けている」、「ポートランドには力のあるシェフが全米から集まってきて、競争も激しくなっています」、「レストランがどんどん活性化していく」。

デルタ航空さんは、ビジネスクラスの食事を見直したいということで、和食のケータリングをしている私たちを訪ねてこられました」。

「まず、人々が本当に好きなコーヒーを提供できる、最高のロースターが必要」、「コーヒーの好みというのは人によってそれぞれ違う」、「その頃、ポートランドのコーヒーシーンというのはどういう状況だったんでしょう」。

「レッドライニングとは、不動産業者や銀行、土地所有者、市役所が、アフリカ系アメリカ人やその他の人種的、民族的マイノリティを特定の地区だけに制限することを意図した差別的な住宅政策を示す」。

「都市再生とは、1949年の連邦住宅法によって始められた都市計画事業であり、そこでは「スラムや荒廃した地区をクリアランスすることを通じて、基準を満たしていない、または他に不適格なところがある住宅を一掃すること」が勧められた」。1960年代頃まで、このことは、「黒人排除」と一般的に呼ばれていた」。

「ヒップなショッピングとエンターテイメント地区へと変貌を遂げた。4階建てのコンドミニアムやブティック、バーの急な出現には、デベロッパーへの税制優遇や不動産所有への補助金による大幅な支援があった」、「ポートランドのかつての黒人街のメインストリートにあった62の小売スペースのうち68%が開店5年未満の新しい店であった」。

「白人の人口が増加したのとは対照的に、黒人の住民数は長期にわたって着実に減少してきた」、「1999年、ちょうどポイジのマジョリティが黒人から白人へと変わろうとする時期に、地区内で低所得者向け新規住宅の建設に対する、近隣住民による反対運動が行われた」。

「結束力があり互いに助け合うコミュニティのような無形財産の損失は計り知れない。その最大のダメージはジェントリフィケーションによってもたらされた」。「かつて数ブロック内に住んでいた人たちが都市圏の両端に追いやられてしまっているため、コミュニティの再生は非常に困難である」。

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マルサス 『人口論』斉藤悦則訳 光文社 2011

初版は1798年

メモ

「人口はつねに生活物質の水準におしとどめられる」。これは明白な真理であり」(p20)。

「人口の増加力と土地の生産力とのあいだには自然の不均衡があり、そして、やはり自然の大法則により両者は結果的に均衡するように保たれる」(p32)。

「ヨーロッパの大部分では人口が前の時代より増えている理由は、住民たちの勤労によりそれらの国々で食糧の生産物が増えたことによる。輸出入をその領域内でおこなえるほど領土が広く、そして贅沢や倹約の習慣が度外れたものでないならば、人口はつねにその土地が生産する食物の量にきちんと比例する。このことはもはや文句なしに議論の前提にしてよいと思う」(p58)。

「近代においても、下男や下女その他、多くの人間が未婚のままにとどまっている。ヒュームはこれを近代の人口増加にたいする反証とみなす。私の考えはむしろ反対で、これを人口があふれている証拠と見なしたい」(p60)。

「未婚者の数を全人口と比べることは、その時期の人口が増えているのか、停滞しているのか、それとも減少しているのか、その判定を可能にする。だが、それはけっしてじっさいの人口を確定する基準にはならない」(p60)。

「イギリスでは貧乏人のために毎年巨額の金が徴収されているにもかかわらず、貧乏人はあいかわらず生活に苦しんでいる」(p69)。

「貨幣によって貧しい人を上に引き上げ、以前よりもよい生活ができるようにするのは、同じ階級の別のひとびとをその分だけ下に押し下げることによってのみ可能となる」(p73)。

イングランド救貧法は、つぎの二つの傾向を生んで、貧乏人の全体的な生活環境を悪化させるものである。

 第一の明らかな傾向は、人口をささえる食糧を増加させないまま人口を増やしてしまう」。「第二に、ワークハウス(強制労働所)は社会の有益な構成部分とは一般に考えられない者たちを収容する施設だが、そこにおいて消費される食糧の量は、もっと勤勉で、もっと価値のあるひとびとに渡るべき割り前を、その分だけ減らしてしまう」(p75-76)。

「農業の労働が商工業の労働より給与が低いのは同業組合や徒弟制度などのせいであるから、これに関連するすべての制度を弱体化させ破壊するために、あらゆる努力を傾けるべきである」(p83)。

「都市と農村の下層階級の状態を見れば、彼らは適切で十分な量の食糧をえられず、過酷な労働と不健康な住宅に苦しんでいる」(p85)。

「人口は、貧困および悪徳という二つの主要な抑制が取り除かれる程度にぴったり比例して、増加する。そして人口増加の速さは、民衆の幸福と純真を判断するうえでの最適の基準である」(p91-92)。

「三、四百年前、イングランドは現在に比べて、たしかに人口のわりに労働が少なかったが、従属ははるかに一般的だった。製造業の導入によって、貧乏人は領主があたえる食糧と交換に提供できるものをもてるようになり、領主の施しに頼らなくてもよくなった。そういうことがなかったならば、われわれは今日享受しているような市民的自由を持ちえなかったであろう」(p214-215)。

 

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ジョン・ロック『完訳・統治二論』加藤節訳、岩波書店、2010

最終章の「統治の解体」は革命権の肯定である。統治の目的は人類に善をなすことであり、実際の統治がそこから外れていけば、人民は統治を解体して作り直す権利があるとする。「天に訴えてもよい」(原語はどういう表現なのか)と述べる。

この革命権の肯定は、前の方で述べられる「正当防衛権」の肯定とも相似している。自分の身に危害が加えられようとしているとき、相手を殺してもいいといった点である。また例えとして羊の群れに狼が入り込み、好き勝手に喰い散らかしているのを黙ってみていていいわけではない、この狼は殺していい、といったものなどは、資本主義の基礎を述べたロックの論理はスミスの「神の見えざる手」ともども正反対に一般には理解されているのか、と思わされる。

ロックのいうプロパティは「固有権」と和訳される。見ていくと「基本的人権」とよく似ているが、約100年後のフランス革命の「水平主義」が「固有」に目をむけず、むしろ否定しさえするのは、根底的に考えが異なっているからだろう。

「所有権」について論じた章には、のちにマルクスが『資本論』第一巻において分析したものの素描がすでにある。

前半の「一論」は、『聖書』に依拠して王権神授説を唱える「サー・ロバート」に対し、まったく同じ『聖書』について緻密なテキスト読解を加えながら、「王権神授説」を否定していく。

こうした方法論は基本なのだろう。

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統治二論

 

マーク・ラムスター『評伝フィリップ・ジョンソン、20世紀建築の黒幕』松井健太訳、横手義洋監修、左右社2020

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メモ

スタンフォード・ホワイトからフィリップ・ジョンソンへ (21頁)。

「具体的には、保守的と悪名高いケンブリッジにモダン・アートのための空間を生み出すこと。このアイデアがもともとはウェルズリー大学の新進気鋭の美術史研究者アルフレッド・H/・バーから来ているということもある。大臣の息子だったバーは新しい芸術史への容赦なき改宗指導者として、すでに名声を得ていた」(70頁)。

「ジョンソンは全く無邪気に、そろそろ近代美術館なるものを発足させてもよい頃ではないかと進言した。「秋にはスタートさせるつもりだよ」とバーは答えた。「建築を入れるなんてどうでしょう?」、ジョンソンはそう尋ねた。そんなわけで感銘を受けたバーが、建築部門責任者という地位をジョンソンに提案したという。

 これはエピソードとして聞こえはいいが、実際にはジョンソンの想像力の産物、ドラマ仕立てのフィクションだ」(74頁)。

「最初の啓示が訪れたのはシュトゥットガルト、バーからの指示で二人はヴァイゼンホーフ・ジードルングのモデル住宅群を訪れ、偉大なヨーロッパ人モダニストの作品を見比べた。アウト、ル・コルビュジエヴァルター・グロピウス、そしてミース・ファン・デル・ローエ」(78頁)。

「実際、これぞジョンソンが目にしたいと願っていたものであり、すでに読んでいた近代哲学の三次元版マニフェストだった。個々の作品の評価について、アウトは「同じ精神の人」、ル・コルビュジエは「全き機能性」、グロピウスは「彼らのなかでも最上級」としている」(78頁)。

「メンデルゾーンは「インターナショナル」な存在になった-新しい近代様式を説明するこの語をジョンソンが最初に使用したのはこのときである」(81頁)。

「この空白をどう埋めるか?ニューヨーク近代美術館のアイデアが生まれたのは一九ニ八年の秋、こともあろうに場所はカイロだった。ジョンソンは数ヶ月前からそこにいて、「アラビアのロレンス」姿でこの都市を観光していた。アビー・アルドリッチ・ロックフェラーとリリー・P・ブリスの到着前に立ち去ったのは幸運だったといえるだろう」、「彼女たちの最優先事項は美術館運営のトップを見つけ出すことであり、すぐさまA・コンガー・グッドイヤーに白羽の矢が立った」(91頁)。

「加えて、この本のためにさらなる旅行が必要だった。短い休暇で彼はヒッチコックともう一度旅に出るために、十分に心を整えた。今回はライン川を南にチューリッヒまで下る旅程で、チューリッヒでは、建築史家でヨーロッパにおける新しい建築の卓越した主唱宣伝者だったジークフリート・ギーディオンとの会合をアウトがとりつけてくれていた。これは三つの知性の素晴らしい出会い、そして建築哲学のちょっとした対決となるはずだった。というのもギーディオンは機械論の実践としての建築である機能主義陣営を広く代表していた一方、ヒッチコックとジョンソンはスタイルとしてのモダニズムという美学の方により関心を寄せていたからだ」(103頁)。

「この頃までにすでにミースは、ジョンソンの人生の大きな空間を占めるまでに至っていた。ヨーロッパで夏を過ごすためにニューヨークを出発する前、ジョンソンはサウスゲートに一人用アパートの賃貸契約を結んでいた」、「ジョンソンがベルリンにあるミースのいくつかのインテリアを目にする機会を得た後で、この計画は変更された。ニューヨークの彼のアパートをこのドイツ人に引き継がせれば大成功するだろうとジョンソンは思いついたのだ」(105頁)。

「「インターナショナル・スタイル」と題されることになる書物の執筆はヒッチコックの手に委ねられていた一方、ジョンソンは大衆紙に専念し、発表するレビュー群はどんどん挑発的になっていった。主要国内紙への最初の登場は『ザ・ニュー・リパブリック』一九三一年三月号、優れた芝居・芸術批評家シェルドン・チェイニーによる概説書『新世界の建築』に対する、どうみても度量の狭い論評である。ジョンソンはチェイニーの分析を「陳腐」と繰り返している」(116頁)。

「とはいえ、展覧会の企画こそがジョンソンの第一の責務だった。住宅セクションが特に骨の折れる仕事となったのは、まずもって彼があまり興味をもっていなかったからである。ジョンソンの心を揺さぶるのは美学であって、労働者の苦悩などという経験したことのない事柄ではない-それがカトリックユダヤ人の問題なればなおさらだ」(128頁)。

「こうした甲高い呼びかけへの聴衆の反応は物珍しさ程度のものだった・展示会期の六週間の全入場者数はざっと三万三千人くらい、目を見張るほどのものではないにしてもそこそこの入りだ」(132頁)。

「自尊心にもましてライトは、ジョンソンの建築に対する考え方を単純に拒絶したのだった。ライトにとって、一組の美的原理に従うことで達成される様式という思考など嫌悪すべきものであり、建築とは、それとは全く異なるもの、すなわち個々人の芸術的天性が現代の必要とは自然の現象に合わせて表現されたものであった」(134頁)。

「『ニューヨーク・タイムズ』曰く「輝かしい若き権威」となったジョンソンは、数年ごとに大きな展示を企画していくことになる。展示の設営場所として建築部門にあてがわれたのは、五三丁目にロックフェラー家が所有する五階建てタウンハウスを改築した美術館内のギャラリーである。関係者は皆品がよかったから、ジョンソンへの支払いがまだ済んでいないなどというちっぽけな事実には気にも留めなかった。細かくいえば、彼は建築部門に関する全費用を負担していたのである」(137頁)。

「革新的な「近代建築」展の終了からちょうど三ヶ月経った六月、ジョンソンとヒッチコックはシカゴに赴いて次の展示の準備にとりかかった。シカゴ派建築の歴史がテーマで、開場は翌一九三三年ニ月の予定、前回の論争的な展示の続編としてはまさしく興味深いテーマだ。現在や未来についてのまたしても独善的な議論というのではなく、むしろ学術的な回顧展である。彼らが選んだタイトル「初期近代建築:シカゴ一八九○-一九一○」とは裏腹に、展示内容はアカデミックなもので、H・H・リチャードソン、ルイス・サリヴァンフランク・ロイド・ライトの仕事を重点的に取り上げている。前回の協働のときと同じように、ヒッチコックが頭を使う骨折り仕事をこなし、彼がつくったものを聴衆受けするように仕立て上げるというのがジョンの担当だった-アカデミックな部分を取り上げて、論争を巻き起こすようなものに変えるというわけだ。「我々の望みは人びとにただこの展示を見てもらうということだけではない」とジョンソンは書いている。「我々は人びとに展示をじっくりと見てもらい、そして我らがアメリカ建築の偉大なる時代がどのようにはじまったのかについて一緒に考えたいのである」」。「つまりこれらシカゴ派の建築家たちが超高層ビルを発明したのであり、彼らのスチールフレーム建築はリヴァイヴァリズムを差し押さえてアメリカ合衆国産のスタイルを促した最初のものだったというのである。しかもこのスタイルの純粋さ、実直さ、率直さは、今日の「超高層スタイル」と対照的でさえある。今日のスタイルを端的に示すクライスラー・ビルエンパイア・ステート・ビルのけばけばしさを、ジョンソンはたいそう忌まわしいものとみなしていた」(146頁)。

「「ファシスト革命」展の背筋も凍るような建築形態に魅了されてしまうジョンソンの知的傾向だった。革命展は十月の終わりにムッソリーニによって開催されたもので、血のように赤い巨大なデートには三つの同じような巨大な鉄塔が立ちはだかり、展示会場への入場口にも斧が刃を向けて立っている。そんな芝居がかったデザインに加えて、なかにはイタリアの先導的な近代建築家たちの創り出したプロパガンダの展示があった」(152頁)。

「ジョンソンがその意向を汲んで企画したのが「オブジェクト:一九○○年と今日」である」、「その一大展示というのが「機械芸術」展であり、一九三四年三月七日の開場以来センセーションを巻き起こすことになる」(162-163頁)。

「関心が向けられているのは台頭しつつあるカリフォルニア・モダニズム学派とロバート・モーゼス、テネシー川流域開発会社、WPAによるインフラ事業である。とりわけ深い洞察というべきは、急速に戦争準備が進むなかで建築という職能全体が自らを刷新しなければならなくなるだろうという認識である。さもなくばこの職能の責務は「巨大建造物プロジェクトを迅速に練り上げる能力を持った土木技師や軍事技師に吸収さえれてしまうだろうというのだ」(244頁)。

「一九四九年三月一日、ジョンソンは建築・デザインの統合部門のディレクターとして美術館に復帰したのである」(281頁)。

「一九五三年一月、ジョンソンがアビー・アルドリッチ・ロックフェラーを讃えてデザインした彫刻庭園の落成のほんの数ヶ月前、「アメリカの建物」展の開場のときである。この展示は彼が不在だった一九四四年に催されて大衆建築を特集した展示の戦後版だった」、「三十ニ人の建築家による四十三の建物が取り上げられ」(297頁)。

「ただし展示は、戦後アメリカの爆発的な成長に伴う建築という職能の質的変化も示している。このダイナミクスは政府、産業、人口増加といった大規模な要請に応じるような新しい種類の実践を求めていたのである。こうした需要に応える仕事をした典型例がスキッドモア・オーウィングス・アンド・メリルである。この事務所は一九三○年代に誕生したが、成長を遂げたのは、マンハッタン計画受け入れのために急造されたテネシー州オークリッジのアパート群と、パーク・アヴェニューの企業資本主義の典型となる近々竣工予定のリーバー・ハウスという二つの新プロジェクトが取り上げられた」(299頁)。